今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

鏡の日

2005-11-30 | 記念日
今日(11月30日)は「鏡の日」
「いい(11)ミラー(30)」の語呂合せ。
鏡を大切にすることで、健康で美しい生活を目指す日。
「鏡」・・・と言うと、皆さんは、先ず、何を思い浮かべるだろう・・・?私の場合は、グリム童話の「白雪姫」を先ず思い浮かべる。
グリム童話の「白雪姫」では、白雪姫を産むときに本当の母親である妃が死んでしまい、白雪姫の父親である王は、ある女性を後妻としてむかえる。新しい妃(継母)は、魔法の鏡を持っていて、ことあるごとに魔法の鏡にたずねる。
「鏡よ鏡、この世で一番美しいのは誰?」・・・と、たずねると、鏡は、「女王さま、この国でいちばん美しいのはあなたです」と答えた。
お妃は大変満足しました。何故なら。この鏡は本当のことしかいわないことを知っていたのだから・・。最初の頃は、何度たずねてもずっとお妃その人であったが、白雪姫が成長し、7歳になったとき、鏡は「女王さま、ここでいちばん美しいのは、あなたです。けれども、白雪姫は、あなたより千倍も美しい」と答える。その言葉を聞いたお妃は、驚き、怒りと、妬みのために真っ青になる。そのときから、白雪姫の姿を見ると、はらわたが煮え返るくらい白雪姫を憎むようになった。ねたみ心と、高慢さは、日増しに大きくなり、狩人に「あの子を森へ連れ出し殺しておくれ。その証拠に肺と肝を持って帰って来るように」と命じる。こうして、白雪姫の森の中の生活が始まる・・・。(グリム童話って本当は怖い本なんだよね)
白雪姫に出てくるお妃は、美しい人だが、美しさへの自惚れが非常に強く、自分より美しい人がいることに、我慢できなかった。
最近では、電車の中でも全く、一目を気にもせず、一心不乱にコンパクト鏡を覗き込み、化粧直しをしている女性の姿を見るのも目面しいことではなくなった。その真剣な顔つきは、その場に自分以外の人はいないと思っているのかとさえ感じられる。これは、行き過ぎと、眉をひそめる女性も多いだろうが、多かれ、少なかれ、女性は、美しさにこだわる人が多いだろう。聞かれたら困るが、決して美人と言えない我が女房殿も、鏡の前にいるときの顔は真剣そのもの・・・。では、なぜ人・・・特に女性は、美しさにそれほどこだわるのだろうか?
もし、世の中の女性にこの世で大切なものは何か?と質問すると、「美しさ」などと答える人は少ないだろう。そして、「命」だとか「心」「愛」「思いやり」「性格」「財産」「友達」とか答えるのではないか・・・。
しかし、恋人選び、お見合いにしても、第一印象としては、「見た目」(外見)の要素が非常に大きいのは事実ではないか。その為、人と向き合った時、相手に良く思われたい、好感を持ってもらいたいという気持ちが働き、これが、人(特に女性)は美しくありたいと望むのだろうね。そして、なぜか、外見の良い人は、その外見の魅力だけではなく、内面も良いと思われてしまう。美しい人は内面で自分でも美しいと思っているし、人は、美しい人が好きだと思っている。自分がそう思っている以上、周りの人も同じ様に思っていると思っている。だから、自分より美しいと思う人が現れると、相手は私より美しいと思っているだろうな~と想像する。そして、相手は、私を見て自分の方が上だと得意になっているだろうと思う。(自分ならそう、思うから)。だから、そこに妬みだとか嫉妬が生まれるのだろう。この気持ちは、普通の人より、美しいと思っている人のほうがより強いだろうね。本当は、外見よりも、内面的なものの方が大切なのだが、人は、美しい人は、この内面的なものまでよいと思ってしまうため、そうでないとがっかりする。これは、普通の人よりも、余計に、がっかりすることになる。だから、人から、失望されないためにも美しいと思っている人ほど、そのイメージを保つのが大変なことになるだろうね~。ただ、不思議なことは、電車の中で、周囲の目も気にせず、必至に顔を繕っている女性を見ると、「そんなに、夢中になって、繕っても繕わなくても大して変らないのにな・・・」と思う人が多いのはなぜだろう・・・???
