今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

暑い夏、冷たいビールでもぐいっと飲みたいが・・・!

2011-07-16 | ひとりごと
季節は、毎年規則的に推移する天体の運行や昼夜の長短、気温の高低や天候など気象条件、動植物の生長などに応じて一年を分けた単位を指しており、温帯地域では、この季節を春・夏・秋・冬の4つに分け、四季と呼んでいるが、区分の方法は気象学上の四季(現行太陽暦で採用している四季)と太陽が黄道のどの位置にあるかで季節を分ける天文学上の四季区分(春分点、夏至点、秋分点、冬至点を基準にしている〔春分点以外は至点を参照〕)では異なっている。又、同じく天文学上の四季を元に、東アジアでの季節のズレを正し、昼夜の長短を基準に季節を区分している中国伝来の暦(二十四節気)上の四季もある。ここでは、四季の解説をしているわけではないので、詳しくは、季節、二十四節気など参照されるとよい。
例えば、四季のうちの夏に関して、どれ位の差異があるかと言えば、現代の日本で社会通念上使われている気象学上の「」は、6・7・8月の3月をいうが、の上では二十四節気の第7立夏旧暦3月後半~4月前半新暦:5月5日ごろ)から立秋(旧暦:4月から6月まで。新暦8月7日ごろ)の前日までをいい、天文学上では、夏至(旧暦5月内。新暦6月22日ごろ)から秋分(旧暦8月内。9月23日ごろ)までをいっている。
二十四節気の第11小暑(普通は、7月7日ごろ)は、梅雨明けが近付き、暑さが本格的になるころを言い、『暦便覧』(※1)には「大暑来れる前なればなり」と記されている。
しかし、近畿地方の梅雨明けは、平年は7月21日ごろ、昨年は 7月17日ごろであったが、今年(2011年)の近畿地方などの梅雨明けを気象庁は小暑(しょうしょ)の翌日・7月8日に宣言した。これは、1951(昭和26)年の統計開始以降、近畿地方では平年より13日も早く、1978(昭和53)年の7月3日、1973(昭和48)年7月4日に次いで3番目の早さだという(※2、※3)。
小暑は、起点ではなく、期間としての意味もあり、その場合は、この日から、次の節気の大暑(7月23日ころ)前日までである。小暑あるいは大暑から立秋までの間が暑中であり、暑中見舞いは、この期間内に送られる。また、小暑の終わりごろに夏の土用に入る。
早々と、梅雨の明けた今年の場合は良いが、普通ならまだ梅雨は明けておらず、暑中見舞いなど大暑からの方が良いと思うのだが、この頃は、暑中見舞いだけでなくお中元なども早々と関東流で小暑になると贈られてくるようになった(関西は1月遅れでしていたのだが・・・)。
暦の四季は、社会通念上の四季よりも1ヶ月ほど早い。また、元々二十四節気は中国の気候を元に名づけられたもので、日本の気候とは合わない名称や時期もある。例えば小満や「芒種などは、多くの日本人にとって日常生活で使う言葉ではなくなっている。そのため、それを補足するために二十四節気のほかに八十八夜入梅 土用半夏生二百十日などの「雑節」と呼ばれる季節の区分けを取り入れたのが、日本の旧暦となっているのだが、今年(2011年)に日本気象協会が現代日本の気候に合わせた、新しい二十四節気を創造する事を目標とした準備委員会を設け、一般からも意見を募り来年の秋頃には“ 21世紀の二十四節気 “を発表し、周知させていきたいという意向を示しているようで(※4、※5)、それは、大変よいことだと思う。
今年の夏は、去年のような酷暑ではなく、平年並みとは言うが、地球温暖化の影響で年々平均気温が上昇している為、やはり今夏も平年よりは暑く、最高気温が35℃以上の猛暑日は多いだろう。
そんな中、関西では今京都の祇園祭りが盛り上がっており、これに続いて大阪の天神祭りも間もなくクライマックスを向かえるが、梅雨明けの早かった分、湿気も多くて祭りへの参加者も見物客も大変ことだろう。
その上、東北地方太平洋沖地震と津波による、福島第一原子力発電所事故が発生し、これに伴う放射性物質漏れが社会問題化したことにより、原子力発電所の再稼働問題も起こり、電力危機問題も発生し、東京電力、東北電力管内にある大規模工場など大口電力需要家に対して昨年比15%の節電を義務付ける電力使用制限令が出され、私たちが住む関西電力など他の電力会社や政府からも、節電が要望され、それは企業だけでなく、庶民の間にも節電意識として広がりをみせ、節電のためにエアコンの使用を控える人も多くいる。
それは結構なことではあるのだが、気象庁によると6月下旬の平均気温は統計開始後最も高い値となり、熱中症で救急搬送される人も急増。消防庁の統計(速報値)によると、5月30日から7月10日に全国で搬送された人は1万3091人(死亡26人)。今月4日から10日に限ると、4520人が搬送され、前年同期(1040人)の4倍超となっているらしいが、中でも65歳以上のお年寄りが48%と目立ち、関西の消防関係者は「無理な節電生活も一因では」と心配している(14日付け、朝日新聞朝刊)。
電力の使用を控えなくてはいけないので、夏を乗り切るの大変だ。
熱中症予防のためには水分と塩分をこまめにとることが大切。それに特に高齢者や子供などは適切な冷房も利用し身体からの熱を放出しないといけないよね(熱中症予防は※6参照)。
♪ビールをまわせ 底まで飲もう
あんたが1番 わたしは2番
ドン! ドン!
