信州スロウライフ12ヵ月

野菜や草花と暮らす生活

気持ちをあらためて

2019年01月11日 18時23分52秒 | Weblog



まだ土は凍っているというのに福寿草の花が顔を出した。

昨年の秋ごろから身辺が危うくなり、Instagram、ブログともに記事を書くという
気持ちが失せ罪悪感を持ちながら年を越した。
10月に実姉を亡くし喪中のためさらに従来年賀状をやり取りしていた友人とも
遠ざかった感が強かった。

年が明け過ぎ去った1年を振り返ると何と節分が過ぎ、自分の誕生日を迎える3月から
毎月のように自分としては災いだと思える出来事に遭遇して来た。

体も心も痛み、秋になって先が見えてきたというのに近隣の嫌がらせに公共機関の
支援を受け、その後実姉を亡くして年が明けた。

毎月、よくもまあと思うが何とか乗り越えた。
これで節分が終われば新たないのしし年の年女として前に向かって生活が執り行えるかなと思う。
昨年は訃報が相次ぎその影響も大きく、まるで自分の命も奪われるのではないかと
その都度思い気持ちが暗かった。
決して60代にはこんな気持ちはもたなかったが70代に入ると先が短いとの実感を持つ。

よって今年は自分のやり方や考えを少し変えたいなと思うことにした。
小さな毎日の生活の中で、こんなこと今までと違ってやってみようかなと。


前回の記事に載せたマゴのその2は1歳の誕生日を迎えすたすた歩いている。
しかも座ることもなく常に動きっぱなし。
家じゅうで行き倒れていた姿はもう見られなくやや寂しいが成長めざましさに
生きがいをもらうのは間違いないのである。







寝る子は育つ

2018年09月22日 13時32分55秒 | Weblog
ここ数日の気温の上下の差の大きさに体がついていけなく迷いっぱなしだ。
外気温が日中からもう晩秋か・と思わせ暖房をつけるかどうか夜になると悩む。

今年の夏は酷暑が6月から始まり、早々とした梅雨明けにこれからの長い夏の先を思い
絶望した。
外での庭作業も出来ず、8月、自分は大丈夫、水分はかなり毎日多く飲んでいるしと
の心の隙間に熱中症に襲われた。
点滴を受けながら、老人が自分で体を守れないはかなさを痛切に受け止めた。

回復に1か月近くかかりさあ、これから夏野菜を整理して畑を耕し冬に向けての
葉物の種をまかなくてはと頭の中をよぎるころ夕方の愛犬を連れての散歩中に
よその犬に咬まれる事故に会った。
もうすでに救急外来で治療してから治らず1か月近く経とうとしている。

首輪が抜けて逃げて来た犬が、超スピードで歩いている自分達に飛び掛かって
腕を咬まれた

この8月9月は自然災害が連日のように発生し、9月になっても台風は勢いが衰えることなく
南の海で発生している。
9月になって直ぐに自分が自然災害どころでなく犬の咬傷に出会った。
避けようがなかった。

9月の残暑の季節でありながら、近隣の農家の老人たちは炬燵に入り、石油ストーブのお世話になっているという。
わずか数カ月前のエアコン不足に人々は買い求めに走り回っていたというのに....

そういった暗い世の中の出来事に心をぽっと温かくしてくれるのは
昨年生まれて9ヵ月になる孫の成長である。
長男の孫は皆で恐る恐るその成長ぶりを見守ったが、次男孫は何でもかんでも早い。
おそるべきその発達ぶりに娘はフーフー言いながらの育児だ。

長男孫は寝かしつけるのに息をひそめて抱っこしながら寝るのを待ったが次男孫は
ハイハイするころから家の中を勝手に一人で探索し、疲れるとその場で行き倒れ。

このおおらかさはいつまで続くのであろうか。









一区切りになったかな?   いや。

2018年07月06日 13時01分33秒 | Weblog
朝から各地に災害情報で、気持ちがざわざわしている。
この長野県も、上伊那地方も今回は大雨、土砂崩れで警報が出っぱなしだ。

と、突然の速報でぎくりとした。
地下鉄サリン事件の死刑判決者が死刑執行された。

今から23年も前の事件は延々と捜査や裁判が続き段々風化されてきた感があった。
当時は東京で日本橋の企業で健康管理の業務につき、ラッシュの電車の中で
押しつぶされながら通勤していた。

携帯電話が出始め、私用に持っていたが、仕事用に持たされたのがその頃だった。
それから一週間後、地下鉄サリン事件が起きた。
日本橋の会社は通勤に東西線、日比谷線を利用する社員が主で3月20日の朝、出勤した途端
健康管理室に目が見えないと抱え込まれる社員が続々と続いた。