表面的の「美しさ」は、必ずしも素晴らしいものではない。それよりもその人が「魅力的」であることの方が必要なのではないか?美しさも魅力の一つではあるが、必ずしも「美しさ=魅力=」では無い。上辺だけの「美しさ」ではなく、心を映す鏡を持ちたいものだね・・・。
因みに、鏡の起源は人類と同じほど古いといえ、それは水鏡に遡る。その鏡に映る姿を自己であると知ることから、自己認識の第一歩が始ったとされている。鏡に「映る」という現象は、古来より極めて神秘的なものとしてとらえられたのだろう。単なる化粧用具としてよりも先に祭祀の道具としての性格を帯びるようになる。 そして、鏡の向こうにもう一つの世界がある、という観念は通文化的に存在し、世界各地で見られるそうだ。古墳時代、邪馬台国の女王卑弥呼が魏の王より銅鏡を贈られているが、これは彼女がシャーマン的な支配者であったことと結びつける研究も多いという。鏡は神道や天皇制においても重要な役割を果たしており、なによりも重要なのは、三種の神器のひとつが鏡(咫鏡=ヤタノカガミ・・・)である事実であろう。記紀神話では、天照大神が天の岩戸に隠れたとき、石凝姥命(下※1参照)が作ったという鏡。天照大神が岩戸を細めに開けた時、この鏡で天照大神自身を映し、興味を持たせて外に引き出した。そして再び世は明るくなった。のちに鏡は天照大神が瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に授けたといわれる。また、霊力を特別に持った鏡は、事物の真の姿を映し出すともされた。地獄の支配者閻魔大王の隣には「浄玻璃の鏡」(下※2参照)という鏡があり、彼の前に引き出された人間の罪業を暴き出すという。
鏡は鑑とも書くことがある。「かがみ(鏡)」と同源。映し見る意から、規範とすべきもの。模範。手本の意。
今、世相を映しだづ鏡は、新聞やテレビであろう。それでは、それらの鏡には、いったい日本はどのように映しだされるのであろうか・・・?
「鏡よ鏡、世界で最も平和で住みやすい国はどこ・・・?」・・・「世界で最も平和で、住みやすい国は・・・・」「鏡よ、鏡よ、どうして答えてくれないのですか・・・?」「それは、私は、嘘を付けない鏡だからなの・・・m(。-_-。)mス・スイマセーン」
(画像はディズニーキャラクター人形「白雪姫」)
参考:
鏡-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%A1
グリム童話について
http://densyo.hp.infoseek.co.jp/douwa.htm
※1:守護神 石凝姥命
http://www.h6.dion.ne.jp/~tukiyomi/page004.html
※2:真宗大谷派 藤井山 安正寺/裁判の図。 閻魔大王は家来を従えて、亡者が生前に犯した罪を浄玻璃の鏡に映し出し・・・。、
http://www.anshoji.com/cgi-bin/anshoji/sitemaker.cgi?mode=page&page=page4&category=2
グリム童話について
http://densyo.hp.infoseek.co.jp/douwa.htm



「 大韓航空機爆破事件」のあった日

2005-11-29 | 歴史
1987(昭和62)年の今日(11月29日)は、「 大韓航空機爆破事件」のあった日。バクダッド発ソウル行きの大韓航空機が、ビルマ(現ミヤンマー)沖で北朝鮮の工作員・金賢姫らにより爆破 された。この飛行機の乗客の殆どは、中東への出稼ぎの韓国人労働者であった。その後、同機に乗っていた日本人2人が経由地バーレーンで降りた際、爆発物を仕掛けたらしいという情報があった。この男女2人は、「蜂谷真一」「蜂谷真由美」という日本人名義の偽造旅券を所持していた。そして、男性は、バーレーン空港で、で取調べ中に青酸カプセルを飲んで自殺した。