気の向くままに

卒寿過ぎた私の日々の行動と昔の思い出の掲載です。北海道日本ハムファイターズのファン~元祖東急セネタース時代から

久しぶりの散策

2022-02-21 14:44:41 | 日記
晴天の2月21日(月)お昼頃に座骨神経痛の痛みも柔らいたので久しぶりの散策を通常の三分の一の距離を歩きました。遠くに見える箱根の山々、富士山、丹沢の山並をスマホで撮ってきました。その後、この写真をブログにのせる為に新たに購入したWindows11を使って行う事にしましたが、スマホからの移行はWindows11は立ち上げと同時に自動再生コメントが出て間に合わず富士通のリモートサポートに電話して遠隔操作で教わりましたが、それなりの手数がかかりパソコンに取り組む事は出来ましたが、ブログに載せる方法までは教えて貰わなかったので、このブログは今まであったパソコンから掲載しました。Windows11から載せる方法はボツボツ自分でお勉強することにしますが、何れにしてもWindows11は使いにくいです。









我が家の庭先で

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思い出の中国旅行 その9(1992年9月19日~25日)

2022-02-20 10:21:43 | 旅行
今朝から雨が強く降っていて、座骨神経痛の痛みも腰と左足脛に出ているので炬燵でオリンピックの女子カーリングの決勝を見ながら30年前の中国旅行を私のHPから編集しています。
訪問先 成都・昆明(成昆鉄道に乗る)
旅行日 1992年9月19日~25日

48名のお仲間で参加。成都、昆明間は飛行機組の列車組に別れる。
9月19日
中国東方航空5772便で、14時45分成田空港離陸。17時35分上海紅橋空港へ着陸。上海銀座通り「南京路」の凄まじい雑踏を通り抜け、ホテル遠洋賓館へ。

上海・遠洋賓館前で 

9月20日
終日、お馴染みの上海市内観光。夕刻空港へ。18時5分成都行き西南航空4502便で上海離陸。市街地の灯火が視界から消えて、暗黒の大陸を眼下に一路西南へ飛ぶこと2時間半。四川平原に灯りがちらついて20時45分成都空港安着。パンダが熱烈歓迎。市内の「四川賓館」で早速四川料理で夕食。「百種の料理があれば、必ず百種の風味あり」といわれる四川料理は、北京、、上海、広東などと並ぶ中国料理の華だが、唐辛子、山椒など多用のした独特な風味も、その凄まじい辛さに、口中たちまち火のごとく燃え上がり、お馴染み麻婆さん考案の激辛「麻婆豆腐」も一口食べて飛び上がり、辛さの表現として「汗かいて・涙流して・鼻水垂らす」と言われたがそのとおりとなった。

