自分の中に発生した怒りの炎は、気がつけば私を焼き尽くしそうになっていました。
発狂しそうになるほどの怒りに、とうとう私が疲れ果ててしまいました。
私が怒っても、相手は何も変わらないし、知る由もないのです。
私一人が、事故による身体の苦しみと、怒りによる心の苦しみに、苦しみぬいて、もう限界でした。
裁判も考えましたが、当時は保険会社側の医師が書いた論文が採用されて、長年闘ったあげく、99%が事故と因果関係なしとされ、患者さんが敗訴されていました。
理論立てた因果関係を、過去に遡って実証していくなんて、事故の前後の身体の中の写真でも撮ってないと難しいですよね。
これ以上傷つくのは耐えられなかったし、法定で保険会社を相手に闘うなんていう力は私には残ってなかったです。
コロナ予防接種後の死亡とワクチンの因果関係や、
子宮頚がんワクチンの犠牲となった少女たちの接種後の不調とワクチンの因果関係、
大きな組織に対して、補償と謝罪を求める小さな個人。
その因果関係の立証を、被害を受けた側に求め、そしてそれがその人の身体でしかわかり得ず、極めて物証に乏しく、その犠牲者が全体の比率からみて、ごくごく少数あるという現実。
他人事のように、きっとその人に基礎疾患があったんだよと言って、大きすぎる被害に見合わないような原因を、被害者個人の責任に押し付け、自分とは関係ないことのように話しているのを聞く時、あのやり場のない悲しかった日々の事がよみがえります。
一人一人の大切な人生であり、大切な命ですよね。
私は、事故後の経緯をつぶさに日記に残しているわけでも無く、加害者(保険会社)を相手に闘うなんてことは、自分を守る意味で、できませんでした。
私は補償が欲しかった訳でも、保険会社に謝ってもらいたい訳でもありませんでした。
唯一、欲しかったのはハンドルを握っていた加害者の、
心からのごめんなさい。。
これだけでした。
その一言があれば、
加害者の心からの謝罪があれば、
今後気を付けてね、いやいやお互い気をつけようね、で終わっていたと思います。
自分を守るためだけに、
自己保身から現実に向き合おうとせず逃げ、
他人の哀しみには、どこまでも無関心になり、
自分さえ良ければあとはどうなっても良くて、
自分と自分のごくごく小さい仲間以外の人に対して、とてつもなく冷酷になれる人間を変える力は私にはありませんでした。
心のない謝罪なんか要らないし、無理やり謝らせるのも違う。
もういいや。。。と思いました。
人を変える事は出来ないから、自分が変わろう。。。
そう決めました。
神様はいかなる時も、深い愛で人間を愛してくれています。
悪は改心しなさいと望み、善は広めなさいと望んでおられると思います。
改心するのも、善行するのも、自分の中の気付きからだけなのです。
怒り続けることは苦しみ続けることです。
私は自分を守るために、強い気持ちで怒りを手放すことにしました。
許すのでは無く、怒りの感情が出て来たら、強い意志で、意識してその感情を手放すのです。ハイ、おしまいと。
そして、幸せだった事や、面白かった事を、無理にでも思い出して、頭の中の感情を切り替えるよう努めました。
相手を許さないと怒って苦しむのは自分なので、自分で自分をコントロールしていきました。
そうこうしてるうちに、心は穏やかになり、気がつけば怒りの感情は消えて無くなっていました。
加害者の顔も名前も覚えてないし、全て消えて無くなっていきました。
許すことは緩める事であり、楽になる事であり、手放して忘れる事かもしれません。
そうした方が楽ですし、本来のありのままの私を傷つける事は誰も出来ないのです。
どうしても許せないことが起こった時に、警察絡みのような極論でなければ、この方法で手放したら良いと思うようになりました。
人の立場には立てないから、安易な事は言えないけど、私はこれからも、人を裁くなんてことは出来ないから、天にお任せしようと思っています。
天はみているのです。
だから、神様にそちらは委ね、自分は緩めて手放していこうと思います。
理不尽な出来事が起こった時、許すなんて中々出来ないけれど、許さないのも苦し過ぎて出来ないのです。
ならば手放し、自分の心を解き放つしかないかなと思っています。
神様がおつくりになった人間だから、誠の心を見極めることの出来る神様に、そちらはお任せします。
もしかしたら、私も前世でこういう経験をする因果を作って来たのかもしれないし、
色んな意味で大きな気づきを与えるために、起こるべくして起こった出来事かもしれないから、全てを受け入れて流すと決めました。
続く