何が起きたかとっさに判断できないが、救急車で隣駅の聖路加病院に運ばれた社員がいると
の情報も入りただ事ではないと、直ぐに病院への搬入を始めた。

役員も出かける前であり車を回してくれて次々と都立病院へ運んだ。
何か電車の中で撒かれたらしいと聞いたが、ピストン輸送で運んでは
即入院となり、点滴が始まる。
持っていた携帯電話をかける暇もなく、入院した社員の着ているものは総て足の先まで脱がせ
黒いビニール袋に全部放り込む傍らから警察が押収していく。

突然のことで身ぐるみはがされた社員の下着からパジャマまで買いに走り
家族へ連絡し、保険証をかき集め、経験のない動きだが一日で35人の社員の入院を済ませた。

警視庁、地元の警察、消防庁と入れ代わり立ち代わり聞き取りを受け、うめいている入院した社員に今、答えるのは無理ではないかと思いつつ飛び回る。
地獄とはこういうことを言うのかとののしりながら、誰に向かっての怒りも
ぶつけようもなかった。

サリンを吸入した社員は衣服や体にガスは染みこみ、一緒に一日いた自分も
激しい頭痛が来たがそれを考えている暇もない。


当時の携帯電話はすぐバッテリーが切れ、役に立たない。


1週間経ち、、その後オウム事件が捜査がなされる。
上九一色村のサテイアンがサリンの製造された現場が明らかになりおどろおどろしい事件がニュースを占めて行く。
中央高速は機動隊のクルマが何台も続いて走っていたのをよく見たっけ。

退院した社員はその後も長く後遺症が続き苦しんでいた。
トラウマとなって夜うなされると言っていた。。

子供たちが小学生のころ麻原彰晃が近くの駅前で衆議院の立候補の演説に出くわしたが
白装束で異様な風体で、あの姿が今でも焼き付いている。

もう23年も経つのかと、事件は風化して29人も亡くなり6300人もの被害者を出した無念さだけが残る。

勤めあげた勤務生活でこのサリン事件は最悪の経験で、べったりと心の中に黒くへばりつき時間が経っても、消したくても消えてくれない。

逮捕されしっかり一連の死刑囚となった者たちのリストを覚えた時期もあったが
今ニュースで顔写真を見ても記憶が薄れている。

7人の死刑執行が行われたが、真実はわからずじまい。
被害者家族のインタビューでこれが区切りとは思えず、消化不良となって残っているという言葉が響いてきた。




コツコツと努力の結果が

2018年05月27日 14時46分12秒 | Weblog
伊那に移住して4年目を過ぎる。
田んぼを農転して宅地に替え、草一本生えていない土地で建築した家が引き渡された。

家の西側前方には中央アルプスの山並みと、田園地帯の景色が広がっている。
家を建てた残り約250坪のだだっぴろい土地だが1か月後には娘が出産するので
預かることになる。

庭に目を向けている暇はない。

かくしてその後4年の月日が流れて、日中マゴを預かり保育し、四季の変化と共に
年金生活者となった。

移住の目的は野菜を作り草花を植える。
という単純なものだった。
思いつくままに季節の草花や野菜を植え、翌年の夏高遠にある親和の丘バラ園にボランテイア組織があることを知る。

運よく空きがあるので入会可能となり、恐る恐る出席した。
毎月バラ園で例会があり、講習と実技で初心者としては願ったりのスタートになった。

都会暮らしをしていた自分に生活の中にまさかバラが入ってくるなどとは夢にも思わなかった。

高嶺の花のバラの世界、消毒や手入れがどれだけ大変そうかと思い込んでいたから
手が出なかったが、学習を重ねるごとにその魅力にはまり込んで行った。

枝をバシバシ剪定するほうが良い枝が伸び、自分に合っていた。
今年の夏で入会して3年経ち、バラの新枝を買い植え付けて、3年目。
バラの木の数はどんどん増え、これで40本目となった。

我が家の土地の特徴や毎年の気候、自分の乏しい知識などが絡み合い
運よく枯らせることなく成長始めてくれた。

周囲の景色と合わせるとグラビアに登場するような、
いかにも手の込んだ贅を尽くした庭園を造る気はなかった。
北海道の風のガーデン風にワイルドなフラットの沢山の草花で埋め尽くそうと
思って作業を続けている。

枝が増え、丈が伸び、周りに植えた草花とも調和が取れて来て、千里の道も一歩から
というたとえが実に合う。

今年の咲き始めは濃い色から咲き、徐々につるバラの方に移行して約1か月
近く楽しむことが出来る。

バラは香りが一番というが微香や強香と花によって異なるが
、朝早く香りを嗅ぎその日のスタートとしてはぴったりだ。

来週の土曜日から3週間の間高遠のバラ園はバラ祭りが続く。


ボランティアの裏方の出番である。

















降雪の情報

2018年03月20日 13時20分51秒 | Weblog
連日のように桜の花の開花情報で賑わうようになった。
例年に比べ。
9日早いとか5日早いとか東京の開花で万歳をしているニュースを見たが地方に住んでいると
同じような浮かれ気分にはなれない。

