気の向くままに

卒寿の私の日々の行動と昔の思い出の掲載です。

思い出の中国旅行 その14(1995年2月23日~26日)

2022-02-28 16:08:26 | 旅行
2月28日(月)今日も朝から晴天です。座骨神経痛の痛め止めに坐薬を使っていたが、娘から坐薬は一番腸に影響するから止めた方が良いと言われ、薬局の薬剤師からも回復の時点で3種類(内服薬、湿布、坐薬)の中で最初に止めるのはと尋ねた時に坐薬と言われてました。今朝の坐薬を挿入を止めたのが影響か午前中から痛みが脛と腰に出たので、内服薬を昼食1回飲み様子を見ることにしました。今日は午前中は近くのウエルシアに買い物に家内と行って、午後はNHKBSで「大脱走」観てから中国旅行の思い出を編集しました。


訪問時期 1995年2月23日~26日

訪問地 上海 南京

私にとって1978年以来2度目の南京へ12名で。長江大橋、中山陵そして南京虐殺記念館で平和祈念。

2月23日 
JL791便で12時30分上海着。出迎えは上海女性ガイド「姜」さん。先ずは市内のレストランで遅い昼食。紹興酒で旅の無事を祈って一同乾杯。上海発16時30分の列車で南京へ向け出発する。上海、南京間を走るこの路線に紅白ツートンカラーの2階建て列車登場。21時6分南京着。案内は古都にふさわしい楚々たる女性ガイド「王」さん。ここで姜さんと任務交代。ホテルの「南京南都飯店」で南京の一夜を明かす。

上海駅2階建て列車の前で 

車内で

2月24日 
終日市内観光。「長江大橋」「玄武湖」「中山陵」を廻り、今回の南京旅行のメイン?「南京虐殺記念館」へ。市内の江東門にあるこの建物は「侵華日軍南京大虐殺遭難同胞記念館」。日本語では「日本侵略軍南京大虐殺受難同胞記念館」となる。ガイドの王さんは「皆さんのご希望ですので案内しました」と言う。建物の入り口に数字で大きく、遭難者「300000」と書かれているのは30万人が虐殺されたと訴えでもあろうか。日本には、「南京大虐殺などなかった、中国のでっちあげだ」と主張し「30万人など大げさだ」と、この数字の信頼性を問題にする人々がいる。侵略戦争を美化する連中に、無数の無抵抗の市民や捕虜を殺せばそれが大虐殺であることの感覚がない。館内に、南京陥落後、日本側の命令で片付け、埋葬した遺体だけでも合計15万5千余の記録が表示され、又、当時に日本軍が刀を抜き「・・・人斬り」の日本の某新聞もあった。記念館自体が、集団で殺された記録のある場所に建てられ、建設中に出土した骨が、掘り出され当時を示すように、別館の土の上に並べられていた。植え込みに結ばれた無数の哀悼の白い紙の短冊や日中両国民の追悼の文字を眺めつつ、薄暮の記念館を去る。

南京大橋と長江

南京大橋で 

南京・中山陵で

南京虐殺記念館

南京・玄武湖公園 

南京・夫子廟
2月25日 
南京9時40分発、上海14時41分着の列車で上海に戻る。開発されて来た浦東地区を見学。上海タワーの前で写真を撮る。

上海テレビ塔の前で
2月26日 
黄浦公園付近を散策とショッピングをした後、上海空港14時10分発JL792便で帰国する。

黄浦公園から上海テレビ塔                              
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思い出の中国旅行 その13(1994年9月22日~28日)

2022-02-27 16:56:15 | 旅行
2月27日(日)昼間は南風も強く春本番の暖かさでした。座骨神経痛の痛みも柔らいて午前中は昨日同様に近くを散策し、午後はテレビで北海道日本ハムファイターズの試合を観てから、思い出の中国旅行をHPから編集しました。

