今日も朝から当地は晴天です。昨日も晴天で足腰の痛みも柔らいたので久しぶりに半日コースのディサービスに行って身体を動かしてきました。
一昨日かかりつけ医に娘の車に乗り診察を受けました。対面での診察は20日振りでした。現在治療には、痛み止めの飲み薬、湿布、坐薬を使っているので改善に向かうにあたり、薬等の減らす方法を尋ねたら自分の身体は本人しか判らないので自分の判断だと言われました。、
今日はブログは炬燵ではなく自分の部屋の机からのHPからの編集です。
訪問地 大連・瀋陽・撫順・北京
実施時期 1991年9月5日~11日
本ツアー最高の56名参加。大連、瀋陽間の列車は私たち用に荷物車の後の最後尾に1車両増結されるが、座席が足らず10名ほどは他の車両へ離れる。
9月5日
18時0分、1時間遅れのCA952便で成田離陸。夕食は「機内食」メニューはまずまず。おりからの空腹に持参の気付け薬がほどよく利いて、民航独特の無愛想サービス(?)も気にならず、まずは「好吃(よろしく)}21時50分大連空港着陸。狭い空港での入国審査も順調完了。出迎えの中国国際旅行社の張さん、大連分社のガイド李さんらと「ニイハオ」。斯林路の大連国際酒店(ホテル)へ直行する。
9月6日
快晴の大連市内観光。先ずは大連港へ。昔は「青泥」という一漁村だった大連も今は人口500万、中国北端の不凍港を擁し対外貿易の拠点となっている。大連市港湾局の屋上にエレベーターで上がった展望台からは、港内の活気と「北海の真珠」の名のごとく美しい街並みが眼下に展開する。星海公園、老虎灘は黄海に面したリゾート地。大連きっての海水浴場や娯楽施設が並ぶ遊園地も今はシーズンオフで閑散としている。ガラス工芸とともに大連の名産の貝殻細工工場を見学。隣の国際展覧館で早速ショッピング。レストランの昼食は、期待の海鮮料理とまではいかず、さては料金のせいかなどの声あり。駆け足の大連観光を終えて、14時25分発の列車で瀋陽へ。「斎斎哈爾(チチハル)」行きの直快(急行)列車に分散乗車。窓も錆び付いたオンボロ軟臥車(寝台車)でなんと7時間のがまん汽車の旅。遼東半島から遼河平原へ。一望の高梁畑の果てに沈む夕日に大陸の旅情を満喫。不味い弁当をぱくついて、海城、鞍山、遼陽を経て21時20分に瀋陽到着。ホテルは駅近く THE ROSE HOTEL(中国語の漢字がでません)
大連.北大橋で
大連市港湾局屋上にて
車窓よりの紅い夕陽
9月7日
瀋陽は遼寧省の省都。北京遷都前の清朝の都で「盛京」ともいわれ、遷都後は「奉天」と改称。例の悪玉関東軍の根拠地。日本敗戦後また瀋陽に戻った。人口511万、中国の有数の重工業都市で東北地方の政治・経済・文化の中心とガイド氏が胸を張る。市内観光はさておき、と先ずは郊外の露天掘り「撫順炭坑」へ、3台のバスに分乗、折からの出勤ラッシュの市内を抜けて、ポプラ並木の高速道を50㌔、約1時間で石炭の街撫順に到着。中国最大の撫順炭坑は、東西6,6キロ南北の幅は2,2㌔採掘現場は地表からの坑深280㍍、将来は450㍍に掘るという。採掘現場には石炭を牽引する何台もの電気機関車が見えた。1万6千人の従業員が24時間3交代で掘る石炭は年間500万トンとか。折からの秋霞の中の露天地の広大さに息をのむ。このあたりの民家も石炭層の上ときいてまたびっくり。ホテルへ戻って昼食。午後は博物館、北陵公園など市内観光。
撫順炭坑見学休憩所にて
露天掘りの撫順炭坑
瀋陽・北陵公園
9月8日
今日も快晴。なんと5時起床のねぼけ眼で、朝食もそこそこに出発。高速道を110㌔の猛スピートで疾走。市外の東塔空港へ。8時50分、国内北方航空便にて北京へ向けてフライト。眼下に河北の山並みが現れるとまもなく「万里の長城」の上空にさしかかり、機内は騒然。秦の始皇帝がみたら目を剥くだろう。10時20分北京空港に着陸。「北京秋天」ながらやや暑し。さすがは首都北京。3日間の移動は大型バス2台。レストランで昼食後、宿泊するホテル前門飯店へ。小憩後の市内観光の皮切りは「天壇公園」。ここの「天壇」は明・清歴代皇帝の祭壇で、梁や釘を一本も使わぬ円形三層の祭壇「祈年殿」の豪華さに、感嘆の声があがる。次は前門近くの南新華街にある「瑠璃廠(ルリチャン)」。中国随一の骨董品街。街路の東西に、清代風に改装された「栄宝齋」「中国書店」など、書画骨董や古書の店がずらりと並ぶ。眼の保養をすませ腹も減ったところで、夕食は淮揚春飯店の北京料理。老酒で気力回復。夜は27劇場の「北京雑伎」を見物。有名な「上海雑伎」と違い、舞台で演ずる、いわゆる「舞台サーカス」だ。