目の前の茶色の景色やくすんだ空、まだ木々の芽も出ていない有様には現実感がないのである。
昨日、久方ぶりにブログを書きその後親しんだ投稿者の記事を閲覧した。

自分より少し年上の方だがやはり信州へ移住されての生活の様子を紹介されている。
音楽付きで、毎回好みのメロディーが流れると過去の過ぎ去った思い出に戻っていく。

最近便利な写真投稿を利用し、生活を自分で忙しくしていた。
長い冬の寒さを我慢する時間は趣味などにより自分の想いを変えることが出来る。
また、失っていた楽しい、ワクワク、隙間時間があればモチーフを一枚でも編めるし
晩年に差し掛かって来た自分の時間の使い方の中身が増えた。

昨日、どうしているかな?と久しぶりの投稿画面に入ったところ素晴らしい雪景色や
クロッカスの花が大きくアップされて見とれてしまった。
もともと、カメラの技術がプロ並みでいつも四季折々の住まいの近くの景色や
草花の画像が感動せざるを得ないのである。

何年経ってもその写真の撮り方は真似も出来る訳もなく、今に至っている。
投稿写真と文章には、その方の品格が見えて、そうなのね、生き方がこういうことなのねと
心から学ばされる。

原村は少しだけ春に近づいて来ている。
残念!明日はこの伊那でも雪が降る。

何年か前、咲いた桜の花の上に雪が積もり、4月になってもこんなことがあるのだと
驚いた。
高遠でもその時は小彼岸桜の枝に雪が降りその後凍って無情にも木がだいぶ折れてしまった。

先日からもうダウンコートはクリーニングに出してももう大丈夫でしょうとの
気象予報士の言葉は何だったのか。

庭の少しだけ彩があるパンジーやクリスマスローズはほんの少し丈が伸びたところに
雪で明日は押しつぶされるのか・・・・可哀そう。













70代 2年目となった

2018年03月19日 16時55分01秒 | Weblog



自分が70歳になるとは思っても見なかったが、日々に追われてしみじみ感じる暇がなかったことだ。
誰でも死に向かって生きているし、確実に歳は取っていくのだ。
只、将来が見通せないだけなのだが、70歳になったあたりからああ歳を取るってこういうことなのだと
思うことが俄然増えてきた。

しかも70歳かあと思った1年がもっと早くなった。
定年退職して地方に移住し、先の生活が見えず、一旦長野県の原村に仮住まいした。
6年間再び仕事につき、最終の住まいを伊那市に決めて、引越しして今年で4年が過ぎて行く。

多分、この10年が人生の中で様々な出来事を経験し、家族とも離れ、唯々毎日を送るのに一杯一杯で、
やっとこれで腰が落ち着くに繋がったのかもしれない。

その間二人の孫も生まれ、その保育にも関わった。
今回の二人目の孫を抱っこして鏡を見せるとマゴはにっこりと鏡に向かって笑い、
まあかわいらしいと思う反面横にいる自分が日焼けしてしわが増えてしぼんだ顔は目をそむけたくなる。
70年世の中にさらしてきた皮膚と、まだ3か月目の白桃のような皮膚とはこんなに違うものかと
恐ろしい学びだ。

4年前に同じような場面があったが、目をそむけたくなるまでには至らなかった。
そうか、70代と60代はこんなに違うのね。

大きな変化は2年前にこの12年を神奈川、原村、伊那と一緒に暮らしてきた愛犬2匹との別れと病気だった。
2年前に突然の死を迎え、直ぐに2週間後残った犬にがんが見つかり悲しむ間もなく治療が始まった。
自分でもおもいもよらぬペットロスは耳鳴りとしてすぐにやって来た。

耳鼻科に受診してストレスですねと服薬したが効果はなく残った犬の介護の毎日である。
動物のがんは数か月で命を落とすと言われたが、幸運にも2年目を迎えた。
しかし抗がん剤の副作用で食欲を落とし昨秋にはもうダメだとあきらめるほど激やせしたが
胃瘻の治療で体重を取り戻した。

1分1秒休みなしで耳の奥ではセミが10匹ほど泣き続けているが、加齢とストレスは回復にはならず
聴力を失うまでにはなりたくないと切に願っている。

しかし悪いことばかりではない。
インスタグラムで趣味を通じて友人が出来て、編み物の楽しさを毎日手に入れている。
これだけは自由な時間を手に入れたお蔭で作品を作り上げるのはワクワクする。
本を読む機会が増えた。
図書館でどんどん借りてくる。
手元に置きたい本は買い求め、じっくりと読むことにしている。
養老先生の著書は平成の世をわかりやすく示してくれる。
ひょうひょうとした辛口の文章はたまった怒りをスカッとする。









