北大路魯山人 志埜茶碗 h7.6×w11.9cm 1957年
土いじり 北大路魯山人
「個性だとか、創作だとか、口で言うのはやすいことだが、現実に表現が物を言うようなことは、なまやさしい作業でなし得られるものではない。さあ自由なものを作ってみろと解放されたとしても、決して自由にはできないものである。第一、過去の人間が作った美術に充分心眼が開かなくては、かなわぬことである。過去と言っても千年も二千年も前からの美術・芸術に眼が利かなくては、かなわぬことなのである。食器師だからと言うので、陶器ばかり視ているくらいの注視力では、乙な器は生まれるものではない。三百年の茶碗が作りたければ、千年前の美術がわからなくてはかなわぬものである。料理なども細民の美食から大名の悪食にまでに通じていなくては、一人前の料理人とは言い難い。それには恐ろしいまでの努力が必要であって、調理場ばかりで十年二十年の苦労を積んでみたとて、料理を語る段階には至らぬものである。乞食になってみるのもムダではない。虚飾でかたまっている大名料理を経験してみるのもムダではない。本格な床柱を背に大尽を決めこむようなこともたびたびあってよい。陶器する心も、ほぼ同じである。」
魯山人の最晩年期の志野は、紅志野・赤志野と呼ばれるほどの燃えるような赤の発色を呈している。
土いじり 北大路魯山人
「個性だとか、創作だとか、口で言うのはやすいことだが、現実に表現が物を言うようなことは、なまやさしい作業でなし得られるものではない。さあ自由なものを作ってみろと解放されたとしても、決して自由にはできないものである。第一、過去の人間が作った美術に充分心眼が開かなくては、かなわぬことである。過去と言っても千年も二千年も前からの美術・芸術に眼が利かなくては、かなわぬことなのである。食器師だからと言うので、陶器ばかり視ているくらいの注視力では、乙な器は生まれるものではない。三百年の茶碗が作りたければ、千年前の美術がわからなくてはかなわぬものである。料理なども細民の美食から大名の悪食にまでに通じていなくては、一人前の料理人とは言い難い。それには恐ろしいまでの努力が必要であって、調理場ばかりで十年二十年の苦労を積んでみたとて、料理を語る段階には至らぬものである。乞食になってみるのもムダではない。虚飾でかたまっている大名料理を経験してみるのもムダではない。本格な床柱を背に大尽を決めこむようなこともたびたびあってよい。陶器する心も、ほぼ同じである。」
魯山人の最晩年期の志野は、紅志野・赤志野と呼ばれるほどの燃えるような赤の発色を呈している。