【絶対矛盾的自己同一】
西田幾多郎は、異なるものが、異なるままで一つになっていることを「絶対矛盾的自己同一」と名づけました。この絶対矛盾的自己同一という概念は、西田哲学の集大成です。西田は、世界が対立したまま同一性を保っている状態こそが、本来の姿だとしました。例えば、全体と一部は、矛盾していますが、同時に存在しています。一部分も、全て合わせれば、全体となるからです。個々のものは、相互に関係しながら、全体を表現しています。本来、世界とは、全体としては一つのもののはずです。しかし、それを別々のものとして、人間の側が認識 しています。
世界を区別しているのは、人間の知識や言葉です。しかし、人間の言葉には、限界があります。そのため、全てを正しく言い表わすことができません。自己と世界は、本来、同一のもののはずです。しかし、それが言葉によって区切られることによって、違うものになってしまいます。区別をするのは、我々が慣習的にそうしているからです。思考習慣に従うと「私が」と言う孤立した考え方になってしまいます。我々は、この世界を自分の「偏見」の色眼鏡で見ているようなものです。
【時間】
我々は、共通の時間と空間の形式の中にいます。その中では、全てのものが相互に関係しており、孤立したものなどありません。それは、時間でも同じです。現在だけが、単独で存在しているわけではありません。過去は、消滅したのではなく、現在の前提条件です。反対に未来は、現在の中に内包されています。我々が体験しているのは、永遠の今だけです。「過去」「未来」「現在」は、個別のものではなく、同時に存在しています。この世界には、始めと終わりがありません。時間とは、円のように循環する無限の過程の中にあります。一つ一つの瞬間という点が、始めであり終わりです。
【自己と関係性】
我々の存在形式は、無数の相互関係の中で、決定させられた一つの形にすぎません。自己とは、他人との関係性のことです。他人と自分は、分けることが出来きません。それらは、相互に限定し合うものだからです。自己は、それだけで独立して存在していません。しかし、普段の思考習慣によって、独立したものだと考えがちです。他人と自分は、それぞれ違ったままで相互に存在しています。
自分自身の存在というものは、疑うことが出来きません。その疑っている者が、自分だからです。しかし、自分で自分自身のことを知ることは難しいものです。自己を深めていくと、それだけ自己が他者に開かれていきます。存在の奥の方では、自分と他人との境界線がなくなっているからです。自分と他人との違いは、形式的な違いにすぎません。なぜなら、全てのものは、全一なるものだからです。自己は、意図的に作っていくものではありません。世界の内にある自己が、全体的な流れの中で、展開されていくだけだからです。
【歴史】
また、自己と歴史というものも切り離せません。我々は、歴史的な存在です。これまで、個々のものが、それぞれ協働して、一つの歴史を展開させてきました。世界とは、それ自身の自己表現の過程です。個々のものも、常に全体を表現しようとします。それらの相互の関係性こそが、歴史を作ってきました。歴史を展開しているのは、それぞれの差異です。違ったものが、違ったままで存在しているからこそ、歴史は展開されてきました。それを矛盾的自己同一と言います。
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