失うこともあれば得ることも交互にやって来るのが人生だ。


四季の変化は心を躍らせてくれるし、まあ
70歳とはこんなことなのだと納得するようになっている。


面白いね

2018年02月28日 18時13分17秒 | Weblog
今年は例年よりとても寒い。
寒いと言っていると気持ちも縮こまり、暗くなる。
1月にインスタグラムで、編み物のコーナーに入り投稿作品を見ているうちに
よしっ!やってみようと気持ちが奮い立った。

2月になりグラニースクエアというかぎ針の編み方に引き込まれた。
数十年も前、小学校5年の家庭科の時間に初めてかぎ針を持った。
今振り返れば毛糸も乏しく、セーターなどをほどいては母に頼み込んで残り毛糸をもらい
大事に小さな袋を編んだ覚えがある。

女子高時代の夏休みは暇で、物はなく時間はたっぷりで自由課題の宿題を出されて
レース編みを編んだ。時間があるからテーブルセンターに挑戦し方眼編みの模様編みや当時流行った
パイナップル編みなどを完成し秋の文化祭に展示された。
当時は編み物の本など手に入らず、たった一冊の雄鶏社の本を大事に使った。

それからはるかに時間は過ぎ去り子供を育てる時は何でも手作りするのが当たり前だったので
これも自己流で編み物の本を買い2人の子供のセーターを編んで着せた。

歳を取ったら編み物や手芸をしてゆっくりと時間を過ごそうとそのころは夢に想った。
ところが人生とは思うようには進まない。

時間が過ぎ、信州へ移住しさて、何か手仕事を始めようと思った時は老眼で細かいものを見るのが鬱陶しく
面倒になってしまった。
孫たちの肌着に背守りの刺繍をするという義務感からちょっとずつ手芸の世界に戻って来た。

今年のインスタグラムでやる気に火がついて、毛糸を買い編み始めたのが2月だ。
以来、面白くなり友人のお礼にひざ掛けをプレゼントしようと目標を持った。
63枚のモチーフを別毛糸で繋げ編み始めた最初と最後の印象がとても違ったのがまた、面白い。

2週間で編み上げて送ったが、この数十年のブランクは編んでいる途中で自己反省ばかり
山のように積み上がっていった。







良かったよぉ。
まだまだ学習することがあり、やる気が出れば目が見えないなどとほざいていたのが恥ずかしいね。

色彩感覚を試す

2018年02月08日 12時53分38秒 | Weblog
編み物を始めたが、気持ちは逸ってもどうも一日中編み物に向かっているには罪悪感に駆られてしまう。
誰のための人生か、これまで長らく働き続けて来てさぼりの生活は誰にもとがめられるいわれはないとか
思っても性格は変わらず...

結局夜、食後の寝る前に心を開放し編み物を広げている。
昨日、グラデーションの毛糸の余りで、ひざ掛けを編もうと数枚、編んでみた。
編み方はグラニースクエアーといいインスタで同じ趣味や販売している作品の画像を
見ているとその色の使い方でこんなに違うんだと感心する。

冬の寒い外での仕事が出来ない時期に編み物は最適だ。
昨日編んだ数枚のピースが気に入らず、結局ほどいて編み直し。
手持ちの毛糸との組み合わせ次第で全く印象が変わるから面白いのである。

色彩感覚は生まれつきのものでどうにもならないが、組み合わせ方で
大幅に変わるからまた次々やる気になるのかもしれない。

野菜作りやバラ作りはどれだけ手をかけるかで出来高が違うが、この編み物とは
夏冬違うから違った趣味にのめり込むからバランスが取れて良いのかもしれない。

さてさて、帽子はなかなかはかどらないがモチーフはかぎ針1本ですぐに一枚編めるが
何枚編んで繋げるのか、ひざ掛けは毛糸が足りるかな?


