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おやじのつぶやき2

「おやじのつぶやき」続編。街道歩きや川歩き、散歩がてらの写真付きでお届けします。

JR外房線「行川アイランド駅」~「安房小湊駅」。その5。(「房総東往還」を歩く。第8日目。)

2024-01-18 13:03:31 | 房総東往還

小湊漁港内。正面奥は、鴨川方向。

             

                  

「遊歩道」案内板。

「鯛の浦遊歩道」先端。小弁天島。

右端の島は、大弁天島。

昭和皇后の短歌を刻んだモニュメント。

水際まで下りてみました。そこには、こんな風に穴の空いた石がたくさんあります。

                  

はて?

生きた貝が穴を空けるというケースがあります。
これはボーリングシェル(穿孔貝せんこうがい)と呼ばれる貝が、柔らかい砂岩や泥岩を削ったり、あるいは酸で石を溶かして穴を明けたものです。
石に穴を開ける貝としてはタガソデガイモドキ、トマヤガイ、カモメガイ、モモガイ、キナマツカゼガイ、イシマテガイヤエウ、メノハナガイ等があり、貝の大きさやによって穴の径や、角度が変わってきます。

一般的な磐笛の多くはこの貝由来のタイプをいい、酸に溶けやすい石灰岩や泥岩や砂岩の場合が多く、深い穴が特徴です。

岩(磐)笛

磐笛には決まった形というものはありません。
岩石の種類も様々ですが、「自然の穴ありて、吹けばなるもの」であり、種々の要因で穴があいたものです。

約5000年前の縄文時代中期頃に使用され始めたと推測される楽器です。

さまざまな自然現象によって小石の一部分に穴が穿かれ、天然自然の楽器としてこの世に生まれたのが岩笛です。やがて縄文人たちは巧みな技術を用い、自然への畏敬をこめて自分たちで岩笛を作り始めたのでした。

もともとが天然自然の石でしたから、他の管楽器のような指穴などありません。しかし穴が一つあいただけのこの石で、1オクターブを上回る音程と旋律を吹き分けることができるのはまさに奇跡の業(わざ)とも言えるでしょう。

岩笛の音は 素朴なものです。
人工的な楽器のように自由自在に旋律を奏でてくれるものではありません。
しかし、その音色を聞くと、あたかも故郷の母の懐に抱かれたような安らぎを憶えるのは不思議です。古くからこの楽器と親しんだ日本人のDNAを刺激するばかりではなく、その音色を聞いた多くの外国人が「なつかしい音だ」という感想を述べるのは不思議なことです。

それは人間もまた自然の一部に過ぎず、人間の英知も所詮は自然現象のひとつでしかないことを教えてくれるようにも思えます。岩笛の音色があらゆる人間の心の奥底を揺さぶり動かすのは、すべての人間がおなじ自然を共有していることの表れではないでしょうか。東洋思想の「身土不二」(身体と大地は一元一体である)は、まさにこうしたことを指しているのでしょう。

(この項、「にっぽん文明研究所」HPより)

岩場。

しばらく青い海と青い空を眺めます。


JR外房線「行川アイランド駅」~「安房小湊駅」。その4。(「房総東往還」を歩く。第8日目。)

2024-01-17 13:38:00 | 房総東往還

小湊山誕生寺総門。

 誕生寺は、日蓮聖人生誕の地に建治2年(1276)に建立されました。
 明応7年、元禄16年の2度の大地震、津波により水没したこともあり、寺域を現在地に移して堂舎を再興しました。
 宝暦8年(1758)の大火で誕生寺の諸堂は焼失しましたが、宝永3年(1706)に建立と伝えられる「仁王門」のみ焼失をまぬがれました。県内でも最大規模の仁王門で、創建時の様子をとどめている貴重な建造物として、平成9年に県の有形文化財として指定されました。
 また、日蓮聖人が下総の富木常忍の妻に宛てた「富城殿女房尼御前御書」は、日蓮聖人58歳の時の御真筆と思われ、聖人の閲歴を知る上で貴重な資料として県の有形文化財に指定されています。他に、本堂と祖師堂に安置されている中世期の「木造日蓮聖人坐像」2軀は、日蓮聖人の古肖像として重要な作例で、市の有形文化財に指定されています。

・・・

(この項、「」HPより)

※上記にもあるように、日蓮聖人誕生の地は海底に沈んでいるようです。

                              (「今昔マップ」より)             