訪問先 北京 呼和浩特(フフホト) 大同

実施時期 1994年9月22日~28日

伜同行、20名で内モンゴルの大草原、真っ青な空と大同の雲崗石窟参観。往きは飛行機、帰りは列車の旅

9月22日 
全日空905便で成田を出発、北京到着。市内を軽く見学後、夜の国内便に乗り継ぐ。フフホト行きの西北航空1130便はなんと百人乗り程度の小型ジェット機だが、満席の客に気をよくしたか、夜の河北山岳地帯上空を快翔1時間、眼下に内蒙古の都市フフホトの灯りがきらめく。出迎えの現地女性ガイドは蒙古族の「満都拉(マンドラ)」さん。午前中の汗ばむ成田から、一気に初冬の内蒙古へ。満都拉ガイドのコート姿も納得。「フフホトは内蒙古自治区の区都。モンゴル語で『青い城』と言われ、人口は100万・・・」説明を聞きながら、ホテルの「昭君大酒店」へ、夜気が冷たい。
  
北京・天壇公園祈年殿               

北京空港フフホト行き搭乗

9月23日 
快晴。市内の五塔寺、内蒙古博物館を参観し、メインの大草原へ出発。もっとも近い草原でも、市内から80㌔、2時間の行程だ。陰山山脈の峠を越えると眼前に果てしない大草原が展開する。蒙古秋天。抜けるような青い空と、地の果てまで広がるすがれた草原。枯れ草をはむ羊の群れ。時間が停まったような静寂の中に風の音だけが聞こえるようだ。希拉穆仁(シラムレン)の観光用「包(パオ)」に到着。蒙古衣裳の接待員が「今日(タサイヌ)は」とお出迎え。レストランの昼食は、歓迎の歌と強烈な白酒の回し飲みで始まる。斧で叩き割ったような丸煮の羊肉を小刀で削りとって噛みつく、豪快な蒙古料理だ。美声の主は「格日楽」さん。アンコールに応えて「北国の春」を披露。日蒙親善。蒙古の蠅も一緒に歓迎。市内に戻り、中国四大美人の一人、悲劇の王妃「王昭君」の墓を訪ね、夜は新城西路の繁華街を散策、夜店をひやかし、フフホトの夜を満喫する
   
            

 フフホト・五塔寺



フフホト郊外シラムレンパオで 

                      
                     
シラムレンの大草原
  
シラムレンのレストランで蒙古衣裳で歌う店主  

 フフホト・中国4大美人一人「王昭君」の墓の前で

9月24日 
列車で5時間の大同へ。到着後、市内の名刹「華厳寺」中国三面のうち最大の「九龍壁」や「シャブシャブ鍋工場」を参観。ホテルは「雲崗賓館」
 
大同・九龍壁 

9月25日 
午前は北郊にある天下の奇観「懸空寺」へ、午後は大同観光のメイン「雲崗石窟」。敦煌の「莫高窟」、洛陽の「龍門石窟」と並ぶ中国の三大石窟の一つ。武周山山麓、東西1㌔のこの石窟は、53の洞窟に1500年前から彫られた、最大17㍍から最小2㌢までなんと5万1千体ものおびただしい仏像が並ぶ、中国仏教芸術の宝庫。古代文化の壮観に、一同ただ息をのみ、ひとしく感嘆の声をあげる。美の呪縛から解放され、夜は大同の特別料理「羊肉のシャブシャブ」で現実に戻る。
  
大同郊外黄土高原の子供達              

大同郊外黄土高原の住居



大同郊外懸空寺
   



       
大同の雲崗石窟

9月26日~27日 
大同より9時間余の汽車の旅で北京に戻り、2日間にかけて、万里の長城、故宮、天安門などお馴染みの観光コースを消化。友誼商店でショッピングのしめくくりする。
  
八達嶺万里の長城で                   

故宮・大和殿前で

旧満州国皇帝の弟が書いた掛け軸を買った店        

天安門広場で

天安門広場建国45周年準備

9月28日 
朝の便で北京空港より帰国。

  


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思い出の中国旅行 その12(1994年1月29日~2月1日)

2022-02-26 16:03:07 | 旅行
2月26日(土)今日は春本番の様な暖かさでしたので座骨神経痛の痛み止の内服薬は飲まずに、湿布とお尻に挿入する痛み止めの坐薬のみし、午前中に近くを散策してきました。午後からは私が昭和24年頃からのファンである北海道日本ハムファイターズ(昭和24年頃は東急フライヤーズ)の試合がCSで放映があったのでそれを観ていましたが、今年もこの試合は昨年同様に打線が駄目でした。試合も終わったので私のHPから思い出の中国旅行を編集しました。

