今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

城忌,東鶴忌,銀忌

2014-01-29 | 人物
今日は俳人・日野草城(ひのそうじょう)の1956(昭和31)年の忌日である。

春の灯や女は持たぬのどぼとけ(句集『花氷』1927年)  

昭和初期に、新興俳句運動の驍将(ぎょうしょう)として官能俳句・フィクション俳句・無季俳句などを率先して取り入れたモダンな作風で現代俳句への道を切り開いたとされる俳人日野草城 (ひのそうじょう)。
正直なところ、私も詳しくは知らないのだが、それまでの既成の侘び的俳句概念から脱却して、上記の句に見られるような、エロティシズムをテーマーにした官能的な俳句を連作し、昭和俳句の先駆的役割を果たした俳人だということは知っている。
以下参考のWikipedia他、ネットで検索したもの等によれば、日野草城、本名:克修(よしのぶ)は、1901(明治34)年7月18日東京生れで、幼いころは、朝鮮に移住し、京城(現在のソウル特別市)の小学校、中学校で学ぶが、その後帰国し、旧制第三高等学校(三高)第一部乙類(英文科)を経て、1921(大正12)年、京都帝国大学(京大)法学部に入学。1924(大正13)年同大学卒業後、大阪海上火災保険株式会社(現:三井住友海上火災保険前身会社のひとつ。最も歴史が古い)に入社。
入社後も俳句を続け、サラリーマン俳人として以下のような「重役会風景」(句集『昨日の花』1935年)と題する連作を作ったりもしているようだ(※1参照)。

パッカード来て日盛の玄関に
壮年の巨躯の社長の白チョッキ
扇風機厳秘の文書飛ばんとす
支配人猪首の汗を且拭う
うすものの老監査役うとうとと
夏痩の瞳の大なる女秘書
三伏や決議書に判べたべたと

最初の句に出てくるパッカードは第二次世界大戦以前、世界中に知られた米国製の高級車である。そんな高級車が夏の午後の太陽が盛んに照りつける暑い盛りに会社の玄関に来て会社の役員が乗り込んでいるのであろうか。最後の句の三伏も夏の最も暑い時期、夏の季語であり、これらの歌は、無季俳句ではなく一応有季定型俳句である。「重役会風景」をテーマーに句を作るという発想自体は当時珍しかったことたろう。
句集『昨日の花』は、草城のそれまでの俳句路線を自らが「昨日」の「花」であったとする自覚の分岐点となった句集ということのようだ。
なんといっても草城の句で有名なのは、上記で紹介したようなエロティシズムをテーマとした句であろう。

日野草城は中学時代より俳句雑誌『ホトトギス』に投句。
旧制第三高等学校(三高)中、京大三高俳句会を結成。同句会には山口誓子などが参加した。また1920 (大正9 )年、鈴鹿野風呂(すずかのぶろ。※2参照)らと『京鹿子』を創刊。
1922(大正11)年には「京大三高俳句会」を解散し「京鹿子俳句会」を創立し、学外に公開。この間『ホトトギス』で正岡子規の弟子である高濱虚子に学び、1921(大正10)年二十歳の時には『ホトトギス』の巻頭を飾り注目を集めたという。

藤の根に猫蛇(べうだ)相搏(う)つ妖々と  (高濱虚子。大正9年作※3より)

上掲の句には、「五月十日、京大三高俳句会。京都円山公園、あけぼの楼」の留め書きがあり、1919(大正8)年のホトトギス「百年史」の年譜で、「草城・野風呂、京都で「神陵俳句会」発足(大正9年京大三高俳句会となる)」とあり、この日野草城・鈴鹿野風呂らの「京大三高俳句会」での作ということらしい。

春愁にたへぬ夜はする化粧かな (草城・大正9年「ホトトギス」)

上掲の句は、草城の二十歳にも満たない学生時代の作だそうで、この句が作られた大正9年について、ホトトギス「百年史」には、「新傾向俳句の理論的な支柱でもあった大須賀乙字が四十歳の若さで夭逝した。また、碧梧桐が携わっていた『海紅』(※4)も碧梧桐の手を離れ、自由律俳句中塚一碧楼に代わる。虚子も体調を崩し、一時、ホトトギスの「雑詠」選も蛇笏に代わるが揺るぎもしない。そして、それらを背景として、日野草城らは「京鹿子」を創刊し、華々しくデビューしていくことになる。」・・・と記されている。・・という。
そして、上掲の虚子大正9年の句の「猫」・「蛇」とは、その『京鹿子』を創刊した、草城と野風呂の両者のようにも思えてくる。これらの草城や野風呂を俳壇にデビューさせた虚子の眼力は並大抵のものではない。・・・と※3のブログ作成者が補記している。