境内から小湊漁港を望む。

境内図。

       

           日蓮聖人御幼像。

小湊漁港。

小湊漁港から誕生寺を望む。

「鯛の浦遊覧船乗り場」。

「鯛の浦遊歩道」を歩くことに。

               「特別天然記念物 鯛の浦タイ生息地」

内浦湾内、誕生寺前の渡船場から東南方へ船で5分ぐらいの海域で、伊貝島、弁天島などの近辺に多数のタイが群生するので、この辺りを「妙の浦」と呼んでいる。ここに集まるタイ類は、大部分がマダイで、ほかにクロダイ、メジナ、イスズミなどが混ざっている。マダイは、深さ30~150㍍ぐらいの海中に生息し、普段はその中層あたりを泳いでいる定着性の近海魚である。しかし、鯛の浦は、10~30㍍の浅海で、しかも限られた狭い海域に生息し、人間の投与する餌(魚の切り身など)をよく食べるのは、ほかに見られない現象である。日蓮聖人が誕生した古来殺生禁断の聖地であり、観光船の船ばたをたたくと海底から浮上させあらそって餌をもとめるのは不思議なことといわれている。

・・・

通常の鯛は、定着性の深海魚です。水深約30mから、150mまでの、海底が岩や砂利のところにすんでおり水温8度以下の海にはすんでいません。また、マダイは深海性の魚で小回遊の習性があり、群れをなさないといわれています。
通常の鯛と違い、鯛の浦の鯛は年中、一定海中に群れをなしてすんでいます。鯛の浦の鯛が年間を通じて船べりをたたく音を聞くと水面近く群れをなして出現し、与えられた餌を食べるという事は、非常に珍しいことなのです。鯛の浦の現象は、科学的には完全に解明されていません。その習性が珍しいので、「鯛の浦のタイ生息地」として指定を受け保護されているのです。日本でこのような習性を持つ鯛が鯛の浦だけに生息しているのは、鯛の浦周辺に住む人々の遠い昔から続いてきた信仰の歴史と、素朴な鯛保護の精神が生きているからなのです。

(この項、「」HPより)


JR外房線「行川アイランド駅」~「安房小湊駅」。その3。(「房総東往還」を歩く。第8日目。)

2024-01-16 18:39:27 | 房総東往還

背後には山が迫っています。

房総の海が広がる。

                  内房では対岸に三浦半島が見えますが、はるかかなたまで海が。

雀島。磯釣りが盛ん。

この付近から海沿いの道から山中の道(峠道)になります。

隧道を抜けると安房小湊の町へ。                   

                      隧道の先は森の中へ。

木洩れ陽の中を下っていく。

隧道を振り返る。

林道風な道。

           

                  隧道の上を進む旧道?

住宅が現れます。左手は廃墟?

正面奥に「誕生寺」が見えてきます。

      誕生寺。裏手の方から歩いて来たようです。


JR外房線「行川アイランド駅」~「安房小湊駅」。その2。(「房総東往還」を歩く。第8日目。)

2024-01-15 18:41:27 | 房総東往還

古びた木製の案内板。

                     「←・・・ 誕生寺→」。

この付近の今昔。

明治以前、山側に古道があったが、その後は、ほぼ廃道。明治以降から唯一の道となる。(「今昔マップ」より)

※1969(昭和44)までは、国道128号線として位置づけられていました。

さて、旧道(「伊南房総通往還=房総東往還」)を海沿い(崖沿い)に歩くことに。

振り返る。「大沢漁港」から北の道は、廃道に近い。

             眼下に房総の海が広がる。

           風もなく、穏やかな日差しのもと。

  車も行き来するので、ちょっと怖い。頑丈なガードレールはあっても、左は垂直の崖が続く。

右手は崖。コンクリートで固められているが、そうでないと、・・・。

       

「落石注意」の看板が随所に。

               しかし、地震などで崩壊したら、にっちもさっちもいかなくなりそう。

それでも雄大な景色を堪能しながら歩きます。

振り返り、振り返りしながら歩く。

※太陽が左上にあり、反射するので、写真がうまく撮れないせいもあり。

頑丈なガードレール。

遠くに雀島。その向こうは、入道ヶ岬。

貝類(アワビ・サザエ・トコブシ等)・海藻類の密漁禁止!