その蜂谷真一さんは、実は東京都内で実在しており、本人の証言などから2人の旅券偽造には北朝鮮の工作員らが関与していることが警視庁の調べで分り、事件は国際テロとして、大きな波紋を呼んだ。「真由美」を名乗る女性は「金賢姫(キム・ヨンヒ)」であった。彼女は、韓国大統領選挙を翌日に控えた12月15日韓国に移送された。与党の廬秦愚 (ノ・テウ)候補がこの事件を追い風に金泳三、金大中候補らに楽勝した。バーレーンから韓国・金浦空港に連行うされてきた金賢姫といわれる女性の姿が新聞やテレビで報じされた。口と手首に自殺防止用のテープがつけられた異様な光景であった。翌1月15日、韓国の国家安全企画部が発表した事件の捜査結果によると、「蜂谷真一」「蜂谷真由美」と名乗る2名はいずれも朝鮮労働党の特殊工作員であり、マカオなど海外生活も含めた7年間にわたる外国人化教育を受けた後、金正日書記(現総書記)の直接指示に従って、ソウル五輪の単独開催を防いで韓国政権に打撃を与えるため、大韓機爆破を図ったという。これを受けて、米国は北朝鮮を「テロ支援国家」と認定して対抗処置をとり、日本も日朝外交官の接触制限などの制裁に踏み切った。金賢姫は国家保安法違反などで死刑の判決を受けていたが、その後特赦され今は結婚もしている。しかし、彼女の供述から、日本人で彼女の教育係だったという「李恩恵(リ・ウネ)」をはじめ、日本人拉致問題が浮き彫りにされた。そして、「李恩恵(リ・ウネ)」問題がこじれたために日朝国交正常化交渉は中断した。そして、又、この 大韓航空機爆破事件には、大韓航空機がSOSを一度も発しないで爆破されていることなどから、本当に爆発物が機内に持ち込まれたのか?など色々疑問が解決されないまま、なにか、事件の処理がうやむやに終わってしまったように記憶している・・・?。
その後、2002(平成14)年9月、小泉純一郎総理が平壌を訪問し、拉致問題について、金正日と会談。日朝平壌宣言。小泉首相が家族会と面会し、「拉致問題の解決なしに国交正常化はない」と発言。 10月、北朝鮮で「生存」とされた5人が帰国。又、その後、その家族が帰国するなどから、日本側では、徐々に、北朝鮮の拉致問題の全体像というか実態解明が進んでいるものの、その後の北朝鮮の態度には他の拉致被害者などの返還問題についての誠意は全く見られない。今、米国を含む6カ国間では北朝鮮の核保有問題とあわせた包括的な問題解決のための協議が行われているものの、拉致被害者家族には本当にお気の毒だが、今の、北朝鮮の体制が続いている限り、解決は、難しいような気がしてならない。残念である。
(画像は、当時の報道写真より、韓国・金浦空港に連行されてきた「金賢姫」)
参考:
国情報
http://tetsudou.imajinsha.co.jp/korea_kuni.html
産経Web | SPECIAL 北朝鮮問題
http://www.sankei.co.jp/databox/n_korea/
首相 再訪朝 平壌宣言確認へ : 北朝鮮 : 特集 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/features/eank/200405/ea20040522_01.htm
北朝鮮拉致事件関連年表
http://nyt.trycomp.com/nenpyo.html

親鸞 (浄土真宗の開祖)の忌日

2005-11-28 | 人物
1262年の今日(11月28日)は、「親鸞 (浄土真宗の開祖)」の忌日。[1173年4月1日生] <数え90歳>
6世紀前半、日本に伝わった仏教は、高度な外来文化として受け入れられ、長い間日本では、学習の対象となるものであった。仏典を読み解き、仏教についての概括的な知識を見につけ、仏教の言葉や思考方法に従って思索を進め、その内容を表現できるようになるのは、容易ではなかった。
