先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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野田醤油争議(その六) 闘い①「工場煙突のてっぺんに突如赤旗ひるがえる」 1927年の労働争議(読書メモ)

2023年10月30日 07時00分00秒 | 1927年の労働運動

写真上①争議団本部(労働学校)に押し寄せた野田支部労働者とバルコニーから演説する小岩井争議団団長


写真上②第十七工場前に座り込むピケ隊(右端には白の制服警官もピケ隊に向いて椅子に座っている)
  

   写真上③スト突入をしらせる東京朝日新聞記事(1927.9.17)


写真上④争議団「行商隊出発」

野田醤油争議(その六) 闘い①「工場煙突のてっぺんに突如赤旗ひるがえる」 1927年の労働争議(読書メモ)
参照「協調会史料」
  『野田血戦記』日本社会問題研究所遍
  『野田大労働争議』松岡駒吉

工場煙突のてっぺんに突如赤旗ひるがえる
(丸三運送店の仕事を奪ってきた会社)
 野田醤油株式会社の製品、材料等一切の運搬はことごとく丸三運送店で一手に取り扱っていた。丸三運送店労働者97名全員が野田支部の組合員であった。会社は、この丸三運送店の仕事を突然取り上げてきたのだ。1927年9月1日、会社は、川越組を使い、新会社「丸本運送店」を野田駅前に開店させ運送の仕事をそちらにまわしだした。勿論「川越組」には組合員は一人もいなかった。すでにこの間、新設された第十七工場は「黄犬契約」で雇った非組合員だけで操業している。これに続いての「丸本運送店」だ。会社がいよいよ組合破壊攻撃をスタートさせたことは誰の目にも明らかであった。

(要求再提出)
1927年野田支部の要求
要求項目(その一)
 丸三運送店問題の解決要求(1927年9月13日)
  一、今迄通り全部の荷物を丸三運送店に!
  二、組合切り崩し攻撃の中止!

要求項目(その二)
1927年4月10日第一回提出。9月15日再提出
 一、賃金値上げ(女性2割、男性1割)
 二、解雇手当・退職金等の増額
 三、各工場の樽工を会社が直接正社員として雇用し養成すること
 四、年末賞与、最低賃金の一ヶ月分の支給
 五、すべての労働者を入社4年で熟練工と適用すべし
 六、日雇い労働者に対しても扶助規定を適用し、現在の半額から全額支給すべし
 野田支部は5月1日からのストライキを決めていたが、5月11日、総同盟本部は野田支部の要求の保留とスト中止を決めさせた。9月13日野田支部は「団体協約権の承認」を追加し再度要求書を会社に提出した。野田醤油会社と野田支部の交渉は決裂した。

(工場煙突のてっぺんに突如赤旗ひるがえる)
 9月15日午後4時半、一人の労働者が第十工場の大煙突によじ登り、大煙突のてっぺんに赤旗を翻らせた。振り仰いだ労働者は誰もが昂奮に震えながら口々に『バンザーイ!』と叫んだ。これを合図に約1,500名労働者は怒涛のように労働学校前広場に押し寄せた(写真①)。緊急の日本労働総同盟野田支部総会だ。総同盟野田支部の主事で、争議団団長の小岩井相助が労働学校校舎のバルコニーに立つと労働者からは嵐のような雄たけびが起き、とどまることはなかった。1,500名労働者は皆、火のように怒鳴った。『やっつけてしまえ!』『横暴な資本家をたおせ!』『最後の手段にでろ!』『罷業だ罷業!』『ストライキだ!』と。

 満場一人の反対者もなくスト決行が決議された。数ヶ月前の5月1日のストライキは総同盟本部の圧力で中止させられ、なんと悔しかったことか。今度こそやるぞ。会社から露骨な組合破壊攻撃が仕掛けられてきたのだ。やらないわけにはいかない。会社に宣戦布告し、更に一度は保留にした賃上げなどの要求に新たに「団体協約権」を付け加えて再度提出した。