9月21日 
成都は「三国志」ゆかりの地である。朝食もそこそこにホテル出発。成都観光の目玉、市の南部にある「武候祠」へ、ここは、三国志の蜀の知将諸葛孔明を祀った祠堂で、明代に隣接する備の墓昭烈廟と合体、君臣ともに祀る「君臣合廟」となった。「武候」は孔明の死後おくられた名前で、古来よりここが武候祠と呼ばれてきたのは、孔明が劉備よりいっそう深く慕われていたためといわれる。門内の「劉備殿」には黄金の劉備像、側棟には関羽、張飛をはじめ、28人の文官武将の像が遠来の日本旅人を出迎え。その奥に襟を正した諸葛像がある。天下統一に腐心し、五丈原で戦死した三国志の英雄に敬礼。次は市の西郊、浣花渓のほとりにある、詩人杜甫居住した「杜甫草堂」へ。この堂は李白、白楽天と並ぶ盛唐の三大詩人杜甫が浣花渓という小川のほとりに茅屋を建て、4年ほど住みここで247首の詩篇を書いた「おなじみの「国散れて山河在り、城春にして草木深・・・」杜甫のこれは有名な「春望」の一節だ。この詩聖杜甫を記念し、宋の時代に祠を創建。境内には、詩史堂、工部祠、「小陵墓堂」の石碑や文化財がいろいろある。その後、綿織の職人が仕上がった綿を洗ったという「綿江」のほとりにある望江楼公園へ。唐代女流詩人薛涛を記念し、清代初期に造られたもの。竹を好んだ薛涛にちなんで、園内には80数種におよぶ見事な竹が植えられている。園内には観光客をあてこみ。なんと駱駝も登場。仲間のおばさん達を乗せて外貨獲得に一役。土産店で目につくのが「風林火山」の文字。名だたる孫子の「疾きこと風の如く、静かなること林の如し、侵略は火の如く、動かざること山の如し」とか。ガイド氏は「日本の武田信玄さんがこれを借用しました、こちらが本場」と胸を張る。刺繍工場、自由市場など市内観光後、飛行機組と別れた32名の列車組は、市内のレストランで夕食を終え、成都駅に向かう。今次訪中の旅のメイン?でもある「成昆鉄道苦難の旅」への挑戦である。中国南部、四川、雲南の山岳地帯を走る成昆鉄道は成都から昆明までの1,100㎞、沿線はすべて山の中。427ヶ所のトンネルと653ヶ所の鉄橋の全長は約400㎞、全線の4割を占める。1970年に完成したこの路線は、四川、雲南を結ぶ唯一の輸送路で、雲南からベトナム国境への物資輸送という重要路線であった。東風型ジーゼル機関車を先頭に、食堂車、郵便車、それの我ら外人用の軟臥車(寝台車)を増結。「成都ー昆明」の車両プレートを感慨こめて眺めつつ一同乗車。93次特快(特急)は21時15分定時発車。昆明へは明日の20時56分に着く。コンパートメントは4人、缶ビール、老酒でまずは乾杯。それにしても、特急列車とは名のみで蒸し暑い車内に扇風機が一つ、窓は錆び付いて開かないし、湯茶も有料、秘境路線とはいえ、乗せてやるだけの中国国鉄。ぶつぶついいながら、老酒の酔いでうとうと。

成都・望江楼公園

成都・武候祠

成都・刺繍工場 

9月22日
「西遊記」でおなじみの蛾眉山のある蛾眉に真夜中の0時近くに停車。さりとは知らずうとうと。次の燕崗という小駅で11分停車。機関車をつけかえ、2両で牽引する「重連」となり、成昆鉄道ならではの急勾配にさしかかるわけだが、日程上とはいえ、このあたりからの数時間、明るい時に通れば、と悔やまれる。普雄駅を過ぎて夜が明けてくる。寝ぼけ眼を擦りながら窓外を眺めれば、長江支流の大渡河の両岸は険しい岩峰や絶壁が迫り、トンネル、鉄橋、ループ線の連続。このあたりが標高2,300㍍、成昆鉄道の最高地点とか。眼前に展開する素晴らしい景観に息をのみ、山岳鉄道の醍醐味をしばらく満喫する。12時、金江駅着。一同食堂車へ。味付けも手頃で良好だが、なにしろ昨日からの激辛四川料理から車内の飲み過ぎ、食べ過ぎで腹具合不良気味、食欲皆無模様で、食堂車料理長心づくしの名菜も青息吐息で観賞?するのみ。なにやかやで、疲労こんぱいの中、長い24時間汽車旅に耐えて、15分遅れの21時過ぎに昆明駅に到着。駅名標をバックに記念撮影。ホテルの綿華大酒店でひとあし先に到着の飛行機組と合流。

成昆鉄道のループ式線路

昆明駅ホームで列車組

9月23日 
昆明は快晴。ミャンマー、ベトナム、ラオスと国境を接する雲南省の省都昆明は、海抜1,900㍍の高原都市で藤沢市の姉妹都市となっている。四季温暖で「春城」の別名を持ち、人口192万、21の少数民族が住む。今日は終日「石林」観光。市の東南126㎞カルスト地形の奇景「石林」は3億年も前に海底の石灰岩が地殻変動で陸地になり、数千万年にわたる雨水の浸食でできた石柱群。屹立する岩の柱を縫う遊歩道を汗だくで辿り、てっぺんの望峰亭からの素晴らしい遠望に、まさに天下の奇景絶景なりと一同感嘆の声をあげる。ホテルへ戻り小休止。元気回復。夕食は市内の金龍飯店のディナーショー。民族衣装をまとった美女の踊りをたっぷり鑑賞。