虚子の期待通り、草城は、大学卒業直前には『ホトトギス』の課題句選者も勤め、1929(昭和4)年29歳の時には同誌同人ともなっている。
また『破魔弓』(はまゆみ)が1928(昭和3)年7月号から『馬酔木』(あしび)となった際には水原秋桜子らとともに同人のひとりであった(※5)。
1933(昭和8)年には水原秋桜子、山口誓子、鈴鹿野風呂、五十嵐播水らとともに新興俳句誌「京大俳句」創刊顧問ともなっている。
この間1924(大正13)年京大法学部卒業後、1927(昭和2)年には第1句集『花氷(はなごおり)』(※6)を出版。
その句風は従来の〈わび〉的俳句概念を払拭した清新瀟洒(しょうしゃ。すっきりとあか抜けしているさま)なモダニズムで、昭和俳句の先駆的役割を果たしたといわれている。
ところが、彼に対する俳壇の評価は、秋桜子や山口誓子にくらべ格段に低く、時代が下るほど、その傾向が強くなっていたようである。
『花氷』には以下のような句がある。

春の灯や女は持たぬのどぼとけ
春暁や人こそ知らね樹々の雨
春の夜や檸檬(レモン)に触るゝ鼻の先
物種を握れば生命(いのち)ひしめける
ところてん煙の如く沈み居(を)り

最初の句<春の灯や女は持たぬのどぼとけ>の初出は大正11年7月号の『ホトトギス』雑詠で、<春灯や女は持たぬ咽喉佛>の形で発表されたものらしい。その時には、同時に〈人妻となりて暮春の欅(けやき)かな〉があったそうだ(※7参照)。
先の句は、いまでは句集『花氷』の形で知られている。以下参考の※8:「きごさい」ネット歳時記によると、季語「春の灯(春燈)」は、春の華やかさとともに艶めいた感じがあるとされているようだ。その灯のなかにある女性の美しさ。武骨な「のどぼとけ」のない「のど」一点の滑らかさ、まろやかさをすっと言い止めて、読者に姿全身の美しさを想像させている。
草城は1931 (昭和6)年に甲川政江(後の晏子)と結婚しているが、大正10年頃には、佐藤愛子という女性と相思相愛になり婚約までしていたそうだが、翌年、愛子の病気を理由に婚約は解消されたそうだ。
上掲の句はそれより以前の作のようだが、草城と女の接触はなかったようだと言う。それは、草城が極端に潔癖症であったことから、女性の美に憧れ、女性からも好かれる性格の持ち主だが、反面異性との接触は慎重だったようで、花柳病や伝染病には異常なほどの反応を示していたという。しかし女性との関係を直接句にしないで、想像の世界を織り込込むことを得意としたようだ(※7参照)。

春暁やくもりて白き寝起肌
春の夜や足のぞかせて横坐り
しみ/″\と汗にぬれたるほくろかな
菖蒲湯や黒髪濡れて湯気の中
黒髪の蛇ともならで夜長かな
秋風や子無き乳房に緊《かた》く着る
白々と女沈める柚子湯かな
のぼせたる頬美しや置炬燵
酔へる眼も年増盛りや玉子酒

探してみると『花氷』の中には、<春の灯や女は持たぬのどぼとけ>以外にも、上記のように女が柚子湯に浸かったり、お風呂上がりに炬燵に入って玉子酒を飲んだりしているかのような臨場感あふれる光景の詠まれているものがあり、何か他所の人の家の女を覗き見しているようなエロスを感じさせる。
ただ、「これら(『花氷』)の句は、全体的にはいずれも日常、目にし得る素材、あるいは対象である。それが、草城によって限りなく美的世界へと変身を遂げているのである。繊細な感受性をも含めて、草城が、いかに詩的な資質に恵まれていたか、ということである。」・・・と、『日野草城 俳句を変えた男』(角川学芸出版 2005年)を書いている復本一郎氏は、草城の処女句集『花氷』の作品群を、晩年の草城の作品群よりも高く評価している(※3:「ブログ俳諧鑑賞」の草城 参照)。
又、これら『花氷』の句が、「どれもソツのないつくりで、つまり技術的な難は見あたらず、うまいと思う。特に比喩や取合せはさえていて、旧弊な俳句がもつ重くれがない。つまり軽いのである。この小器用さからくる軽さを山本健吉などが非難したあたりから、今日にいたる草城観がかたちづくられることになった。
草城が全俳壇的に注目される存在になったのは、1934(昭和9)年、創刊されてまだ2号目の『俳句研究』(改造社)に、「ミヤコ ホテル」と題する連作を発表。これが毀誉褒貶(きよ-ほうへん)の的になったからだったともいわれている(※9参照 )。

