読書備忘録

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オリヴァー・スタットラー「東海道の宿 水口屋ものがたり」

2010-09-18 11:19:25 | Weblog
 いつもの美本古書店で購入。昭和53年の発行となっている。

 著者オリヴァー・スタットラーは、第二次世界大戦終了後まもなく、進駐軍の文官(予算管理官?)として来日した。あるとき占領軍のあった東京から南西に5時間ほどの海辺の街に避暑に出かけた著者は、一軒の日本旅館を知り、その接遇に魅了され、それ以来しばしばこの宿を訪れることになる。そして、宿の女主人の父親から宿のルーツが武田信玄の興津の戦い(1569年)まで遡ることを知らされた著者は、その聞き取りを元に、水口屋という宿の変遷と歴史上の事件をからめた歴史読み物「Japanese Inn(日本の宿)」を執筆することになる。この本はアメリカにおいてベストセラーになり、その後の日本ブームのさきがけともなるのだが、その日本語版が本書「東海道の宿 水口屋ものがたり」である。歴史読み物といっても通り一遍の歴史逸話の羅列ではなく、時代時代の精緻な風俗描写には、つい引き込まれてしまう。そんな中からひとつ・・。

 五十三次街道ぞいの宿場には、近隣でいうと由比の鮑、丸子(鞠子)のとろろ汁というように、それぞれ名物があった。興津にも名物があり、それは、清見寺の門前で売られる膏薬だった。最盛期には50軒の膏薬屋が軒をならべたというが、なかでもひときわ大きな構えの店が両端にあり、一方を「丸一」といい、もう一方を「藤の丸」といった。そして、「丸一」は自らを元祖と名乗り、「藤の丸」は本家と称し、両店とも膏薬の奇蹟を語るさいには他の店よりややもったいぶっていたというから面白い。いまでも時折見かける「元祖」「本家」争いのルーツは、このあたりに遡るのだろうか・・。ともあれ、草履履きの旅人の常備薬として、この時代に興津の膏薬売りは大繁盛した。
 ただ、この繁盛には裏の側面があったことを、本書は如実に語る。興津清美寺門前にならぶ膏薬店では、すべてこれを10~12歳の色白の美少年に女装をさせ店頭に立たせ売らせていたという。著者はここで、ケンプェルというオランダ人(実はドイツ人)医師によってかかれた「江戸参府紀行」という日記を引用している。

 「(前略)店といわんよりはむしろ露店ともいうべきものありしことなり。各店先に十歳ないし十二歳の少年一人、二人、あるいは三人屯(たむろ)せり。身綺麗になし、顔に紅、白粉の類をば塗り、女人のごとく品を作る。性下劣、無慈悲なる主に囲われ、裕福なる旅人の淫楽の用に供せられる。日本人この悪習に染むること深し。然れども外面を取り繕わんがため、かつは清廉の士の眉をひそめ、あるいは野暮、貧乏人などのあえてかれらとことを構へざる様、かれらあたかも上記の膏薬を旅人に売らんとするが如くしてそこに屯す。われらが行列の奉行、繕いたる威厳を保たんがために宿に着くまで駕籠を隔てることを得ざりしに、耐え難くなりて下駕し、半時ほど少年どもと遊ぶ。その間われら町をそぞろ歩きし、他に注目すべきことどもの周囲に起こるを観察する機を得たり」

 ようするに、興津は稚児あそびのパラダイスだったというのである。この稚児たちは成人すると、若衆姿に身なりを整え、興津の膏薬売りとして旅にでて、各地の神社仏閣の縁日を賑したという。ただ、このような淫蕩な時代は長く続かず、18世紀後半にはこれら若衆は姿を消し、膏薬だけの商いとなった。さらに、やがて鉄道開通とともに膏薬売りも街道の歴史から姿を消していった。

 はじめにも記したとおり、著者オリヴァー・スタットラーは戦後進駐軍の文官として来日し日本研究をはじめるのだが、参考文献をはじめとした膨大な資料群は、現在もスタットラーコレクションとして大学図書館に保存されているという。スタットラーは、この膨大な資料渉猟もとに、東海道五十三次にある宿屋を中心とした古い日本の市井の躍動をみごとに描ききっている。ベストセレクションの一冊にくわえたい名著である。



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