石林で

昆明・民族舞踊

9月24日 
民族美女の夢も半ばに、早朝起床。雲南航空4541便でまた上海へ。着後、市内のシルク工場「雲花服装廠」へ。高温多湿の上海では、シルクの下着がおおもてとか。午後は市内参観組と自由行動組に別れ夕刻友誼商店で合流、お土産ショッピング。華僑飯店で特別料理のお別れ晩餐会。戻ったホテルでは、10名の仲間が往きのレストランで1テーブル10名が飾ってあった掛け軸30枚全部買い占めた?その掛け軸のアミダ分配で歓声があがる。

9月25日 
あっというまの7日間が過ぎ、中国東方航空523便で再見中国。

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思い出の中国旅行 その8(1992年2月8日~11日)

2022-02-19 12:14:55 | 旅行
今朝から曇り空で炬燵の中で過ごしています。昨日は高齢者特有の病気で2カ所のかかりつけ医で診察してきました。最初の医院は数年前から食事の時に鼻水が出て止まらないので耳鼻咽喉科医院。病名はアレルギー性鼻炎(高齢になるとかかる人が多いと言われました)、2カ所目は眼科で加齢黄斑変性症の検査で3ヵ月毎に毎日服用している健康保険が使えないサプリメントのルテイン20で経過観察です。中国旅行の思い出は私のHPから再編集しています。

実施時期 1992年2月8日~11日
訪問先   上海・杭州・紹興 

倅も同行し14名の仲間で呉越同舟本場の紹興酒を飲みに行きました。

2月8日
JL795便で成田空港を離陸、長崎経由で上海紅橋空港着陸。空港近くのレストランで遅い昼食。早速紹興酒で乾杯。腹ごしらえを済ませ、杭州行きの列車の時間待ちにと、ほろ酔い気分の一行を乗せたバスは上海市街を巡回。ガーデンブリッジで、記念写真をパチパチ。蘇州河の冷たい川風で酔いを覚まして、夕刻の列車に乗車。17時15分発重慶行き直快(急行)の軟座車(グリーン車)は、本土訪問の台湾ギャルでほぼ満席。車内ではときならぬ日台交歓の場となる。杭州のホテルは、西湖北側湖畔にある望湖飯店。

2月9日
中国国際旅行社杭州分社の女性通訳(ガイド)陳さんの案内で、曇り日、底冷えの杭州市内遊覧・「天に天堂(天国)、地に蘇・杭(蘇州・杭州)在り」と言われて地上の楽園も冬で形なし。シンボル「西湖」も人影、まばら。寒い遊覧船に一行肩寄せ合い、ここらで熱燗ほしいやの声しきり、「あれが『白堤』こちらが『蘇堤』・・・」陳さんのガイドもうわの空。「孤山」「湖心亭」「三潭印月」などの「西湖十景」も身につかず、ほうほうの態で船をあとにする。粉雪ちらつく「六和塔」で寒い記念撮影。ホテルに戻り昼食。冷えた体を紹興酒で温め、元気を取り戻して午後の市内遊覧を終え、18時03分発寧波行き快客(急行)列車で、今回のメイン訪問地、紹興市へ向けて勇躍?出発。19時10分紹興着。出迎えのガイドは、紹興支社の謝さん。バスで駅から5分、寒くてうす暗い街を少し走って、ホテル紹興飯店へ到着。夕食は紹興の郷土料理を肴に、2400年の伝統を誇る本場紹興酒(老酒)を早速賞味。一同、中国銘酒のふるさとに、今たどりついたる思い入れよろしくの態でした。