昔の記憶を取り戻すのは難解

2018年02月07日 11時31分18秒 | Weblog
今年に入って、編み物を再開した。
約40年近く前は子供たちにミシンで洋服を作り、冬は毛糸でセーターや手袋、靴下を編む。
その当時は専業主婦が通常で、自分も働きたいと言ったら同居の姑に私のムスコはあなたが働くほど困っていませんとぴしゃりと言われた。

身の回りは手作りが当たり前、料理や洋裁が出来る嫁を自慢した。
子供の洋服は既製品は少なく、高かったし手作りして着せるのがうれしかった。
嫁入り道具に母親もミシンを持たせてくれた。

そういえば高校を卒業すると習い事として和裁や洋裁を学ぶ同級生が多かった。
高卒後都会へ出て看護学校、保健婦、助産婦と続けて医療の世界で学んだので生活の中に
まったく手芸は縁がなかった。

結婚してから子育てをするうちに手作りの楽しさを知り、当時の書店は編み物や洋裁の本の販売は
極小で自分なりに1冊の買い求めた本を読んでは覚えていったものだ。

いずれ将来繊維の改革など来るとは知りもせずセーターを編むと模様編みの面白さに
興味は膨らみ、アラン模様や娘には模様編みを入れたセーターを着せるのが唯一の楽しみだった。

それから時間は流れ、今や衣類の素材の変化はめざましく、冬の衣類は激変だ。
重たい毛糸のセーターやカーデイガンなどは暖房のお蔭で周りから姿を消した。

NHKのベニシアさんの番組を長らく視聴しているが、東北大震災の後、気仙沼市で編み物教室を始めた
マルチナさんの毛糸の腹巻帽子を知った。
ネットで調べ毛糸を取り寄せ、寒さしのぎの帽子を編んだのが4年前だ。
以来、気が付けばかぎ針も編み針も時代のせいか面白くて編みたくなるものばかり。


昨年は手芸店で帽子にはまり5,6枚あみ友人やムスメ、孫にまで編んで配った。

最近、インスタグラムの投稿に編み物の作品の画像に繋がり始め、再開した。
作者の画像を眺めているだけで感嘆し、時間が過ぎて行く。
先日ムスメとマゴの帽子を編み終わり、次にこれから寒さの中での庭仕事をしなければならない
自分のためのアラン風の頑丈な帽子を編もうと思った。

ひざ掛けやコースターもいいな。

昔編んでいたから記憶は取り戻せると思ったのが甘かった。
編み図の記号を見ても脳と手が一致しないのだ。

編み方の記号も考えている時間が長く、分かった!と思っても翌日にはうろ覚えがわかる。
ああ歳を取ることってこういうことだったのね。
老眼、理解力と記憶力の減少、まさに認知症の要素を背負い始めている。

しかし買った方が手軽だが、悔しさと根性と脳を老いさせたくない思いとごっちゃになりながら
今日も模様編みに励んでいる。

わかったことはあの30代で覚えた編み物は編むスピードが面白さもあったが編み方が早かった。
一冬で最高、5枚のセーターを編み上げたが
今や小さな帽子をひねくり返しながら一向に一日数段しか編めないのろのろを痛感している。
若いということは何をやってもスピードが違うのである。

   



冬の一日は短く過ぎて行く

2018年02月02日 14時34分45秒 | Weblog
年齢を重ねていくと、これまで積み重なった日々が一日の生活時間のネジの回り方を早くして行くように感じる。
あれっもうこんな時間?
日が短いためもあるがそうかといって夜が長いとも思えない。

子どものころ空を見上げて流れる雲をゆっくり眺めていたあの昭和20年代、ノスタルジイか。
かくして、自由な時間を手に入れた今、やたら、先が見えてきた。

友人と話すが、あっちが痛い、こっちが痛いとか言わなくて済んでいるけど、69歳の時と70歳になった途端
今まで考えもしなかったいつまで生きられるのかという問題が目の前にちらついて来る。
たった1歳の違いなのに、最近70代の訃報が多くなったためかもしれない。

田舎に引っ込んで悠々と好きなことをしてのんびりして羨ましいと言われても、いやいやどうして
そのようなことは決してありません。
毎日が、1か月が、1年が過ぎるのが早すぎ、都会で暮らしていた頃は勿論忙しく働いていたが
老いて行く実感がなかったし、先を考える脳みそもなかったし、その年になってみなければわからないってことだ。

限界集落に移住し、自然は豊かだが、どう時間を使うかによっては虚しさを感じるかもしれない。
幸いSNSで情報を手に入れる便利社会であるから、歳を取っても新しい知識は山のように手に入れられる。

生きてきた知識や経験はその時は良かったが今更参考になる時代ではなくなった。
若者から知りえる生活情報が面白く、先が短くなってきたからこそ貪欲にならねばならないと思う。

インスタグラムから色々な分野に入り込み、生活の中に取り込んでいくとさらに忙しく、趣味も増えるし
生活の仕方も変化が訪れる。

編み物、刺繍、レース編み、収納、掃除方法や用品、園芸や野菜作りは勿論、図書館通いも始まり
さらに生活の時間は細切れだ。

育児、家事、勤務に追われていた若かったあの頃は楽しむより苦痛が大半で子供の受験もその間にウエイトを占め
懸命にこなして定年がやって来た。

人生ホントに短いと言えるようになった。
頼りは健康だけ。

春先から庭で過ごす時間が多くなるが、今年からあれこれ1年の目標を決めずにやりたいことをやりたい放題で
毎日を送って行こうと思う。

昨夜の雪を掻きながら雪だるまを作った。
中学生以来だ。

マスクをつけただるまはインフルエンザに来てほしくない願いを込めた


大竹まこと風のちょい悪オヤジは、宅配便と郵便配達ウケ狙い

  

