夕螺の一言日記

毎日心に浮かんだことなどを書いてみたいと思います。。。(2014年3月13日開設)

2014年 4月 8日(火)2「社会実験」

2014年04月08日 19時43分49秒 | 「政治・経済」
旧ブログのまとめです。数日に分けて書いたものでまとまりもなく知りきれトンボです。時間があるときに続きをと思っていたのですが。。。個人的なメモというところかな。

     (1)
一部高速道路の無料化を「社会実験」という言葉で現していたように思う。
高速道路料金については、土日・祝祭日は1000円というものが来年なくなるようで、その後は検討中らしいが、すべての高速道路無料化というマニフェストはチャラになり、車種による上限が新たに検討されているようです。軽やエコカーは1000円、その他の普通車は2000円が上限に。予備曜日に関係なくということは平日も?
3歳以下の子供に子供手当て。これもマニフェストがチャラになった中の代案ですが。
そのほか政府によるいろいろなバラまきが行われていくわけですが、これが一つの社会実験となることはたしかでしょう。
また、「休暇分散化」というものも検討されていたようですが、休む日を分散化させることによるメリットやデメリットが。これもまた社会実験でしょう。
さらにこの社会実験というものがすすむと、医療費や教育といった国民生活になくてはならないものの無料化にすすまざるを得ません。それが社会民主主義という社会実験にすすむ。
そうなると国の財源が問題になり、消費増税が出てくる。
そこで社会実験ですが、以前にも書いたように労働者の労働力を買ったときにも5%の消費税をかける事が検討されてもいいのではないでしょうか?企業は個別の競争からはんれて平等な支出となり、賃上げを形を変えたやり方でできる。この消費税には益税を設けたり、中小零細企業には還付も必要でしょう。これにより個人消費は増えるわけです。
今アメリカが40兆円・ものバラマキをして個人消費がクリスマス前に伸びたといいますが、これまでの日本の景気対策と同じように早ければクリスマス後には破綻します。そしてまた株価が下がります。こういったものではない経済成長への社会実験。これが必要でしょう。その道筋にあるのが社会実験としての日本型社会民主主義です。

(追記)
休暇分散化ですが、国民すべてを週7日に休みを振り分けて学校やすべての社会帰還や企業を365日営業とする。これは相当メリットのある社会実験です。土日に休みたいというのや知人と過ごす時間がとりにくくなるとかというデメリットは、土日に休んでいる人たちの個人的なもので、考えようによっては役所や銀行に行くとかは便利になるわけです。これもまた社会実験でしょう。

     (2)
中国が金融の引き締めに移行しそうです。
中国では消費者物価指数が上昇をし、不動産はバブル化しているようです。
この中でインフレは加速しそうな勢いでありそのための金融の引き締めでしょうか。現在の成長を安定的なものにするための「安定成長」を目指すものでしょうが経済成長とインフレの矛盾をどう解決するか、日本やアメリカの二の舞をするのか中国独自の経済政策を行うのか。
中国のバブル化の一つの要因としては、中国が自らが金融危機後に行った50兆円の景気対策にもありますが、現在アメリカが行っている40兆円の景気対策や金融緩和といった資金が中国にも入ってくることによるそうです。それはヨーロッパや日本の金融緩和、日本のゼロ金利や日銀が直接市場へ資金を流すという流れにもあるのでしょうか。
先進国では日本のデフレを筆頭にデフレ傾向が強まる一方その先進国の資金は中国に集まる。先進国の景気対策や金融緩和の資金は「だぶついた資金」として中国に流れる。これを見るとデフレというのは市場に金が足りないからではなくてむしろ金がだぶついているということになる。資金を国内では消費しきれないということ、これはその資金を生かす国内的な経済の疲弊ということになります。経済成長は低く、下手をすればマイナス成長となる現状のなかで、資金はあふれるが生かすだけの国内消費は先細りをしている。それはさらに内需関連の企業を駆逐していく。