杭州・霊隠寺

杭州・西湖

六和塔から見た銭塘江

杭州・六和塔

2月10日
紹興は曇り、気温4度。かって春秋戦国時代(紀元前770~221年)越王の勾践が首都と定めた紹興は、風光明媚な水の都として人々に愛され、張り巡らされた運河から「東洋のベニス」と呼ばれた。くすんだ黒瓦の屋根、古風な家並みや、崩れかけた漆喰の白壁に、古都紹興の面影を見ることができる。紹興はまた、近代中国の作家であり、思想家であった「魯迅」生誕の地であり、魯迅ゆかりの名所が点在する。さらには晋代(300年頃)の名書家「王義之」が晩年をここに過ごし、文人を招いての「曲水流觴の宴」を張った「蘭亭」は書道の聖地とされている。かくて紹興は、歴史と文化の薫り高い町でもあり、国内外の訪問客を集めている。紹興酒だけの町ではないのである。といいあうものの、参観の手始めは、ホテルに近い酒工場からとなり、訪れたのは、「紹興市醸造総公司」(紹興酒造工場)。広い構内は大小の老酒の甕で埋まり、鼻に覚え?の老酒の甘い香りが漂う。接待所で女性説明員から、紹興酒についての予備知識を聴く「この紹興酒は、2400年前から製造。年間生産量は4万3千トンで、60%が海外へ輸出、40%が国内向け。加飯(かはん)酒、元紅(げんこう)酒、香雪酒(こうせつ)酒、善醸(ぜんじょう)酒の4種類があり、日本に輸出されるのは主に酒質の安定度の高い加飯酒で、コクのある辛口である。原料の米はもち米。中国では、女の子が生まれると紹興酒の壷を庭に埋め、その子が嫁ぐ日に掘り出すという習慣がある。この酒を花彫(かちょう)酒といい、じっくりと寝かされてコクの増したもの、それが老酒ある」などなど。更に「1915年のパナマ博覧会、1985年のパリ・マドリードの博覧会、同年の北京食物博覧会などで、金メダル獲得」と胸をはる。一同感嘆。葡萄酒めいたものも交えた試飲用の老酒をなめて、さてその醸造過程を拝見の申し出に企業秘密で不許可。しからば売店へ直行。「国賓接待用」の特製「加飯酒」2本セットを2個購入(成田空港で4本となったので1本税関に申告100円徴収される)。皆で2本セット、甕を購入し正門で紹興酒を抱えての記念撮影。次は歴史と文化を訪ねてと、先ずは蘭渚山麓の「蘭亭」を見学。造園技術の粋を凝らした風雅な「曲水の庭」で王義之先生を気取って記念撮影。「蘭亭碑」「鵝池碑」などの邸内を参観。次に魯迅先生には申し訳ないが「記念館」「三味書屋」などをパスして、なんと記念館の隣の街の居酒屋「咸亨(かんりょう)酒店」へ直行。この酒場は、魯迅の作品にしばしば登場する有名な?店とか。最近復元された店は、あいにく婚礼祝いの酒を酌み交わす人々で店内は満員。ガイドの謝さんの計らいで、庭前に机と椅子を持ち出しての、にわか造りの青空酒場で乾杯。酒店特製の「臭豆腐」の鼻を突く臭気にも馴れてご機嫌。ホテルへ戻り昼食。また老酒。午後は中国伝説上の夏王朝、禹王の墓のある「禹陵」へ。この地の治水に専念した禹王の徳を知る。
紹興発16時30分発特快(特急)で22時8分上海着。ホテルは遠洋賓館。

紹興・蘭亭

紹興・紹興酒製造工場前で

紹興・咸亨酒店で

紹興・咸亨酒店

紹興・大禹陵入り口の運河 

紹興・大禹陵
2月11日 
午前中は、お馴染みの黄浦公園付近の散策と上海友誼商店でのお土産購入。上海空港14時発JL796便にて長崎経由19時に成田に着く。

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思い出の中国旅行 その7(1991年9月5日~11日)

2022-02-17 10:53:43 | 旅行
今日も朝から当地は晴天です。昨日も晴天で足腰の痛みも柔らいたので久しぶりに半日コースのディサービスに行って身体を動かしてきました。
一昨日かかりつけ医に娘の車に乗り診察を受けました。対面での診察は20日振りでした。現在治療には、痛み止めの飲み薬、湿布、坐薬を使っているので改善に向かうにあたり、薬等の減らす方法を尋ねたら自分の身体は本人しか判らないので自分の判断だと言われました。、
今日はブログは炬燵ではなく自分の部屋の机からのHPからの編集です。