70歳の学習 その3

2018年01月20日 13時11分48秒 | Weblog
ずっと開くことがごくわずかになっていたパソコン。
便利にスマホをPC代わりに使い一日何度もバッテリ―充電する始末だった。

ところが自分の骨密度の検査の結果を一覧表化したのに火が付き、勢いで今年度の確定申告を
やっつけた。
国は貧乏人から税金を取りすぎていると目が覚めた。
還付金がこんなに・・・・、

続いて1年半前に亡くなった愛犬と、残ったもう1頭の病気が発見されて以来の治療費の一覧表を作ってみた。
動物は健康保険がないから病気になれば実費がかかり、家族同様だからとムスメやムスコにも年金生活者になった
母親の支払金の折半になった。

幸いに診療明細書をずっと保管していたのでこの4,5年分目からの分をそれぞれの犬ごとに
入力してみた。

1年半前に突然12歳で亡くなった犬は短い期間だが、かかった費用は別に表から見えたのは、舌の腫瘍疑いで
半分切除、その後ヘルニア手術、回復した後悪性黒色腫で2回手術、続く抗がん剤点滴、と何と痛い治療を
受けてきたのかと涙が出る。

亡くなった2週間後もう1頭の腹部のがんが見つかり、この1年半抗がん剤の服薬治療を続けてきた。
動物の抗がん剤の効果はもって3か月と言われたが奇跡だった。

しかし抗がん剤は人間も同様だが食欲がなくなる。
まったく、ドッグフードを食べなくなった。
昨年の夏いよいよ、と覚悟したが、主治医から経管栄養を勧められ手術でチューブを埋め込んだ。
流動食を朝夕注入しているが、3か月たった今、体調の回復はめざましかった。

この治療費も一覧表化した。
費用を折半しているムスメやムスコにも納得する表が出来て、たまったら請求している母親も
安堵した。
犬を飼い、10数年一緒に暮らし、苦労続きの辛い年月をどれだけ癒してもらったか
最近はダメだと思った犬と散歩していると笑顔の犬が一生懸命歩いているのを見ると
命の大切さをしみじみ感じることだ。
子犬時代の愛くるしさしかなかった時代は病気になるとは考えもしなかったが、老いて病気になった姿には
飼い主も学ぶことばかりだ。

子供たちと、このかかった費用はそれぞれ3人で超高級犬が1頭ずつ買えるねと笑ったが、
お金に換えることが出来ないのがあるものだ。



昨日の中央アルプス、空木岳 2864m

70歳の学習 その2

2018年01月20日 12時35分20秒 | Weblog
ムスメの出産の面倒を見る役割が年末を挟み約2か月近くあり、夢中で久々の仕事をこなした。

思えば4年前に原村から伊那に家を建てて引っ越し、荷物を整理する間もなく1か月後にマゴが生まれた。
親子は出産後は1か月間家に預かった。
その時の感覚があったので、同じ寒い季節だが何とかなると軽く考えていた。
しかし4年後の今回は病気で介護中の犬がおり、ムスメの家に毎日通って保育園の
マゴやムコの面倒を見なければならない。

11月中旬からこの1月中旬になると出産のために費やした生活のリズムは元に戻ってきたが
70歳の頭の中は呆けていたようだ。
さて、忙し過ぎた毎日が犬との静かな毎日に、ねじを巻きなおすのだが何だか変なのだ。
忙しさに慣れるとこのゆっくりとした自分だけの生活リズムに罪悪感を感じるのだ。
長いこと働き続け、やっと手に入れた自由な時間なのに、女の人は何をしても罪悪感を感じる
動物だという記事を読んだことがあるがまさにその通りかもしれない。

1月15日に3か月ぶりに骨粗鬆症の検査のための通院をする。
主治医からは骨密度のレントゲン検査の結果、まあいいですね、
横ばいですがこのまま服薬を続けましょうと言われ、良かった!と嬉しかった。

1年に1度の検査は悪くなって骨折しないかとそれだけが心配だ。
女優じゃないから今後の残された人生、骨の強さだけが頼りだ。

薬と検査データーをコピーしてもらい帰宅した。

今回は股関節と腰椎との数値を比べたらこの10年間の治療の推移で初めて股関節の数値が
昨年より悪くなり腰椎の骨密度が上昇している。

よし、一覧表にしようと思い立ち、エクセルで腰椎と股関節の骨密度、骨塩量、骨面積をそれぞれ
10年間の数値を記入し一覧評価した。
ついでにその年のエピソードも入れてみた。