経済対策や金融緩和というものがすすめばすすむほどデフレ傾向は強まる。金づまり。。。。資金のだぶつき。資金の海外流出と金が集まる国においてのバブル崩壊。。。。。
このような企業生き残り競争と株価金融に頼る経済政策はすでに崩壊をしているわけで、この経済政策の発想の転換が迫られているわけです。
中国の50兆円とかアメリカの40兆円とか、日本も同じですが気の遠くなるような金がだぶついてきている。一方では、日本を見ても4000億円ほどの子供手当ての財源をどうすると議論されるちぐはぐさ。この矛盾をどうすれば解決できるかがデフレ傾向の解決にもなるのではないでしょうか。
デフレは商品価格を下げ賃金を下げていく。国内消費は停滞をし投資先は狭まる。そこに巨額の政府資金が流れる。国家は赤字を増大させていく。だぶついた資金はバブルと消える。誰が見てもこれは矛盾として見えるだろうが、この毒饅頭を食わざるを得ない飢えた経済システムになっているわけです。
社会資本の整備という言葉がありますが、この社会資本の整備は「ハコモノ」などという無駄なものをつくることではなくて、国民生活の安全や安定につながるものの整備なはずで、同時にそれは福祉といった観念から離れた経済政策から見ないとだめなはずです。国家財政というものは「所得の再配分」として使われなくてはならない。しかしそればバラマキであってはならず、教育や医療、交通などという国民生活になくてはならないもの(それは国家としてもなくてはならないものですが)を整備すると同時に無料化を通して国民負担を減らし最低限の生活は保障されるといったものにならなくてはいけません。これにより労働者の負担が軽減されるわけですから賃上げというものの必要性が薄くなります。例を揚げれば労働者が病気になったり死亡した場合家族のためにという保険がありますが、国家がこれを保障すれば高い保険料という支出がなくなりそれだけ賃上げは必要でなくなります。
労働の生産性の向上は商品の価格を下げる。社会的合理性は賃金を下げる。
これはデフレと勘違いをされますが、社会的な経済政策の変更によっては社会の発展となるわけです。
そこにはもう少しなぜ商品価格は下がる傾向になるのか、賃金はなぜ下がる傾向になるのかを見なくてはならない。

     (3)
先日書いた(2)の最後に
「労働の生産性の向上は商品の価格を下げる。社会的合理性は賃金を下げる。
これはデフレと勘違いをされますが、社会的な経済政策の変更によっては社会の発展となるわけです。
そこにはもう少しなぜ商品価格は下がる傾向になるのか、賃金はなぜ下がる傾向になるのかを見なくてはならない。 」
と書きました。
ある商品を生産するには生産手段と労働力が結びつかねばなりません。企業は生産手段と労働力を買うわけですが、それは生産手段を買うための不変資本と労働力を買うための可変資本を投資します。ここでは生産手段も労働力もその価値どうりに支払われます。
労働の生産性が高まるというのは、より少ない労働力でより多くの商品を生産することにあります。そのために機械化は進み生産システムは合理化されます。例えば、ある企業が今までは1000人の労働力を使って年間10万個の商品を作っていたとします。この中で生産性が高まり、極端な数字ですが、年間20万個の商品を生産できるようになったとします。すると可変し本領資本量は変化しませんが不変資本は新たな工場や機械を導入したり原材料も2倍になるわけですから可変資本に対して不変資本は大きくなります。または市場を見て20万個の商品は過剰という見通しを立て今までのように10万個の商品を生産するとなると必要な労働力は500人と半減をします。
ここで何がおきるかといえばこのような労働の生産性の向上は不変資本に対する可変資本量の変化として現れます。この変化は生産のための不変資本と可変資本の有機的組成を変化させます。
この企業は市場に倍の20万個の商品を出すか、同じ10万個の商品を出して500人首を切るかを選択するわけです。
