先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
https://www.youtube.com/watch?v=0us2dlzJ5jw

私が26年間製壜工だった現場、大久保製壜所製壜課の製壜マシーンのYouTube動画です。

2022年05月08日 09時28分03秒 | 大久保製壜闘争

 
ガラスびんの出来るまで No.2(大久保製壜所ホームページより)

 私が26年間製壜工だった現場、大久保製壜所製壜課の製壜マシーンのYouTube動画です。

 耳栓を必要とするすさまじいごう音は消されていますが、真っ赤なガラスの壜の流れで、灼熱の凄さは皆さんにも伝わるのではないでしょうか。夏などはマシーンの前に5分も立てば、流れる汗で作業服はたちまち上着もズボンもびしょ濡れになります。塩をなめたり固い大きい梅干しをかじったりして塩分を補給したものです。一年中軍手は2枚重ねです。ヤケドや危険防止のためです。勿論安全靴は重い鉄板入りです(これは何処でも同じかな)。1976年から26年間、ここが私の3交替勤務の製壜工としての現場でした。東部労組をつぶす為に、軟弱無能なあいつは製壜現場に叩き込めばすぐに音をあげて逃げだすだろうという会社の目論見でした。正直何年もきつかったです。頭上には監視カメラを設置され、意地の悪い一人の職制から「ほうきを持って(一日)立ってろ」などいじめに虐められました。ところが現場の製壜工の仲間たちはあの意地の悪い職制の目を盗んでは私を助けます。彼らは私に少しづつ製壜工としての仕事を教えます。私が仕事を覚えるともう会社の目論見の半分は失敗です。仲間たちは灼熱でフラフラになっている私を休ませます。休憩時間が終わって現場に戻ると、「もっと休んでこい」と戻されます。私たちのストライキの翌日にはトイレの中でそっとカンパを私の尻のポケットに入れました。休憩時間には下ネタ一杯の話で大笑いながら将棋の相手をしてくれます。20分位で一勝負という速さです。ほとんど勝てませんでしたが。仲間たちはそうしながらそれとなく会社の陰口を言い、貴重な情報を提供してくれました。パチンコにもよく誘われました。馬券買ってきてあげるよと言うのであてずっぽうで私の誕生日の「1・8」と言って千円渡し頼みました。翌日職場に行くと大騒ぎ、なんと万馬券(正確には9,900円)!でした。その日は飲み屋で仲間たちに大判振る舞いです。

・・・1987年、ついに大労組の青年労働者が決起し東部労組と合流します。製壜課でも検査課でも私たちが過半数となります。ここに会社の目論見は完全に失敗したのです。

 1997年、21年9ヶ月に及ぶ大久保製壜闘争の全面解決が実現し、その5年後の2002年組合専従となり退職しました。それから15年後、現在の東部労組大久保製壜支部金沢委員長や東部労組本部菅野委員長の奮闘で、2017年に向島労基署は大久保製壜所の製壜課を「有害業務職場」として認定しました。それ以降は一日2時間以上の残業は違法となりましたが、それまでは、会社は私たち以外の労働者に「通し勤務」という名の15時間、16時間の超長時間労働を平気で命じていました。

 猛烈なスピードで動くマシーンに直接油を塗る労働などで機械に指を挟まれ指先が欠損している先輩労働者がいて当たり前とされた当時の製壜課の現場でした。私もコンプレッサー機械に左手の指2本をつぶされ2回手術しました。今ではマシーンを一時停止して作業や油を塗れるようになりましたが、灼熱・騒音・粉塵・・・三交替勤務等々その過酷さと危険さは変わらないと思います。にもかかわらず仲間たちはみな、製壜の労働にほこりを持っていました。私も今でも街の薬屋やコンビニでリポビタンⅮの壜の底に偶然「G」(大久保グループのGか)マークを見つけると(めったにありませんが)自分や仲間たちの分身のような気がして、世界中の人々に、「これは私の仲間たちが造った壜だよ」と大声で自慢したくなります。



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