このところ、ずっと自宅PCに冷静に向き合う時間がとれずにおりました。
結果的に、ひさびさの新しいトピックスになります。
人に限らず命には限りがあるのは宿命ではありますが、
やはりたいへん哀しい話題が出ました。
瀬戸内寂聴さんが、旅立たれました。
99歳でした。
素晴らしい寂聴さんの功績を辿るべく、
当ブログでも何回かに分けましてお届けいたします。
東京新聞 2021年11月12日付社説
「寂聴さんを悼む 生涯を貫く反戦と慈愛」
https://www.tokyo-np.co.jp/article/142375?rct=editorial
京都の寂庵(じゃくあん)をはじめ各地で仏の教えを説き、
生き惑う人の悩みに真剣に応じた。
「心配ないわよ、大丈夫よ」と励ます笑顔は、人を愛し、慈しむ思いに満ちていた。
瀬戸内寂聴さんの死を悼む。
僧侶として作家として、何人分もの人生を生きた。
その99年の生涯を象徴する言葉の一つは、「反戦」。
20代で迎えた第二次大戦の日本の敗北に端を発する。
戦中は当時の夫と中国・北京で暮らし、現地での日本人の行動をつぶさに見た。
「中国の人が引く人力車にふんぞり返って乗って、頭を蹴っとばして行き先を伝えるのよ。
本当にひどかったわね」
それでも「日本の戦争を聖戦と信じこむ忠君愛国の主婦」だったというが、
敗戦の翌日、ひそかに出かけた北京の街頭で、
中国人の書いた「敵に報いるに恩をもってなす」という句を見た。
「自分がいかに愚かだったか、初めて目が覚めた」と後に述懐している。
まじめな主婦は従来の価値観を根底から揺さぶられた。
帰国後は道ならぬ恋に落ちて、離婚。
少女時代から愛する文芸に生きる道を求めたが、小説「花芯」がポルノだとされて、文壇から干される。
こうした来歴ゆえ、瀬戸内晴美として活躍した時期も、出家して瀬戸内寂聴となった後でも、
毀誉褒貶(きよほうへん)がつきまとう。
だが「そんなこと、どうでもいいのよ」と笑い飛ばした。
自分自身の思い定めた生き方をひたすら貫いたのだ。
1953年の徳島ラジオ商殺人事件に関する活動も特筆したい。
有罪とされ、服役した女性の冤罪(えんざい)をはらすため私費で長年奔走し、
日本で初の死後再審と無罪判決を勝ち得た。
ドレフュス事件で不正を告発したゾラと同様、文学者の社会参加として未曽有の功績だ。
仏の教えに従い「殺すなかれ、殺させるなかれ」と訴え、
反戦と護憲を説き続けた。
災害があれば被災地を手弁当で訪れて被災者を慰め、涙ながらに感謝された。
東日本大震災と原発事故の後は反原発を唱え、90歳を過ぎてもなお街頭の抗議活動に加わった。
小柄な体に無尽の文才と行動力、慈愛の心に満ちていた寂聴さん。
その足跡を長く記憶に刻みたい。
瀬戸内寂聴さん 1年5カ月ぶりに青空法話(神奈川新聞・ノーカット)
2015年10月11日、
岩手県二戸市・天台寺にて収録。
結果的に、ひさびさの新しいトピックスになります。
人に限らず命には限りがあるのは宿命ではありますが、
やはりたいへん哀しい話題が出ました。
瀬戸内寂聴さんが、旅立たれました。
99歳でした。
素晴らしい寂聴さんの功績を辿るべく、
当ブログでも何回かに分けましてお届けいたします。
東京新聞 2021年11月12日付社説
「寂聴さんを悼む 生涯を貫く反戦と慈愛」
https://www.tokyo-np.co.jp/article/142375?rct=editorial
京都の寂庵(じゃくあん)をはじめ各地で仏の教えを説き、
生き惑う人の悩みに真剣に応じた。
「心配ないわよ、大丈夫よ」と励ます笑顔は、人を愛し、慈しむ思いに満ちていた。
瀬戸内寂聴さんの死を悼む。
僧侶として作家として、何人分もの人生を生きた。
その99年の生涯を象徴する言葉の一つは、「反戦」。
20代で迎えた第二次大戦の日本の敗北に端を発する。
戦中は当時の夫と中国・北京で暮らし、現地での日本人の行動をつぶさに見た。
「中国の人が引く人力車にふんぞり返って乗って、頭を蹴っとばして行き先を伝えるのよ。
本当にひどかったわね」
それでも「日本の戦争を聖戦と信じこむ忠君愛国の主婦」だったというが、
敗戦の翌日、ひそかに出かけた北京の街頭で、
中国人の書いた「敵に報いるに恩をもってなす」という句を見た。
「自分がいかに愚かだったか、初めて目が覚めた」と後に述懐している。
まじめな主婦は従来の価値観を根底から揺さぶられた。
帰国後は道ならぬ恋に落ちて、離婚。
少女時代から愛する文芸に生きる道を求めたが、小説「花芯」がポルノだとされて、文壇から干される。
こうした来歴ゆえ、瀬戸内晴美として活躍した時期も、出家して瀬戸内寂聴となった後でも、
毀誉褒貶(きよほうへん)がつきまとう。
だが「そんなこと、どうでもいいのよ」と笑い飛ばした。
自分自身の思い定めた生き方をひたすら貫いたのだ。
1953年の徳島ラジオ商殺人事件に関する活動も特筆したい。
有罪とされ、服役した女性の冤罪(えんざい)をはらすため私費で長年奔走し、
日本で初の死後再審と無罪判決を勝ち得た。
ドレフュス事件で不正を告発したゾラと同様、文学者の社会参加として未曽有の功績だ。
仏の教えに従い「殺すなかれ、殺させるなかれ」と訴え、
反戦と護憲を説き続けた。
災害があれば被災地を手弁当で訪れて被災者を慰め、涙ながらに感謝された。
東日本大震災と原発事故の後は反原発を唱え、90歳を過ぎてもなお街頭の抗議活動に加わった。
小柄な体に無尽の文才と行動力、慈愛の心に満ちていた寂聴さん。
その足跡を長く記憶に刻みたい。
瀬戸内寂聴さん 1年5カ月ぶりに青空法話(神奈川新聞・ノーカット)
2015年10月11日、
岩手県二戸市・天台寺にて収録。