このような中で何がおきるかといえば、上の企業と同じ商品を生産する産業があるわけですが、その産業全体で同じことが行われるわけですから、市場にはあふれるような商品が投げ出されるか、その産業内においての労働力の削減が行われるわけです。商品の過剰生産か失業が不可避的になります。そしてこの生産性の向上は、国内、現在では全世界において行われ、資本主義生産は過剰生産と失業という矛盾を引き起こさざるを得ません。
次はこの矛盾を引き起こす原動力となるものが何かをみなければなりません。

     (4)
(3)では、労働の生産性は同じ労働力量に対してより多くの商品を生産し時には過剰生産というものも生み出し、もしくは労働の生産性が高まる中でその商品量を同じにしたとするならばそこに必要な労働力量は過剰になり時には失業を生み出すと書きました。
もちろん市場における好景気時はその商品の消費量は個人消費という形でより多く消費をされ同時に設備投資という中での消費も盛んになります。しかしこの好景気にも個人消費には限度があり、設備投資をされた不変資本は最終的には大衆消費財として個人消費のための商品に価値移転されるわけですからこの設備投資という消費も限界になる。やはりこの帰結の中に過剰生産と失業はすでに内包しているわけです。
常に過剰生産傾向と失業傾向は生産性の向上の中において必然性を含んでいます。
このように一つの矛盾を引き起こす生産性の向上がなぜ急速にすすむのでしょうか?
よく言われるのは生産性の向上はあたらいい商品をよりやすく生産をして国民生活を豊かにすることが目的であり、だからこそ人々は生産性の向上に取り組んでいくのだと。しかしこれは動機と結果が逆転した結果論にほかなりません。労働自体は生活を豊かにすることは間違いはないので、人々が労働することからこそ国民は豊かになるわけです。ここでは新しい機能性に優れた商品を生み出すといったようなことは、何も生産性の向上に関係なく生まれていきます。ただ安い商品を作り出すことが動機なわけです。これが動機ですから安い商品を市場に流通させることが生産性向上の原動力なわけです。目的なわけです。この目的と結果は一致するとは限りません。国民生活を豊かにするというものは直接の目的ではないからある場合にはこれが結果として出てくることは限らないのです。ここに過剰生産と失業という結果が同時に出てくるし、労働の生産性の向上が一つの矛盾として現れます。
生産性の向上というその動機と目的は商品価値を下げるということです。そしてそれは競争に支配されいます。この競争はより多くの利潤獲得と生き残りの競争です。これが生産性を急速に推し進める原動力です。
より多くの利潤の獲得といった場合、市場の中で見えやすいという点では、ある商品の中である企業が作る商品の性能や機能性そしてデザインなどといったもので売り上げに変化がおきます。しかしこれらの付加価値はその商品の使用価値の高まりによるもので価値自体が高くなったわけではない。同じ労働力を消費した商品は使用価値を高めることはあっても価値は高めない。今年爆発的な売り上げをした自動車は、他の企業が同じものを売り出すと価格が下がった。価格が下がったというのは、価値が下がったというのではなくて使用価値が特別なものであったがそれが特別なものでなくなったからの価格下落で、その自動車の価格が価値に近づいたということです。自動車産業全体の同じグレードの車はその価値によって価格が決まるというのが基本で、長い市場の流れの中に価値は基本的なものであることは経験としても見ることができるでしょう。
商品はどのぐらいの労働力量を消費したかでその価値は決まる。そして労働力を消費している過程である労働が商品という形を形成したり他にはない上のような付加価値もつける中に使用価値を形付けるという労働価値説から商品をよりやすく生産をし、利潤を高めるという中の競走を見なくてはいけない。

     (5)
ある商品をつくる産業内にABCという3社があったとする。この3社は生産性の違いがある。