北京・天壇公園祈年殿
9月9日
中国観光のメイン「万里の長城」へ。9時出発。今回は先ず「明の十三陵」への逆回りコース。十三陵は、北京市内から西北50㌔、天寿山の裾野に点在する明代皇帝13人の墳墓。
その一つの「定陵」は、13代皇帝の万暦帝とその二人の皇后の墓。墓造りに熱中した彼は、銀800万両と6年の年月、おびただしい人民を酷使してこれを完成した。地下20㍍の「地下宮殿」への長い階段を下りてゆく。皇帝の威厳と搾取を偲ぶ人々でお墓の中まで大混雑。様変わりの世の中に皇帝らもびっくり、苦笑いか。十三陵を後にして「長城」へ。八達嶺の山並みが迫り、「万里の長城」が眼前に姿を現す。12時40分到着。レストラン、土産物店や露店が並び、雑踏するあたりの光景に、ありきたりの観光地に変貌、俗化した周辺のたたずまいに幻滅。3回目の「長城」に13年前の新鮮な感動はなかった。入り口のレストラン(八達嶺外賓餐庁)で万里の長城を眺めつつ昼食。腹拵えを終え「長城」へ。人類最大の遺産の一つ、月から見える唯一の建造物「万里の長城」は遠く紀元前3・4世紀の戦国時代、燕、趙、秦などが北方遊牧民族の侵略を防ぐために造ったが、秦の始皇帝が、30万の軍兵と数百万人の農民を動員し、10年の歳月をかけて、それまでのちぎれちぎれの長城を繋いだ。その後、明の時代に改築。東は渤海湾の山海関から西はゴビ砂漠の嘉峡関まで、全長6,350㌔、中国の里程で1万2,700里となる所から万里の長城と呼ばれる。明代に焼かれた長城の煉瓦は堅く、あの落書きだらけの煉瓦は、新中国になって修復された部分のもので、明代のそれは、600年の風化に耐えてなお、果物ナイフなどの彫り込みの落書きを拒絶しているのだ、という話を聴いた。夕食は、名物「北京ダック」。紫金宮飯店2階の「大阪徐園」。その名のとおり、ここは日本人経営の店。店内装飾も日本風。専門店「全聚徳」仕込みの板前さんの手による本場のダックを堪能。
八達嶺万里の長城
北京・定陵
北京・大阪徐園北京ダック
9月10日
長城の風が南風と思ったら、今日は曇り、北京3日目は市内観光。先ず「天安門」。あの事件も夢物語風に、広場は国内外の観光客で一杯。地下道になんとスリも出没。3度目の天安門に立つ。10月の国慶節を間近に、化粧直しの最中。広い「故宮」はかけ足参観、と思いきや、ガイドの国際旅行社「任」主任の熱弁ここでも大いに振るい、あわてて「簡潔に」と要望。(※「任」主任は後日、天皇陛下が万里の長城をご訪問された時のガイド)午後は「頤和園」。北京の西北にある、北京最大の公園。清代の西太后が贅沢の限りを尽くして晩年を過ごした所として有名。人造湖の昆明湖と湖を掘った土でできた万寿山が後ろにそびえる。アヘン戦争で破壊され、荒れ果てていたのを、政権を握った西太后が日清戦争の軍事費を流用して改修、頤和園と命名。優雅な日々を送ったが、おかげで戦争は惨敗、となったとか。全長728㍍という驚くべき長廊下の柱や天井に華麗な絵画や装飾がある。最後は、友誼商店でショッピング。外は雨。北京お別れの夕食は「満漢全席」。いわゆる北京名物「宮廷料理」。天壇路の北京市御膳飯店へ。宮廷衣装の美女のお出迎えと、15品目のメニュー。それにふさわしからぬ(?)老酒の酔いで、なにやら変な皇帝気分。その後、有志でカラオケへ。
北京・故宮
北京・天安門広場にて
北京・頤和園
9月11日
あっというまの7日間が過ぎて、5時半に起床。慌ただしく空港へ向けて出発。バスの中で、若手ガイドの張さんがお別れ挨拶。夕べのカラオケバーでは歌わなかったが、ここで一曲披露の歌は「我愛天安門」。幼児も歌う愛国のメロデーが懐かしい。「再見」張さん。CA925便で9時50分北京空港離陸。