「ミヤコホテル」10句
けふよりの妻(め)と来て泊(は)つる宵の春
夜半の春なほ処女(おとめ)なる妻と居りぬ
枕辺の春の灯(ともし)は妻が消しぬ
をみなとはかかるものかも春の闇
薔薇(バラ)匂ふはじめての夜のしらみつつ
妻の額(ぬか)に春の曙はやかりき
うららかな朝の焼麺麭(トースト)はづかしく
湯あがりの素顔したしく春の昼
永き日や相触れし手は触れしまま
失ひしものを憶(おも)へり花ぐもり

これらの句は、吉井勇の<君とゆく河原づたひぞおもしろき都ほてるの灯ともし頃を>(※10参照)などから想を得て、新婚初夜をモチーフに連作10句にまとめたもので、草城自身は新婚旅行はしておらず、京都東山に実在するミヤコホテル(現ウェスティン都ホテル京都の前身)を舞台にしているもののあくまでフィクションであり、新婚初夜を過ごす男女のフィクションが物語的な構成で作られているのであった。つまり〈うしなひしものをおもへり花ぐもり〉などドラマ仕掛けになっている。というのも草城が俳句の魅力を知り本格的に句を始める切っ掛けになったのは、与謝蕪村の〈お手討ちの夫婦なりしが更衣〉の句に接し突然眼が覚めたような驚きを持ったからだったという(※9参照)。
当時としては画期的な内容であったが、フィクションの句やエロティシズムの句への理解が乏しかった当時は俳壇の内外に騒動を起こした。
俳壇では西東三鬼などは一定の評価をしたものの中村草田男久保田万太郎が非難、また文壇でも中野重治が批判を行っている。しかし文壇にいた室生犀星は「俳句は老人文学ではない」(『俳句研究』1935年2月号)という文章を発表し「ミヤコホテル」が俳句の新しい局面を開いたとして積極的に評価している。
この犀星の賛辞をきっかけにして中村草田男が『新潮』誌上で「ミヤコホテル」を批判する文章を発表、これに草城自身が反駁し、『新潮』『俳句研究』で「ミヤコホテル論争」と言われる論戦に発展した(※11、※12参照)。
そして、1936(昭和11)年、客観写生、花鳥諷詠を題目とする虚子の逆鱗に触れ『ホトトギス』同人を除名されるまで発展したとされている。
草城の俳句はあまりにセンセーショナルであったため、賛成も得たが、多くの反感も買った。
当時の評論などを見渡すと、草城のやることなすこと、ことごとく批判されているように見える。中にはヒステリックな、人格さえも批判するような容赦ないものまで見受けられる。
しかし、よく見ると、これらの論争は表面的にはモチーフをめぐるものであったが、根には作品自体のもつ軽さへの不満であり、いくらセンセーショナルにセックスを扱ったといっても、フィクションであり、掘り下げはきわめて浅く、内容は常識の域を出ていないではないかといったようなことである。それをなぜそんなに批判しなくてはならないのか。言い換えれば、それだけ影響力のあった人物だったからなのであろう。
したがって、草城の「ミヤコ・ホテル」の連作と『ホトトギス』同人除名とは直接的には関係ないとされているが、やはり遠因にはなっているようだ。
ここで少し、俳句の歴史を遡ってみよう。