仏教が伝わって、2世紀余りが過ぎた奈良時代になると、寺院の中に閉じ籠っていた僧侶達の中に寺院の外に出て仏教的なものを外に広めようとする者たちが現れた。律令制度が緩み、停滞を隠せなくなった平安時代中期以降の貴族社会の一部に現世を越えたものえの関心が芽生えると、現世に究極の価値を認めない仏教の教説に対する関心が高まり、個人救済的な性格の濃い浄土教がさまざまに説かれるようになった。法然や親鸞の仏教は、人間のあるべき姿を考え、戒律を守り、学問を重ねて真理を知ることによって、人間が一歩一歩仏に近づいていくことを教えているのではない。法然と親鸞は、そういう仏教を捨て、あるべき人間ではなく、あるがままの人間を凝視するところから出発して仏教を捕らえなおそうとした。そして、人間の姿を見つめることによって到達したのは、凡愚で罪深い人間が、仏になったり、近づいたりすることは不可能に近いという立場であった。そこでは、仏は人間の理想や模範ではなく、人間を救う絶対的な存在である。人間の模範としての仏ならば、仏はいかなるものかを、知識、学問によって説明することが出来るが、人間から隔絶している絶対的な仏は、信仰の対象以外にはありえないということであった。平安時代までの仏教では、仏は人間と連続的なものと考えられていたのに対して、法然や親鸞は、仏と人間を無限の両極に引き離し、そして、その仏と人間を結ぶ唯一のものが「念仏」であるとした。人間は阿弥陀如来の姿や型を見ることも考えることも出来ないという。仏のことを思量する力を持たない人間が、その名を唱えることによって仏の慈悲にすがる。それが浄土教の教えだという。(週刊朝日百科・日本の歴史「鎌倉仏教」参照)
学問ではなく、信仰の立場で仏教をとらえなおすことが鎌倉仏教の課題であったとすれば、その先駆者となったのが法然(ほうねん、長承2年4月7日(1133年5月13日) - 建暦2年1月25日(1212年2月29日))であった。比叡山に上り、30年の厳しい修行の末に絶対的な阿弥陀如来と、凡愚悪人でしかありえない人間とをつなぐものは、仏の名号を称えること以外にないと確信した。そして、念仏が信仰の根本であるとすれば、それ以外の宗教的な実践は不要と考えた法然は比叡山より、降りて、京都の町にくだり、新しい立場を説き広めた。親鸞が法然の弟子となったのは法然が山を下りてから26年後のことである。その頃、法然の教は多くの人に受け入れられていたが念仏の方法をめぐっては、様々な解釈が生まれていた。
浄土宗では念仏を称えれば、悪人を含む全ての人が浄土へ往生できて成仏できるとする絶対他力を唱えている。そのため中には、念仏を称えて極楽往生が決まるのであれば一度念仏を称えた後は、どんな生活をしてもかまわないなどと言う主張も表れ、念仏の教を受け入れた人々の一部を過激な行動に走らせることにもなっていた。その過激な行動は、仏教の秩序を乱すものとして、比叡山や南部(奈良)諸大寺の非難を受けるようにもなっていた。そして、承元元年(1207)専修念仏禁止の弾圧によって、師法然は土佐へ、親鸞は越後国府へ流罪となる。親鸞この時35歳であった。配所では藤井善信という俗名を名乗り「僧に非ず俗に非ず」という生活を送る。4年後に赦免されたがその後も越後に留まり生活。この間に恵信尼(えしんに)と結婚、信蓮房が生まれる。(この頃、今の国府別院の地に住んでいたと伝えられている。建保2年(1214)、常陸国(茨城県)へと旅立ち、法然の教え(浄土宗)を発展させて作った浄土真宗の開祖である。その宗派の成り立ちの経緯から、真宗とする宗派もある。別名に一向宗とも言われる。
