おやじのつぶやき2

「おやじのつぶやき」続編。街道歩きや川歩き、散歩がてらの写真付きでお届けします。

JR内房線「浜野」~外房線「誉田」。その2。(「伊南房州通往還・房総東往還」を歩く。)

2023-11-05 13:39:03 | 房総東往還

歩き始めると、すぐ左手に古い建物。

「旧生浜(濱)町役場庁舎」。

解説板。

旧生浜(おいはま)町は、現在の中央区から緑区にまたがる地域にあった町です。1889(明治22)年に北生実(おゆみ)・南生実・浜野・村田・有吉(ありよし)の5か村が合併して生実浜野村となり、1925(大正14)年に生浜村に改称しました。1928(昭和3)年の町制施行により生浜町が生まれました。生浜町の誕生を機に、1932(昭和7)年に建てられたのがこの旧生浜町役場庁舎です。生浜町は1955(昭和30)年に千葉市へ編入されましたが、この建物は生浜支所・生浜地区市民センターとして1992(平成4)年まで使用され、長く地域の人々に親しまれてきました。木造2階建てフランス瓦葺き、市内に残る昭和初期の洋風建築で、1階は役場、2階は議場になっていました。玄関ポーチ上のバルコニーは明治初期から大正期の郡役所建築によく見られるもので、この建物の大きな特徴です。

                    

千葉市のマンホール。

中央に千葉氏の家紋「月星紋」と千葉の「千」を配した市章、周囲に市の鳥「コアジサシ」、市の木「ケヤキ」を描いている。フチに沿って配置されているのは市の花「オオガハス」。

※「オオガハス」=故大賀一郎博士が千葉市検見川で発掘した実をもとに発芽・育成に成功した古代のハスで、千葉県の天然記念物にも指定されている。2000年前のハスの実3粒のうち1粒が発芽に成功した。

これはその先にあったマンホール。

市の花・大賀ハス、市の木・ケヤキ、市のシンボル鳥・コアジサシのデザイン。 中央のマークは、千葉市のコミュニケーションマーク。弧を描く円は6つの区を表し、千葉に集まる人、もの、情報の活発な交流とコミュニケーションを表している。

内房線「西雷(にしらい)踏切」。

踏切脇のススキの群れ。

先に進みます。

             振り返る。

前方に「東関東自動車道」高架。下は国道16号線。

     交差点名は「生実(おゆみ)」

※「生実」は難解地名の一つ。生実町は、かなり古い町で、実は幕府の藩があった町。元々は『小弓城』だったのが、後に『生実』と改められ、それが地名となったようです。

千葉市立生浜小学校。

       「祝 創立150周年記念」。            ↑「チーバ君」

       田畑が広がる。

「生実町五差路」を左折。

             

左手には「本満寺」。

本満寺は本行寺を開山した日泰上人が開基となり、文明5年(1474)4月に創建したといいます。江戸時代には「不受不施派寺請禁止令」により衰亡したものの、第14世日諌が再興、數ヶ寺の末寺を擁する中本寺格の寺院だったといいます。

         

※この地には、「顕本法華宗」、また、徳川幕府によって禁制・弾圧された「不受不施派」系の寺院が多くあるようです。

※不受不施派

日蓮宗の一派。京都妙覚寺住持の日奥(にちおう)を派祖とし,江戸幕府に禁教されたので〈禁教不受不施〉の名で有名。不受とは寺や僧侶が謗法(ほうぼう)(他宗)からの布施供養を拒否すること。不施とは謗法の寺社や僧侶に日蓮宗の信者は布施供養をしないこと。法華信仰だけを正しい仏法とした日蓮宗の立場からみると、謗法からの布施供養はその邪を正すべき相手からの施物であり、受容すると,邪を正す根拠は失われる、とする。 

この先を左折し、上り坂を進みます。

                     

この付近の今昔。

                     (現在)「生実町」。寺を右折する道が旧道。

                     (1880年代)家並みが続く。

          房総東往還道は、この頃には、すでに廃道になっているようす。

上がりきると、落ち着いた家並みが続く。かつての宿場(間の宿)のような雰囲気。     


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