A社は100人あたりの商品の生産性は年間5万個とする。
B社は100人あたり10万個。
C社は100人あたり15万個。
少し極端な数字ですがその生産性の違いをわかりやすくしておきます。
上の生産性は労働力を「100人あたり」としての比率であり、3社にはとうぜん生産規模は異なります。また、商品のデザインなどという使用価値はここでは考えずにその商品の価値はどのくらいの労働力を必要としたかの労働価値説としてその生産性を考えます。そしてその労働力は価値どおりに買われ賃金として支払われ3社共に同じ額とします。
この3社で生産された商品が市場に出ます。
一つひとつの商品の価値は市場価格として現れます。当然にA社の商品は市場において高くなり、C社の商品は安くなります。B社の商品が平均的な価格となります。各社の生産規模の違いなどもあり市場の中での商品量の中で市場価格がB社が生産した商品の価格に一致したと過程をします。それを仮に10万個の商品の価格を100億円とします。
するとどういうことがおきるかといえば、100人あたりの労働力としては、A社は同じ労働力を使ったにもかかわらず5万個の商品50億円の売り上げしかありません。それに比べてC社は15万個150億円の売り上げが出るわけです。同じ労働力量を使ってもその売り上げに大きな差が出ます。平均的なB社は10万個の商品で100億円の売り上げがありますが、この平均的なB社を基準に見ると、A社は生産性が極端に低く、C社はそうとう高い生産性となります。
各社の商品の価値は市場の中で平均的な価値に落ち着きそのある商品の価値を決定する。するとA社の利潤は低く、C社の利潤は高くなり、B社が平均的となります。しかしここで注意をしなくてはいけないのは、生産性が低いとはいえA社はけっして「赤字」ではない。ただ会社としての利潤が低いだけであり、労働者には何の責任もないし賃下げ理由にはならないことは後の議論には必要となります。
同じ労働力を消費しながらも市場においての利潤が異なる。一つひとつの商品価値は、C社は低いにもかかわらず平均的なB社と市場では同じ価格として売れる。この平均的な価値と本来の価値との差額を特別な剰余価値としてC社は手に入れるわけです。
この中においてA社はもちろんB社もC社と同じ生産性に高めようとします。C社は今以上に生産性を高めようとします。利潤追求のために。。。。
これが資本主義的競争なわけであり、商品をより安く大量に生産していくという原動力なわけです。

     (6)
(5)で見た
A社は100人あたりの商品の生産性は年間5万個とする。
B社は100人あたり10万個。
C社は100人あたり15万個。
というひとつの産業内のこの3社を別の角度から見ることにする。
A社は、不変資本(設備や原材料など)と可変資本(労働力を買うための賃金)に投資をして生産を行うわけですが、100人あたりという労働力が5万個という商品量に価値移転させる不変資本量は少ない。一方C社は同じ100人あたりの労働力が15万個の商品を生産するために不変資本量は多くなる。すると100人あたりの労働力への賃金である可変資本量は同じでも不変資本量は大きな違いを見せる。同じ可変資本量に対して不変資本量が大きくなる割合として資本の有機的な組成が高くなるわけですが、これは企業活動から見ると一つの生産拡大となります。
また、C社は圧倒的にその商品価値を安く生産できるわけですから(5)で診たように平均的な市場での価値(価格)で商品を売らなくても値下げをして市場での独占化を行うことができます。独占化はより多く生産された商品を売りさばくことにも有効なわけですから、商品を値引きしたとしてもそれは利潤の拡大となります。この独占化傾向は、C社がもう一つ同じような工場をつくる動機ともなります。ここに生産拡大というものが強くなります。
(5)でも書いたようにAB両社もこれに追いつけ追い越せと生産性を上げながら生産拡大を行います。
商品がより多く生産される拡大再生産されるというものは資本主義経済法則の一つの現れです。