こんなCM聞いたの覚えていませんか?夏といえばビールがおいしい季節。三好鉄生(みよしてっせい)の「すごい男の唄」。1980年代の初め(1982年?)、当時はサントリー生ビールのCMソングとして流れていた曲だ。この曲以下で聞ける。また、歌いたければ、歌詞は歌詞情報 - goo 音楽を参照されるとよい。
YouTube - すごい男の唄(三好鉄生)懐メロカラオケ‏
http://www.youtube.com/watch?v=dX2UQB9cRDE
すごい男の豪快なビールの飲み方、暑い夏、冷たいビールでもたらふく飲んで冷を取りたいと思う人も多いだろうが、ビールなどのアルコール類は利尿作用があるため、逆に脱水状態になることがあるので注意しないと・・・。
それに、暑さに耐える体力を維持するためにウナギでも食べようかと思っても、ここのところ稚魚の漁獲量が激減している上に輸入ウナギも高騰しており、養殖ウナギも今年は相当値段が高くなり、無理して土曜に食べるぐらいがやっとになりそう。
それでは、もう、しようがないから怪談スリラーもののDVDのでも借りて、涼みますか・・・・。
いや、そんなもの見なくても、もっと恐い恐い話が、7月14日付け朝日新聞の天声人語に書いてあったな~。読んでいない人はまあ以下を御覧あれ。
asahi.com(朝日新聞社):天声人語 2011年7月14日(木)
http://www.asahi.com/paper/column20110714.html
私など、前々から、最近のテレビにはヤラセの多いことにうんざりしており、夕食時などは、酒を飲みながら毎日テレビを見ながら、ぶつぶつ文句を言って家人には叱られている。
日常の報道にしても、戦時中にマスコミが戦争を煽ったように、今回の東京電力の原発事故にしても、東電や政府の流す情報をそれが事実であるかどうかなど、マスコミの使命として、現地へ出かけて行って、情報確認をすることもなく、マスコミは、ただ聴かされたことをそのまま毎日、右から左へたれ流しているだけの仲介屋でしかなかったといえる。
そこには、本来のマスコの使命感など毛頭も感じられない。特に政治がらみのことなどに関しては、局側の意図的な情報がそれとなく流されていることを多く感じるし、その裏には、政治家に金銭の癒着や企業との馴れ合いを批判しているマスコミ自身に政治家との裏での癒着やひょっとしたら、テレビに出ている解説者や局側の人間、企業にも金銭的なものが流れているのではないかと思われるようなことすら感じられる。
そして、一番恐いのは、どこかのラジオの朝の番組で、こんなことをいている人がいたことだ。
あるロシアの友人が、ロシアの新聞を毎日、隅から隅まで、隈なく読み漁っている人がおり、何か間違ったことが報道されていないかしらべているのかと問うたところ、「そんな間違いというより、政府の一方的な報道がされているのは、毎度のことなので、気にしていないが、一番気にして見落さないように捜しているのは、本来国民に知らされるべき重要な情報が、報道がされていないものは無いか・・・・を捜しているのだよ」と答えたという。
このようなことは、ロシアの新聞だけでなく、日本の大新聞やテレビでも同じことだろう。私など現役時代、仕事柄、色々幅の広い人から情報を得る機会も多かったが、サラリーマンの収めている年金や失業保険料などが、とんでもない無駄なところにどんどん使われ、いずれ破綻するのではないか・・・などといったことは、もう、15年以上も前から私らの間では話題になっていた。
又、会社の開発会議などに出ていると、何処の県知事が市町が何処何処と関わっているので、どうしても、仕事が進まないが、今回の選挙で、新しい人に代わるらしいのでここがチャンスだ・・・なんて話がしょっちゅう出てくる。
兎に角、大きなお金の動く開発関係に、官僚や企業・政治家などが絡んでいないなどと考えている人は先ずいないし、多かれ少なかれどのような形でかは違っていても、必ず癒着や金銭問題が纏わっていないことは無いと考えるのが我々の常識だったともいえる。
今、話題となっている東電九州電力のような巨大な力のある企業が、官僚や政治家、その他関係会社などと癒着し馴れ合いのなかで「やらせ」が行なわれていたことが騒がれているが、何処の大企業が行なっている株主総会でも前の方に陣取っているのは会社の社員や関係者であり、馴れ合いの質問と回答をするなど、シャンシャ総会が行なわれているのが常識なのと同じように、市や県、官僚などが行なう意見交換会、や報告会、総会などと言うのも、事前に準備されたシナリオ通りに形だけを整えて、粛々と進められ、予定通りに終了するのが当たり前となっている。
私も、若い頃、そのような結論の決まりきった同様の会へ、企業の代表として嫌々ながら何度か出席させられたことがある。今の世の中、殆どそういったものであり、何か事件が発覚してからそれまで、何も知らなかったようなふりをして騒いでいるマスコミに呆れ返っているところである。ようするに、ロシアの新聞と同じように、伝えなければならない事実関係を掴んでおり、本来は報じるべきことを報じていないことが一杯あるということだ。マスコミ界には、少なくとも頭だけは良い人が大勢いるし、その職業柄、色んな専門家との交流もあり、どこかでそのような情報はとっくの、昔に掴んででいるはずだなのが、「触らぬ神に祟りなし」の諺じゃないけれど、広告収入で飯を食っている民間のテレビ業界や、民間とは名ばかりのNHKなどが、知っていながら知らぬふりをして、何かあったときに、初めて気がついたような振りをして、何も判っていないタレントなどを司会者などに利用して、どう面白おかしく伝えるかを各社で競っているに過ぎない。
明治・大正の時代までは、宮武 外骨に代表されるような中小の新聞(マスコミ)が色々と政治や権力にたいする批判をしてきたものだが、そのような中小のマスコミが全て大手に飲み込まれてしまった現代社会においては、大手のマスコミが記者溜まり(記者クラブ参照)で得た情報を独占し、各社が申し合わせたように、同じ内容の情報をただそのペン力だけで流しているに過ぎないと思っている。
私などの年代の者は、息子や孫のことが心配されるものの、もう先も長くないことだから、どうでも良いとは言わないが、今のどうしようもなく頼りなて、政治家、特に自らの属している政党や国民からも信頼がなく、一国の首相として存在していること自体が害とさえ思える菅直人を政権の座につけさせたのも、民主党の要であった小沢一郎をこの上ない悪役に仕立て上げたマスコミの誘導によるところが非常に大きいと私は思っている。
今や、日本の限られた巨大なマスコミが、ペン(テレビではおしゃべりか?)を使って、国や国民を変な方向に誘導しているような気がして仕方がないのである。私には、この怪談・・・なんとも言えず恐ろしく、背筋が寒くなるほど寒く思えるのだが・・・・。
猛暑の夏、もう少し、マスコミ、特に、テレビなどが今どうなっているかをよくよく観察すると・・・節電ができるほど涼しくなるかも知れないよ・・・・・。
最後になりましたが、今年は猛暑の中、節電も必要だが、余り無理をせずに、十分な休養をとって、無事に乗りが夏の時期は、日当たりが良すぎて暑いので、冷房を入れながらパソコンに向かう気もしなくなったので、今日から8月一杯は、このブログも書くのを休もうと思っています。9月からは、又、ぼちぼち始めたいと思います。
今まで、訪問された方本当に「有り難うございました」。9月再開の際、又訪問いただければ嬉しいです。

参考:
※1:国立国会図書館 「日本の暦」
http://www.ndl.go.jp/koyomi/index2.html
※2:梅雨入りと梅雨明け(速報値) - Japan Meteorological Agency
http://www.data.jma.go.jp/fcd/yoho/baiu/sokuhou_baiu.html
※3近畿もう梅雨明け 平年より13日早く 気象庁発表(asahi.com)
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK201107080076.html