訪問先 上海(淀山湖・長江河口)

旅行時期 1994年1月29日~2月1日

11名で淀山湖の宿は上海市青浦財税培訓中心(上海市税務署保養所?)長江河口の昼食は寶銅集團寶山賓館(宝山製鉄所食堂?)で。そして和平飯店の老人ジャズバンドを聴く

1月29日
大寒の大雪に脅かされて、午後の成田を離陸。夕刻上海郊外の「上海市青浦財税培訓中心」いわく「上海税務職員教育研修所?」に到着。一風変わった宿だが、遠来の客には、お堅いことなし。ここまで来た目的は「淀山湖」産の上海蟹を食べることでしたが、目的は達成できず。

1月30日
翌日は、女性ガイド湯さんの案内で淀山湖畔の「大観園」を遊覧。「紅樓夢」の幻の世界をさまよう。午後は上海への帰途、松江の街の古跡、宋代の「方塔」などを参観。夕食後は、和平飯店の「上海老年爵士楽団」(上海老人ジャズバンド)の、ジャズ演奏をウイスキーを飲みながら堪能?「周萬栄」団長以下6人、なんと最高75歳平均68歳の老人バンドマンだ。中でも高齢75歳の「程岳強」ドラマーの熱演には、満員の観客より盛大な拍手が湧く。外人客のリクエストに応じての連夜の熱演。上海老人パワーに、我ら日本退職者はもう圧倒されっぱなしだった。
  
大観園


 
淀山湖
   
松江・方塔     

上海老人ジャズバンド

1月31日
現地のガイドも来たことが無いと言った「長江河口」を展望したが海のようで川という感じが皆無。その後「宝山製鉄所」ここの食堂で昼食。完成した「浦東大橋」を参観。開放経済に沸き立つ上海を再確認しつつ、我がバイヤーは、格安「烏龍茶」の買い付けに専念する。
  
                         

長江河口にて

豫園にて 

2月1日
上海発 9時MU523便で帰国。

  
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思い出の中国旅行 その11(1993年9月22日~28日)

2022-02-24 10:01:20 | 旅行
今朝から曇り空で晴れ間が出ることになっていますが、相変わらず座骨神経痛の痛みがあるので炬燵の中で、テレビの国会中継を観ながらHPから過去の中国旅行を思い出しています。

訪問地 西安・敦煌・上海
旅行時期 1993年9月22日~28日

34名で敦煌莫高窟参観と鳴沙山砂漠でラクダに乗り移動する。

9月22日 
全日空905便は、定刻10時25分成田空港離陸。北京空港で西北航空2108便に乗り換え、18時50分、西安空港に定時?着陸。ホテルは市の南部、東雁引路の「唐華賓館」有名な大雁塔に隣接するこのホテルは4層の中国風建築。唐代の美女「楊貴妃」の夢など見て、先ずは古都西安の一夜を過ごす。

9月23日 
敦煌行きの便が午後に変更。それではと、午前は「陝西省博物館」参観。故周恩来首相の生前の指示により、1991年に完成したいうこの博物館の収蔵品は11万7千点。中国の地方博物館では最大で、北京の故宮博物館に比に非らず、とか。古代から近代まで時代順の展示品の質量に圧倒される。昼食は市内のレストラン「唐楽宮」。唐代宮女の服装をした美女のお出迎えはよろしいが、なんと昼食もバイキング方式。空腹を抱え、お皿を持って長蛇の列。「中国開放政策即日本的合理化空腹暫時是我慢乞協力」といったところか。15時10分、西安空港を離陸した「西北航空」2212便は、傾く夕日を追って、黄河流域の黄土に続く砂漠地帯を眼下に西進。経由地「蘭州」は「乗客此皆無着陸即無駄」とばかり、着陸省略。敦煌めざし直進。17時40分、砂漠のど真ん中の敦煌空港に安着。タラップを降りる一行に乾いた砂漠の強風が熱烈歓迎。はるばる来た辺境の地の敦煌にしばし感無量。出迎えの女性ガイドは「王建華」さん。スラリとした敦煌美人だ。夕食もそこそこに、待機した駱駝に分乗。上空の十日月を眺め、砂漠をキャラバン気取りで「鳴沙山」「月牙泉」付近を一廻り。ホテルは市内一流の「敦煌賓館」。砂塵を流し、辺境の宿に夢を結ぶ。
 