訪問地 大連・瀋陽・撫順・北京
実施時期 1991年9月5日~11日

本ツアー最高の56名参加。大連、瀋陽間の列車は私たち用に荷物車の後の最後尾に1車両増結されるが、座席が足らず10名ほどは他の車両へ離れる。

9月5日 
18時0分、1時間遅れのCA952便で成田離陸。夕食は「機内食」メニューはまずまず。おりからの空腹に持参の気付け薬がほどよく利いて、民航独特の無愛想サービス(?)も気にならず、まずは「好吃(よろしく)}21時50分大連空港着陸。狭い空港での入国審査も順調完了。出迎えの中国国際旅行社の張さん、大連分社のガイド李さんらと「ニイハオ」。斯林路の大連国際酒店(ホテル)へ直行する。

9月6日 
快晴の大連市内観光。先ずは大連港へ。昔は「青泥」という一漁村だった大連も今は人口500万、中国北端の不凍港を擁し対外貿易の拠点となっている。大連市港湾局の屋上にエレベーターで上がった展望台からは、港内の活気と「北海の真珠」の名のごとく美しい街並みが眼下に展開する。星海公園、老虎灘は黄海に面したリゾート地。大連きっての海水浴場や娯楽施設が並ぶ遊園地も今はシーズンオフで閑散としている。ガラス工芸とともに大連の名産の貝殻細工工場を見学。隣の国際展覧館で早速ショッピング。レストランの昼食は、期待の海鮮料理とまではいかず、さては料金のせいかなどの声あり。駆け足の大連観光を終えて、14時25分発の列車で瀋陽へ。「斎斎哈爾(チチハル)」行きの直快(急行)列車に分散乗車。窓も錆び付いたオンボロ軟臥車(寝台車)でなんと7時間のがまん汽車の旅。遼東半島から遼河平原へ。一望の高梁畑の果てに沈む夕日に大陸の旅情を満喫。不味い弁当をぱくついて、海城、鞍山、遼陽を経て21時20分に瀋陽到着。ホテルは駅近く THE ROSE HOTEL(中国語の漢字がでません)

大連.北大橋で

大連市港湾局屋上にて 

車窓よりの紅い夕陽

9月7日 
瀋陽は遼寧省の省都。北京遷都前の清朝の都で「盛京」ともいわれ、遷都後は「奉天」と改称。例の悪玉関東軍の根拠地。日本敗戦後また瀋陽に戻った。人口511万、中国の有数の重工業都市で東北地方の政治・経済・文化の中心とガイド氏が胸を張る。市内観光はさておき、と先ずは郊外の露天掘り「撫順炭坑」へ、3台のバスに分乗、折からの出勤ラッシュの市内を抜けて、ポプラ並木の高速道を50㌔、約1時間で石炭の街撫順に到着。中国最大の撫順炭坑は、東西6,6キロ南北の幅は2,2㌔採掘現場は地表からの坑深280㍍、将来は450㍍に掘るという。採掘現場には石炭を牽引する何台もの電気機関車が見えた。1万6千人の従業員が24時間3交代で掘る石炭は年間500万トンとか。折からの秋霞の中の露天地の広大さに息をのむ。このあたりの民家も石炭層の上ときいてまたびっくり。ホテルへ戻って昼食。午後は博物館、北陵公園など市内観光。
 
撫順炭坑見学休憩所にて                     

露天掘りの撫順炭坑

瀋陽・北陵公園

9月8日 
今日も快晴。なんと5時起床のねぼけ眼で、朝食もそこそこに出発。高速道を110㌔の猛スピートで疾走。市外の東塔空港へ。8時50分、国内北方航空便にて北京へ向けてフライト。眼下に河北の山並みが現れるとまもなく「万里の長城」の上空にさしかかり、機内は騒然。秦の始皇帝がみたら目を剥くだろう。10時20分北京空港に着陸。「北京秋天」ながらやや暑し。さすがは首都北京。3日間の移動は大型バス2台。レストランで昼食後、宿泊するホテル前門飯店へ。小憩後の市内観光の皮切りは「天壇公園」。ここの「天壇」は明・清歴代皇帝の祭壇で、梁や釘を一本も使わぬ円形三層の祭壇「祈年殿」の豪華さに、感嘆の声があがる。次は前門近くの南新華街にある「瑠璃廠(ルリチャン)」。中国随一の骨董品街。街路の東西に、清代風に改装された「栄宝齋」「中国書店」など、書画骨董や古書の店がずらりと並ぶ。眼の保養をすませ腹も減ったところで、夕食は淮揚春飯店の北京料理。老酒で気力回復。夜は27劇場の「北京雑伎」を見物。有名な「上海雑伎」と違い、舞台で演ずる、いわゆる「舞台サーカス」だ。