ちなみにこの生産拡大によるより多く市場に出された商品価値(価格)はどうなるかというと、100人あたりの生産性の拡大の中では、その生産拡大は不変資本量の増加という形で現れることを上に書きましたし、C社がもう一つ工場を作り新たな100人という労働力を増やしたとしても100人あたりというものには変わりはなく資本の有機的な組成は変化しません。労働の過程の中により多くの不変資本が新たな商品に価値移転(機械の減価償却や原材料の消費など)されるわけですが、この不変資本は価値移転されるだけであり新たな価値を生み出すものではありません。新たな価値を生み出すのは、不変資本を商品という形に価値移転させる過程においての労働力量にほかなりません。ですから商品の価値は、不変資本量がどのくらい価値移転されたかというものにプラスされて労働過程でどのくらいの労働力量が消費されたかにあり、新たな価値創造として残るのは労働力の消費という形での価値の増加という商品価値となります。
C社が以前はB社と同じ生産性にあり、生産性の工場により現在の生産性に高まったと過程をしてみると、以前は100人の労働力量で10万個の商品を生産していたのですが、今は15万個になった。しかし商品に新たな価値としてプラスされたのは同じ100人の労働力なわけですから、以前の10万個の商品価値と現在の15万個の商品価値は同じとなります。これを一つあたりの商品価値としてみると、一つあたりの商品価値は以前より価値を減らしたということになり、市場における商品価値はsがっていく傾向を示します。価値どおりに売られれば商品は相当安くなります。
この商品の価値の低下による低価格化葉もまた資本主義的生産の法則性となります。これで資本主義の市場においての商品の低価格化と商品量の爆発的な生産拡大が資本主義的経済法則の必然であり法則性だということがいえると思います。
ではこの資本主義的生産がどのような帰結をもたらすのかということになります。

     (7)
(6)で書いた一つの産業内のABCという企業をまたここで見ます。
A社は100人あたりの商品の生産性は年間5万個とする。
B社は100人あたり10万個。
C社は100人あたり15万個。
(6)でも触れましたが、この労働の生産性の違いから生じる商品の市場価格がその価値からはなれて平均の価格形成としての特別な剰余価値を与える中での各社の利潤率はC社が一番高くA社が一番低くなる事を見ました。そしてここに資本主義的競争の原動力がある事を見ました。
この中でA社はもちろんB者もその生産性を向上させようとします。そしてC社と並ぶ生産性を得たと仮定します(C社の生産性は現在のある限界内にあり停滞するとします)。するとこのある商品を生産する産業内には平均な利潤が確定します。各社はそれぞれ100人当たり15万個の商品を生産することができるのですから、この産業をX産業とすれば
X産業は100人あたりの生産性は45万個
となります。
仮に10年前のX産業の生産性は低くてA社並みだったとすれば、X産業はこの10年で同じ労働力量(100人あたり)での商品の生産数が15万個から45万個の増加したこととなります。10年前と現在でも不変資本量と可変し本領の投資される資本は同じとすれば、それを分母として商品の総(100人あたりの労働力に対してですが)売上を分子にした場合、ある利潤率が決まります(追記:分子分母反対だったかな?)。しかしこの生産性の違いにより何が異なるかといえば、生産された商品量にあります。ある一定の利潤を得るには、10年前は15万個生産をしていたが今では45万個を生産している。そうすると商品1個あたりを見るとその価格は3分の1になります。X産業では同じ利潤を得るのにより多くの商品を市場に出さねばならなくなったということです。
同時に特別な剰余価値を得られなくなっているわけですから市場価格は価値に一致してきます。
資本主義生産とその資本主義的競争がもたらす一つの帰結は、市場における商品量の増加と一つあたりの商品の価格は価値に一致をして低下するということです。