(全面ストライキ突入、ピケ隊)
 9月16日ストライキ突入。野田醤油17ヵ所の工場の内、第一工場から第十六工場16ヵ所の全工場の労働者、桶工、樽工など約1,500名が一斉に決起した。第十七工場の全員320名だけがストに参加していない。ここには黄犬契約で雇われた者ばかりで組合員は一人もいない。夜明け前から約300名のピケ隊が第十七工場のあらゆる入口の前に座り込む。白の制服警官も椅子を持ってきてピケ隊に向かって横脇に座る(写真②)。十七工場の仕事に就こうとする非組合員を取り囲み、共にストに合流しようと必死に叫ぶ数百の争議団員。
 夜、月あかりを浴びながら勇敢なる一組合員が今度は第十七工場の大煙突によじ登り、頂上で赤旗を振りながら『バンザーイ!』と叫んだ。真下にいる徹夜でピケを張る野田支部数百労働者も喚声を挙げて呼応する。以後10日間、ピケ隊は第十七工場の操業を完全にストップさせた。野田町樽屋職工350名、刺袋工、舟工も同情ストライキに決起し賃上げを要求した。

(争議団の編成) 
 争議団本部   ・・・野田劇場、労働学校
  野田支部委員長 小泉七造
  争議団長(野田支部主事) 小岩井相助 
  副争議団長(関東醸造組合主事。直訴事件) 堀越梅男

 防備部(防衛隊)・・・会社の雇った数百名の暴力団の襲撃に備える
 伝令部     ・・・争議団本部と各部隊との連絡
 自警隊     ・・・組合員の一切の警備・防衛
 家庭訪問隊   ・・・争議団員の家族宅を訪問し状況報告と慰問
 特別調査部   ・・・調査・監視
 宣伝隊     ・・・宣伝ビラ・ポスター・オートバイ、自転車部隊
 前衛同志会   ・・・本部直属行動部隊
 
 家族会・婦人部 ・・・「勝利祈願」デモ、上京請願隊、上京押し出し闘争
 児童部(少年・少女軍)・・同盟休校、「勝利祈願」デモ、伝令、児童劇、上京押し出し闘争に4年生以上は参加

 炊き出し隊 ・・・争議団本部にろう城した時の炊事
 会計係   ・・・食料の調達費の工面、全国から寄せられるカンパ
 記録係

 野田購買利用組合(精米倉庫等三棟を有した。組合員数1,349人)
                        ・・・争議団員に、白米、みそ、砂糖、茶、木炭、うどん、醤油、野菜の等を無条件で貸売り提供
           争議団本部へ毎月炊き出し用米50俵、木炭80俵を提供

(官憲)
 官憲は千葉その他の各県からの応援警官数百名を動員し、また東京と市川から多数の憲兵も動員した。弾圧のチャンスをうかがう。9月18日警察は組合のピケの数を5名に制限せよと命令してきた。事実上のピケ禁止弾圧だ。官憲のピケ隊制限、禁止命令に対し、争議団は即座に、家庭訪問隊を組織し第十七工場労働者宅を訪問し、組合加入とストへの参加の呼びかけを始めた。樽製造の350名も同情ストライキに決起した。会社は全工場の煙突から突然もうもうたる黒煙をわざと吐き出させ子供じみた愚かさを誇示してみせた。

(宣伝合戦)
 9月20日最初の会社糾弾演説会。以後演説会は争議中繰り返し開かれた。そのたびに小泉七造ら幹部だけでなく組合員や家族会などの闘士弁士は押し寄せた1千名、多い時は5千の仲間と家族に熱烈なアジテーションをして会場をわかせた。争議団はオートバイ、自転車部隊で、ビラ『町民諸君に告ぐ!』を野田町町民に配布した。会社は自動車で町内にポスターを貼りめぐらせ、ビラをばらまいた。互いに宣伝合戦を繰り広げた。


