信仰と云う、聖域的な日常行為も、結局は教育によって培われるものである。その教育が、西欧その他のキリスト教国や、中東のイスラム教国、のように首尾一貫したものでなくて、冠婚葬祭に都合よく利用される程度のものであれば、有名仏閣、神社、教会を持ちながら、精神的な信仰心を吸収できない、御守程度のものに堕してしまう。翻って、首尾一貫した宗教教育の土壌に育つことを考えると、これはもっと得体の知れない肌寒さに襲われる。先進的な、西欧列国が中東的な宗教観でキリスト教教育をしているとすれば、現在の先進的立場は無いだろう。民族の精神的支柱ともなるべき、宗教、倫理教育の難しさを痛感するのである。今なにやら外的圧力によって、日本人の精神的支柱が云々されているが、当の日本人には、内政干渉などという大げさな国際問題以前に、今ひとつピンと来ないものがあるのではないか。そもそも神社などというものは、正月に一度お参りに行く程度の所であって、漠然とした認識として、近年の戦没者を祭っているというよりも、神話時代の神々が祭られている場所という意味合いが強いのではなかろうか。神社によって担う目的が異なるようだが、我々俗人はそんなことはお構い無しで、他人の頭越しに僅かばかりの賽銭を放り込み、賽銭の額の割には多大な願い事をつぶやいて、願いを聞きとめてもらうべき、心優しい神々を祭っている所なのである。神社=靖国神社という認識をしていない国民が、総理の神社参拝をめぐって周辺国の非難をうけること自体が不思議である。