森崎和江『まっくら』 松山愼介
北大に入学して、サークル探しをしていた時、たまたま「労働問題研究会」というのを見つけ、そのボックスをおとずれた。新入生歓迎で炭鉱の見学に行くというので連れて行ってもらった。場所は記憶にないが札幌から一時間くらいの所だったと思う。そこはもう操業していなくて、作業員が一人いて話を聞くことができた。彼はその炭鉱の撤収、保守作業をしているとのことだった。百メートルか二百メートル中に入った。作業員の人が言うには、炭鉱の中は年中温度が一定で、夏は涼しいので炭鉱労働者は、一旦、炭鉱で働くと地上で働くのはつらいということだった。
他にもNHKの朝ドラ『花子とアン』、『あさが来た』で筑豊の炭鉱の様子を見ている。『あさが来た』では、主人公役の波瑠が炭鉱を買収し、女ながらに、炭鉱の管理に行くという場面があった。それによれば坑夫は納屋頭が掌握しており、経営者も納屋頭を通してしか坑夫を働かせることができなかったようである。
『花子とアン』では、村岡花子の親友となった柳沢白蓮が、九州の炭鉱王・伊藤伝右衛門と結婚する。この伊藤伝右衛門の同業者に麻生鉱業の創業者で、元首相麻生太郎の曽祖父・麻生太吉がいた。伊藤伝右衛門は大正炭鉱の創業者で、一九六〇年代初めに、谷川雁がオルグとなって大正炭鉱闘争を主導する。この谷川雁が「サークル村」の発刊者でここから森崎和江、石牟礼道子が出てくる。
今年の七月三十日に「第五回森崎和江研究会」(大阪大学?)というのをリモートで視聴した。それによれば、森崎和江の見直しが始まっているらしい。私にとって森崎和江といえば大正炭鉱闘争をえがいた『闘いとエロス』(三一書房 一九七五)だが、これが長い間、幻の書となっていたのが近々月曜社というところから出版されるとのことである。この研究会に石牟礼道子研究家の米本浩二さんがリモートで参加していたので、森崎和江と石牟礼道子について話してもらった。彼によると二人は、かなり近いところにいたのだが、おそらく二人の間に対話は成立しなかったのではないかということだった。
石牟礼道子の『苦海浄土』と、森崎和江の『まっくら』、『からゆきさん』を読み比べると、石牟礼道子は対象の中に「没入」している感があるが、森崎和江は対象の人物から聞き取りをしているのだが、なにか一定の距離を取っているような感じを受ける。森崎和江はあくまで女性目線である。大正炭鉱を例にとると、昭和六年に、おなごは坑内に下がれなくなったが、戦争中は挺身隊ということで、女性も坑内で働いた。この女性は坑内で四十年働いたというからすごいものだ。
『まっくら』を読んで、一番自分の不明を感じたのは電気がない時代も石炭が掘り出されていたことである。山本作兵衛の絵で当時をしのぶことはできるが、暗闇でかすかな明かりでの労働は想像がつかない。それで、坑内の灯り、カンテラについて調べてみた。
「必需品であるツルバシを5、6挺肩に担いで、腰にはトンコツという煙草入れとキセルを差し、ブリキ製のカンテラと合油(石油と種油を半分ずつ入れたもの)、ヒヤカシボウ(カンテラを提げるためのもの)を持っての入坑です。」入坑は午前三時頃だそうだ。
(山本作兵衛氏 炭鉱の記録画 http://www.y-sakubei.com/paintings)
山本作兵衛は最初、墨で描いていたようだが、途中で水彩画を勧められ、色彩豊かな絵を描かれている。坑内は暗いので、最初墨で描かれたのは正解だが、周りから色を付けた方がよく理解できると水彩画を勧められたのであろう。しかし、水彩画にしてしまうと、暗闇での労働という面がうすれ、真実味がなくなるような気がする。明治期にはブリキで作った小さなヤカンのような入れ物に石油と種油(菜種油)を混ぜたものを燃やし、ヤカンの注ぎ口のようなところから炎が出ている。布のようなものが突っ込んで燃やしているようである。このようなもので、どの程度、切羽や労働現場の明かりとなったのかは疑問である。
「昔は種油を使った燈明皿が使われていましたが、持ち運びに便利な容器に代わり、種油から石油(灯油)が使われるようになってからカンテラといいました。さらに大正期にアセチレン灯が加わり、携帯用灯火として、昭和の初めごろまで使用されました。」(石炭記念館 山口県宇部市)
このアセチレン灯は、燃料がカーバイドで、私達の子供の頃、夜店の灯りとして使われていた。
一九七五年頃、埴谷雄高、吉本隆明の講演会が京大であり、そのとき井上光晴も来ていて、炭坑節を歌ったのだが、それは「朝の早よから、カンテラさげてよー」というものだった。井上光晴の小説は事実と異なるところが多々あると言われているが、この炭坑節は信じられる。また、井上光晴の小説には、炭鉱の社員が切羽の分担を決めるのであるが、朝鮮人には水が出たり、背が立たないところがあてられたという。これが事実なら、朝鮮で生まれ、十七年をそこで生活した森崎和江の思いが、この『まっくら』に込めれているのかもしれない。
2022年10月12日