       (煙突から黒煙をあげる第十七工場の操業再開)
(第十七工場の操業再開)
 9月27日第十七工場の操業が再開されてしまった。前の晩遅く、会社はトラックや自動車に労働者を忍ばせ工場の中で一晩待機させていたのだ。十七工場の煙突からはピケ隊をあざ笑うかのような、これ見よがしな黒煙をもくもくと上げさせる会社。争議団員は煙突の黒煙を見て『何、今に見ていろ』と歯ぎしりした。そして、『団結だ、団結だ、固い団結を持って、我々は団結して戦わねばならぬのだ』と異口同音に叫んだ。
 スト破りの労働者に争議団員は激昂し、町中で彼らを運ぶ会社の自動車を待ち伏せしては、疾駆する車の前にもろ手を上げて立ちふさがり、ある者は飛びついて自動車の幌を破り、『裏切者!  スト破り!  犬! 』と皆で罵倒しつづけた。争議団員が検束され、ついには28日には自動車にはねられ大怪我を負う争議団員も一人でた。小岩井争議団長は「先方が文明の利器で活躍するのに対してはこちらはただ肉弾をもって向かう以外に、仕方がなかったのです」と言う。

(「竹やり事件」と140名解雇攻撃)
 9月28日、暴力団の争議団襲撃計画を知った争議団が、これに備えんと竹やりを作ったことを口実に警官数十名が争議団を襲い、争議団最高幹部小泉、小岩井ら8名と70名の争議団員を検挙し、松戸検事局に送ったが、取り調べの結果実際は大したことがないのでほどなく全員が釈放された。しかし会社は、「争議団の暴力を見よ」と大げさに騒ぎ、「竹やり事件」と逆宣伝しながら、争議団幹部が検挙されている間に第十七工場の操業を完全再開した。その上、9月30日会社は竹やり事件を理由に140名も一挙に解雇してきた。

(会社野田町で「正義団」の設立)
 会社は町長茂木要右衛門と御用町議ら商店主ら1千名で「野田正義団」を設立し、野田町の商工会に争議団の家族や児童には食料品や日用品を売らない非売決議をさせた。また、商店主らは、自らの使用人や子弟をスト破りの工員として工場に送り込み労働までさせた。組合攻撃のビラを連日ばらまくなど野田支部破壊の先兵となった。正義団は、争議団の兵站の拠点の「野田購買組合」の倉庫と商品、精米機械すらも差し押さえようとしてきた。

(会社糾弾演説会)
 10月13日、野田劇場と野田キネマの2ヵ所で会社糾弾演説会が開催され、小泉らの会社への怒りの熱弁は万場を沸かせたが、元牧師の太田顧問に率いられた暴力団が殴り込みをかけてきた。官憲も一緒になって争議団を弾圧し、逆に争議団員10数名が検束された。

(暴力団、路上の争議団員を次々に拉致)
 会社は武装した暴力団に、路上にいる争議団員を次々と襲わせ、自動車で拉致し、工場内に連れ込み監禁しスト破りを強要した。拒否する争議団員に暴行をふるった。
 10月20日、争議団副団長堀越梅男(のちに直訴事件を起こす)ほか数名を暴力団多数が兇器を振りかざし堀越ら2人を拉致して監禁した。争議団は急遽2人を取り戻すべく大挙して押しかけた。その場で野田警察署は会社側52名、争議団12名を検挙した。会社側8名は不法監禁罪として起訴され、千葉刑務所に収容された。会社側の家宅捜査の結果、ピストル、ドス(匕首)、日本刀その他多数の武器が押収された。10月21日夜、会社は補充として東京からあらたに数十名のならず者を狩り集めた。