※4:日本版二十四節気 / 日付順で見る / トピックス ... - 日本気象協会
http://www.jwa.or.jp/content/view/full/3681/
※5:asahi.com:日本版の二十四節気つくります 気象協会、意見公募も
http://www.asahi.com/national/update/0510/TKY201105100099.html
※6:節電と熱中症 - 日本気象協会 tenki.jp
http://tenki.jp/docs/note/setsuden_heat_syndrome/
保健所だより第16号 熱中症に気をつけましょう!! 東京都福祉保健局
http://www.fukushihoken.metro.tokyo.jp/tamafuchu/kouhou/hokensho/ho16/index.html
MSN:7月1日に電力使用制限令37年ぶり発動 大口需要に15%節電義務付け
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110630/plc11063006140004-n1.htm
季節 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A3%E7%AF%80

日本のゴッホ」、「裸の大将」と呼ばれた放浪のちぎり絵画家・ 山下 清の忌日

2011-07-12 | 人物
今日・7月12日は「日本のゴッホ」、「裸の大将」と呼ばれた放浪のちぎり絵画家・ 山下清の1971(昭和 46) 年の忌日である <49歳>。
山下清の私的なことを私はよく知らないので、wikipediaや、以下参考に記載の※1※2、※3他を参考に簡単に書くと以下のようである。
山下清は、1922(大正11)年3月10日、東京府東京市浅草区田中町(現:東京都台東区日本堤)に大橋家の長男として生まれる。
翌・1923(大正12)年の関東大震災で家が全焼。その1年後の3歳の頃に重い消化不良(消化能力の低下。※4参照)になり、3ヶ月間高熱にうなされ歩けなくなる程の重態となったが、運よく一命は取りとめたものの、その後遺症から、軽い言語障害、更に知的障害が進行したようだ。
そのような障害がある事から、1928(昭和3)年、小学校に入学するが、周囲の子供達から虐(いじ)められるようになった。更に、清が10歳の1932(昭和7)年には父が病死した後、母ふじは、再婚するが、母ふじは清を含む子供3人を連れてその再婚した夫とも別れ(理由は分からないが、2番目の父親は酒乱で暴力的だったとする説〔小沢信男著『裸の大将一代記』あり。※5)て、母親の手一つで育てられるが、生活が困窮し、すぐに杉並区方南町(現:杉並区方南)にある母子家庭のための社会福祉施設隣保館」へ転居。このときから母ふじの旧姓である山下清を名乗るようになったという(wikipedia)。
隣保館から地元の小学校に通うものの、ここでも虐められ、子供たちからの虐めがエスカレートするようになると、温厚な性格の清も、ついに悔し紛れの暴力沙汰を起こすようになったようであり、1934(昭和)年、清12歳の時、そんな清の反抗的な行動に思い余った母は、彼を八幡学園(※5)という養護施設に入園させたが、その学園が教育の一環として園児に課していた「手工」作業のひとつ、鋏(はさみ)を使わずにちぎった紙を台紙に貼り付ける「ちぎり絵」(後に貼り絵と呼ばれる)に出会う。最初は、他児とあまり変わらなかったが、これに没頭していく中で才能を発揮するようになる。1936(昭和11)年から八幡学園の顧問医を勤めていた精神病理学者の式場隆三郎の目に止まり、彼の特異な才能が世に紹介されていくことになる。
1936(昭和11)年、早稲田大学心理学教室・戸川行男講師(助手とも、※6)は、同教室の学生を連れて特異児童の心理学的特性と、また園児の作品が日常生活の中においてどのように変化していくかを研究するために八幡学園を訪ね、その成果を、2年後の1938(昭和13)年11月、同大学の大隈小講堂において「特異児童労作展覧会」として発表。園児たちの作品は一躍、多くの人々の関心を呼んだという。無論その中に清の作品も含まれている。そして、同年12月に、東京・銀座の画廊(青樹社らしい)で清の個展が開催され、梅原龍三郎や、安井曽太郎ら 画壇の長老等が絶賛したことから大反響を呼んだが、この作品が特異児童(精神薄弱)により、特異児童収容所の一室をアトリエにして制作されたことが一層人気を煽ったようである(※7)。兎に角、これが、山下清が世に出た最初である。翌・1939(昭和14)年1月には、大阪の朝日記念会館ホールでも展覧会が開催され、清の作品が多くの人々から賛嘆を浴びた(※3参照)。
しかし、指でむしり取った小さな色紙をノリで貼り付けてゆく特異な手法を創造した彼の仕事も、彼の名も、間もなく始まった戦争(太平洋戦争)の大波に飲み込まれ、忘れ去られていった。
清の八幡学園での在籍期間は長かったものの、1940(昭和15)年11月18日、18歳の時に突如学園から姿を消したが、3年ばかりでふらっと帰ってきた。そして、また、出ていってしまうが、何年かすると帰ってくる。このような繰り返しで、約15年に及ぶ放浪を繰り返した彼は、行く先々の風景を、多くの貼絵に残している。これらの作品の殆どは放浪中に作成されたものではなく、放浪中に旅先で見たものの記憶をもとに、学園へ帰ってきてから作成されたものであり、その卓越した記憶力で日記も書かれた。
そんな彼は30歳となったとき、油絵にも独自の画風を創造し批評家の中には、ゴッホと山下清の作風の類似が指摘されていたようだ。
太平洋戦争後8年経った1953(昭和28)年、アメリカのグラフ雑誌『ライフ』に彼の貼絵が注目されるが、その時彼は、1951(昭和26)年夏以来、学園から出て行方が不明(放浪)中であったため、その行方を探し始めた。
上掲向かって、左画像は、山下清の貼り絵「自分の顔」。右画像は、「日本のゴッホいまいずこ?」(1954年1月6日付け朝日新聞)と、とマスコミでもその消息が騒がれていた清が、同年(1954=昭和29年)1月10日、2年8ヶ月ぶりに鹿児島県で発見され、東京駅で家族や関係者に出迎えられているところの写真である。(アサヒクロニクル『週間20世紀』1954年号より)。
山下清の名が大々的に取り上げられるようになったのは、この頃からである。
彼をモデルにした映画「裸の大将」(1958年。映画の内容は※8 goo 映画参照)も大ヒットしたが、この映画は、山下清が自ら放浪の半生を綴った「放浪日記」(※9、※10、※11参照)から水木洋子が脚本を書き堀川弘通が監督した喜劇であり、この作品で毎日映画コンクール主演男優賞を受賞した主演の小林桂樹は、演じるにあたって山下本人に直接取材したと言う。
又、1980(昭和55)年から1997(平成9)年にかけて芦屋雁之助主演の花王名人劇場(関西テレビ・フジテレビ系)「裸の大将放浪記」シリーズ(後にはタイトルから「放浪記」が削られ、「裸の大将」として放送されたこともあった)としても制作され、この作品は彼の代表作ともなったが、彼の風貌や生活スタイル、また、彼の作品が世間の人々に広くに知られるようになったのもこのような作品によるところが大きいのだが、このような1950年代に起きた山下清ブームは彼のよき理解者でもあった精神病理学者・式場隆三郎による、メディアを利用したプロモーションの影響が大きかったと言われている。
精神障害や知的障害のある人たちが生み出す、自由奔放な絵画などは「アウトサイダーアート」と呼ばれ、近年注目を集めるようになったようだが、山下清も、その一人に数えられている。
このブログ冒頭の画像、芦屋雁之助による「裸の大将」の舞台チラシで見られるように、まず、山下清像と言えば、ランニング姿にリュックサック、放浪先で描く色彩豊かな貼り絵作者の姿が浮かんでくるが、これはあくまでもドラマなどで誇張、脚色されたものなのであるが、本当はどのような人だったのであろうか?
