先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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紡績・織布工場争議から 1924年主要な労働争議① (読書メモ-「日本労働年鑑」第6集)

2022年04月18日 07時00分00秒 | 1924年の労働運動

写真・大日本紡績明石工場争議(1924年)

紡績・織布工場争議から 1924年主要な労働争議 (読書メモ-「日本労働年鑑」第6集)

《会社、暴力団を雇い、警察と結託した労働争議攻撃》

1924年主要な労働争議
参照「日本労働年鑑」第6集 1925年版 大原社研編(第二部労働者運動第一篇労働争議)

紡績・織布・染工場の労働争議
 1924年の紡績・織布・染工場の労働争議は、東洋紡績、鐘紡、大日本紡績、富士瓦斯紡績、明治紡績、富士紡績など全国で112工場を数えた。その内の明治紡績争議、大日本紡績明石工場争議、日毛加古川・印南工場争議の報告です。

1、明治紡績争議 
 福岡県戸畑町、経営者安川敬一郎。1924年4月16日、職場労働者の中での待遇改善の声の高まり中、会社が突然なんの理由もなく労働者3名のクビを切ってきた。激昂した労働者男女200余名は18日午前10時からストライキを敢行した。労働者側は、山本春野、松野つゆ、石松うめの女性3名と橋本繁彦ら男性3名の6名を労働者代表として選び、12か条にわたる要求書を会社に提出した。

要求書
1、クビにされた3名を復職させること
2、男女労働者の賃金の日給を2割値上げすること
3、半期賞与を支給すること
4、解雇手当、退職手当を制定すること
5、勤務時間を10時間とすること
など

 しかし、会社はこの要求書の受け取りを即座に拒絶する高圧的に対応をしてきた。北九州鉄工組合の応援のもと明治紡績労働者は演説会などで気勢をあげた。会社は寄宿舎の門を閉めて対抗した。4月19日、罷業団側があらためて12か条要求書を提出したところ、今度は会社はこれを受けとったが、翌日には全面拒否の回答をしてきた。会社は、4月21日より3日間の休業も通告してきた。
 労働者側は21日より示威行動に入り、労働歌を高唱しながら気勢をあげた。警察が弾圧してきた為、警官隊とはげしく衝突し、応援に来た北九州鉄工組合本部員廣安栄一ほか20名が検束された。
 22日、戸畑警察署は明治紡績のスト労働者の代表11名を警察署に召喚し、警告を発し切り崩しを行いだした。
 23日、警察は午前9時に争議団本部を襲い9名の労働者を検束した。
 24日、この日出勤した労働者はわずか70名しかいないため就業の再開はできなかつた。

 24日、戸畑警察署は午後6時、検束した明治紡績労働者15名と北九州鉄工組合幹事5名を釈放してきた。ところが5名の鉄工組合幹事が戸畑警察署の門を出てほどなく明治町2丁目殿町の角に差し掛かった時、待ち伏せしていた木刀などで武装した暴力団員15・6名が襲撃してきた。5名全員が、暴力団員の木刀などで散々に投打され、頭部裂傷、肋骨骨折、全身打撲などの重傷を負わされた。この知らせを聞いた争議団200名は怒り、急遽八幡の争議団本部に駆け付けた。警察はあわてて即座の解散命令をだしてきた。
 25日、争議団は再び八幡の本部に終結した。八幡警察署はこの日も解散命令をだし、更にあらたに3名の労働者を検束してきた。
 26日、会社は70名で無理やり就業を再開した。
 28日、鈴木労働代表が国際労働会議出席の渡欧の途中、門司港に上陸し、福岡県当局に24日の暴力団の行為を激しく抗議糾弾した。
 
 警察の弾圧、暴力団の乱暴狼藉によって争議団はリーダーをすべて失い、また会社側の功妙な切り崩しによって労働者は三々五々職場復帰し、5月5日にはほとんど全員が出勤した。労働者側の完全惨敗となった。