近世に発展した文芸である俳諧連歌(俳諧)は松尾芭蕉、与謝蕪村によって、現代言われるところの近代俳句が確立された。
蕪村に影響された俳人は多いが特に明治時代に正岡子規は近世以来の月並俳諧を排して「ホトトギス」による一大変革を行った。俳諧の近代化である。
子規が俳句に持ち込んだのは写生という考え方で、要は西洋的な写実主義(リアリズム)で俳句も作ろうということであった。子規のもとに集まった人々は「日本派」と呼ばれ、俳壇の主流となった。
子規の考え方は俳句の世界に新風を吹き込み、多くの人々が俳句に親しむようになったが、その反面、その後後十数年で権威主義化形骸化陳腐化し、よみぶりも単調となり、本来俳句が持っていた遊戯性・技巧性は失われてしまっていた。その停滞しつつあった近代俳句という表現ジャンルが、突如戦国時代を迎えた。
子規の死後、日本派は高浜虚子と河東碧梧桐の二派に分かれた。虚子一派は「ホトトギス」を主宰し、ホトトギスの理念となる「客観写生」を提唱、伝統的な季題や定型を守る立場をとったが、一方の碧梧桐の門には、大須賀乙字荻原井泉水中塚一碧楼らがあった。
乙字は写実を象徴に深めよと説き、「新傾向俳句」の呼び名を生んだ。碧梧桐は、無中心論を唱え、主観的な心理描写を重んじた。この傾向をさらに進めた井泉水は、季語無用論を唱え、さらに非定型の自由律俳句を主張した。
放浪の俳人尾崎放哉や、種田山頭火プロレタリア文学理論を句作に導入し、弾圧されながらプロレタリア俳句をすすめた栗林一石路は、井泉水の門下であった。彼らは新傾向派と呼ばれ、機関誌『層雲』を創刊したが(1911年)、その後あわただしく離合集散を繰り返している。
虚子の俳風は、このような碧梧桐の勢力に圧倒され気味で、虚子自身も『ホトトギス』も一時は俳句を退き、写生文や小説に力を注いだ。
1915(大正4)年には虚子は『ホトトギス』 で 俊英作家の作品をとりあげた「進むべき俳句の道」の連載を開始。後進の指導にも力を注ぎ、「ホトトギス派の4S」といわれる高野素十・水原秋桜子・山口誓子・阿波野青畝らを育てている。
しかし、ホトトギス派の保守的な作風に対して、同派の水原秋桜子は、主観的叙情を重んじる立場から、新たに「馬酔木」を創刊した(1928年)。同じく山口誓子も新時代感覚による主知的構成を唱えてこれに同調した。
こういう新興俳句運動に呼応して、吉岡禅寺洞の無季俳句や、日野草城のモダニズム俳句などの俳句革新の動きが起こったのであった。
草城は「ミヤコ・ホテル」の連作を発表(1934[昭和9]年、当時34歳)した翌1935(昭和10)年に、東京の「走馬燈」、大阪の「青嶺」、神戸の「ひよどり」の三誌を統合し主宰誌『旗艦』を創刊して、リベラリズム(自由主義)の新興俳句に取組むこととなる。これは反ホトトギスの表明であり虚子への挑戦でもあった。
その翌1936(昭和11)年、『ホトトギス』10月号の同人変更の告知が掲載された中で、草城は、吉岡禅寺洞、杉田久女とともに同誌同人を削除されたことを知る。予期していたとしてもこの記事を見たときにはやはりショックは隠せなかったことだろう。
草城の「ホトトギス」同人除名の理由は直接的には、このリベラリズムの無季俳句などを容認している「旗艦」の創刊などであり、草城の「ミヤコ・ホテル」の連作と「ホトトギス」同人除名には直接関係はないとされているものの、やはり遠因にはなっていると思われる。
保守的な虚子は、草城のエロティシズム俳句が「花鳥諷詠」俳句の概念を一変してしまう危険性を察知し、それを恐れたのであろう。
草城は「ホトトギス」除名後、無季俳句を積極的に唱導、自らもエロティシズムや無季の句をつくり新興俳句の主導的役割を担う。そこには、その後の4S(水原秋櫻子・山口誓子・阿波野青畝・高野素十)の台頭などによる「ホトトギス」内での冷遇などへの反発があったかもしれない。

草城が「ホトトギス」の同人を削除された翌1937(昭和12)年の蘆溝橋事件に端を発した日中戦争支那事変)が勃発したころから、国家権力による言論・思想の統制が、日増しに激しくなり、リベラル(自由主義)を標榜する者への国家権力による不当な弾圧がはじまったが、俳句にたいする弾圧は、主として反伝統派の総称たる「新興俳句」派の弾圧であったが、そのトップを切ったのが「京大俳句会」事件で、西東三鬼らが逮捕されている(※13参照)。
「無季俳句も亦俳句である」として、無季、自由律を目指した多くの新興俳句系の俳誌が弾圧される中で、『旗艦』が弾圧された様子がない(新興俳句弾圧事件参照)のは、当時の国家権力にとって、それが弾圧するに値しなかったからか。言い換えれば、草城の仕事の性質は、何も合法非合法すれすれの線などといふ無理をした仕事はしていなかったということだろう。そういう点では、作品自体に軽さがあったとはいえるのだろう。それでも、草城なども新興俳句系の俳人としてマークはされ、不自由はしていただろうことは察せられる。

草城は戦後の1946(昭和21)年、45歳の時には肺結核を発症。以後の10数年は病床にあり、病と闘いながらこれまでの新興俳句とは別種の静謐(せいひつ。)な句をつくった。
草城晩年の1953(昭和28)年、青玄俳句会から出版の第七句集『人生の午後』(※14参照)の冒頭には妻への献辞が書かれている。以下がそれである。

晏子さん
もしもあなたが私を支へてゐてくれなかつたなら
私のいのちは今日まで保たれなかつたでせう
この貧しい著書をあなたに贈ります
これが今の私に出来る精一杯の御礼なのです
一九五三年七月 草 城

なんと素直な感謝の辞であろうか。40代後半にして、その句集に「人生の午後」(※15「ユング心理学の世界」参照)としている心境はいかなるものであったか。句を見ればわかる。病の身を支えてくれるのはただただ妻のみ。そんな切実な叫びがこの献辞となっているのだ。
続いて、以下のようことも書かれている。

