自分で課題を見つけ、それを学び習熟することこそ教育の原点であるべきなのに、現在の学校システムは、ひたすらに文科省の作ったマニュアルに沿って、多数の学生・生徒を対象としたシステムで、様々な学校ルールによって、上からの「教育」を強要しようとしている。これは、何らかの理由で、そのような学校システムに馴染めない者にとっては苦痛でしかない。また、そのことにより、裏の学校ルールに協調しようとしない生徒に対するいじめを誘発したり、排除しようとする力につながっており、これでは、幾ら『いじめを無くしましょう』とか言っても無くならないし、不登校児が増加する一方となる。
そもそも、現在の学校システムは、明治期になって、東洋に進出してきた西洋諸国の近代化に対抗する為、同じルールと方法によって国民を教育し、それによって産業化や軍事的な強化を図ろうとして導入されたものであろう。確かに、そのことによって、明治・大正・昭和と、日本の近代化は達成され、軍事的にも強大化したが、しかし、第二次世界大戦の惨めで徹底的な敗北は、軍事官僚を中心とした日本のエリート集団の戦略的な思考や、柔軟性的思考力の欠如という欠点を露呈したとも言えるのではなかろうか。ところが、そのシステム的欠陥が十分に是正されることなく、戦後の復興期を経て高度経済成長によって、日本は経済的な成功を収めることが出来たが、ソビエト連邦の崩壊など冷戦体制の終結や、経済バブルの崩壊によって、我が国は、失われた30年と言われるような、賃金も上がらないし、経済成長も停滞するという時代を過ごしてきた。これは、我が国を指導すべき、エリート官僚や政治家達が、あえて、過去のシステムを変えようとしなかったことが原因である可能性があると思われる。
現在の我が国は、少子化による労働力の減少、生産技術の中国などへの移転、社会的格差の固定化などにより、このままでは衰退国家となって先進国の枠から外れていく可能性も大きく懸念されている。しかるに、原発事故への対応や、東京オリンピック汚職等でもわかるように、利権構造にまみれ、今までの社会システムを維持することに汲々としているような学歴エリート集団による指導体制や社会構造は、もはや限界に達しているのではなかろうか。それは、リベラルを呼称している知識人なども同様であり、その根源は、明治期に始まった学校教育システムにあるのではなかろうか。
そもそも、偏差値レベルの高い学校に入る為に過度な競争に晒されている子供達が幸せと言えるのだろうか。また、仮に、その競争に勝って、東大に代表される学歴を得て、官僚となったり、有名企業に就職したとして、それで幸せと言えるのだろうか。明らかに経済的に衰退化しつつあり、多額の財政的負債を抱え、近い将来、社会保障すらも破綻しかねず、安全保障上の脅威や大規模地震等による自然災害への懸念も抱えている現代の日本では、エリートと目されている人々も決して安泰ではなかろう。進学・就職・出世競争と、エリート達と雖も誰も幸せでない社会、そんな社会で、結婚し、子供をもうけようとする人達が増加していくと言うのだろうか。その原因は、学校システムに代表される、当たり前と見なされている社会システムにあるのではなかろうか。
都市化は、田舎から人々を集め、過度な消費社会の中で人々を消耗させている。高学歴化は、学歴格差社会を産み、貧乏人や田舎の子供達は進学に不利な為に社会的格差が固定化されつつある。しかし、学歴エリート達が本当に有能かどうかは、この30年間の経済停滞や、コロナ危機に対する政府や厚労省などの対応を見ても、評価出来ないことは明らかではないか。
日本は、社会システムや国民の意識全般が共に変わるべき時に来ていると思われるが、その為には、まず、学校システムを見直し、偏差値中心主義を改め、個々の学生が、どのような状況にあっても、自ら学び、自らの力で生き抜いて行く力を身につけるようにする必要がある。それは、教師中心の上からの教育ではなく、生徒自らが学ぶ意義を見つけるようにする必要があり、例えば、大学に進学するよりも、専門学校で外国でも通用するような実践的な力を身に着ける方が良いのではなかろうか。寿司職人でも、外国に行けば高い賃金が得られるというではないか。外国語が話せて専門的技能を持てば、例えば、日本が沈没しても生きていける。何を今更、偏差値に拘る必要があるのか。都市に行ってストレスを抱えて消耗させられるよりも、専門技能を持ち、自由に住みたいところに行って、生活をエンジョイする方が良い。
更に言えば、学校生活に不適合な変わり者でも、自分自身で将来の目標を持って、自ら学ぶ努力で道を切り開くべきで、そう考えれば、家に閉じこもってゲームばかりをしている暇は無いと気づくだろう。現代はネット社会でもあり、学ぼうと思えば、別に学校に行ってカリキュラム通りの授業を受けなくても、幾らでも学べるチャンスはあるし、文科省の定めている教育要綱などに縛られている授業こそ馬鹿げていると気づくべきだ。
また、今、LGBTQなどの人達の声が大きく取り上げられるようになり、そのような人達への差別解消や、同性婚問題なども国民の多くの賛成があるようになりつつある。これはなんなんだろうかと考えることがあるが、ある意味では、少数者への配慮が強まっているということなんだろうかとも考えている。社会に不適合な者ということでは、生まれつき人との交際が苦手だったりしてきた私のような者も入るのかもわからないが、そういった人達は、学校でもいじめの対象となったり、教師から無視されたり、社会に出ても様ざまな圧力があった。大学からエスケープした過去もあり、高卒では、まず、賃金格差があり、出世も人より遅かったし、社会生活でも様々な不都合があった。しかし、そのような人間でも日本国民の一人であり、幸福追求の権利は持っているはずである。社会に迎合して生きている多数の人達にとって、それに適合しない少数の人達を差別するのは間違っていると思う。様々な生き方が許容される社会であるべきだと思う。