ここは、東安房漁業協同組合小湊支所の漁業権が設定されており、資源及び漁場管理をしている漁場です。組合員は貝類・海藻類を重要な生活の糧にしておりますので、海のルールを守って下さるようお願いします。これに従わない場合は、「犯罪」として取締機関への通報・告訴の手続きを執りますので、ご注意下さい。


JR外房線「行川アイランド駅」~「安房小湊駅」。その1。(「房総東往還」を歩く。第8日目。)

2024-01-14 13:55:52 | 房総東往還

今回。前回の「勝浦駅」から「行川アイランド駅」までは電車(二駅 「鵜原」「上総興津」)で移動。

そこから「おせんころがし」を歩いて、「安房鴨川駅」まで歩くことにします。

「行川アイランド駅」。

           下車したのは、小生のみ。日陰にあるせいか、よけい寂しい雰囲気。

「行川アイランド」駅

2006年(平成18年)度の1日平均乗車人員19人であり、県内のJR駅の中では最も少なかった。1990年代前半は200人超であったが、1994年に200人を割ってからは、年々減少の一途をたどっている。駅名の通り実質的に行川アイランドの来園のための専用駅で、閉園後は一気に利用客が減少した。

「行川アイランド」

1964年8月13日に開園してフラミンゴショーの人気などから1970年に年間117万人もの入場者数を記録し、外房線行川アイランド駅が設けられた。しかし、レジャー施設が皆無であった近隣の鴨川町(現:鴨川市)に大規模水族館の鴨川シーワールドが1970年10月に開園すると、当園の入場者数は同年から減少しはじめた。

1973年には年商10億円強、1974年には年商15億円強と好調さを取り戻すものの1975年には不況で入場者が激減。1976年には約50億円の負債を抱えて会社更生法を申請。その後、株式会社行川アイランドが運営を受託する形となったが、同年以降は一度も黒字になっていない。

1970年代にかけて、現在の鴨川市・南房総市館山市や周辺地域で太海フラワーセンター(鴨川市)・ロマンの森共和国君津市)・マザー牧場富津市)など中小規模の観光施設、リゾートホテルが相次いで開業したが、1983年東京ディズニーランド開園で観光客を大きく奪われた。バブル景気時期は南房総のレジャー施設を泊まりがけで周遊するなど入場者数は一時持ち直したが、バブル崩壊後の景気低迷やレジャーの多様化で、入場者数と宿泊者数が減少して累積赤字の増加が続いた。

1997年東京湾アクアラインが開通して房総半島へのアクセスが改善されるも、鴨川市や館山市方面と異なり接続道路から大きく外れ、また開通当初は通行料金が高額で通行量が少なく恩恵はほとんど得られなかった。

近隣の鴨川シーワールドは東京湾アクアライン開通を見越して施設拡張し、日本で初めてシャチが出産するなど話題性から集客力を得るが、行川アイランドはアトラクションの陳腐化などもあり2000年の入場者数は年間19万人まで減少し、売上高も最盛期の半分の6億円となった。開園以来ショーを行ってきたフラミンゴが高齢化し、1羽50万円の購入費用も困窮し、2001年8月31日に閉園した。

(この項、「Wikipedia」より)

「ご案内 行川アイランド 東方200M おせんころがし 南西200M」。

看板もすっかりあせてしまっています。

国道128号のトンネルを通って海の方へ。

ここで、道を間違えてしまいました。「孝女・おせんの身投げ供養塔」に行くためには、トンネルの手前で海の方に向かわなければならなかったのです。

※左手の駐車場のような空き地のところを海の方に進むが、その付近は寒々しい印象が強く、ちょっと逡巡してしまった。

(「日本伝承大鑑」より)

(勝浦市)お仙ころがし

むかし、房州大沢一帯を領地にした、古仙家(こせんけ)という豪族がありました。

古仙家は、代々領内の人たちをよくめんどう見たので、みんなから大変親しまれていました。

あるとき、古仙家では、かたいおきてを破り、年貢を高くすることに決めました。領内のはげしい不満の声もよそにして、見る見るうちにさらにお金持ちになりました。

ところが、古仙家の夫婦の間には、子供がありませんでした。夫婦はいろいろ手をつくしましたが、神だのみより仕方がなくなり、9月13日の月姫にお願いしました。ようやく願いかなって、翌年かわいい女の子が生まれました。