昭和二十三年から二十七年に至る五年間の作品三一五句を収めました。
鈴鹿野風呂さんに序を、五十嵐播水さんにを、書いていただきました。昔の「京鹿子の三人」が二十数年ぶりに顔を合したわけです。
自分の句集を編むといふことはとても辛い仕事です。見れば見る程自分のみずぼらしさが現れてきます。この上多くの人々の厳しい眼で吟味されることを思ふと、げつそり痩るやうな気がします。
昭和二十八年初夏

これを見ると、「ミヤコ・ホテル」の連作以来、多くの人から批判されたことを、どれだけ、気に病んでいたかが分かる。そして以下のようにも書かれている。

昭和二十四年(一九四九)
二月に風邪を引き、高熱と激しい咳嗽が続いた。相当応へ、以後ずつと臥たきりとなつた。四月二五日休職期間満了、大阪住友海上火災保険株式会社を退いた。大正十三年四月二十六年入社したのであるから、きつちり二十五年在社したことになる。四分の一世紀、短い歳月とはいへない。一本に貫いた私の会社員生活も茲に終り、天下無職となつた。四月二十八日、一年間の間借生活を打切り現住所池田市中之島町十九番地の日光草舎へ移つた。一二回家の周辺を散策したことがあるのみで、爾来門外へ出たことがない。九月大阪星雲社より第六句集「旦暮」上梓。十月門田竜政、門田誠一、田中嘉秋三氏の手により「青玄」が創刊された。この年しばしば発熱し病状不安定であつた。・・・と。

「日光草舎」とは西から日光が存分に射し込むことから命名された新しい小さな家の書斎のことらしい。昭和21年から胸を病み、同24年風邪を引き、高熱を出してから臥たきりとなり、休職期間(※16参照)が満了したことから4月に大阪住友海上火災保険を退職し、池田市に居を移したころにはほとんど病床をはなれることができない位悪くなっていたようだ。
このような中、同年『青玄』が池田の地で創刊された。

句集『人生の午後』には、以下のような句が掲載されている。

冬薔薇の咲くほかはなく咲きにけり
あたりのものが次第に枯れ色を強めていく中で、凛と咲いている冬薔薇。寒さに凍えるような時でも、薔薇は薔薇として、咲かなければならない。それが与えられた生をまっとうできる、唯一のことであるかのように。冬薔薇に投影された草城の志が句に貫かれている。

生き得たる四十九年や胡瓜咲く
胡瓜(きゅうり)咲くは夏の季語。胡瓜の花は観賞するような立派な花じゃない。節ごとに雌花をつけるが黄色くて、たいていは炎天下でしおたれている。そんな地味な花に目をとめて、生きている喜びを分かち合えたのは、草城が病弱だったからだ。

ちちろ虫女体の記憶よみがへる
ちちろ虫とはこおろぎで秋の季語。 病に伏しても「女体」への 関心は衰えていなかった。妻との新婚旅行で「ミヤコ・ホテル」に泊まった時のことでも思い出したのだろうか。

切干やいのちの限り妻の恩
切干(きりぼし)が冬の季語.。草城は晩年、病床にあって、夫人の看病の中で秀句をたくさん作った。いまは全く病床仰臥の身となった草城は、何につけて妻の世話なくしてはやってゆけない。これからも命の限りその妻の恩を受けるだろうし、命の限りその妻の恩は忘れられないという。 冒頭の妻への献辞にもあるように、まさに「いのちのかぎり妻の恩」に感謝していると、妻政江が仏に見えるほどの感謝の日々であったのであろう。そんな愛妻を残して何時逝くかもわからない悲壮感がみなぎっている。

この句集を作った2年後の1955(昭和30)年、彼を破門した高浜虚子はふたたぴ草城を『ホトトギス』の同人に迎え、日光草舎に彼を見舞ったという。
虚子のその心情はわからないが、やはりこの師弟は、反発しながらも、尊敬と愛情で長年深く結ばれていたのだろう。
残念なことに彼に残された時間はすでにいくばくもなく、ホトトギスへの搭載も出来ないままに、翌1956(昭和31)年の元旦、<仰向(おおむ)けの口中へ屠蘇(とそ)たらさるる>と詠んだ草城は、1月29 日に息を引き取ったという(※17)。草城の墓は慶伝寺(大阪市天王寺区餌差町)にあるそうだ。
若き日エロスを詠った草城もこのころには、平明で深く、透明で切実な境地を切り開き、それまでの新興俳句とは別種の静謐(せいひつ。静かで落ち着いていること)な句を綴っている。一度句集(※0014)に目を通されるとよい。


(冒頭の画像は草城句集 花氷 覆刻本出版社: (株)沖積舎)

参考:

※1:パッカード|ショウちゃんのブログ 俳句のある風景
http://ameblo.jp/cornerstone1289/entry-11451257918.html
※2:鈴鹿野風呂 | 四時随順
http://minorugh.tumblr.com/post/42417527761
※3:ブログ俳諧鑑賞:虚子の実像と虚像
http://yahantei.blogspot.jp/search/label/%E8%99%9A%E5%AD%90%E3%81%AE%E5%AE%9F%E5%83%8F%E3%81%A8%E8%99%9A%E5%83%8F
※4:自由律俳句結社「海紅」
http://kaikoh-web.sakura.ne.jp/WordPress/
※5:秋尾敏「水原秋桜子と『馬酔木』」、『俳壇』平成12年11月号掲載
http://www.asahi-net.or.jp/~cf9b-ako/kindai/asibi.htm
※6:草城句集(花氷)
http://ww41.tiki.ne.jp/~haruyasumi/works/hanagoori.txt
※7:透水の俳句ワールド
http://blog.goo.ne.jp/new-haiku-jin/c/9459a2c538d4a4e0bb8a5132d95949c1
※8:「きごさい」ネット歳時記
http://kigosai.sub.jp/kigoken3.html
※9:日国.NET:モダニスト草城 - 俳人目安帖
http://www.nikkoku.net/ezine/haijn/meyasu_09/index.html
※10:Page 1 一、はじめに 吉井勇が「スバル」に「京都より」と題した短歌二十一
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/SK/2008/SK20081R037.pdf#search='%E5%90%9B%E3%81%A8%E3%82%86%E3%81%8F%E6%B2%B3%E5%8E%9F%E3%81%A5%E3%81%9F%E3%81%B2%E3%81%9E%E3%81%8A%E3%82%82%E3%81%97%E3%82%8D%E3%81%8D%E9%83%BD%E3%81%BB%E3%81%A6%E3%82%8B%E3%81%AE%E7%81%AF%E3%81%A8%E3%82%82%E3%81%97%E9%A0%83%E3%82%92'
※11:俳句論争史
http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/haiku2-1.htm
※12:論争―ミヤコ・ホテル - 齋藤百鬼の俳句閑日
http://blog.goo.ne.jp/kojirou0814/e/97a6b0c8a5b6821faf66ee3a2f585c3d
※13:戦時中の俳句・短歌運動 - 法政大学大原社会問題研究所
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji2/rnsenji2-220.html
※14:『人生の午後』日野草城
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/naniwa070310.html
※15:ユング心理学の世界-「人生の正午」という考え方http://www.j-phyco.com/category1/entry71.html
※0016:休職期間」とは - 東京ウィング社労士事務所
http://sr-yamada.jp/column/article/8
※17:なにわ人物伝 -光彩を放つ-
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/naniwa070310.html
お得区案内図
http://www5c.biglobe.ne.jp/~n32e131/
日野草城の俳句
http://www5c.biglobe.ne.jp/~n32e131/haiku/soujou.html
日野草城 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%87%8E%E8%8D%89%E5%9F%8E

「人口政策確立要綱」が閣議決定された日

2014-01-22 | 歴史
1941(昭和16)年の今日・1月22日は1夫婦の出産数を平均5児とすることを目標に「人口政策確立要綱」が閣議決定された日である。その内容がどんなものか、当時の新聞記事(大阪朝日新聞 1941.1.23=昭和16年。※1参照)を見てみると、以下のように書かれている。
昭和三十五年総人口一億を目指す
人口政策確立要綱【閣議決定】
大共栄圏の確立を目標として歴史的巨歩を踏み出したわが国はその東亜における先導者たる使命達成のため今や急激かつ永続的な人口の量的ならびに質的の飛躍的発展増殖が要請せられるにいたり右人口政策の確立につき企画院厚生省(現厚生労働省の前身)が中心となり研究中であったが成案を得るにいたり政府は昭和三十五年内地人人口一億を目標とする人口政策確立要請案を二十二日の臨時閣議に付議星野企画院総裁より要案の説明をなし金光厚相、石黒農相、橋田文相および東条陸相より人口政策確立の適切急務なる百発言あり正式閣議決定をなした、しかして政府は右確立要綱に本づき急速施策を実施し日本民族の悠久なる発展を期するとともにその人口配置の適正化をはかり東亜における指導力確保の不動国策の達成に邁進することとなった、要綱中特に注目すべきは人口増加の方策として出生増加のため今後十年間に婚姻年齢を現在よりおよそ三年早め一夫婦の出生数平均五児(現在平均四児)を基本目標としこれが方策として婚資貸付制度、独身税、家族負担調整金庫制度(仮構)などを取上げている点および国土計画の一環として人口の産業的、地域的分布の再編成のため農村人口の一定保有、大都市の地方分散を企図している点である。
 しかして政策は同日人口政策確立要綱および右に関する金光厚相および伊藤情報局総裁談を発表した。
・・・と、して、以下「人口政策確立要綱」の、趣旨(第一)、目標(第二)、目的を達成するために摂るべき方策はどのような精神を確立することを旨として計画するか(第三)、具体的な人口増加の方策、が詳しく書かれている(詳細は※1参照)。