よしよし、一覧表化したら一杯色々見えてきた。
4年前に退職してウオーキングを取り入れたがその為骨密度は上昇したが、体重が減ったため
骨塩量や骨面積が下降した。
しかも1昨年から飼い犬が病気になり、特に昨年はそのため散歩の回数も歩数も減った。
それが骨密度に顕著に現れた。

病院で医者に大丈夫と言われて喜んでみても病院から出た瞬間は忘れている始末だ。
生活習慣は自分の体を作りもするし壊しもする。
今年犬の散歩は、それはそれと割り切り、自分の骨のために新たな習慣を作っていこうと
一覧表を作っての決心をした。
3日坊主にならないといいね。


70歳の学習 その1

2018年01月20日 11時49分50秒 | Weblog
1月中旬になり、少し寒さが緩み、自分の生活リズムが戻って来た。
昨年の11月22日、近くに住むムスメが第二子がを出産。
第一子は4歳になるから保育園に通っており、出産が近づいてきた頃から予行演習として
送り迎えを引き受けた。
予定日の4日前にいきなり陣痛が来た。
本当に陣痛かと疑いながら産院に電話し、せかされて入院し、分娩室に寝かされ20分後
出産した。
助産師から20代のお産ねと褒められたが、家族全員大わらわだった。

以後、頭の中に描いていた出産前後の家事代行のシナリオはあっけなく崩れ去り、それからの
毎日はもう思い出されないくらいになってしまった。
朝早く出かけ、夜寝るばかりになって家に戻る。
輝くマゴとの記念写真は、4年前に比べおばあさんは萎びれてヒトには見せたくない代物になった。

まあ、一日中保育園、産院、ムスメの家と自宅の往復、を車を駆使してその間家族の食事作り
マゴの風呂など第一子出産とは大幅に日課は異なりこれだけはやってみなければわからなかった。
文字通り家の中でも走り回っていた。

勤務していた時に社員の焦燥性うつ病の面倒をみていたが、毎日そのことを思い出し
アセアセする気持ちがよくわかった。

同じころ友人が東京で出産するムスメの手伝いに行くと聞き、お互い頑張ろうと励ました。
年賀状の代わりにその友人から手紙が来て、出産手伝いしたのに体を壊し一旦静岡の自宅に戻り
立て直しをした。
恒例の年賀状は書く気力もなく全部無駄にして今後これを機会に出さないことにしたという。
あなたは大丈夫だった?と聞かれたが自分も途中でいきなり気管支炎を起こして病院のお世話になったが
まあ、顔のやつれと生活リズムが激変したくらいで何とか今になったと報告した。

比較的若い時に出産の後の面倒を見るのは、体力的にはこなせるが、親子関係や住んでいる家の距離で
諸々異なり、想像しているのと大幅に違う。
何とか前期新生児を過ぎて、1か月検診を過ぎるころには子どももムスメの健康状態も回復して笑顔が出て
その頃を境におばあさんはクビになり、自宅での元の生活に入って行く。

友人には、子供の面倒をみて役に立ったことを感謝しなくてはならないのねと言われ、はあとうなずいた。
歴史は繰り返されるが、ムスメは子供二人は男の子だから遠い将来出産の面倒を見る
役が回ってくることはないかもしれない。
40年も前の自分の出産のときは、年子のために実家へ帰り兄嫁にすべて面倒をかけた。

もう遅いがこの年になっても頭が上がらない人がいるのは兄嫁であり、
あの世へ行っても感謝し続けることばかりである。



汗をかきまくる毎日が続く

2017年12月17日 18時06分37秒 | Weblog
11月の投稿がすっぽり抜けてしまっていた。
今日は12月の中旬であるから怠け者になってしまったかのように見える。

10月の最後の記事は愛犬の手術後の体調だった。
食事が取れずに栄養失調で余命をハラハラしながら見守る日々から経管栄養に切り替え
もう2か月が経ってしまった。

先週、抗がん剤の処方と、がんの転移と抗がん剤の効果の確認と胃に繋がっているチューブの絆創膏のまき直しで
通院した。

抗がん剤治療を開始し約1年9か月になるが定期的に腹部エコー検査と、肺のレントゲン検査、血液検査などから
転移や副作用などを推測する。
先日、抗がん剤の効能書きをもらいこの薬の有効率が23.5%と低い生存に意気消沈したが、
1年以上も生き延びるのは奇跡的と主治医からいつも言われる。
しかも抗がん剤特有の副作用の食欲不振で命を長らえないことから、10月に勧められた胃婁による経管栄養
の手術を行い、もう2か月が経った。