日記などによるとかなりしっかりした考え方の基に行動していたことが窺えるという。
1940(昭和15)年11月彼が18歳の時、突如八幡学園から姿を消し放浪に出たのは、太平洋戦争(日本の真珠湾攻撃、1941年12月8日)に入る前には、八幡学園からも数人の応召者が出たようであり、それから間もなく清は悲惨な戦争の場面を貼り絵に描いて彼は学園を出たという。開戦により戦争が深刻化していくなか、翌々年には徴兵検査を迎える年齢(20歳)となっていたこともあり、“戦争に行って死んでしまうのが怖かった”ことから出征を回避し姿を消したものらしい。
その後21歳の時に学園の職員によって滞在先の食堂で発見され、強制的に徴兵検査を受けさせられたらしいが兵役免除となり、さらに放浪を続ける結果となったが、1943(昭和18)年10月学園に戻ってきたとき、彼の日記には戦争の恐怖でいたたまれなかった心境がこまごまと書かれていたと言う。しかし、もっと根底にあったものは、学園で貼り絵に没頭していたものの、次第に学園での拘束された中での作品制作のあり方を嫌ったからのようであり、それ以上に、あるがままに自由でいたいという願望が非常に強かったからのようである。又消えた彼は、空襲の犠牲になったとばかり思われていたら、食料のない時代に別人のように太って帰ってきた。田舎で農業の手伝いをしていたらしい。これを見ていても結構、世渡り上手な人間でもあったようで、逞しさを感じる。
その後もときどき放浪を続けるが、ドラマなどでは、彼は放浪先で絵を描き、さまざまな感動を残す展開となっているのだが、先にも書いたように、実際には放浪先では殆ど絵を描いておらず、旅先で見た風物を記憶しておき放浪後、概ね冬の前には学園や実家へ帰ってから、その記憶を基に制作に打ち込んだり放浪日記をつけたりしていたという。彼の天才は、そのような驚異的ともいえる「映像記憶力」にあったことから、彼はサヴァン症候群であった可能性が高いといわれているようだ。
彼の少年時代に描かれた素朴な作品と、1961(昭和36)年、39歳のとき、式場隆三郎らとともに約40日間のヨーロッパ旅行をした時の精密な作品を見比べると、貼絵の技術は、各段に進歩、発展しており、中年期の作品の、細密な表現への情熱、執念は驚くべきものがあるが、好き好きもあるが、美術的な面白みという点では、少年期の作品のユニークさを支持する人も少なくないようだ。
彼は、世界でもよく知られている桁外れの才能を持った天才画家などとは違って、類(たぐい)まれなる純真さ、素朴さを持ち続けたが故に、普通の人には描けない作品が描けたという種類の「天才」であったということなのだろうか。
1956(昭和31)年の東京大丸での「山下清展」を始め、全国巡回展が約130回開かれ、観客は500万人を超えたと言われる。大丸の展覧会には当時の皇太子(今上天皇明仁)も訪れたというが、私なども、若い頃に一度だけ何処での展示会であったかは忘れたが見に行ったことはあるが兎に角その緻密な技巧と色彩感覚に驚かされた。その中には、戦争の場面を描いたものもあったように記憶している。
晩年には、東京都練馬区谷原に住み、『東海道五十三次』の制作を志して、東京から京都までのスケッチ旅行に出掛け、およそ5年の歳月をかけて55枚の作品を遺している。私はこの絵は見たことが無いが、検索しているとそんな絵をアップしているのを見つけた。以下参考の※13で見ることが出来るがその精密さに驚かされるであろう。
ただ、参考※7でも触れられているように、当初の戸川行男や式場隆三郎らによる学園の少年たちの作品紹介や情報の発信が「特異児童作品展覧会」として行なわれており、あくまで、純粋な芸術としての絵そのものの作品展としてというよりも、それ以上に精神医学者としての学問上や、精神薄弱児などを受け入れている学園の立場などから「精神薄弱児童」の啓蒙展であるといった色彩が強かったことはを否めない事実であったように思われる。
また、その少年たちの中から選ばれた山下清に関しての式場の作品紹介も、あくまでも式場が意欲を燃やしていたらしいゴッホ研究との兼ね合いから、障害児の「能力」的な発揮として情報が発信されていたようであり、それが、大衆的には、ある種通俗的な「天才と狂人は紙一重」という好奇心と関わりながら受け止められていったように感じられる。
それが、その後、奇妙な言動で笑いを誘う映画やドラマでも、知的障害者としての山下清像が先行し過ぎ、そのイメージのもとに絵画作品も批評されていることを、清の家族らが残念に思ったであろうことは察せられる。そのようなことから、清の家族が見た山下清像を語った本も出ている。以下参考の:※2:「家族が語る山下清」がそれであるが本の紹介の中でドラマなどでは見られない実際の清像が簡単に触れられているので、これを読むだけで大分、今までもっていたイメージが変わるのではないだろうか・・・・。
「裸の大将」「放浪画家」などと世の人々から親しまれた山下清は、大正に生まれ、戦前・戦後・そして高度経済成長期という慌しい時代を一気に駆け抜け、49歳の短い生涯を閉じるのたが、それは、まるで一瞬のきらめきを放って消える彼の大好きな花火を思わせる。
山下清の生涯を歌ったものがYouTubeにあった。以下がそれである。彼のことをよく表したなかなか面白い良い歌だと思うので、最後にこの歌を聴いて、在りし日の山下清を偲ぶことにしよう。
YouTube - 山下清のバラッド/GDBC‏
http://www.youtube.com/watch?v=4aDZ_etOVBs

(冒頭の画像は、コレクションのチラシより舞台公演「裸の大将」清の幸せ宅急便。主役山下清を演じるのは芦屋雁之助。サンケイホール)
※1:山下清の公式ページ
http://www.yamashita-kiyoshi.gr.jp/
※2:家族が語る山下清
http://www.namiki-shobo.co.jp/order10/tachiyomi/nonfict016.htm
※3:社会福祉法人 春濤会 知的障害児施設 【八幡学園】
http://www.yawatagakuen.or.jp/
※4:急性消化不良症 / 身近な病気の知識
http://www.byoki-syojyo.net/body/Child-51.html
※5:『裸の大将一代記 山下清の見た夢』 小沢信男 (著)
http://www.webdoku.jp/shinkan/0806/b_04.html
※6:戸川行男 とは - コトバンク
http://kotobank.jp/word/%E6%88%B8%E5%B7%9D%E8%A1%8C%E7%94%B7
※7:昭和 10 年代「特異児童作品展」と同時代の「能力」言説―試論〔PDF〕
http://mitizane.ll.chiba-u.jp/metadb/up/irwg10/jinshaken21-5.pdf#search='異常児の絵 式場隆三郎'
※8:裸の大将 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD3586/index.html
※9:文学にみる障害者像-『山下清の放浪日記』
http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n314/n314018.html
※10:山下清の放浪日記(読書感)
http://www.synapse.ne.jp/~shinji/jyajya/hon/kiyoshi.html
※ 11:山下清の放浪日記:山下 清 (著), 池内 紀 (編集)