2、大日本紡績明石工場争議
 兵庫県明石市、大日本紡績会社明石工場。明石工場の労働者が労働組合を組織し、日本労働総同盟神戸聯合会明石支部を結成したことに対して、会社は4月29日労働者のリーダーとみなした30名を突然解雇し、同時に5月30日、31日両日の工場閉鎖を知らせるを貼り紙をだした。30日には更に5名を解雇してきた。その後解雇は続き、43名にものぼった。労働者は憤慨した。
 6月1日、明石警察署は正・私服79名もの警官を三分隊に分け工場で警戒に当たらせなどして争議団を威嚇してきた。また会社は仕込杖で武装した多くのならず者たち暴力団員を雇い入れ、会社門に張り付けさせた。
 8日、神戸聯合会百余名は各団旗を先頭に一路明石市内に向かったが、紡績工場前で警官隊に弾圧され衝突となり、この場で1名が検束された。12日、警察は8日の示威行動を理由とした「騒擾罪」で神戸聯合会幹事9名を検挙・起訴してきた。

 30日、多くのリーダーを失い、また応援部隊の鉄工組合幹事の「騒擾罪」での起訴や警察やならず者の弾圧により、労働者は意気消沈し、ついに「戦闘中止」を宣言したビラを市内に配布した。会社は、争議団員に「慰労金760圓」を支給し、こうして大日本紡績会社明石工場争議は消滅させられた。

 明治紡績争議とこの大日本紡績明石工場争議はともに、1924年における労働組合結成とこれに対する会社の警察や暴力団との結託による暴力的圧迫という、本年度における数多くある典型的事例として注目されたい。

3、7千名の決起。日毛加古川・印南工場争議  
 兵庫県加古川及び印南毛織株式会社(7千名の交替勤務工場)。ここには加古川と印南の両工場の労働者で組織した誠和会があった。4月23日、会社は突然誠和会所属の男性労働者27名を解雇してきた。解雇理由は「不穏な行動をした」というものだった。
 24日午前10時、怒った両工場の男女労働者7000名はサボタージュ闘争に入った。男子労働者は工場を出て、腰を下ろしたり寝転んだり、時々喚声を上げ、女性たちは工場内に残ってはいるものの機械には手をつけず、ここかしこで集結しては討論をしていた。こうなるともう会社は手を下すようもなく、午後5時の交代時間になり、そのまま労働者を退社させ、同日の夜勤から休業にしてきた。
 労働者側は、「組合を認めること」「解雇された者を復職させろ」などを決議した。
 25日、会社は「昨日と同様な事態を起こせば、工場を閉鎖す」と脅しの貼り紙をだしてきた。しかし、この日出勤した3700名は、約10分ほど機械をゴトゴトと運転したのみでたちまち昨日と同様なサボタージュ闘争に入った。
 会社は26日より当分無期限休業にすると発表した。その間、7千名労働者には日額の半分を支給をすると通告してきた。
 26日午前6時、印南工場正門に激昂した数百名の労働者が押しかけ、開門しろと迫り、寄宿舎の女性労働者からの救援の声が届くやいなや、労働者はたちまち工場の板塀を破り工場になだれ込み、会社により寄宿舎に無理やり閉じこめられていた女性たちと合流し、広場で女性労働者数千名と協議を進め気勢をあげた。加古川工場にも押しかけ同じように女性労働者と合流しようと試みたが、ここでは警官隊の弾圧で阻止され果たされなかった。

 27日、警察本部と加古川・魚橋両警察署は、150名近い警官部隊を大動員し圧力を加えてきた。
 28日夜、河西社長と争議団代表が交渉し、労資双方から代表を出す「新組合」を組織することで合意が成立した。新組合の綱領は、①産業の発達を期す、②相互の人格向上と生活の安定を期す、③相互救済の機関の設置という極めて会社よりの内容であった。また、解雇された労働者の解雇手当はすべて「社長の腹に一任」となった。その上、その後板塀を破壊したという理由で労働者9名は騒擾罪で検挙・起訴された。



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