朝夕、注射器で溶いた粉末のパウダーを流し込む。
目に見えて毛艶が良くなった。元気よく散歩に出かけ、吠え声もやかましいほどだ。

経管栄養に切り替える前の体重は4.4キロまで減少したが高カロリー総合栄養のお蔭で体重が5.4キロに戻って来た。
13歳を過ぎたダックスは高齢犬と言われるが、若い時の太りすぎの7キロは流石に戻れず主治医から上々と
誉められた。

血液検査でも落ち込んでいた栄養価も上昇した。
人間でのある程度経験してきたがんの治療の医学的な治療の進化は、動物に関しては全く無知だった。
おろおろしながら体調が悪くなるのを手を下すすべもなく大きなストレスを抱えてきたが、主治医の判断で
この年末を明るい気持ちで送ることが出来た。

片や、近所に住むムスメの第二子が11月22日に誕生した。
4年前の出産も実家で預かり面倒を見たので今回も同じようにと思ったが、まったく考えは甘かった。
出産し入院したムスメの留守宅でマゴと婿の面倒を見なければならない。

朝早く出かけ、べんとう作りと朝食を食べさせ、保育園の送り迎え、日中は夕の食事の支度、産院の往復、
午後マゴを保育園から引き取り、
夕食を食べさせ19時前に寝てしまうため風呂に入れもう毎日家の中を走り回っていた。
日中自分の家に帰り犬の経管栄養を済ませ、お尻に火が付いたとは
この事だと70歳になった老女はあくせくの毎日だった。

4年前の第一子の面倒を見た時と内容の忙しさは全然違っているではないか。
まあ、もう間もなく出産後1か月になる。
親としての大役は済ませて、また年明けから病気の犬と静かな毎日に戻れるかな?

自分の年齢も考えなさいと周囲からは口を酸っぱく注意されている。





一寸仲良く並んでみた。

安堵・安堵

2017年10月29日 13時15分34秒 | Weblog
昨日はみるきぃの術後2週間目の通院日であった。
何故か、動物病院の通院日は雨降り的中100%。

病院の周囲は散歩に適している場所なので待ち時間が長いので散歩をして時間稼ぎしたと思っても
待合室から出られず、ひたすら順番待ちだ。

動物病院へ通院始めて毎回感心するのは、最近は患蓄は猫と犬の数が逆転したのと
飼い主は超込み合いでも黙ってひたすら文句も言わずじっと待ち続けることだ。
人間の病院はこうはいかない。
怒っていつまで待たせるのだとか、あとどのくらい待つのかと看護師や事務に怒鳴る場面も良く見られる。
動物病院の待合室は険悪さがない。

2週間ごとにこの1年半は通院しているが四季を通じての動物病院周囲の景色は
雨のために望めない。

2週間前に胃婁のチューブを入れる手術と、同時にしっぽに出来た腫瘍の摘出術を受けた。
良性らしいから細胞診は行わず、抜糸する。

人間の胃婁のチューブは1年くらいで再手術をして交換するが動物の場合はお腹の中で癒着し
手術自体が難しいから入れっぱなし。
その間、自力で食べられるようになり抜き取るか、あるいは途中で旅立ってしまうかという。

高栄養の流動食をチューブから注入する技も慣れてきた。
術後は相当痛かったのであろうと麻酔の影響もあったので体重はすぐには増えなかった。
1週間くらいして4.4kまで減っていたのが5kになった。

同時に気が付いたのが毛艶が良くなってきたこと。
朝夕2回、パウダーを溶いて流動食を作り100㏄流す。

その中にはたんぱく質40%以上、脂質、炭水化物、繊維分、カルシウム、無機質、
その他通常ドッグフードでは不可能な
栄養素が入っている。

1年半前から開始した抗がん剤服用の副作用でこの半年くらいは食欲不振で食べたいモノが無く
ドッグフードからは長いことおさらばし、
夏はキュウリやスイカやトマト、サツマイモなどほんの少し気が向けば食べた。
水分は取れるが栄養失調だろう。
体重が減るのは当たり前。

飼い主の気持ちはどんどんすさみ、死を現実として向かい合わねばならないかとばかり考える。
散歩だけが命の犬と毎日歩きいつも、この時間は今年いっぱいかと考える。

おっかなびっくり受けた胃婁の治療はこの2週間で犬は勿論、飼い主のどれだけ心の負担を軽くしてくれたことか。
人間の場合、家族が余命を宣告された場合、出来るだけ生きて欲しいと願い、
治療をする場合と自然に天に召されるのを待つのと全部その家族に選択肢がある。
長く一緒に暮らしてきた動物も飼い主は後悔ばかりを引きずって思い出しながら暮らしていく
のを選ぶかは非常に難しい選択だ。
世の中、何らかの理由で捨てられた沢山の保護犬がいるのだから。