「帝国の荒廃はこの一戦にあり」
1941(昭和16)年12月8日、日本は、アメリカ、イギリス、オランダと戦争に突入した。日本軍はまず英領マレー半島に奇襲上陸(マレー作戦)、その後にハワイの真珠湾を猛攻した(真珠湾攻撃)。太平洋戦争第二次世界大戦の局面の一つ)が始まった。
太平洋戦争とは、1941(昭和16)年~45(昭和20)年の間、日本がアメリカ海軍が多数駐留するハワイの真珠湾を攻撃し始まった戦争である。
本来、第二次世界大戦は、主にヨーロッパでの戦争のはずだが、なぜ、日本とアメリカまでが争うことになったのだろうか?
それについては、Wikipedia -太平洋戦争開戦前史又、その簡潔な概略などは以下参考の※2:「太平洋戦争の原因と結末」を参考にされるとよい。
ハワイ作戦は奇跡的な成功だった。だが、奇襲はアメリカ国民を総決起させる結果となった。初戦の大戦果に日本人は熱狂したが、早期和平は一気に遠のく結果となった。
時代が時代だけに、当時の日本にとっては、欧米諸国(特に大英帝国・アメリカ合衆国)の植民地支配から東アジア・東南アジアを解放し、東アジア・東南アジアに大日本帝国を盟主とする共存共栄の新たな国際秩序を建設しようという構想のもと東亞共榮圏を確立し,これを存続させるためには、人口を増加し優秀な人材を育てるための人口政策の確立が必要と考えたのであろう。そのためには、昭和35年に内地の総人口を1億人にするため、10年間で平均婚姻年齢を3年早め、夫婦の出生数を平均5人にするという壮大な計画であった。
ただし、今日から見て、その達成手段等については批判も多々あるところだろう。昨年の朝日新聞の有名なコラム「天声人語」(2013年5月21日付)では、「閣議決定されたその文書にはすごいことが書いてある。」・・・との書き出しで、この時の「人口政策確立要綱」について批判的に取り上げていたのを思い出した。
以下詳しい記事は覚えていないので、ネットで検索した、※3のものを転載すると以下のようになる。

「閣議決定されたその文書にはすごいことが書いてある。結婚年齢を今より3年早くする。子どもは平均5人とする。女性の就業は抑制する。独身者は税金を重くする。避妊、堕胎は禁止する――
▼1941年1月の「人口政策確立要綱」である。太平洋戦争の前夜、東亜共栄圏を建設するため、人口を急激に「発展増殖」させる方策だ。もちろん今日、こんな決定は通るまい。とはいえ底を流れている発想はけっこう根強いのかもしれない
▼6年前、1度目の安倍政権の閣僚が女性を「産む機械」に例え、「頑張ってもらうしかない」と言って、大騒ぎになった。そのとき各党は「人口政策」という言葉で批判した。国のために産んでくれという発想はまさに同じだったからだ
▼いまの安倍政権もそうだとは思わないが、脇は締めた方がいい。内閣府が「生命(いのち)と女性の手帳」(仮称)の配布を検討し、随分批判されている。妊娠や出産に関する正しい知識を「啓発」するのだという。要は若いうちに産んだ方がいいよ、と
▼知識はあるにこしたことはないが、少子化対策の文脈で出てきた話である。子どもが減ったのは女性だけの責任なのか、という議論になるのは当然だろう。森雅子少子化相は男性に配らないとは言っていないというが、どうなるやら
▼結婚や出産は一人一人の選択であり、多様な人生が等しく尊重されなければならない。特定の生き方や家族のあり方を国が促したり、押しつけたりする。それを余計なお世話という。 」・・・・と。