北大に入学して、サークル探しをしていた時、たまたま「労働問題研究会」というのを見つけ、そのボックスをおとずれた。新入生歓迎で炭鉱の見学に行くというので連れて行ってもらった。場所は記憶にないが札幌から一時間くらいの所だったと思う。そこはもう操業していなくて、作業員が一人いて話を聞くことができた。彼はその炭鉱の撤収、保守作業をしているとのことだった。百メートルか二百メートル中に入った。作業員の人が言うには、炭鉱の中は年中温度が一定で、夏は涼しいので炭鉱労働者は、一旦、炭鉱で働くと地上で働くのはつらいということだった。
他にもNHKの朝ドラ『花子とアン』、『あさが来た』で筑豊の炭鉱の様子を見ている。『あさが来た』では、主人公役の波瑠が炭鉱を買収し、女ながらに、炭鉱の管理に行くという場面があった。それによれば坑夫は納屋頭が掌握しており、経営者も納屋頭を通してしか坑夫を働かせることができなかったようである。
『花子とアン』では、村岡花子の親友となった柳沢白蓮が、九州の炭鉱王・伊藤伝右衛門と結婚する。この伊藤伝右衛門の同業者に麻生鉱業の創業者で、元首相麻生太郎の曽祖父・麻生太吉がいた。伊藤伝右衛門は大正炭鉱の創業者で、一九六〇年代初めに、谷川雁がオルグとなって大正炭鉱闘争を主導する。この谷川雁が「サークル村」の発刊者でここから森崎和江、石牟礼道子が出てくる。
今年の七月三十日に「第五回森崎和江研究会」(大阪大学?)というのをリモートで視聴した。それによれば、森崎和江の見直しが始まっているらしい。私にとって森崎和江といえば大正炭鉱闘争をえがいた『闘いとエロス』(三一書房 一九七五)だが、これが長い間、幻の書となっていたのが近々月曜社というところから出版されるとのことである。この研究会に石牟礼道子研究家の米本浩二さんがリモートで参加していたので、森崎和江と石牟礼道子について話してもらった。彼によると二人は、かなり近いところにいたのだが、おそらく二人の間に対話は成立しなかったのではないかということだった。
石牟礼道子の『苦海浄土』と、森崎和江の『まっくら』、『からゆきさん』を読み比べると、石牟礼道子は対象の中に「没入」している感があるが、森崎和江は対象の人物から聞き取りをしているのだが、なにか一定の距離を取っているような感じを受ける。森崎和江はあくまで女性目線である。大正炭鉱を例にとると、昭和六年に、おなごは坑内に下がれなくなったが、戦争中は挺身隊ということで、女性も坑内で働いた。この女性は坑内で四十年働いたというからすごいものだ。
『まっくら』を読んで、一番自分の不明を感じたのは電気がない時代も石炭が掘り出されていたことである。山本作兵衛の絵で当時をしのぶことはできるが、暗闇でかすかな明かりでの労働は想像がつかない。それで、坑内の灯り、カンテラについて調べてみた。
「必需品であるツルバシを5、6挺肩に担いで、腰にはトンコツという煙草入れとキセルを差し、ブリキ製のカンテラと合油(石油と種油を半分ずつ入れたもの)、ヒヤカシボウ(カンテラを提げるためのもの)を持っての入坑です。」入坑は午前三時頃だそうだ。
(山本作兵衛氏 炭鉱の記録画 http://www.y-sakubei.com/paintings)
山本作兵衛は最初、墨で描いていたようだが、途中で水彩画を勧められ、色彩豊かな絵を描かれている。坑内は暗いので、最初墨で描かれたのは正解だが、周りから色を付けた方がよく理解できると水彩画を勧められたのであろう。しかし、水彩画にしてしまうと、暗闇での労働という面がうすれ、真実味がなくなるような気がする。明治期にはブリキで作った小さなヤカンのような入れ物に石油と種油(菜種油)を混ぜたものを燃やし、ヤカンの注ぎ口のようなところから炎が出ている。布のようなものが突っ込んで燃やしているようである。このようなもので、どの程度、切羽や労働現場の明かりとなったのかは疑問である。
「昔は種油を使った燈明皿が使われていましたが、持ち運びに便利な容器に代わり、種油から石油(灯油)が使われるようになってからカンテラといいました。さらに大正期にアセチレン灯が加わり、携帯用灯火として、昭和の初めごろまで使用されました。」(石炭記念館 山口県宇部市)
このアセチレン灯は、燃料がカーバイドで、私達の子供の頃、夜店の灯りとして使われていた。
一九七五年頃、埴谷雄高、吉本隆明の講演会が京大であり、そのとき井上光晴も来ていて、炭坑節を歌ったのだが、それは「朝の早よから、カンテラさげてよー」というものだった。井上光晴の小説は事実と異なるところが多々あると言われているが、この炭坑節は信じられる。また、井上光晴の小説には、炭鉱の社員が切羽の分担を決めるのであるが、朝鮮人には水が出たり、背が立たないところがあてられたという。これが事実なら、朝鮮で生まれ、十七年をそこで生活した森崎和江の思いが、この『まっくら』に込めれているのかもしれない。
2022年10月12日
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