(ろう城闘争へ)
 争議団は会社の争議団員への暴力拉致襲撃に対する防衛として、労働学校と野田劇場の2ヵ所で全員がろう城闘争に入った。10月20日、急を聞きつけ関東一帯から駆け付けた応援部隊と共に数千名の大デモが、断固とした反撃闘争を敢行した。野田町の大通りを力強く練り歩く隊伍堂々とした大示威行動に、多くの町民が声援をあげた。
 夜、昼間の大デモへの巻き返しとして会社が命じた武装した暴力団員約40名が争議団本部を襲撃しようと集合したところを官憲によって一網打尽に全員が検挙された。

(会社、購買組合の差し押え攻撃)
 10月28日、突如、購買組合が裏切者の策謀により、差し押さえられた。差し押さえたのは遠島哲雄なる男で、かつて水平社運動を破壊すべく「徳川公暗殺陰謀事件」を起こし投獄されたことのある、いわくつきの人物であった。結局は争議団側の弁護士等の尽力で、この差し押さえ策謀は粉砕できたが、こんなとんでもない人物を使ってでも争議団員と家族の食料を絶とうとする会社のなんと卑劣なやり口であるか。こんな卑怯な会社に争議団員と家族の憎しみは高まるばかりだ。

(続々と操業を再開する工場)
 工場を操業させるため、スト破りのために、会社は近くの農村に行き、新工員を大々的に募集し雇い入れた。その数は計562名にものぼった。また野田町中の正義団商店から送りこまれる子弟や使用人も多数働かせている。争議団員から341名のスト破り、裏切り者もでた。こうして第十七工場の操業再開に続き、10月の末から11月にかけて第十五、第十、第一、第七、第十二、第十四、第六、第八、第十三工場と次々と操業再開が続いた。
 10月30日には6名が解雇された。

(「亀甲萬(キッコーマン)ボイコット」全国運動)
 11月5日夜、争議団防備隊員の一人が、暴力団のために重傷を負わされた。暴力団は二隊に分かれ、一隊は争議団幹部の背中に白ペンキで✖を塗り、もう一隊は待ち伏せして、暗闇の中、白✖を目印に争議団幹部を襲ってきた。
 11月20日、日本労働総同盟大会は「亀甲萬(キッコーマン)ボイコット闘争」を決議し全国運動の展開を決めた。このボイコット運動は、総同盟だけでなく、評議会やあらゆる労働団体、農民組合、労農党なども呼応し全国的にみるみるうちに拡がった。21日総同盟関東労働同盟会と争議団2千の部隊は大デモを敢行した。丸本運送店の暴力団40名は抜刀してデモ隊に対峙してきた。この日2名が解雇された。

(スト破りとの闘い)
 11月30日午後6時、多くの争議団員は、操業を再開した工場付近でスト破りした者に出勤を思いとどまるよう必死に訴えた。争議団の決まりとしてピケなどでの暴力は固く禁じてはいたが、スト破り労働者との言い合いの末、激昂した争議団員が裏切者に鉄拳を落とすことも少なくなかった。

(暴力団随所で襲撃、怒った争議団三百名小泉七造を先頭に工場突入)
 12月1日、いたるところで会社側暴力団による争議団員への襲撃が続いた。総同盟本部の闘士野口三郎は暴力団により丸太で殴られ怪我を負わされ、大月留吉も6尺の鉄棒でひん死の重傷を負わされた。
 怒った争議団は小泉七造を先頭に三百名が第六工場に殺到し、門を破壊して雪崩のように工場内に入り、労働歌を歌いながら工場内をデモをして会社の暴力に断固抗議した。トラック満載の警官隊が駆けつけ、小泉七造が検束された。しかし、争議団は各所で暴力団に奇襲をかけて反撃した。

(闘争主体の移行)
 12月3日、争議団は、「一、闘争主体を関東醸造組合に移行する 二、2ヵ月後には関東同盟に移す」を決議した。野田支部の闘いを更に拡大する目的と、もう一つは総同盟本部としてストライキ中止に向けた主導権・決定権を総同盟本部松岡が握る狙いもあった。
 