「一向宗」といえば、後の戦国時代には、「一向一揆」の存在があった。加賀の国などでは、一向宗門徒の農民たちによる自治国家までが誕生しているほどで、当時の「一向宗」の宗教勢力は強大になっていた。彼らの「自治」や「独立」の動きが特に旺盛な地域などでは、大名が地域を支配する上でどうしても一向宗の勢力が邪魔になる場合もあった。そう言った場所では大名と一向宗門徒の対立は激化し、一向宗の僧侶たちが先頭に立って、大名の軍勢と戦場で戦う場合も多くあった。「仏法のために死ねば極楽浄土に行ける」と信じていた彼らの戦いぶりは、名うての戦国大名にさえ、恐れらるものだった。戦国時代中期には、一向宗の総本山だった「本願寺」と織田 信長が対立したため、織田家と各地の一向宗門徒との戦いが激化したのは歴史上有名な出来事である。今、イラクで、米軍がイスラム原理主義の人たちのテロなどに悩まされているのを見ても感じることだが、天下を統一しようとする信長にとっても、戦って死んだら極楽浄土へいけると信じ込んでているような人達の集団と戦うのは大変なことだったろうな~。
神戸元町に、浄土真宗「本願寺神戸別院」がある。西本願寺直属の別院でありながら、お寺とは思えないエキゾチックな建物。神戸では別名「モダン寺」と呼ばれている。神戸へこられた時には是非一度見学されては・・・。
(画像は「本願寺神戸別院」別名「モダン寺」)
参考:
親鸞 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E9%B8%9E
「本願寺神戸別院」別名「モダン寺」
http://www.modan-t.or.jp/
松岡正剛の千夜千冊『歎異抄』
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0397.html

皇太子明仁親王(今上天皇)と正田美智子さんの婚約が発表 された。

2005-11-27 | 歴史
1958年の今日(11月27日)、皇太子明仁親王(今上天皇)と正田美智子さんの婚約が発表 された。
1958年11月27日、「皇室会議の 義を経て、皇太子明仁親王殿下は、正田英三郎氏長女美智子嬢と婚約されることに決定した」という宮内庁の発表に、日本中に衝撃が走った。
皇太子は軽井沢の親善テニス・トーナメントで対戦した美智子さんの人となりにひかれ、お妃候補にと自ら言われたという。婚約には皇太子本人からの希望が大きかったが、結婚の申し込みには、正田家も美智子さんも、「家格が違いすぎる」と頑固に拒否されたらしいが、皇太子からの「柳こうり一つで来てください」というお言葉に心を動かされ、美智子さんも決心されたという。ご婚約の決め手は、皇太子さまの誠実さであった。
11月27日の婚約記者会見で初対面の印象を訊かれて、美智子さんの皇太子評「ご清潔で、ご誠実で、ご信頼申し上げられる方」は流行語にもなった。
皇室内にはこのご縁談について、平民からとは・・・との反対も強かったといわれているがさもあろうことはよく理解できる。古来、皇太子妃は、皇族か五摂家といった特定の華族から選ばれるのが慣わしであった。正田英三郎氏は実業家で、日清製粉の社長。一族の中から文化勲章受賞者2人を出す家柄とはいえ華族ではない。当時のアメリカやイギリスのマスコミが伝えたようにまさしく「平民・粉屋の娘」が皇太子妃になったわけなのであるから・・・。
このお二人のご婚約は、多くの国民が支持した。そして、ご結婚が迫ると、国内の通津浦裏まで慶祝ムード一色に染まった。美智子さんの愛称が「ミッチ」であったことから、、「ミッチー・ブーム」が起こった。ミッチーと呼ぶ愛称、お二人を取り巻く光景は、テレビというマスメディアにのって、新しい皇室のイメージを国民の心に植えつけたことは間違いないだろう。既にテニスブームは起きていた。そして、お二人のテニス姿のマネキン人形がデパートを飾り、プリンセスラインやVネックが女性の人気をさらった。そのほか、美智子さんの訪問着と同じ柄の着物、美智子さんに似せたフランス人形、などあやかり商品がつぎつぎに登場し、テレビも売れに売れた。戦後、景気は徐々に上昇し、高度経済成長時代へと繋がっていった時代、日本中が神武景気を上回る岩戸景気に覆われた翌1959(昭和34)年4月10日に結婚。皇太子御成婚パレードがテレビで生中継されると、沿道にはお二人の姿を一目みたいと熱狂的な群集が押しかけた。とにかく、日本中がフィーバーし、お祭り騒ぎとなった。戦後で、これほど明るい話題で国中が盛り上がった日はなかっただろう。