http://www.amazon.co.jp/%E5%B1%B1%E4%B8%8B%E6%B8%85%E3%81%AE%E6%94%BE%E6%B5%AA%E6%97%A5%E8%A8%98-%E5%B1%B1%E4%B8%8B-%E6%B8%85/dp/4772704760
※12:放浪の画家「山下清展」 丹波市立植野記念美術館 - 神戸新聞Web News
http://www.kobe-np.co.jp/rensai/cul/505.html
※13:山下清「東海道五十三次」
http://chasaru.s4.xrea.com/
山下清 作品一覧 | 銀座画廊おいだ美術(30点)
http://www.oida-art.com/buy/artistwork/150_1.html
wikipedia - 山下清
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8B%E6%B8%85
日本のアウトサイダー・アート
http://puci.jp/article/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%83%88%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88/

カエル

2011-07-07 | ひとりごと
かえるのうたが
きこえてくるよ。
クヮ クヮ クヮ クヮ、
ケケケケ、ケケケケ、
クヮクヮクヮ。
「かえるの合唱」
日本では水田が多い地方などでは、夜にたくさんのが一斉に鳴き出し、「蛙の大合唱」といって夏から秋の風物詩ともなっている。
小学校時代に「蛙の歌」として輪唱で歌っていたのを思い出すが、蛙の鳴き声の「ケケケケ ケケケケ」のところは、「ゲロゲロゲロゲロ」とか「ケロケロ ケロケロ」とか、いろんな歌い方があるようだね~。
一応文部省唱歌と言われている「かえるの歌」は、もともとはドイツの民謡に、岡本敏明が日本語の詞をつけた翻訳唱歌らしいが、どうも、タイトルが「かえるの合唱」か「蛙の歌」かの違いで歌い方も分かれているようだ。
でも「ケケケケ」のところは、「ケロケロ ケロケロ」の方が日本の蛙らしくて可愛さもあるよね~。ドイツ民謡の歌詞は以下参考の※1で見ることが出来る。
蛙は良く鳴くことで有名。特に配偶行動にかかわって大きな鳴き声を上げるものが多くあり、世界各地で古くから注目された。Wikipedia:のカエルの説明によると、蛙の鳴き声の種類には、繁殖期にオスがメスを呼び、産卵を促すための鳴き声「求愛音」、繁殖期にオスが他のオスに対し、縄張りを宣言する鳴き声「なわばり音 」、繁殖期にオスが他の個体に対し、自分の存在をアピールして、メスを引き付け、オスを排除するための鳴き声「広告音」、他のオスにメスと間違われて抱接されたオスが、間違った抱接を解除させるための鳴き声「解除音」、敵が近づいたときに発する鳴き声「警戒音」、敵に捕まったときに発する鳴き声「危険音」。それに、低気圧が近づいたり、雨が降っているときに発する鳴き声。「雨鳴き 」があるそうで、これはアマガエルが有名。
ニホンアマガエル)の鳴き声は「ゲッゲッゲッゲッ…」「クワックワックワッ…」という表現をされるらしい。カエルの繁殖期はおもに春で、この時期の夜の水田にはたくさんのカエルの声がこだまし、場所によっては集団で大合唱(「広告音」)になることもある。カエルは水辺に住むものと思われがちだが、ニホンアマガエルは樹上での生活に適応していて、水辺の植物の上や森林などに生息する。春から秋まで活動し、冬は温度差の少ない地中で冬眠する。
普通のカエルは繁殖期の夜に鳴くが、ニホンアマガエルは「雨蛙」の和名の通り、雨が降りそうになると繁殖期でなくとも、昼間でも鳴くのが大きな特徴であり、この時の鳴き声は「雨鳴き(あまなき)」「レインコール(Raincall)」などとよばれ、繁殖期の「広告音(advertisement call)」と区別される。
差し詰め「かえるの合唱」は「広告音」と言うことになるから、そうなら、「ケロケロ」といった可愛い泣き声より、「ケケケケ」とか「ゲゲゲゲ」といった声が実態に近いのだろうね。梅雨時の今日のような雨の日には「雨蛙」が「雨鳴き」をしているのだろう・・・。
7月7日(旧暦)の夜の星祭りとして定着している各地の「七夕」(以前にこのブログでも書いた。※2参照)も現在の暦(新暦)の7月7日、旧暦の7月7日また、1月後れの8月7日に行なわれるものと3種類があるが、新暦の7月7日は、梅雨のさなかで、なかなか星も見ることができない。今日も雨だから七夕行事は無理だろう。
「古池やかわず飛び込む水の音」(芭蕉)
日本人で知らない人はいないといわれるこの句は、松尾芭蕉が43歳の時、江戸蕉門の門弟多数 を芭蕉庵に集めて「蛙合(かわずあわせ)」という催しを開き、蛙を題材にした句ばかりを詠み、勝ち負けを競ったらしいが、そのときの最初の句がこれ。
この時までカエルが和歌の題材になるのは、ほとんど鳴き声であったが、この発句において、そこに、飛び込む(音)をとらえたのがとても新鮮な視点であり、革新的な発想であったようだ(歌の解説は、※3:「芭蕉DB」のここ参照)。
ところで、数日前に九州南部が梅雨明けしたというのでもう直ぐ関西も梅雨明けするだろうと、梅雨の晴間の昨日の朝、今年は電力不足が心配されていることから、我が家も少しでも暑さ対策にと、自動車のフロントガラスの遮光用に使うサンシェード(両面アルミ)を利用して、バルコニーの屋根の下に張りつけた。ダイソーで1枚100円のものを4枚買って非常に経済的に出来、しかも効果抜群。出来に満足していたのだが、最近は、このような台に乗り上を向いて足を踏ん張るなど少し体を動かすだけで足に身が入って・・・その後ぐったり・・・。本当に歳を感じるようになった。
”九州は「梅雨明け宣言」が出たはずの南部も含め記録的な大雨が降り、前線の北上に伴い6日から7日にかけて九州北部や中四国、近畿、東海で局地的に雷を伴っ た大雨の恐れがあり、梅雨前線の活動が活発化したと気象庁が引き続き警戒を呼びかけるニュース(※4参照)が・・・あったが、その通り、私の住んでいる神戸も、昨日の昼からは段々と天気が怪しくなったと思っていたら夕方から大雨になった。
気象庁は九州南部は、6月28日ごろ梅雨明けし、これは、平年(7月14日ごろ)より、16日早い、昨年(7月20日ごろ)より、22日も早い梅雨明けだといっていた(※5参照)。近畿は、平年では九州南部より5日ほど遅い7月21日ごろ、昨年では、九州南部より2日も早い7月17日ごろには梅雨明けしていたので、今年は、数日前より暑い真夏日が続いていたので、梅雨も明けたのだろうと皆で話しをしていたのだが、本当に最近の気象庁の梅雨入り、梅雨明けは当てならなくなったものだ。
地球温暖化異常気象、などが問題視されている近年、外れて当たり前、逆に 、梅雨入り、梅雨明け宣言が、当たった方が驚きという感じになったのかもしれない。
1978(昭和53)年に「大規模地震対策特別措置法」を制定し、その中で静岡県下を中心とした東海地震の直前予知(※6)を目的とした「地震防災対策強化地域」を設定していたが、その後20年を経過して、観測データの蓄積や技術の向上によって想定を見直すこととなり、2002(平成14)年には愛知県や長野県下まで「地震防災対策強化地域」が拡大されたが30年以上経過した現在でも東海地震は発生していない。
しかし、1995(平成7)年1月17日(火)に発生した兵庫県南部地震により、戦後最多となる死者を出した阪神・淡路大震災が発生。