これは資本主義生産の無政府性として現れざるを得ません。
X産業では、より多くの利潤を求めようとすれば工場の新設や市場の独占化のために各社の潰しあいに頼らざるを得なくなります。これがまた資本主義競争として行われるようになります。そしてまたこの工場の新設の競争がさらに市場に送る商品量の増加とも結びつくことが起こります。しかしここでは先にも書いたように特別な剰余価値を得られなくなっていますから、企業の利潤率は上がりません。生産性の向上のない中に工場の新設だけでは利潤額は上がるが利潤率は高まらない。ここに企業あるいはX産業そのものにまず停滞感が現れます。
一方商品量は市場の中により多く出されるわけですしその商品量は無政府性の中にあり一度過剰感が出てくると各社の中では値下げ競争もはじまります。値下げといっても赤字になるわけではないが、利潤低下であると同時に剰余価値率の低下として現れ始めて企業の停滞感はさらに深まります。
その産業では株価が下落をして資金が他の産業に流れていくでしょう。今資本をより吸収する産業の育成とか言われていますが、それはこのことからはじまる一つの帰結菜わけです。
しかし以上のような現象が他の産業にも波及をしていくならば、一つの社会そのものが不況という形をとり始めます。
次にこのような資本主義的生産とその競争がもたらすものとしての労働力を見ることにします。

     (8)
サラリーマンは体が資本。昔からサラリーマンは体を壊したら潰しがきかないわけでしてその意味では体が資本なわけです。もちろん今の社会は職業の自由があるわけですからサラリーマンができなくなったら商売でもすればいいという論理もあります。もちろん何かしら食うための仕事を探さなくてはいけないのが現実ですから商売をする問い運も選択の一つですが、元手も何もなければやはりそれなりの仕事を見つけてサラリーマンを続けるほかはありません。それはサラリーマンというのは労働力を売るしか生きていけないということです。この労働力を売る側の人々を労働者というわけです。ですから労働者というのは何も肉体労働に限ったことではなくてサラリーマンも労働者なわけです。
労働者は労働力を売る。誰に売るのでしょうか?生産はこの労働力と生産手段(資本金を持って工場や原材料など)を持つ人に売るわけで、ここではじめて労働という形の具体的な生産が行われることになります。その生産手段を持つ人が昔から資本家といわれてきましたが、今は資本家はいないといわれています。たしかに財閥というのも解体をされて会社組織は株主によって経営をされて社長もサラリーマン化をしています。しかし会社組織は組織として生産手段を所有をして労働力を買って生産をしていますからその生産様式は資本主義であり、明確な形での資本家は見えづらくなっていますが株主総会自体が資本家層の集まる議決機関とし、そこで選任をされる役員総や会社の経営自体を動かす部分の人が高額の報酬を得ている中に相対としての「資本家層」というものは見えるわけです。株を持っているから資本家層かといえばそうでもなくて小額の株を所有して株主優待や配当を受けているような部分の人は層ではないと思います。そういう人は主に労働者であったり他の商売でその生計を主にその労働によってまかなっています。また資本家層といっても株で生計を立てている個人の株主だけではなく、今では銀行などの金融関係の会社やグループ企業での下部の持合などもあるわけですから株主層はこのような企業自体でもあり資本家層というものになります。
こう見ると、企業というものをみる時は今の社会は生産手段を持つ者と労働力を売る者という人と人との関係が成立をしており、それは労働者と資本家層という関係として社会の富を作り出していきますしその富の配分がされていきます。
企業がその富をどのように作り出すかはこの人と人との生産関係にあり、その富は生産性の向上の中での企業の競争として発展をしその矛盾を作り出してしてきたことは(7)でも書きましたが、この生産性の向上が労働者にどのような影響を及ぼすでしょうか?