(ゲリラデモ)
 12月5日、会社は組合員8名を解雇してきた。この夜1千名争議団は、部隊を30、40名づつに分け、それぞれの隊が労働歌を高らかに歌いながら野田町中の隅々まで、路地から路地の抗議大デモンストレーションをした。争議団の気勢はいよいよあがった。

(正義団長の家糞尿を浴びる)
 12月7日夜、4・5名づつ一隊とした争議団は、憎しみの的であった「正義団」団長らの家に忍び込み、携えていた大量の糞尿をところかまわずぶちまけた。驚いて飛び出して来た正義団団長は転倒し体中糞尿だらけになった。

(最も憎まれていた茂木佐平治邸宅に一斉投石)
  12月9日夜10時、野田醤油常務取締役茂木佐平治の豪邸を覆面をした黒装束の集団が襲った。茂木一族の中でも茂木佐平治は組合つぶし攻撃の一番の強硬論者であり、全労働者のうらみの的であった。黒装束の集団は合図とともに茂木邸に向かって一斉に投石をはじめた。闇の中から憎しみのつぶてが降り注ぐ。砕け散る庭の高価な植木や鉢、壊れる雨戸やガラスや障子。たちまち邸内は修羅場と化した。争議団の中の直接行動派によるものだという。

(小泉七造野田支部委員長が検事局へ召喚)
 12月10日、野田支部小泉七造委員長へ再び官憲が圧力。一連の暴行事件の取り調べと称して、松戸検事局は小泉七造を召喚してきた。

(行徳支部事務所暴力団に襲われ破壊される)
 12月11日、トラックに乗った茂木国太郎率いる40余名の暴力団が行徳支部事務所を襲い、その建物をめちゃめちゃに破壊し、争議団員に大怪我を負わせた。しかも現場にいた警察官は暴力団のなすがままに傍観していた。争議団が逆襲したら騒擾罪で一網打尽にするつもりだったのだろう。争議団は会社を器物破損、家宅侵入、傷害で告訴し、船橋署も涜職(とく職)罪で告訴した。

(「小泉暗殺謀略事件」の防衛隊員出獄)
 12月12日、1922年の「小泉暗殺謀略事件」で会社に命じられて小泉七造を殺しに来た暗殺者に反撃し、逆に暗殺者を殺害した罪で千葉刑務所に服役中であった防衛隊員相沢静四郎が5年ぶりに出獄し野田支部に帰ってきた。争議団は大挙して野田駅に押し寄せ、心から彼の帰還を歓迎した。『強き同志相沢君を迎う』のビラが町中に撒かれ、団旗を押し立て労働歌を歌いながら隊伍堂々と同志相沢君を先頭に争議団本部まで大通りをデモした。我らが心から尊敬するリーダー小泉支部長の命を救った恩人の出獄で争議団の意気も大いにあがり、野田町のいたるところが歓声に満たされた。26日には同事件で服役中だったもう一人の防衛隊員同志丸山秋治も出獄して帰ってきた。争議団はこの日も熱狂的に同志丸山を歓迎した。会社の「小泉暗殺謀略犯罪」が再び満天下のもとに暴露され、茂木一族はさぞ肩身の狭い思いをしたことだろう。

(149名解雇攻撃)
 12月13日、会社は野田支部の最も活動的な先進部分149名を狙いうちにし懲戒解雇にしてきた。同時にあらたに100余名の暴力団員を配置し、争議団本部野田劇場立ち退き要求騒ぎまで起こしてきた。14日には東京から別な右翼団体が来て、和泉屋旅館を宿舎に「赤賊殲滅」と猛烈な組合攻撃をはじめた。