又、2011(平成23)年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震とそれに伴って発生した津波、及びその後の余震により引き起こされた大規模地震災害である東日本大震災では、日本の観測史上最大のマグニチュード(Mw)9.0を記録し、震源域は岩手県沖から茨城県沖までの南北約500km、東西約200kmの広範囲に及び、同年6月30日時点で、震災による死者・行方不明者は2万人以上を出し、その上に、地震と津波による被害を受けた東京電力福島第一原子力発電所の、大量の放射性物質の放出を伴う重大な原子力事故に発展したことは、連日マスコミで取り上げられている通りである。
そのほか、2004(平成16)年10月23日、新潟県中越地方を震源として発生した新潟県中越地震など大きな地震がいくつも発生しているが、どれも予知できずに終わっている。
大震災発生以降、地震の予知ではないが、2007(平成19)年10月1日から、一般向け「緊急地震速報」(強い揺れが想定される場合に発表)が導入されテレビ・ラジオなどマスコミを通じておこなわれているが予報の頻度が高い分誤報も多くある。
ところで、最近あちこちで大きな余震が続くなか、ネット上などでは「カエル」が飛び交っており、何かと思って調べると、これはストラテジー株式会社(※7)から出されている「Signal Now Express」(シグナルナウ)という緊急地震速報ソフトのことで、ソフトのアイコンが「カエル」だったために通称として知られるようになっているようだ。
同社ホームページにアクセスすると、ソフトをパソコンに無料でダウンロードできるらしいので、興味があるなら、覗いて見ては・・・。
最後に、京都府乙訓郡大山崎町の「大山崎町ふるさとセンター」(阪急大山崎駅から徒歩約2分)に2匹のカエルの像が設置されているのを知っていますか。この像は、「京の蛙と大阪の蛙」という昔話(※8:「福娘童話集」の日本の昔話の10月 6日の昔話参照)に基づいたものとされているが、これは、江戸後期の石門心学(せきもんしんがく)柴田鳩翁(しばた きゅうおう)の「鳩翁道話」という当時の民衆向けに書かれた書物に収められている寓話によるもののようだ。鳩翁道話は以下参考の※9で読める。
又、カエルの像の写真を見たい人は、以下参考の、カエル好きのカエルに関する知識・情報を共有しようとカエルに特化したホームページ、※8:「かえるの学校」の中の>授業>社会>京都の蛙、大坂の蛙(大山崎ふるさとセンター)(06年8月号)を参照されるとよい。
京都と大坂の境の大山崎の地は古来より交通の要地として栄えてきた。この大山崎には天王山という山がある。
話の内容の粗筋を簡単に書けば、お互いの街を見物しようと出かけた京都と大阪の蛙が天王山の山頂で出会う。精一杯背伸びをして街並みを見たが、どちらも自分の街と変わりは無く大変な思いをして見に行く事はないと、途中で引き返してしまったという事である。そうなったのは、カエルの目玉が頭の上についている為、立ちあがると、後ろしか見えず、2匹のカエルが見たのは、本当は自分たちの住んでいる町だったからだというもの。簡単な話だが、「物事を確かめるには、まず自分自身を知らなければいけない。」という教訓を説いている。
東日本大震災の復興が非常に遅れているのは民主党の首相に"
人を統率する能力も、信頼感も、行動力もない"からだと、野党からだけではなく、民主党内からも、一日も早い菅さんの退陣を要求されているが、肝心の菅さんには何が何でもやめる気はなく、自分にはしたいことがあると、いつまでも政権に居座ろうとしている。何をしようとするにも自分自身が首相の座にいることが障害になっていることなど全くわかっていない。この人も頭の上に目がついていて、前が全然見えないのだろうね~。この人がいつ矢つき、刀が折れて倒れようとそれは一向に構わないが、東北地方の復興どころか、日本の国が倒れてしまったのではどうしてくれるんだ。もう、この人には何を言っても通じず、ゴルゴ13のような人がいれば、そのような人にでも頼んで、静かに、消えていってもらうしか仕方がないのだろうか・・・・。お国のために・・・・。大変なときに大変な人が一国の首相になってしまった。もう何も言う元気が無い。カエルのように。「ガガガガ・・・」と雨の中わめきたい気分だ。
(画像は、梅雨の間と玄関に飾っていたカエルの置物)
参考:
※1:ドイツ 唱歌:かえるの合唱
http://ww4.enjoy.ne.jp/~aqua98/school/ChildSFrn/kaeru.htm
※2:七夕 - 今日のことあれこれと・・・
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/898f0aae266b94c0c26840f46de4e0f2
※3:芭蕉DB
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/basho.htm
※4:九州で記録的大雨=土砂災害に厳戒―気象庁 (時事通信) - Yahoo!ニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110706-00000035-jij-soci
※5:気象庁:平成23年の梅雨入りと梅雨明け(速報値)
http://www.data.jma.go.jp/fcd/yoho/baiu/sokuhou_baiu.html
※6:気象庁:地震予知について
http://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/faq/faq24.html
※7:ストラテジー株式会社のホームページ
http://www.estrat.co.jp/index.html
※8:福娘童話集
http://hukumusume.com/douwa/index.html
※9:鳩翁道話
http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/1839_kyuou.htm
※8:かえるの学校
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/Kumiko.Tada/frogschool/index.htm
YAHOO!百科事典ー鳩翁道話
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E9%B3%A9%E7%BF%81%E9%81%93%E8%A9%B1/



穴子の日

2011-07-05 | 記念日
日本記念日協会に登録されている今日(7月5日)の記念日に「穴子の日」があった。
記念日の由来を見ると、“ ビタミンAやカルシウムが豊富で夏バテに効果的とされる穴子。その栄養素や美味しさを広く知ってもらおうと、穴子のトップシェアを誇る大阪に本社を置く株式会社グリーンフーズ(※1)が制定”とある。“日付は夏が穴子がもっとも美味しい時季とされ、7と5で穴子の「なご」の語呂合わせになることから。土用の丑の日のうなぎに続き、夏の味覚の定番となるように全国にPRをする。”・・・ことが目的だそうだ。
穴子の業界の売上ランキングのことなど私にはよく判らないが、同社の有価証券報告書などを見ているといつも「トップシェアを誇るアナゴ」と書かれているので、そうなのであろう。
夏の味覚で、東の横綱が土用の丑ウナギ(鰻)なら、西の横綱と言えばハモ(鱧)である。ハモはタイ(鯛)やスズキ(鱸)と並ぶ高級な白身。真っ白なハモの身は、淡泊のようでいて濃厚、その味わいも奥が深い。 関西とくに京都では他の魚など足元にも及ばぬ別格扱い 。山鉾巡行の京都・祇園祭には、鱧料理を食べるならわしがあり「鱧祭り」ともいわれる。7月下旬の大阪・天神祭も、同じ理由で「鱧祭り」と呼ばれる。夏の京都、大阪にハモは欠かせないものなのである。