北京・天壇公園祈年殿

9月9日 
中国観光のメイン「万里の長城」へ。9時出発。今回は先ず「明の十三陵」への逆回りコース。十三陵は、北京市内から西北50㌔、天寿山の裾野に点在する明代皇帝13人の墳墓。
その一つの「定陵」は、13代皇帝の万暦帝とその二人の皇后の墓。墓造りに熱中した彼は、銀800万両と6年の年月、おびただしい人民を酷使してこれを完成した。地下20㍍の「地下宮殿」への長い階段を下りてゆく。皇帝の威厳と搾取を偲ぶ人々でお墓の中まで大混雑。様変わりの世の中に皇帝らもびっくり、苦笑いか。十三陵を後にして「長城」へ。八達嶺の山並みが迫り、「万里の長城」が眼前に姿を現す。12時40分到着。レストラン、土産物店や露店が並び、雑踏するあたりの光景に、ありきたりの観光地に変貌、俗化した周辺のたたずまいに幻滅。3回目の「長城」に13年前の新鮮な感動はなかった。入り口のレストラン(八達嶺外賓餐庁)で万里の長城を眺めつつ昼食。腹拵えを終え「長城」へ。人類最大の遺産の一つ、月から見える唯一の建造物「万里の長城」は遠く紀元前3・4世紀の戦国時代、燕、趙、秦などが北方遊牧民族の侵略を防ぐために造ったが、秦の始皇帝が、30万の軍兵と数百万人の農民を動員し、10年の歳月をかけて、それまでのちぎれちぎれの長城を繋いだ。その後、明の時代に改築。東は渤海湾の山海関から西はゴビ砂漠の嘉峡関まで、全長6,350㌔、中国の里程で1万2,700里となる所から万里の長城と呼ばれる。明代に焼かれた長城の煉瓦は堅く、あの落書きだらけの煉瓦は、新中国になって修復された部分のもので、明代のそれは、600年の風化に耐えてなお、果物ナイフなどの彫り込みの落書きを拒絶しているのだ、という話を聴いた。夕食は、名物「北京ダック」。紫金宮飯店2階の「大阪徐園」。その名のとおり、ここは日本人経営の店。店内装飾も日本風。専門店「全聚徳」仕込みの板前さんの手による本場のダックを堪能。

八達嶺万里の長城 

北京・定陵

北京・大阪徐園北京ダック   

9月10日 
長城の風が南風と思ったら、今日は曇り、北京3日目は市内観光。先ず「天安門」。あの事件も夢物語風に、広場は国内外の観光客で一杯。地下道になんとスリも出没。3度目の天安門に立つ。10月の国慶節を間近に、化粧直しの最中。広い「故宮」はかけ足参観、と思いきや、ガイドの国際旅行社「任」主任の熱弁ここでも大いに振るい、あわてて「簡潔に」と要望。(※「任」主任は後日、天皇陛下が万里の長城をご訪問された時のガイド)午後は「頤和園」。北京の西北にある、北京最大の公園。清代の西太后が贅沢の限りを尽くして晩年を過ごした所として有名。人造湖の昆明湖と湖を掘った土でできた万寿山が後ろにそびえる。アヘン戦争で破壊され、荒れ果てていたのを、政権を握った西太后が日清戦争の軍事費を流用して改修、頤和園と命名。優雅な日々を送ったが、おかげで戦争は惨敗、となったとか。全長728㍍という驚くべき長廊下の柱や天井に華麗な絵画や装飾がある。最後は、友誼商店でショッピング。外は雨。北京お別れの夕食は「満漢全席」。いわゆる北京名物「宮廷料理」。天壇路の北京市御膳飯店へ。宮廷衣装の美女のお出迎えと、15品目のメニュー。それにふさわしからぬ(?)老酒の酔いで、なにやら変な皇帝気分。その後、有志でカラオケへ。

北京・故宮

北京・天安門広場にて

北京・頤和園

9月11日 
 あっというまの7日間が過ぎて、5時半に起床。慌ただしく空港へ向けて出発。バスの中で、若手ガイドの張さんがお別れ挨拶。夕べのカラオケバーでは歌わなかったが、ここで一曲披露の歌は「我愛天安門」。幼児も歌う愛国のメロデーが懐かしい。「再見」張さん。CA925便で9時50分北京空港離陸。