西安・狭西省博物館

                        

 鳴沙山砂漠

9月24日 
今日は、市内の東南25㌔にある、旅のメイン「莫高窟」参観。鳴沙山大砂丘東麓の断崖に開かれ、かって千仏洞と呼ばれた千を越す窟院も、今は492窟が残り、断崖にアパートのような三層、四層の石窟が並んでいる。「遠く前秦の建元2年に開さくされたこの石窟に、今、保存されているのは、北魏より元代までの壁画や彫像で・・・・・壁画は延べ4万5千余㎡、彩色像2千体、まさに、古来からの『シルクロードの珠玉・極楽』である」。莫高窟専属女性説明員の名調子がつづくなかで、暗い洞窟に持参の懐中電灯の光を交錯させ、一同しばし感嘆。「これこそまさに敦煌芸術の魅力」、との説明員女史もぐっと胸を張る。昼食を済ませ、午後は「陽関」へ。北の「玉門関」と並ぶ往時の沙州(敦煌)城防衛の拠点も、砦とは名のみで、小高い砂山の上に、崩れかかった当時の「烽台」が一つぽつんと残っているだけだった。帰途は、砂漠のどまん中の「映画村」を背景に記念写真を一枚、日中合作映画「敦煌」ロケのために造られた「敦煌城」が中国側の要請でそのまま残され、入場料を徴収して新たな観光名所?になっていた。オアシスのなかの葡萄園に立ち寄り、トイレ休憩を兼ねて葡萄狩り。料金は25元(500円)は安くはないが、もぎとり放題、食べ放題。緑色の細長い「トルファン葡萄」で渇いたのどを潤す。莫高窟の楼門を模して造られた三層の赤い屋根の門をくぐって敦煌市内に戻る。辺境の町敦煌も、観光の目玉の外資獲得と開放政策で、街並みもぐっと近代化。ビル建築のラッシュのなかで商店街も活気ついている。敦煌旅行会社直営の餐庁(レストラン)で敦煌お別れの晩餐会、オアシスで買った乾し葡萄をつまみ、名産「夜光杯」に老酒を充たして乾杯。
 

 
敦煌莫高窟                      

陽関の烽火台

前方は映画敦煌セット

9月25日 
砂漠の駱駝に別れを告げて、再び「西安」へ戻る。ホテルは1日目の「唐華賓館」、お帰りなさいと、大雁塔と預けた荷物がお出迎え。

9月26日 
今日はシルクロードの起点「西安」観光。何はともあれ郊外の「兵馬俑博物館」へ。推定8千体といわれる秦始皇帝の地下軍団に圧倒される。帰途は始皇帝の陵墓を遠望。周辺はザクロの産地で、沿道にザクロ売りの声が交錯する。つぎは「華清池」、市の東北30㌔にある温泉保養地で、唐の玄宗皇帝がここに華清宮を造り、楊貴妃を寵愛したことから有名になったとか。8年前に覗いた?「楊貴妃の風呂場」は消えて、今は市民の浴場になっていた。市内に戻り、午後は「大雁塔」「西安碑林」を参観。「西門城壁」に登り小手をかざしたが、あいにくの小雨模様で、シルクロード原点の街並みは霞んでいた。
  

西安・兵馬俑                   

西安・華清池                         

西安・碑林にて

西安・食事の前菜

西安・大雁塔

9月27日 
訪中の旅もあと2日、「西北航空」2509便で今日は上海へ移動。明るい秋の日差しの「上海紅橋空港」着陸。中国最大の都市「上海」は、開放政策のもと、凄まじい建築ラッシュや、人、車、自転車の洪水。エネルギッシュな雰囲気につつまれていた。おなじみの上海。陳ガイドもマンネリ説明ぬきで、車窓に屹立するビル、ホテル群を指さして、近代化上海を誇示。昼食後は、「豫園」「玉仏寺」など観光メイン探訪組と自由行動組に分散。夜は「上海雑伎」参観

