1910年韓国併合と石川啄木
数年前に、映画「赤貧洗うがごとき―田中正造と野に叫ぶ人々―」を観た時に、少し、田中正造と当時の人々の勉強をしました。
盛岡中学3年生の石川啄木が、谷中村を先頭とする数万余の足尾の農民のたたかいに感動し、明治政府の弾圧に怒り、田中正造の天皇直訴の直後に、谷中村の農民へのカンパ活動をした時に書いたのが「夕川に葦は枯れたり 血にまどう 民の叫びの など悲しきや」です。
このうたの背景には、明治政府の悪逆非道と敢然と闘った谷中村を先頭とする数万余の足尾の農民とこのたたかいを支援した古河町の住民を始めとする全国の民衆・農民・労働者・知識人・学生・社会主義者・キリスト者・仏教者ら多くの人々がいたのです。
「地図の上 朝鮮国に くろぐろと 墨をぬりつつ 秋風を聴く」
石川啄木がこれを書いたのは、1910年8月22日「韓国併合」の直後の9月9日です。翌月の10月13日には「雄々しくも 死を恐れざる人のこと 巷にあしき噂する日よ」も書いています。伊藤博文を射殺した安重根烈士のことです。
1910年の「韓国併合」から110年。わずか26歳で逝った若き石川啄木から、110年後の私はたくさんのものを教えてもらっています。
**********************************************************
われらは何を為すべきか ヴ・ナロード!(V NAROD!人民の中へ!)
(石川啄木 はてしなき議論の後 1911年)
われらの且つ読み、且つ議論を闘わすこと、
しかしてわれらの眼の輝けること、
五十年前の露西亜の青年に劣らず
われらは何を為すべきかを議論す
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NAROD!’と叫び出づるものなし
われらはわれらの求むるものの何なるかを知る、
また、民衆の求むるものの何なるかを知る、
しかして、我等の何を為すべきかを知る
実に五十年前の露西亜の青年よりも多く知れり
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NAROD!’と叫び出づるものなし
此処にあつまれるものは皆青年なり、
常に世に新しきものを作り出す青年なり
われらは老人の早く死に、しかしてわれらの遂に勝つべきを知る
見よ、われらの眼の輝けるを、
またその議論の激しきを
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NAROD!’と叫び出づるものなし
ああ、蝋燭はすでに三度も取り代えられ、
飲料の茶碗には小さき羽虫の死骸浮び、
若き婦人の熱心に変りはなけれど、
その眼には、はてしなき議論の後の疲れあり
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NAROD!’と叫び出づるものなし