それにはまず、労働者が労働力を売るとしたとき、その値段はどのように決まるかが問題です。それは労働力の価値によって決まるわけです。それはあらゆる商品がその価値を基本にして売買されるのと同じで労働量もその価値によって売買されます。売買などというと労働者は奴隷のようですが、労働者は人間丸ごと売るわけではなくて労働力を売るわけですから古代の奴隷とは違いますし自由はあります。しかし生産手段に結びつかなければ失業して生きていけないわけですから生産手段にそしてその所有者に対しては半奴隷状態です。土地(生産手段)を支配する殿様と農民(労働力)のような構図はその形は変えて残存しています。では、労働力の価値はどのようにして決まるか?それもあらゆる商品と同じようでその商品が生産をされる過程でどのくらいの労働力を消費したかによって決まるのと同じように労働力を生産するためにどのくらいの労働力を消費したかで決まります。労働力を生産するためにどのくらいの労働力を消費したか?なんだかわかりずらくなりましたが、企業内で労働をするために必要な労働力を生産するという労働(労働力の消費)とは労働者の具体的な「生活」にあります。衣食住やさまざまに必要な生活という労働によって作られます。衣食住もままならない中では次の日も会社で労働することはできません。生活をするということ自体が企業内においての労働力を作り出します。生活をして労働力を作り出すわけですからその労働力の価値は生活に必要なものを消費をしていくわけで、その消費をする過程で必要な物は商品として売られているさまざまなものが持つ価値を次の日にも労働をするという労働力の価値に移転をする作業となります。どのくらいの商品量の持つ価値を労働力の価値に移転をするかということは、視線を変えれば労働力の価値はどのくらいの商品を消費したかということになり、それは労働力の価値は生活費によって決まるということになります。
ですから資本家層としての企業は労働者の生活費という価値額によって労働力を買うわけです。
しかしこの労働力の価値としての生活費は、食べて寝るだけの最低限度でもいいはずだと言うような資本家層の見方でも、俺の生活はベンツを乗り回して軽井沢に別荘を持ち夕飯は豪華フレンチのコースだというような資本家層を思い描く労働者の要求でもありません。やはりあらゆる商品の価値が(7)でも触れたように平均化された中に形成をされると同じようにある時代の社会における平均的に形成された生活費となります。
以下、この労働者の労働力の価値としての額、すなわち賃金はこの価値どおりに支払われていると仮定をしていきます。もちろんこれは理想論だ!!という方もいらっしゃいますが、まぁ、ここではこのように話を進めます。労働の生産性の向上の中でどのようなことが起きるかが大切なのです。理想論の中にでも。。。。

     (9)
(8)では、「企業がその富をどのように作り出すかはこの人と人との生産関係にあり、その富は生産性の向上の中での企業の競争として発展をしその矛盾を作り出してしてきたことは(7)でも書きましたが、この生産性の向上が労働者にどのような影響を及ぼすでしょうか?」と書き、資本主義において労働力を売るしか生存できない労働者とその労働力が結びつく生産手段を所有する資本家層が人と人との関係により社会的な商品生産をするという仕組みの中に労働者はどのような影響を受けるかという問題提起をしました。そしてそれにはまず資本家層に売る労働力という一つの商品の価値はどのように決められ賃金として労働者は受け取るかを書きました。それはあらゆる商品が再生産されながら継続した生産が保たれると同じように社会的な平均としての労働力の再生産費である生活費によって決まると書き、資本家層はその額を賃金としてその価値どおりに支払うことを前提にすると書きました。
そこでもう少し「労働力の再生産費」とは具体的にはどのような形をとって賃金額として決定しているかを見る事にします。
労働力の再生産とは、労働者が次の日も、次の月も次の年もそして次の世代も労働力を売っていける状態に保つのに必要なことということです。これはある企業が商品を次の日も次の年も生産を継続していくことと同じです。では、次の日も次の月も労働力を売ることができる上らいを作り出すのはどのようなことが必要かといえば、寝たり食ったりという毎日の生活の中で労働力は再生産をされていくということです。ですから労働力の再生産に必要な費用は生活費となります。この生活費を価値どうりに受け取ることは社会を維持していく上でも必要な額となります。その生活費という視点から見た賃金体系は、日本においては年功序列型賃金という形で終身雇用と結びついて行われてきました。これに対してヨーロッパ型といってよいのでしょうか?労働力の価値を等級化してそのある等級である労働力ならばどの企業に就職しても同じ額の賃金といったような同一労働同一賃金制があります。そしてアメリカ型といってよいのか?企業が採用するに当たってその労働力の価値を労使(企業と個人ですが)で決定をしてその能力によって賃金額が決まるという能力給あるいはその能力による年俸制というような賃金体系もあります。実際はそのそれぞれの基となる賃金体系を基礎にしていろいろな賃金体系が取り入れられて実際の賃金は決められています。日本でも年功序列とはいっても出世をしなければ安給料というものが昔からありましたから。
このようにいろいろな賃金体系の中にそれぞれに長所短所はあるのですが、労働者全体の平均的な労働力の価値は決定をされていいます。
そこでいろいろな賃金体系がある中で、より「労働力の再生産費としての賃金額」を反映された賃金体系とはどのようなものでしょうか?
