遠くまで・・・    松山愼介のブログ   

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ
読書会に参加しているので、読んだ本の事を書いていきたいと思います。

中山義秀『咲庵』を読んで

2018-01-07 16:28:30 | 読んだ本
      中山義秀『咲庵』            松山愼介
 織田信長に対する光秀謀反については、多くの作家が、いろんな説を書いている。私が一番最初に読んだのは司馬遼太郎の国盗り物語(一九七一)である。そこでは〈時は今あめが下なる五月哉〉を、時=土岐、天が下なる=天の下知ると解釈して、光秀の天下取りの歌として捉えていた。この『咲庵』(一九六三)では、天の下知るという説を明確に否定し、連歌の最後の句まであげて、光秀は天下取りのくわだてを歌に詠むほど軽薄ではないとしている。
 八切止夫『信長殺し、光秀ではない』(一九七一)という本もあったが、これはタイトルだけで、光秀は本能寺を囲んだが、実際に信長を撃ったのは、南蛮人の大筒だったというものであった。他にもいろんな作品があるが、題名は忘れたが本能寺の変の影の主役は秀吉であったというもので、これはなかなか面白かった。本能寺の変で誰が一番、得をしたかといえば秀吉であることは明らかである。本能寺には秘密の抜け道があり、光秀の謀反を察知した秀吉はその抜け道に壁を作ってふさいでしまったという話であった。そのため、信長はその壁の前で立往生し、死んでしまったので死体が見つからなかったというものだった。
 このように光秀謀反については、歴史家、小説家の想像力をかき立てる題材であるが、この中で、『咲庵』は正当に、歴史を見つめようとする姿勢が見られる。歴史は勝者の手によって書かれるものだから、光秀の言い分は消されてしまい、そこに創作の余地がある。光秀については《その点光秀は、両人(家康と秀吉)と肩をならべるほどの人材でも、器量がせまく計算高い。あるいは知能にすぐれているため、眼前が見えすぎかえって遠見のきかないおそれがある。要するに神経質で、それにとらわれすぎるのだ。戦国武将としては、まず異質ともいうべき性格であろう》と書き、信長については《定命五十歳を前にして、歯には歯をもってむくいる信長の酷烈な精神は、すこしも改まってはいない。/もっとも、そうした生得の一貫したものがなかったならば、彼一代の覇業は達成されなかったに違いない。事実、玉石ともに砕く徹底した勇猛心と破壊力なしには、応仁以来うちつづく百年戦争を、終わらせうるはずがなかった》と書いている。結局、光秀も信長の部下でしかなく、いつ使い殺しにされても不思議でない位置にいたのだ。これは秀吉、家康も同様である。信長の部下の諸将も、信長の死を願っていただろう。
 信長の短所は今、あげたとおりだが、長所は、戦国時代、彼だけが世界観を持っていたということだろう。映画やドラマでも、信長のそばには地球儀が置いてある。戦国時代、信長だけが世界の中の日本ということがわかっていたのではないだろうか。武田信玄や、上杉謙信、毛利も自分の所領を少しずつ増やすことを考えていただけで、日本全体に対する眼は持っていなかったのだろう。荒木村重や松永久秀も信長に反抗するが、それは一向宗や、武田、上杉、毛利による信長包囲網を過大評価していたためであった。彼らには信長にとって代わって、新しい天下を取る器量もなかったし、楽市楽座や、対外貿易のような経済的な政策も持っていなかった。
 光秀もまた、新しい世界観、経済政策ももたずに、ただ信長を討てば、新しい天下人になれると思っていただけではないだろうか。そのため、光秀に協力しようとする武将は誰もいなかった。光秀謀反の要因としてよくいわれるのは、近江、丹波を召し上げ、出雲、石見を切り取り次第という信長の命であるが、これについては、中山義秀は全くふれていない。調べてみるとこのことは『信長公記』には書かれておらず、『明智軍記』に出ているだけとうことだ。中山義秀は、光秀謀反を面白おかしく書くのではなく、確かな資料だけによったのであろうか。
                      2017年12月16日


最新の画像もっと見る

コメントを投稿