最近天皇家のお世継ぎ問題が世間を騒がせている。この問題は昭和天皇の時にも既に起きていた。昭和天皇がまだ摂政の頃(大正13年1月26日)に良子妃と結婚され、お二人の間に、続けて4人のお子が生まれたが内親王ばかりであった。天皇家の皇嗣(こうし)の資格は男性に限られていることから、男児を絶やさないために、皇室の周囲からは天皇に「側室をおいては…」と云う動きも出たが、天皇はこれをた拒絶されたという。しかし、幸いなことに、皇后5度目のご懐妊で、目出度く待望の皇太子がご誕生。「継宮明仁」と命名された第一皇子が今上天皇である。その後、皇太子明仁親王殿下(今上天皇)は美智子さんとご結婚をなされ、お二人の間には2人の男児がお生まれになった。現、皇太子徳仁親王殿下、そして、 秋篠宮殿下である。しかし、この両殿下の間には、未だに男児がお生まれになられない。元々、長い歴史の間に、今まで男子が途絶えないで皇室が続いたのは側室制度があったからであった(勿論、男子が絶え女性天皇は何度かいたが)。大正天皇が側室を望まないとし、昭和天皇も側室に反対されたことから側室制度は廃止された。そうである以上、今のような男児がいないための皇室継承問題が起こることは、当然の成り行きであった。今、日本にとっては、女性天皇制を認めるか?天皇制をどうするか?といった重要な問題を解決しなければならない時期に来ている。そんな中、11月15日天皇家の長女紀宮清子様が、東京都の職員黒田慶樹さんと結婚式を挙げられた。結婚式後、新居のある区役所に婚姻届を提出した後は、紀宮様も、皇族から普通の民間人である東京都庁の職員の妻・・・黒田清子となった。皇室の内親王が華族以外の普通の民間人と結婚されたのは、今回が初めてである。皇后(美智子)様は、初めて、民間人から皇室へ嫁ぎ、自分の生んだ長女を、初めて、普通の民間人に嫁がせることとなった。結婚式当日の別れの朝、一人娘の清子さんを胸元にしっかりと抱きしめ「大丈夫よ」と繰り返し語りかけられたそうだ。それは、46年前に、婚礼の儀に向う自分を母親の正田登美子さんが無言で抱きしめてくれたことを思い出してのことであろう。皇室へお入りになってからのご苦労とその心情は察して余りあるものがる。
(画像は、コレクションの「皇太子殿下御成婚」慶祝記念カード。三井銀行=現、三井住友銀行発行。)
参考:
宮内庁ホームページ
http://www.kunaicho.go.jp/
明仁-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E4%BB%81_(%E7%9A%87%E5%AE%A4)
Yahoo!ニュース - 紀宮さま結婚
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/princess_nori/

ペンの日

2005-11-26 | 記念日
今日(11月26日)は「ペンの日」。日本ペンクラブが制定。
1935(昭和10)年、日本ペンクラブが創立された。ペンクラブは、文学を通じて諸国民の相互理解を深め、表現の自由を擁護するための国際的な文学者の団体である。ペン(PEN)は、文字を書く道具としてのペンをあらわすとともに、Pは詩人(Poets)と劇作家(Playwrights)を、Eは随筆・評論家(Essaists)と編集者(Editors)を、Nは小説家(Novelists)をそれぞれ表すとのこと。