私の住んでいる神戸でも、特に祭りとは関係がないが、夏にはよくハモを食べる。ウナギと違って、脂が多いのに、あっさりと淡泊で、関西人好みの味である。神戸の人もどちらかと言うと淡白な味付けを好む。
ただ、神戸では昔からハモ以上にアナゴ(穴子、海鰻)をよく食べる。土曜でも余りウナギなど食べなかった。
1883(明治16)年京都生まれ(1959年=昭和34年没)の、篆刻家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家にして美食家としても有名な北大路 魯山人の『鱧・穴子・鰻の茶漬け』(参考※3:「青空文庫」を参照)は、魯山人の大好きなお茶漬けの話の中に、「茶漬けの中でも、もっとも美味(うま)いもののひとつに、はもの茶漬けがある。・(中略)・・東京ではもを求めるには関西風の一流の料理屋によって求めるよりほか仕方があるまい。・・(中略)・・東京近海で獲れるはもは、肉がベタベタして論にならぬ。そこで、代用品というのも当たらないかも知れないが、あなごとか、うなぎとかが同じ用に役立つ。」として続いて、アナゴに関して以下のように書かれている。
「「あなごもいろいろ種類があって、羽田、大森に産する本場ものでなくては美味くない。これも茶漬けにするには、その焼き方を関西風にならうがいい。東京のうなぎのたれのように甘いたれではくどくて駄目だ。京阪でうなぎに使うような醤油に付けて焼くのがいい。それを茶漬けにするには、細かくざくざくに切り、適宜(てきぎ)に熱飯(あつめし)の上に載せ、例のように醤油をかけて茶をかける。
 これも、ややはもに似た風味があって美味い。しかし、はもと違って、あなごでもうなぎでも少々臭(くさ)みがあるから、すりしょうが、または粉山椒を、茶をかける前に、箸の先にちょっと付けるくらい入れた方がいい。
 あなごの美味いのは、堺近海が有名だ。東京のはいいといっても、関西ものに較べて調子が違う。焼くには堺近海のがよく、煮るとか、てんぷらとかには東京のがいい。」・・・と。
鰻茶漬けでもそうだが、茶漬けは湯又茶をかけて食べるのが普通であり、当然、蒲焼にするものよりも、より鮮度・品質の良いものが要求される。茶漬けの好きな魯山人も言っているように、そんな茶漬けの素材として、当然にハモ、アナゴが、ウナギに勝っているが、ハモだけでなくアナゴも関東のものより関西のものが良い。
関東では煮アナゴが好まれるようだが、関西では焼きアナゴが好まれる。焼き穴子は関西から瀬戸内海域にかけてよく見られるもの。瀬戸内海での「穴子飯」はこれをのせたもの。大きいものは干物にする。やや乾き加減にして香ばしく焼き上げる。アナゴの持ち味を生かすも殺すもこの焼き方にあるとさえ言われている。
アナゴ(穴子、海鰻)類は、ウナギやハモ、ウツボ(鱓)などと同じ、ウナギ目という大きなグループに属し、その中で更に、アナゴ科というグループにまとめられている魚類の総称である。アナゴ科には、マアナゴ、ゴテンアナゴ、ギンアナゴ、クロアナゴ、キリアナゴ、チンアナゴなど多くの種類がいるが、日本で一般に「アナゴ」といえば、食用に美味なクロアナゴ属に属するマアナゴのことを指している(※1の「あなご通」のページのあなご図鑑参照)。
アナゴ科の魚は世界の熱帯から温帯域にかけて広く分布しているが、日本では、種類によって異なるが、多くは南日本を中心に分布しており、近隣の朝鮮半島東シナ海にも見られる。
アナゴは、海水と淡水が混じりあう内湾の砂泥地に好んで生息するが、瀬戸内海には多くのアナゴ類が生息し、日本一のアナゴの産地でもあるが、食の代表的なアナゴであるマアナゴも瀬戸内海に特に多く全域に分布している。
瀬戸内海は岩礁から砂泥域まで海底地形の変化に富んでおり、平均水深も浅く、餌生物が多いなどアナゴ類にとっては生息に適した条件がよく揃っているからだ。
兵庫県の特に加古川の河口部あたりが高級な穴子の産地として有名である。美味しいアナゴは魯山人も言っているように関東では、江戸前(東京湾)、関西では堺近海でも獲れるが、こういう環境で獲れるアナゴは決して大きくはないが、身が肥えてずんぐりとした頭が小さく短いのが特徴で、ウナギほどではないが脂も乗っている。
かって、アナゴは庶民の食べ物として存在していた。だから、私など、昭和30年代の初めに大阪の商社で仕事をするようになり、昼食時に先輩に「マムシ」を食べさせてやる・・・といわれ、その「マムシ」と呼ばれているものがヘビではなく「ウナギ」の蒲焼のことであったのを知らずにびくびくして食べ大笑いされたことがあったが、子供の頃からその時まで、ウナギなど食べていなかったのである。兎に角、子供の頃から、蒲焼も丼もアナゴが食材に使われており、ハレの日などによく作られた穴子の押し寿司や散らし寿司は、今でも私の大好物の1つである。
しかし、この頃はウナギよりも穴子の方が高くなり、品質の良いものになるとなかなか普段は高くて買えない状況になってきた。それでも、あり難いことに、夏になると姻戚から毎年決まったように高級な穴子をお中元で貰っていた。それは、明石市に本社を置く大善のアナゴだった。
神戸に住む者にとっては、地元でアナゴの店と言えば明石の「大善」か、高砂の下村商店であった。特に下村商店はその店の名を聞いただけで高級なアナゴを思い浮かべるほどに、知る人は知る店であり、大善よりも一寸格上扱いで、進物などには特に後者が喜ばれていたが、どちらも100年以上の歴史を誇る店であり、「大善」も地元で獲れた良いアナゴを扱っていた店であった。
私の家に中元として贈ってくれている人のご主人が、大善の経営者と深い関わりのある人であり、その奥さんが、大善のお店から忙しいから手伝ってくれと頼まれ、そこで仕事を手伝っていた関係で、そこの店で高級な品が割安に買えたこともあり、ネームバリューは「下村商店」に及ばないが、そのことは承知の上で、そこの品質の良いアナゴを多く贈ってくれていたのである。実際に使う者としてはその方が大助かりであった。
しかし、その「あなごの大善」として知られていたアナゴ加工・販売会社・大善が倒産(平成19年10月上旬事業 停止・自己破産申請)してしまった為、それ以降、お中元でここのアナゴを贈ってもらえなくなったのが残念で仕方がない。
大善は、自店での販売だけでなく、百貨店やスーパーへの卸販売にも進出して売り上げを伸ばしてきたが、1995(平成7)年の阪神・淡路大震災の影響や消費者の嗜好の変化で、売り上げが減少し、2007(平成19)年3月期には、好調であった震災前の1994(平成6)年3月期の45%%程度の販売額にまで落ち込んでいた。そして、2007(平成19)年に入り、中国産の輸入食品問題(中国産食品の安全性参照)もあり、当時では取扱量の85%を占めていた輸入アナゴが敬遠された事が大きく経営に響いた。だから、倒産の主要因は、主要取引先の強い要望に応えるため、生産のための過剰設備をしたことと、素材供給を韓国から中国に全面的に乗り換えたことにあり、経営のやり方や管理面に甘さはあったものの、商品に問題があったわけではない(※2参照)。また、焼きアナゴの名を全国的に広めた功績は大きいだろう。
このような、大手の店がデパートやスーパーなど量販店に卸したりしているなか、「下村商店」は地元の商材とローカルな味にこだわって現在も頑張っているようだ。ちなみに「下村商店」のある高砂市は、加古川の河口部西側に形成された三角州地域にある。
高砂の下村商店はここを参照 ⇒。高砂市 下村商店