上海・黄浦公園にて

9月28日
午後の「全日空」920便で18時に全員無事元気で成田に帰国。


 
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思い出の中国旅行 その10(1993年2月5日~8日)

2022-02-23 10:18:13 | 旅行
今日は朝から晴天ですが、座骨神経痛の痛みは相変わらずありますが、午後から週1回の運動するリハビリのディサービスに行きます。その前に昔を思い出す中国旅行の旅を私のHPからブログに再編集しています。

実施時期 1993年2月5日~8日
旅行先  天津 北京

11名で天津甘栗のルーツ探訪?北京では慕田峪万里の長城、蘆溝橋を視察。

2月5日 
NH905便で10時30分成田空港離陸。現地時間13時50分に北京空港に着陸。中国国際旅行社天津分社の女性ガイド趙さんがにこやかにお出迎え。ニイハオもそこそこに専用バスで天津目指して出発。高速道路を東南へ約170㎞、快走する車内で趙さんの天津案内「渤海湾に面し首都北京の海の玄関と呼ばれる天津市は、北京、上海とともに中央直轄市で、行政、産業、交通上の重要な位置をしめている」などなど。天津の歴史・沿革からみどころまでの名ガイドが続くが、肝心の「天津甘栗」が登場しない。しびれを切らして質問に、怪訝な顔の趙さん答えて曰く「甘栗は天津名物ではありません。たぶん天津港から積み出したのでそう言われるでしょう」に一同がっくり。趙さんが「季節外れだがどこかにあります。探してみましょう」と慰める。さて夕食は和平区山東路の「狗不理」総店。天津名物はなんと甘栗ならぬ包子(饅頭)。犬も食わぬ意味の「狗不理」は百年前の初代店主の頑固さに親がつけた名をそのまま店名にしたとか。あたかも今夜は旧の十五夜とかで、団子なるぬ肉まん、餡まんなどの月見包子攻め。

天津テレビタワー
2月6日
 市内観光。2月の寒風に晒された水上公園内の動物園に人影なし。パンダの「寨々」君もごきげん斜め。次は隣の「天津廣播電視塔(テレビ塔)」へ。湖上に屹立する塔をエレベーターで昇り、14階の回転展望台から天津市内を眼下に一望する。午後は「南市食品街」へ執念の甘栗探し、3階建てのレストラン、喫茶店の店舗とおびただしい出店をくまなく探しても甘栗らしきものは皆無。ついでに横丁の露店を覗いたが万事休す。甘栗は日本で買うにしかず、と悟って一行は気を取り直して、天津が誇る絨毯の「天津地毯二廠」(天津第2絨毯工場)へ。ところがなんと土曜日で休業。日本並みの週休2日制?と肩を落とす面々に、それではと非番?の男女2名の工員さんがサービスの実演「謝々」と熱意に応えて売店でショッピング、絨毯はもっぱら目の保養。天津凧や年画などのお土産購入し、高速道路を北京に向けてUターン。
  
天津動物園                       

天津動物園のパンダ 
  
天津食品街前で

北京・夜の故宮

北京・京劇観賞 

2月7日 
北京は快晴。おなじみの「万里の長城」も今回は慕田峪へ。八達嶺に比べこちらは閑散。名物ロープウェイからの眺望も素晴らしいが、料金も25元から40元に大幅アップ。蒙古高原から吹き渡る冷風に首をすくめて退散。午後は「盧溝橋」参観。北京南西20㎞、永定河にかかる白い石橋はマルコ・ポーロが「東方見聞録」で世界で最も美しい橋と述べて有名。全長266,5㍍、アーチ型の孔11個、欄干140本、欄干に彫られた486個の獅子像が見事だ。日中全面戦争の発端となった盧溝橋事件の起きた所。忌まわしい過去は別にして、今は由緒ある観光地。
 

                           
慕田峪万里の長城
 
                            
 
蘆溝橋

2月8日 
午前中、王府井街など散策後、北京空港15時30分発NH906便で帰途につく。

王府井街
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