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京都・天寧寺 ~額縁門のアイデアはきっと寛永サロンの賜物

2018年07月31日 | お寺・神社・特別公開

天寧寺(てんねいじ)は、京都の相国寺の北にある静かな寺で、開いた山門から比叡山が見事な構図に収まって見える「額縁門」でよく知られています。比叡山を借景にした庭園はいくつかありますが、山門を通して見えるのはおそらくここだけでしょう。

寺町通の東側にはたくさんの寺が並んでいますが、この寺だけが山門の正面に本堂がありません。建物で遮らずに門前を通る人が比叡山をのぞめるよう、配慮したように思えてなりません。


寺町通から見た額縁門

天寧寺は安土桃山時代に会津から移転してきました。戦国時代に会津を支配していた有力大名の蘆名(あしな)氏の菩提寺でしたが、1589(天正17)年に米沢の伊達政宗との戦いに蘆名義広が敗れて会津を追われた際に、寺は焼失しています。この直後に京都で再興したと考えられています。上杉家老の直江兼続や京都所司代の板倉勝重も再興に協力しています。

天寧寺の移転前のこの地には、比叡山延暦寺の末寺があったようです。境内の伽藍配置はこうしたゆかりもあって、比叡山の眺望にこだわったものでしょう。



現在の本堂と書院は江戸時代後期に再建されたものですが、後水尾院と中宮・東福門院の念持仏がのこされています。

寛永年間(1624-45)に京都で花開いた寛永文化で、小堀遠州と共に時の茶道のリーダーとして名を馳せた金森宗和(かなもりそうわ)の墓があります。宗和は後水尾院とも親交があり、色絵京焼を完成させた野々村仁清(ののむらにんせい)を見出したことでも知られています。寺には野々村仁清の重文「銹絵水仙文茶碗」も伝わっています。

こうした事実をつなげると、江戸時代の初期の天寧寺は宮廷文化の一大サロンだった可能性があります。上皇や公家たちが住む京都御所や上京の富裕層の居住エリアから近く、立地としても最適です。

額縁門は、寛永サロンに出入りしていた誰かのアイデアだったように思えてなりません。


額縁の中心が比叡山

天寧寺は観光目的で公開されているわけではなく、境内への立ち入りだけを認めています。静かに境内の庭と額縁門から見た比叡山を見るだけでも十分価値があります。それだけ額縁門は印象に残ります。やはりここには寛永の文化サロンがあり、現代でも通用するような素晴らしいデザインや文化を編み出した人たちがたくさん出入りしていたのです。額縁門のアイデアを目の当たりにすると、そのように確信してしまいます。

付近には、中国風のデザインが見事な閑臥庵(かんがあん)、足利義満が北山第(金閣寺)を造営するために土地を譲って移転してきた西園寺(さいおんじ)、本能寺の変後に信長の遺骸を回収して葬ったとされる阿弥陀寺(あみだでら)、があります。いずれもとても個性が強い寺ばかりです。

ゆっくりと寺町通を歩いてみてください。

こんなところがあるのです。
ここにしかない「美」があるのです。



アートにおける「借景」がもたらす意味とは何か


天寧寺
【京都市観光協会サイト】

※この寺は観光目的では公開されていませんが、境内には自由に立ち入ることができます。



おすすめ交通機関:
地下鉄烏丸線「鞍馬口」駅下車、1番出口から徒歩5分
JR京都駅から一般的なルートを利用した平常時の所要時間の目安:20分
京都駅→地下鉄烏丸線→鞍馬口駅


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