田舎へ行ってご/見てご!

二地域居住(田舎暮らし)、花・写真、古民家めぐり、旅、日々のあれこれなど。

旧鴇田家住宅:習志野市

2019年02月02日 | 古民家っていいなぁ。(千葉県内)
先月末、曇天で気温が低く、風が強くて寒い日でしたが、習志野市の実籾(みもみ)本郷公園に「旧鴇田(ときた)家住宅」(県指定有形文化財)を見学してきました。

鴇田家は江戸時代には名主を代々務めた旧家で、もとは400mほど離れた東金(御成)街道沿いの実籾村に建てられていました。

平成3年まで鴇田家の住居として使用されていましたが、同年に習志野市に寄贈されました。

平成3年に解体され、平成10年から12年度に移築復元工事を経て、平成12年に開館しました。
建築後に改変された部分がほぼ建築当初の状態に復元されたました。


旧鴇田家住宅(1728年築)は、茅葺平屋寄棟造。本住宅は大規模で、県下の民家としては珍しい「曲屋(まがりや)」形式です。
曲屋は東北地方から茨城県にかけて主に分布しており、特に南部地方(岩手県中北部・青森県南部)の南部曲屋が有名です。関東地方南部では現存する例が少ない珍しい形式です。
東北地方の曲屋では、主屋から突き出した部分が厩(うまや)と土間になっています。厩では馬が飼育されていました。一方、旧鴇田家住宅には厩はなく、突出部は全て土間です。色々な作業のために広い土間が必要だったことによるのかもしれません。


平面図(習志野市HPより)
床面積は約316㎡(95坪)で主屋は桁行20m、梁間11m(廊下、客便所含まず)、土間は桁行9.4m、梁間8.2m、軒の高さは10.3m(礎石上端から棟木上端まで)


出し桁と茅葺き

ドマ(土間)から見たイタノマ(板の間)

イタノマには囲炉裏が。柱は「杉」材を使用。本住宅では大黒柱は見られない。江戸時代中期までの民家では大黒柱を建てないのが一般的です。

イタノマから見たドマ。古民具が展示されていました。

ドマには「竈(かまど)」が設置され、茅葺屋根を燻すため、毎日午前中に火を焚いているそうです。

ドマ上の小屋組み

イタノマからザシキ(座敷)(ヒロマ:広間)、ツギノマ方向を望む。

左:襖も建築当初のものであり、墨書により製作年代が記されています。質が良く、建築年代を明らかにした記録が残されていることは極めて珍しく貴重とのこと。中央:仏間、右:押し板(古くは壁にかけた仏画の前に仏具の花などを置く台。床の間の原型と言われている)

ツギノマ(次の間)から見て左手がザシキ、右手がゲンカンとトモマチベヤです。

ツギノマの床の間

オクノマ(奥の間)の廊下

ナンド(納戸)。収納部屋、民家では寝室。

ソフノマ(祖父の間:12畳)にも床の間が。

身分の高い人が来訪した時使うゲンカン(玄関)
その供の者が待機したトモマチベヤ(供待ち部屋):左側

この庭園は「上宿庭(かみじゅくてい)」と呼ばれ、建築復元に伴い、新たに庭園が造られました。

上宿庭には「水琴窟(すいきんくつ)」が設置され、琴のような音色が楽しめます。スピーカーで音を増幅しているようです。

南側外観。主屋だけで附属建物は無かったのでしょうか?

なお、旧鴇田家住宅は、東日本大震災により、基礎の一部が沈下損傷する共に、主屋自体の損傷も発生しました。この復旧工事では主屋を一旦公園内の西側へ約26m曳家し、既存の基礎を解体の上、再度、基礎を築造した後、主屋を曳き戻してから、内外装の修復を行ったとのことです。(H26.8~H27.12)
ここは低地にあるため地盤が悪く、地震で液状化・地盤沈下を起こし被害が出たようです。2016年4月3日から一般公開が再開されました。

約300年前の名主の住宅が建築当時の形に復元・保存されており、歴史や伝統や文化を守る事になり大変素晴らしいことです。
実籾本郷公園や旧鴇田家住宅敷地内庭園には、さまざまな草花が咲き、四季を通じて楽しむことができます。

所在地は習志野市 実籾2丁目24番1号(実籾本郷公園内)で、京成本線実籾駅から徒歩12分です。

この後、同じ習志野市内にある「旧大沢家住宅」に行きました。(別ページで!)