「ペン」と言えば、「ペンは剣よりも強し」という、格言を思い出す。言論が人の心に訴える力は武力よりも強いという意味であるが、この原典は、19世紀のイギリス人のブルワー・リットン(1803年-1873年)による戯曲『リシュリュー』の中の科白(俳優の台詞)と言われている。この台詞には、本当は、「まこと偉大な指導者が統治しているもとでは」との前置きが入る。老宰相(枢機卿)リシュリューは、謀反の動きに、「私がもっと若ければ、首謀者を切って捨てることができるのに」と悔しがる、それに対して、側の者が「いまの枢機卿様には剣よりももっと強い別の武器があるではございませんか」といわれ、「そうだな、まこと偉大なる指導者が統治しているもとでは、ペンの方が剣よりも強いのだ」と語りだす。ペンは、第一義的には法律や為政者への影響力ということになるのであり、そのあと「国を救うのに剣などいらぬのだ」という台詞が続く。
このリットンという人物は、1932(昭和7)年、国際連盟によって日華紛争の調査を命ぜられたリットン調査団団長リットン卿の祖父で、およそ200年前、ロンドンの北郊50キロの丘陵地にある屋敷「ネブワース」で生まれ、ケンブリッジ大学卒業後、ジャーナリストとして活躍し、政界入りしてから植民地担当大臣などもつとめ、その功績で男爵に叙せられている。一方で、小説を余技としており、日本でも明治時代から『ポンペイ最後の日』等の作品で知られていた。
しかし、「ペンは・・・」の格言の生みの親の子孫が、剣の力がペンの力を圧倒しようとしていた当時のわが国に対し、警鐘を鳴らしていたとはね~。
ところで、この戯曲に出てくるリシュリューの名前を聞いて何か思い当たらないかな・・・?そう、あの有名なフランス文学の名作、アレクサンドル・デュマの小説「三銃士」に出てたよね。田舎出のダルタニャンがパリにでて、アトス、ポルトス、アラミスの三銃士と親しくなる。やがて4人はアンヌ女王の名誉を守るため、イギリスはバッキンガム公に与えたダイヤを取り戻しにゆくが、宰相リシュリュー郷の邪魔が入り・・・・といった感じで、ダルタニャンの敵役として登場するため、狡猾な抜け目のない悪人と思われがちだが、実際のリシュリューは、ブルボン朝の発展と繁栄のために大きく尽力し、近代フランスの礎を築いた大政治家で、冷徹なマキャヴェリストであった反面、まれにみる無私の人でもあり為政者としての広い度量をかねそなえてもいたそうだ。そして、彼の信念は「王権の拡大」と「盛大への意思」、それは、「フランスはあらゆる他国を押さえて強大にならねばならない」との確信であり、この彼の信条に従わない者に対しては全てこれを「国家の敵」とみなして徹底的に撲滅をはかった。そのリシュリューが死ぬとき告解僧が「汝は汝の敵を愛しますか」と問うと彼は「私には国家の敵より他に敵はなかった」と答えたという。
日本では何かと悪く言われている小泉首相だが、彼の冷徹さの中には、一種のマキャヴェリズムが伺える。ただし、その才能、信条などにおいて、どれだけリシュリューなどと比較できるかは別の問題であるが・・・。又、平和な時代においては、「ペンは剣よりも強し」も、下手をすると「ペンの暴力」にも繋がりかねない。余り、具体的に採りあげると、色々支障があるので、明言は避けるが、最近の新聞記事などマスコミ報道には、「ペンの暴力」に近いものが見られないわけではない。特に、心配されるのは、近年のインターネットの発達は、このようなブログやホームページなどを利用しての避難、中傷が見られる点である。戯曲『リシュリュー』の「ペンは・・・」の前置き「まこと偉大な指導者が統治しているもとでは・・・」の台詞に重みを感じる。
(画像は、リシュリュ枢機卿。Wikipediaより)
参考:
日本ペンクラブ
http://www.japanpen.or.jp/
エドワード・ジョージ・ブルワー・リットン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%B3
ダルタニャン物語
http://www.dict-keyword.com/201/160217.html