おやじのつぶやき2

「おやじのつぶやき」続編。街道歩きや川歩き、散歩がてらの写真付きでお届けします。

ローカル私鉄の旅。37。「わたらせ渓谷鐵道」。その2。

2023-09-22 18:33:38 | ローカル鉄道

「運動公園」。

次第に郊外へ。

               

「わたらせ渓谷鐡道株式会社本社」。

「大間々」。

          下り方向。

トロッコわたらせ渓谷号の始発・終着駅で、わたらせ渓谷鐵道の車両基地があります。
駅前には、引退した開業当時の車両(レールバス「わ89形」)が保存展示されています。
駅舎及びプラットホームが登録有形文化財として登録されています。
大間々町は江戸時代に足尾銅山に通じる「あかがね街道」の宿場となり、絹糸や農産物の産地として栄えました。商店街には歴史のある酒蔵や醤油蔵があります。

(この項、「」HPより)

大間々駅は、明治44年(1911)4月15日に開業しました。現在の本屋は開業当初の本屋の老朽化や貨物輸送や旅客の増加で建て替えられたもので、昭和16年3月30日に竣工したものです。木造平屋建セメント瓦葺で外壁はモルタル塗り、内部待合室は内壁の腰は人造石、壁面はモルタル塗りで昭和初期のモダンな雰囲気が現在でも残されています。半世紀以上も現役で稼働してきた歴史的経過の中で、明治から昭和初期にかけての歴史的な建造物の建ち並ぶ大間々の町並みと調和し、市場町として発展してきた大間々町の玄関口にふさわしい風格を持っています。

(この項、「」HPより)

わたらせ渓谷鐵道わ89-300形気動車。

車内風景。

              車内広告。

右手に渡良瀬川。

足尾の山々が見えてきます。

左手には森が迫る。

旧養蚕農家の趣。【高窓のある民家】

蚕は、群馬の農村経済を支える柱でした。「身上(家財、財産)をつくるのもつぶすのも蚕」といい、座敷を蚕室とし、「身上がけ」「命がけ」で蚕を飼いました。それだけに、人々は蚕を大切に「オカイコ」「オカイコサマ」「オコ(蚕)サマ」と尊称で呼ぶのが普通でした。そんな養蚕は、群馬の民家構造にも大きな影響を与えました。
 富士見村原之郷や渋川市赤城町勝保沢、片品村針山では、掃き立ててから2階で飼育し、下の炉で松などの太い薪を燃やして煙を立てる「いぶし飼い」を行っていました。天井の板はすき間を開けて、暖かい空気が上昇するように、2階はまわりに障子をめぐらし、床にむしろをひきました。
 大正から昭和にかけて、稚蚕期に蚕室を目張りして、養蚕火鉢などで保温する密閉育になると、稚蚕期は下の座敷で飼い、大きくなったら2階も含め家全体を使って飼うようになります。一般に、養蚕農家の二階は、蚕室として活用できるように、仕切が無く広々としています。さらに、2階への採光や、壮蚕期に必要な空気の流れを良くするため、さまざまな民家構造が考え出されていきました。
 北部山間部にある、茅葺き屋根の妻を切り落とした民家。赤城南麓に分布する、茅葺き屋根の前面ヒラの一部を切り落とした赤城型民家。あるいは、榛名山麓のやはり前面のヒラを切り落としてそこに庇(ひさし)をつけた榛名型民家。屋根の棟の上に、換気のために建てられた高窓(ヤグラ。ウダツとも言う。)も養蚕農家の特徴です。

(この項、「」HPより)

コスモスが咲き乱れる。

「上神梅(かみかんばい)」。

2008(平成20)年に、駅舎及びプラットホームがわたらせ渓谷鐵道の施設としては初めて登録有形文化財に登録されました。足尾鉄道の開業当初からの歴史を見守ってきた駅舎は1912(大正元)年の建造で、駅舎ファンの間では全国的にも「横綱級」と称えられています。珍しい木製の改札が残り、昔と変わらぬ姿の現役の駅舎とともに写真撮影スポットとしても人気があります。

「本宿(もとじゅく)」。

    <img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/9a/4cdcc2aa755846b1b061bf1d6f16ebfb.jpg">渓谷と山間を進む。   

 

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