サンチョパンサの憂鬱

責任は誰の為に取るのか?

一つの事象において、必ず加害者的側面と被害者的側面とがある。

軍部の横暴に引きずられた?……そんな戦争の理由をよく耳にする。
原爆を許さない……そんなフレーズはとても正義で勇ましく、立派である。
私達庶民は騙された?なんて理由もある。

あれだけの悲惨を現実に通過して、分析は必ず自分達を『被害者として』語られるのである。

万歳を叫び若者を送り出した人間達が数多く居た筈だが?……。

ムッシュボヴァリーとその系譜の女達は自らが加担して起こした事象にも、被害者としての自分しか見出だせない。
誰かが何かが首謀して事は起き、自分達は『巻き込まれた存在』なのだとして全てを語るのである。

被害者の立場からは学ぶべきモノは何も無い。
加害者の立場は、その失敗した事に対して、その失敗を自分には行う意思があった事を発見している。

自分の意思と責任で行ったのだ!……との立場でその事を見れば、誰かのせいじゃなく、数多くの『自分の失敗』が浮き彫りになる。
だからこそ……加害者の立場に立てる人は学べるのである。

何回、同じストーリーで失敗を繰り返しても、被害者的に物事を観る人は、
モノゴトに対する『自分の意思と責任』を獲得出来ないのである。

起きた事に対して、『意思と責任』がないのだから……保護されるべき子供の立場なのである。
子供に対しては責任も意思も無いのだから責めようがないのである。
下手に問い詰めれば、泣くか?喚くか?どちらにせよそんな所が関の山なのである。

被害者的な立場の人間とは、悪事を共有出来ない。
何か不都合があれば直ぐペラペラと100%被害者となって喋りまくるからである。

一つの悪事を二人でやろうと、お互いが、これは『私の意思と責任に於いての悪事』だとの認識を、自分の沽券(美学)に照らして主張する時……その悪事は文学へと昇華を果たすのである……。
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