ただネットで検索していると、最近は下村と名のつくアナゴの店が高砂の下村商店以外に3店あったが、これが、高砂の下村商店と関係があるのか無いのかを私はよく知らない。以下参照。
下村(本店、大丸神戸店、北野町に下村あなご亭がある)
http://www.anago.co.jp/
下村商店明石市松江店
http://r.tabelog.com/hyogo/A2804/A280401/28002433/
加古川市加古川町平野
http://www.anago-simomura.jp/index.htm
又、明石へも最近は余り行かないし、大善が完全にアナゴの店から撤退し、全く小売店や料理店もやっていないのか、また細々とやっているのかといったことは聞いてもいないので良く判らないが、ネットを検索していると、三宮センタープラザ西館、地下の三宮市場にある「穴子料理 大善」が明石の大善の関係者による店だという口コミ情報が書かれていた。以下参照。
あなご料理 大善
http://r.tabelog.com/hyogo/A2801/A280101/28000610/
アナゴ類の多くは沿岸から内陸湾の水深100m以浅にみられ、昼間は海底の岩などの物陰に隠れたり、砂や泥の中にもぐって身をひそめ、巣穴から頭だけ、もしくは半身を海中に乗り出している。和名の「穴子」はこの生態に由来する。和名「海鰻」は、その形状がウナギに似ているからだが、神戸生まれで、海まで歩いてゆけるところに住んでいた私など、子供の頃は、夏になると毎日朝から晩まで海で過ごしていたが、沖に出て、ヤス(簎・矠。参照)など持って、浅瀬に潜って魚など追っかけまわしていると、砂地から頭だけ出している生物をよく見たが、そのころは知識がなくそれを海蛇と勘違いなどして驚いたものだが、それアナゴだったのであろう。アナゴは、夜になると、活動を始め、餌を求めて海底付近を這うように泳ぎ回っているそうだ。
このマアナゴのレプトケファルス幼生と呼ばれる特異な形をした仔魚(しぎょ)が、春季に日本沿岸の各地に出現し、変体後に、甲殻類や魚類などの動物を捕食しながら成長する。
オス(雄)よりもメス(雌)の方が寿命が長く、成長が良く、体表は褐色で側線上に白い点線が並び、体長はオスは40cm前後、メスは7年で90㎝前後にも達するという。しかし3~5年で成熟すると考えられているようだが、産卵直前のメスや産卵された卵は、まだ見つかっておらず、産卵場やレプトケファルスの初期生態などについては、ウナギ以上に謎が多く、未だその全容はよくわからないものの、仔魚の日齢(生まれてからの日数)や各地の出現時期の違いなど、これまでの研究成果から、マアナゴの産卵場所は、ウナギと同様に、日本からはるかに離れた南方の海(南西諸島周辺海域、また、東シナ海など)へ産卵回遊を行い、そこで、孵化(ふか)したレプトケファルスが黒潮に乗って日本沿岸へ運ばれて来るのではないかと推定されているようだ。
又、マアナゴの性比には場所によって著しい隔たりがあり、東北海域で漁獲されるマアナゴの殆どがオスであり、同様の現象は渥美半島太平洋岸からも報告されているが、内湾の松島湾に生息する小型魚は1:1であることが明らかになっており、内海から外海に移出する際にオスはメスの分布域とは異なる海域に移動することが示唆されており、余計にその生態解明を複雑にしているようである。
レプトケファルスとは「小さな頭」と言う意味だそうで、その名の通り、頭は小さく、体は透明で平たいリボン状をしており、全体の形が柳の葉に似ていることから「葉型仔魚」とも呼ばれている。その特異な形は、海中でふわふわと良く浮いて、潮流などに運ばれやすくするための工夫ではないかと考えられているようだ(※4、※5)。
この小さな半透明のシラウオ(白魚)を大きくしたような葉形仔魚は、春先シラス漁や小鰯の網などで大量に混獲されるが、一般には食用にされないが特に高知県などでは、春の風物珍味として、これを「のれそれ」と称して賞味される。これは、主に生のまま土佐酢、三杯酢などにくぐらせて、躍り食いにされることが多い。
近年は流通も発達しており、大阪など近郊都市の料理屋などでも「のれそれ」(※6)と呼ばれるが、兵庫県淡路島では「ハナタレ」(洟垂れ)、岡山県では「ベラタ」、東海地方では「ベロ」などと呼ばれているそうだが、何故そのような呼び方をされるのかは知らない。又、私はシロウオの踊り食いはしたことがあるが、「のれそれ」は食べたことが無いが、味覚としては同じようなものであろう。
ただ、輸入物のアナゴが減ってきた上に、瀬戸内海のアナゴはここ数年来不漁続きであったが、3年ほど前からは特に漁獲量が激減し、危機的な状況にあるようだ。
その半面、福島や宮城での漁獲はさほど落ち込んでいないようだが、その原因を専門家の間では海水温の上昇をあげている。
アナゴは台湾や南西諸島近辺で産卵し、その仔魚(レプトケファルス)が黒潮に乗って日本近海にやってくることは先にも述べたが、その際、親潮より冷たい水を好んで沿岸に定着するが、西日本の海が温暖化して、アナゴの仔魚が従来より北で定着するようになったためだろうという。また、アナゴと同じく夜行性のハモによるアナゴの捕食が追い打ちを掛けている面もあるという(※7)。
そういえば、最近、スーパーの店頭を見ても、ハモはあってもアナゴの品揃えが激減しており、今まで、色々な料理にアナゴを使っていた地元民としては非常に寂しい思いである。
今までアナゴは天然ものに頼っていたが、養殖の技術力を向上させ、早く、安定して、安く美味しいアナゴを食べれるようにして欲しいものだ。

(画像はマアナゴ。Wikipediaより)
参考:
※1:株式会社グリーンフーズ
http://www.greenfoods.co.jp/
※2:青空文庫:作家別作品リスト:北大路 魯山人
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1403.html
※3:加古川水産㈱のおさかな情報:大善焼きあなご 百余年の歴史に幕
http://kakosui.exblog.jp/6576484/
※4:マアナゴの生態について
http://www.anago-uocho.com/anago_seitai.pdf#search='マアナゴ漁業資源研究会'
※5:平成15年度 「マアナゴ資源と漁業の現状(概要版)」 - 日本水産資源保護協会(Adobe PDF)
http://www.fish-jfrca.jp/03/pdf/env_rec_inf/suisangyo_h15.pdf#search='マアナゴ漁業資源研会'
※6:のれそれ(ノレソレ)
http://www.tosakatsuo.com/noresore.html
※7:asahi.com(朝日新聞社):アナゴ激減!庶民の魚、高級魚に 瀬戸内の郷土食危機
http://www.asahi.com/food/news/SEB200808260011.html
兵庫県瀬戸内海海域小型底びき網漁業包括的資源回復計画[PDF]
http://www.jfa.maff.go.jp/j/suisin/s_keikaku/pdf/hyougo_kosoko.pdf
兵庫県の漁業
http://web.pref.hyogo.jp/af18/af18_000000001.html#h03
わくわく海のご馳走ねっと 
http://park5.wakwak.com/~osakana.net/index.html
アナゴ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%82%B4
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html