(警察署長もあきれるほどの会社の無法ぶり)
  会社側被検挙数。殺人未遂3件(1名)、傷害4件(7名)、暴力行為10件(59名)、不法監禁1件(2名)、銃器違反3件(8名)、船舶侵入1件(1名)、誣告1件(1名)、其の他5件(38名)の計28件117名に及ぶ。
 暴力団の争議団本部である野田劇場の明け渡し要求騒ぎで、警察は、12月13日暴力団から日本刀20本、ピストル弾丸80発、竹槍千本を押収し暴力団数十名を検挙した。同じ日、県道で日本刀24本、ピストル8挺、こん棒30本等の所持で暴力団3名が逮捕された。さらに東京四谷署は、日本刀13本、鉄砲1挺を持って野田醤油会社の応援に行こうとしていた暴力団員数名を検挙した。

 野田警察署長ですら、「会社側の態度はことごとに穏当を欠いている。会社は・・・否定しているが・・・会社側としての責任は免れることはできない。他府県における労働争議は、労働者側が不穏であって、取締りの中心もそれに加えられているが、野田の争議はその反対である」(10月25日国民新聞野田警察署長談話)とあきれ、お話しにならないほどの会社の無法ぶりであった。

(『暴には暴をもって報うべし』)
 会社の度重なる暴力団による襲撃に対し、争議団は、ひそかに『暴には暴をもって報うべし』と腹を固めた。暴力団の襲撃には敢然と抵抗し一戦を交える決意をした。

(反動田中政権をバックとする野田醤油資本)
 茂木社長は鈴木内相と昵懇で、内務省警保局の斎藤警務課長は前野田町長の息子である。野田醤油の最高顧問で大株主の東京ガス会社社長岩崎清七は政友会と深く結んでいる。まして、反動田中内閣は中国侵略をはじめ国の内外の暴力の政権である。反動田中政権こそが、野田醤油の暴力、組合破壊攻撃のまさに後盾なのだ。

(735名を一挙に解雇)
 12月20日、会社は争議団735名を一挙に解雇してきた。会社は『735名解雇で社会正義を確立した』の大チラシを新聞に折り込み、嬉々として世間に大宣伝した。1月23日にも1名を解雇した。争議中の解雇者はこれで総数1047名におよんだ。これこそが、野田醤油会社の当初からの目論見であった組合員全員解雇、全員放逐という本当のねらいであった。

(争議団和泉屋旅館の右翼団体に殴り込み)
 12月21日、小泉七造以下数十名の争議団は、和泉屋旅館を拠点として争議団攻撃を繰り返していた右翼団体に殴り込みをかけた。争議団10数名が検束されたが、和泉屋旅館にいた右翼団体は23日全員東京に帰った。

(争議団と家族会の示威行動)
 争議団は12月22日から連日のように夜間、会社の大量解雇に抗議して隊伍を組み、石油缶を叩きながら町内を練り歩くデモをした。官憲は残酷な弾圧で向かってきた。この一連のデモで争議団の検束者は80名にものぼった。家族会も連日、数百名の隊列で町内の各神社まで勝利祈願と称したデモを敢行した。児童約400名も愛宕神社の「参拝」デモで闘った。

(第一次硫酸事件)
 12月28日午後6時、会社の組合攻撃の参謀石塚人事係長の父親が、散歩中に何者から瓶に入れた硫酸を顔面に浴びせられた。第一次硫酸事件だ。1月に入り総同盟本部の闘士野口三郎が犯人として検挙された。硫酸事件は争議中に3回起きている。

(大晦日)
 争議団は餅をついて全家庭に配った。深夜12時争議団全員が松岡駒吉ら総同盟幹部10数名と香取神社と愛宕神社に「参拝」デモをした。午前零時百八つの除夜の鐘が鳴った。『おお百八つの鐘が鳴る。おれ達がストライキをはじめてから、きょうで百八日目だ!!』と叫んだ者がいた。

以上
 
次回予定
野田醤油争議(その七) 闘い②「よってたかっての大押し出し闘争」1927(8)年の労働争議(読書メモ)
(1928年1月~4月20日終結まで)



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