それは日本型の年功序列型賃金体系にあります。
労働者の平均的な生活パターンを考えて見ましょう。学校を出て就職をします。5年ぐらいは一人前になるために企業もその労働力を「育てる」わけですからある程度賃金は安くなります。10年ほどしますと一人前になり同時にその間に結婚をして第一子が生まれる。そうするとその生活に必要な額にも変化が置き労働力の再生産費は高まります。年功序列型賃金はこのカーブ合致したものとなり多少の賃上げがある。そのうちに子供が成長すれば家を持つようになり、その後は家のローンを払いながら子供の教育費も上がってくる。そして両親の老後を支えながら子供が大学という最頂点に生活費は達する。年功序列型賃金はこの年齢に一番高い賃金カーブを描く。そして子供たちが独立をするようになり、自分たちの老後の支えの貯金がはじまりル。祖手はほんの数年の間ですが、定年になり年金が満額出るまでの老後の夫婦二人の生活としての再雇用などの低い賃金となっていく。
もちろん昔から上に書いたように出世をしなければ安給料的な職能給・能力給というものが入っていましたからまったくの年功序列型ではなかったわけですが、平社員あるいは係長どまりであっても年功序列型の賃金カーブの最低ラインが維持をされてきました。その中で平社員は平社員の年功序列の中での同一労働同一賃金が維持されました。係長は係長なりの課長は課長なりの同一労働同一賃金は維持され、若い社員もそれなりに同じような額の賃金が得られました。
このように見ると年功序列型賃金体系は、同一労働同一賃金という賃金体系の変形した形を維持しながらも労働力の再生産費としての賃金を反映してきました。もちろんそこには若い人も年よりも同じ労働をしても賃金額が大きな開きを持つという矛盾としての同一労働同一賃金の崩れがありましたが、社会の消費をを考えた場合でもある年齢層やその年齢層でも違った役職にある労働者は同じ賃金であるという形の同一労働同一賃金は存在をし、この意味での同一労働同一賃金の合理性がありました。また、若くして結婚をして子供ができたといった場合は、賃金内には扶養手当などの手当て制度もあったわけで、税制も含めて生活費としての賃金は微調整をされていました。
また、この年功序列型賃金体系は、長くその同じ企業に勤めなければ維持できない中に終身雇用制と強く結びつくという矛盾が言われる場合がありますが、それは労働力の移動に弊害が出るといったもので、長く同じ企業に勤めること自体には何の弊害もないわけです。実際、日本は終身雇用制の中に産業の再編成も行ってきましたしその中に年功序列型賃金制度は今なお残存するわけです。これは労使ともに年功序列型賃金体系を必要にしているということです。
労働力の再生産費としての賃金あるいは同一労働同一賃金を崩しているのは、雇用体系による差別化にあります。同じような仕事をしても、正社員と覇権賃金格差やパートの時間給では差別をされる中に同一労働同一賃金制度が崩壊をしています。派遣社員が正社員を教育したりするという矛盾までもが出ます。
この労働力の価値ー賃金=労働力の再生産費という構図の中からの同一労働同一賃金がどうしても賃金は決定をされなくてはなりません。このような形で賃金を受け取る労働者を思い描くわけですが、そこに立って「この生産性の向上が労働者にどのような影響を及ぼすでしょうか?」に入っていきましょう。

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