「これこそ月姫さまのお授け下さった子だ」

と領主は仙という名をつけ、年貢にあえぐ領内の人たちとは別に、古仙家はよろこびにつつまれていました。

お仙は、大きくなるにつれて美しくなって、父と母のかわいがり方はいっそう深まりました。お仙の好きなものはなんでも買ってやりましたが、父と母はそれでもまだ物足りないくらいでした。

ところが、領内の人たちはこうした蔭で、だんだん重くなる年貢にすっかり困ってしまいました。血気にはやる若者たちは、

「仙の顔も三度だっぺ、悪領主をやっつけて、この大沢をむかしの土地にしべえじゃねえか」

といきり立ちました。こうしたたびごとに老人たちにとめられ、仕方なく泣き寝入りをしてしまいました。

こうしたことが、いつの間にか賢いお仙の耳に入りました。ちょうどお仙は13歳になっていました。ある日、思いあまったお仙は両親に向かって、

「仙からお願いがございます。おききください。本当に仙がかわいいのでしたら、私の着物は木綿にしてください、下々の近頃の苦しみをきく仙の心は苦しいのです」

とかたい決心をのべました。さすがの父も、このいじらしいお仙の言葉に、

「それほどいうなら仙よ、お前の心のままにするがいいぞ」

とゆるしてくれました。

お仙が娘盛りの18歳になった夏のことでした。稲の穂は重くみのり、領内の人たちは久しぶりにあかるい顔になりました。しかし、領主はこの豊作に目をつけ、さっそく回状を出して、今年から6分4分の割合で年貢を納めるよう伝えました。

一番はじめに回状を受け取った男は、隣りへ持ち込み、

「あんだ回状か、あんて書いてあるのかしらねえが、どうせろくなことじゃねえだっぺ」

「おいさ、おれもさっぱりわからねえよ」

とつぎつぎに回状をまわしたものの、だれにも6分4分の年貢の納め方がわからず頭をひねりました。

ようやくわかったのは、名主の久右衛門のところでした。字の読めない人ばかり大勢集まったなかで、回状を持ち、

「みんな、よくきけよ、6分4分というのはな、6分が領主で、残りの少ない4分が作人のもんだ」

と説明し終わると、これをきいた人たちは、たちまち真剣な顔になり、

「おらあ、今度こそ命をはってもいやだ」

と一人がいいだしたところ、

「おれもそうだ、おれもそうだ」

と大変なさわぎになってしまいました。

名主は仕方なく、また立ち上がり、

「みんながこうしておこるのも無理はねえ、だがこのままじゃおとがめがあるぞ、そればかりじゃなく、先代さまにも申し訳がねえ、ここんところは名主のわしにまかせてくれねえか」

となだめて、さっそく書面を持って領主のところへお願いに行きました。

ところが、欲に目のくらんだ領主は、名主の静かな願いもきかず、頭から噛みつくような応待でした。ところが隣の部屋で心配していたお仙は、大変なことになったと心を決し、

「おとっつあん、望みがかなった豊作だからといって、6分の取立てじゃ百姓が困ります。生きる瀬がないでしょう、仙はきれいな着物も、ぜいたくな食べ物もほしくありません、どうか百姓の願いをきいてやってくんなさい」

と必死に頼みました。それでも父のは、どうしてもわかってもらえませんでした。

こうしているうちに、秋の祭りの日が来ました。

その夜のことです。祝いの酒に酔いつぶれた領主を、火の玉のようになった若者たちがおそい、とうとう神輿をもむようにかつぎ出し、目もくらむ断崖から投げ落としてしまいました。

翌朝集まった人々は、

「どうだい、欲の固まりも、ゆんべはいい往生をとげたっぺ」

「ああ、そのとおりだよ」

「どうだこれから、そのざまを見てやるべえ」

と断崖をぞくぞくと降りて行きました。しばらくたって先の方から「ああっ」という声がしたので、仲間はおどろき駆けよったところ、なんとそこには、みんなから親しまれ頼りにされていた、お仙のいたましい死体がありました。

だれもお仙が父の衣裳を身につけて、身替わりになっていたことを知りませんでした。人々はおどろき、不覚を恥じて、変わりはてたお仙をなかにして男泣きに泣きつづけました。

こうしたことがあってから、おせんころがしという地名ができたということです。

(この項、「千葉県」HPより)

「大沢漁港」へ下ります。

           「孝女・おせんの身投げ供養塔」方向。断崖絶壁。