なくもの哲学と歴史ブログ

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ジャック・デリタの「エクリチュール」

2023-09-19 21:56:00 | 西洋哲学

【エクリチュール】 

 ジャックデリタは「音声言語」と「書き言葉」を区別するために「エクリチュール」という哲学用語を提唱しました。エクリチュールは「書字」とも言います。書き言葉は、かつては話し言葉「音声」の写しであり、補助的な手段にすぎないとされてきました。話し言葉は「パロール」とも言います。パロールとは、具体的な発話行為のことです。エクリチュールは、パロールを安定的に存続させる手助けをしています。これまで西洋で軽んじられてきた書き言葉の存在意義を復権させたのが、 デリタのエクリチュールという新たな記号概念です。

 【主体との関係】 

 エクリチュールには、主体の存在に左右されない、ある程度の「不変性」があります。例えば、肉体的な死によって、主体が不在になってもエクリチュールは機能するからです。音声「パロール」の場合は、主体がいなければ機能しません。パロールとは、その時、一度限りの発話行為のことです。例えば、亡くなった人の手紙や書物は、本人がいなくても読むことが出来ます。しかし、死んだ人のパロールはもう聞くことができません。 エクリチュールは、音声のうちにも働いています。それは、パロールとは、厳密には分離できないものです。

 【音声中心主義】 

 音声とエクリチュールは区別されます。これまでの西洋哲学では、音声が表現媒体として特権化されてきました。それは、世界を音声に置き換え、正しく言い当てることが出来ると信じられてきたからです。しかし、世界は、常に変化するものです。それは、完全に静止することがありません。その変化するものの中にあって、音声は「同一性」をもとめてきました。同一性とは、世界を言い当てて、定義しようとすることです。しかし、言葉となったものは、時間の経過とともに、定義したものからズレていきます。そのため、音声によっては、世界を正しく言い表すことはできません。

 また、音声こそが、その人の思考を直接的に伝達出来るものだとされてきました。なぜなら、自分が話している声を同時に聞くことが出来るからです。そのことから、音声こそが自分自身に近いものとされてきました。そうした音声優位の考え方を「音声中心主義」と言います。音声中心主義が、西洋の伝統的な思考様式でした。 

 【テキスト】 

 音声に対して、エクリチュールは、最初から「差異」によって成り立っています。差異とは、同一性の対立概念です。エクリチュールには、先行する「テキスト」があります。テキストとは、無数の記号の連鎖からなる世界の隠喩です。我々は、世界を解釈する時、既に存在しているテキストを参考にしています。読んだり書いたりすることが出来るのは、既存のテキストが存在しているからです。テキストを元に世界は解釈され、その痕跡として、更にその解釈されたものがテキストになります。世界とは、解釈された無数のテキストの痕跡です。人々は、これまで終わりなき解釈行為を繰り返していきました。これからもテキストは、人間によって解釈され続けるとされています。


ジャック・デリタの「脱構築」

2023-09-19 17:23:00 | 西洋哲学

【脱構築】 

 フランスの哲学者ジャックデリタは「形而上学」を批判するために「脱構築」という哲学用語を使うようになりました。脱構築は、デコンストラクションとも言います。形而上学とは、現実を正しく言い当てようとすることで、西洋の哲学とだいたい同じ意味です。人間には、世界「根源」言い当てたいという要求があります。それまでの西洋哲学では、世界は言葉によって言い表すことが出来るものだとされてきました。それを「同一性」といいます。 

 【同一性】

 そもそも、世界には「始原」や「終局」がありません。それは、静止しない一つの「連続体」です。また、この世界には、相互の「差異」しか存在していません。しかし、形而上学では、それに同一性を求めようとします。その形而上学を構成してるのが言葉です。ただし、言葉によっては、世界を正しく表現することができません。それは、言葉の特徴に由来しています。言葉とは、何かを定義し、固定化することです。そのため、差異しかない世界を、正しく定義することは出ません。それにもかかわらず、人間は、言葉によって世界を表現しようとします。なぜなら、言葉によってしか世界を表現することが出来ないからです。人間には、もともとそういう要求があります。デリタは、同一性を批判することで、認識の「決定不可能性」を強調しました。 

 【枠組み】 

 脱構築とは、真理「同一性」への欲望を継続しながら、絶えずそれを崩していくという「戦略的な思考法」です。それは、現在を構成する「枠組み」に疑問を投げかけます。枠組みとは、世界の「おおまかなものの見方」のことです。それがなければ、人間は、世界を認識することが出来ません。枠組みとは「解釈の格子」のことです。解釈の格子は、現実の時間の経過とともに変化します。なぜなら、世界は、常に変化しているからです。新しく世界を解釈するためには、格子を組み立て直さなくてはいけません。脱構築とは、一度作った思考の枠組みを解体し、それを組み換えるという作業の「繰り返し」です。それを繰り返すことによって、常に新たな意味が獲得されていきました。

 【作業】

 脱構築とは、建物「思考の枠組み」を一度壊して、再び組み換えることです。人間は、現実世界を正しく見ようとして「構築」と「解体」を実践してきました。脱構築とは、いわば固定概念の破壊です。破壊したものを再び組み直すことによって、物事を様々な価値観で捉え直すことが出来ました。それは、現在を構成する枠組みを無際限に問いに付す運動です。デリタは、この不断の構築と解体の作業を「戯れ」と表現しました。それは、一見、無駄な作業のように思えます。しかし、人間にとって思考の枠組みは、必要なものでした。なぜなら、それを共有していなければ、社会で生きていくのが難しいからです。その社会は、常に移り変わっています。それに合わせて、思考も変えていかなくてはいけませんでした。