本多の殿様と田中藩下総領

2019年02月02日 | 日々のあれこれ
先日、「鎌ヶ谷市郷土資料館」で開催されている第二十回ミニ展示 鎌ヶ谷幕末騒動記本多の殿様と田中藩下総領の村々」を見学して来ました。
平成30年は、慶応4年(明治元年=1868年)から満150年に当たることから、12月から幕末における市域下総田中藩の村々にスポットを当てた展示を行っているそうです。
最近、「古民家」から派生して「郷土史」にも少しだけ興味が湧いてきました。

簡単に「田中藩本多氏」について紹介します。


田中藩本多氏は、江戸時代、幕府譜代の重臣で、下総国相馬郡内(現在の松戸市、柏市、我孫子市、流山市、鎌ヶ谷市、野田市、市川市)に1万石の「飛地領」(42ヶ村)を持ち、21ヶ村ずつに分けて北部を「中相馬」、南部を「南相馬」とし、それぞれ船戸村(現柏市)と藤心村(現柏市:旧沼南町)にそれぞれ「代官所(陣屋)」を設置してここを治めていました。
  ※「北相馬」は現在の茨城県守谷市、取手市、利根町など


昭和前期まで、柏市北西部は「田中村」と呼ばれ、現在でもつくばエクスプレスの「柏たなか駅」や「田中近隣センター」などに「たなか」という名称が使われていますがこれは江戸時代、市域に多くの領地を持っていた本多氏の居城が、「駿河国田中(現静岡県藤枝市)」にあったことに由来しています。

本多家は、駿河国のうちに3万石余の領地をもっていましたが、新政府が徳川家の家督相続と城地禄高を審議した結果、「徳川家達(いえさと)(田安亀之助)」が新政府より駿府城主として「駿河国」「遠江国」「三河国」70万石への転封が決定。このため、同地域に領地をもつ大名らは所替(ところがえ)を命じられました。
代地として「安房国」のうちに3万1千石が与えられました。新しい藩庁は長尾(現・南房総市)の置かれることになり、「長尾藩」が成立しました。

下総領1万石は一時、長尾藩の飛地領となりましたが、明治元年(1868)10月には上知が申し渡されています。この時、長尾藩と下総領の村々は双方とも、新政府に本田氏による支配を願い出ています。

しかし、領地存続の訴えもむなしく、慶応4年(明治元年=1868年)明治新政府より本多氏は転封を命じられ、下総領の飛び地は本多氏の支配下を離れ新政府の支配下に組み込まれました。元和(1616年)以来、250年余り続いた本多氏による、下総領の支配は終わりました。
明治2年2月、下総領は本多氏から「葛飾県」に引き渡されました。


「駿河国田中城絵図」
4つの曲輪(くるわ)と4つの堀が同じ円状に配置されており、その形が亀に似ていることから「亀城」「亀甲城」と呼ばれていたそうです。

田中城内から「史跡田中城下屋敷」に移築現存する「田中城本丸櫓」(藤枝市指定有形文化財)。本丸には天守閣はなく2層2階の物見櫓が石垣の上に建っていた。
なお、江戸時代、田中城は駿府の西の守りとしての重要性から、その城主は譜代大名が任じられ、本多氏は1730年に転封されて以来100年間、この地の城主を務めました。


移築された「藤心陣屋 門」(柏市逆井「観音寺」)

注)要約に間違いがあったらお許しください。

なお、ミニ展示は郷土資料館2階展示室(入場無料)で2月24日まで開催されています。
(新京成線「初富駅」から徒歩4分。資料館には駐車場無し)