              
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思い出の中国旅行 その6(1991年2月8日~11日)

2022-02-14 09:32:51 | 旅行
今朝は朝から晴れると思っていましたが、現在は曇り空。相変わらず座骨神経痛の痛み防止で炬燵の中。私のHPから中国旅行の思い出に浸りブログに編集しています。

訪問地 無錫・上海
旅行時期 1991年2月8日~11日

有志8名で真冬の中国へ、この年から有志での冬の中国旅行が始まる。上海のホテル地下のカラオケバーで演歌で日中友好を行う。

2月8日 
飛行時間3時間。免税店のウィスキーでとろんとしたと思ったら眼下に中国大陸が見えだして下降、旋回し着陸態勢に入った機の窓に、見覚えの上海の街並みがぐっとせり上がって来た。入国審査パス。8人の「日本老年組」は出迎えのガイドと対面。中国旅行社の若いガイド嬢秦さん北京外語大卒、22歳とは思えぬあどけない素顔が爽やか。老年組もまずは安心。空港から市内へ。上海訪問は3回、5回の一行と聞いて申し訳なさそうに差し出す「上海案内」を片手に、手持ち無沙汰の秦ガイドに、最近の物価・住宅事情など一応の経済的?質問。模範的回答にうなづきながら、窓外の街並みを観察する。夕方のラッシュが始まった市街は、通勤自転車の洪水と満員バス、車のクラクション、バス停に群がる人々や街路頭上に干された洗濯物の下を行き交う人々。無錫への列車待ち時間を駅前のレストランで夕食。先ずは老酒で乾杯。1本3元(約80円)也。春節(旧正月)を目前に、帰省客でごった返す上海駅の我ら外人客用待合室はがらんとして人けなし。天安門、湾岸戦争が陰を落として、日本をはじめ欧米の旅行者がた減りで、中国国鉄、旅行社は目下渋い表情だ。南京行の客快(急行)336列車は20時15分定刻発車。無錫までは128㎞、約2時間。15輌編成の1輌が軟座車(グリーン車)、他の硬座車(普通車)は満席だが、軟座車は我ら8人の老年組と、自称?香港旅行団のオバサン連中だけで車内はがらがら。座席の真ん中の小卓へ中国茶碗を無雑作に並べ、年配の女性車掌?が事務的に龍井茶サービス途中停車駅の蘇州までは1時間半。頃合いを見計らって、女性車掌?は車内販売員に変身、ちょっとは笑顔でお馴染みの「掛け軸」を仲間で8本購入、引き揚げたと思ったら次はスカーフの箱を抱えて販売。これも10数枚購入し中国の発展に寄与。今夜の宿は太湖畔の「湖濱飯店」。

上海駅外人用待合室

無錫に向かう車中で
2月9日 
終日、無錫市内観光で前にも来ている錫恵公園、泥人形工場等の見学と太湖遊覧して18時36分の列車で上海に戻る。上海の宿は「上海賓館」明日も同じ。

無錫 ・錫恵公園

太湖湖畔で
2月10日 
終日上海市内観光で、玉仏寺、豫園、ガーデンブリッジ、魯迅公園、上海動物園でパンダとご対面。無錫、上海で、昼も夜も紹興酒で乾杯。年代物の紹興酒はホテルで10元(250円)街の食堂では3元から5元、日本の十分の一以下の値段に驚嘆。本場老酒を堪能。上海最後の夜はホテルの地下のカラオケバーに繰り出した。広い客席はほぼ満員で、リクエストの順番待ちは1時間。上海ビールをラッパ飲み。3時間粘って一人3曲。台湾、香港あたりのギャルの得体の知れない歌にも友好的拍手。こちらは「湯の町エレジー」「愛染かつら」はては「チャンチキおけさ」の熱唱。国際カラオケ交流。熱烈友好的拍手交換。中国服の美人ホステスを侍らせて、日本老人組もご機嫌。

上海・玉仏寺

上海・豫園 

上海動物園のパンダ
2月11日 
朝のMU便で帰国。
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