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音楽大好き男の徒然なる日記

札幌と原爆 幻影を見た 伴野昭人(北海道新聞 2021年7月18日付記事)

2021-07-29 | 日記
北海道新聞 2021年7月18日付「風・論説委員室から」より
「札幌と原爆 幻影を見た 伴野昭人」
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/568296?rct=c_wind

夏が近づくと、決まってよみがえる光景がある。

30年前、広島市に住んでいた。
アパートの真向かいに広島赤十字・原爆病院があった。

深夜に部屋の窓から病棟を眺めていると、玄関に1台の車が寄せられた。
白い布に包まれた遺体が看護師らに見送られ、家に帰っていくのを目にした。

戦後40年以上が経過していたのに、なおも多くの被爆者が後遺症で苦しんでいた。

もうすぐ76回目の原爆投下の日を迎える。
実は北海道も米軍内部で広島、長崎後の原爆投下候補として挙がっていた。

<札幌、函館、小樽、横須賀、大阪、名古屋>

終戦前日の1945年8月14日午前2時23分。
グアムのトゥワイニング第20航空軍司令官から、陸軍戦略航空隊の総指揮官あてに電文が打たれた。

これら6都市を「特殊爆弾(原爆)を使用する第509混成航空群の攻撃対象として検討するよう勧告」した。
目標都市名は原爆投下の優先順だという。

資料は大阪国際平和センター(大阪市)が所蔵する。

ただ、米国の原爆関連文書を翻訳した
「資料 マンハッタン計画」(1993年、大月書店)に同じ資料が載っている。
一部の研究者らには既知の情報だ。

では、戦争が長引いたら、
3発目の原爆は札幌、函館、小樽に落ちたのか。
原爆や空襲に関する数々の米軍資料を発掘してきた徳山高専元教授の工藤洋三さん(71)はこう語る。

「広島投下後、前線の司令官がグアムに集まり、
3発目の原爆を東京に落としたいとワシントンに提案したが拒否された。
それがこの札幌を含む新たな目標の背景にあったと思う」

工藤さんは「歴史的文書」としつつ、爆撃機の航続距離を考えれば「投下の可能性は極めて低かった」と話す。

記者の祖父母は終戦時、道内に住んでいた。
「極秘」と書かれた英文資料の存在を知ったとき、肉親の顔と「きのこ雲」が重なって浮かんだ。

敗戦から18年後、芸術家の岡本太郎さんは広島市を訪れ、ある「ズレ」に気がつく。

原爆の落ちた日の行事を「平和記念式典」とし、
爆心地を「平和記念公園」と呼ぶのはすり替えではないか。

8月6日を心に留めたいのなら、原爆あるいは被爆記念日が正しいはずだ。


「いったい、忘れようとするのか、
絶対に忘れず、かきたて、
思いおこし、再び現実に働きかけようと意志するのか」

岡本さんの言うように日本人は中途半端だった。
核への態度は二面性を抱えてきた。

軍事利用としての核兵器の廃絶を願いながらも、
一方で米国の核の傘に安住する。

さらに「原子力の平和利用」の名で原発を積極的に受け入れた。

そもそも、核分裂が引き起こす同根の巨大なエネルギーを峻別(しゅんべつ)などできるのか。

原発から出る使用済み核燃料を再処理してプルトニウムを抽出し、
その再利用を図る核燃料サイクル―。
政府は東日本大震災後も諦めていない。

軍事転用が可能なプルトニウムはどんどんため込まれる。

「作ろうと思ったらいつでも作れる。
でも作らない。
とはいえ何か問題が起これば作るよ」

評論家の加藤典洋さんは、世界から見たら「潜在的核保有国」の日本をそう表現した。

広島市の原爆慰霊碑は
「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」と刻む。

その「主語」は誰か。
米国か、日本か、人類か、論争もあった。

今、私たちに必要なのは主語を担う気概だ。
核を巡る二面性のゆがみを直視すべきだ。


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ほんとうに、日本人はズルい。
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