「天声人語」の辛口のコラムは大学や就職の入試問題などにもよく引用されたりすることが多かったことから、私も学生時代から愛読しており、今でもよく、ブログなどで引用させてもらってもいる。
ただ、このコラムでは安倍内閣の少子化対策を批判しているようだが、「もちろん今日、こんな決定は通るまい」と断りながらも、「とはいえ底を流れている発想は同じだ」「国のために産んでくれという発想はまさに同じだ」と、わざわざ太平洋戦争前の大東亜共栄圏建設のための人口政策を引き合いに出しているところが如何にも朝日新聞流であり、少々嫌味を感じるところである。
最初の「独身者は税金を重くする」・・というのは、「人口政策確立要綱」の報道の時にも、基本目標達成の方策として婚資貸付制度、家族負担調整金庫制度(仮構)などと共に「独身税」を取り上げている・・としているが、同要綱の第四 人口増加の方策では、「ト、扶養家族大きものの負担を軽減するとともに独身者の負担を加重するなど租税政策につき人口政策との関係を考慮すること」としているのであり、独身者よりも、子供を育てる家族の税負担を軽減する方策が悪いとは言えないだろう。
次の「安倍政権の閣僚が女性を「産む機械」に例え、「頑張ってもらうしかない」と言って、大騒ぎになった」・・というのは、2007年1月27日、島根県松江市で開かれた自民党県議の集会で当時の厚生労働大臣柳澤 伯夫が、少子化対策に触れて『なかなか女性は一生の間にたくさん子どもを生んでくれない。 人口統計学では、女性は15〜50歳が出産する年齢で、その数を勘定すると大体わかる。ほかからは生まれようがない。』(要約)、『産む機械っつちゃなんだけども、装置がですね、もう数が決まっちゃったと、機械の数、機械っつちゃ***けども、そういう時代が来たということになると、あとは一つの、まあ、機械って言ってごめんなさいね その産む、産む役目の人が、一人頭で頑張ってもらうしかないんですよ、そりゃ』(音声書き起こし)、『一人当たりどのぐらい産んでくれるかという合計特殊出生率が今、日本では1.26。2055年まで推計したらくしくも同じ1.26だった。 それを上げなければならない。』(要約)などの発言をした(Wikipedia-柳澤伯夫より引用)ことを言っているのだろう。
ここでは、「機械って言ってごめんなさいね」と断った上で、確かに例えは悪いかもしれないが、内容的には「高齢出産では出生率が落ちるので子供を産むならもう少し若いうちに子供を産んでもらいたい」との希望を言っているに過ぎないと思うのだが、それを、「機械」という言葉尻だけを捕まえて、女性を「産む機械」に例えたとマスコミが歪曲して報道し、大騒ぎになったのではないだろうか。この様なやらせ的な報道の仕方は、最近の、マスコミではよく目にするところだ。
又、コラムでは「子どもが減ったのは女性だけの責任なのか、という議論になるのは当然だろう。」・・・と書いているが、子供は女性一人だけでいくら頑張っても産めるものではないのはわかりきっていることであり、子供の出生の減少には男性にもその責任があるのは当然であろう。
政府は昨年5月7日、少子化対策を議論する作業部会「少子化危機突破タスクフォース」(※4、参照。主宰・森雅子少子化担当相)の会合を開き、若い女性向けに妊娠・出産に関する知識や情報を盛り込んだ「生命と女性の手帳」を作製し、10代から配布する方針を決めた。
晩婚化晩産化が進む中、若い世代に妊娠・出産について関心を持ってもらうのが狙いで、来年度からの配布を目指す予定の様である。
これに対し、女性団体などからは「妊娠・出産を女性だけの問題のように扱っている」など批判の声が上がっているようである(※5参照)。
日本産科婦人科学会(※6参照)の調査では2008(平成20)年に不妊治療を受けた患者は30代後半が中心だが、妊娠数は35歳を境に減少。出産率(出生率)は32歳から下がり始め、流産率は逆に上昇することが分かっているという。
したがって、会合では早い時期に妊娠・出産について正しい知識を身につけてもらうことが、将来的に希望する家族の形成に効果的との認識で一致しているという。
森少子化担当相は同日、会見で「中高生くらいから知識を広め、女性が自分のライフステージを選択、設計できるようにすべきだ」と説明した(※7、※8参照)
これに対して、ある女性団体が「なんでもかんでも女性に押しつけすぎ」などとする声明を発表しているようだがコラムではこのことを言っているのだろう。
最後に、「結婚や出産は一人一人の選択であり、多様な人生が等しく尊重されなければならない。」と言っているが、出産や、結婚、生き方なども男女ともに、自由であることは憲法でも保障されていることには違いない。だか、「特定の生き方や家族のあり方を国が促したり、押しつけたりする。それを余計なお世話という」・・・とは、ちょっと言い過ぎではないだろうか。
現実に今、日本では、少子・高齢化のもと、年金や医療、その他、社会保障制度が破綻しかけているのである。このような問題を解決するのは簡単なことではない。
出産・子育てに必要な社会的インフラの整備が不十分であるという問題が以前から指摘されている。現在、都市部での保育所の不足がいわれており、また、出産できる産婦人科のある病院不足、小児科のある病院不足といった問題も深刻である。これはこれで、放置されているわけではないが、一挙に片の付く話ではない。
他にもしなければならない少子化対策は多くある。ただ、先立つものは金である。何をするにも金がなければできないことが多い。歳入を考えず,批判するだけなら無責任な野党と同じである。
晩産化や高齢出産の増加(晩婚化・晩産化の状況参照)に伴って卵子の老化や不妊症(※9参照)などの問題があることは事実なのであり、これはこれで何とかしてゆかなければいけない問題であろう。
子供の出来ないのがすべて女性の責任ではないし、不妊の原因は男子にもある。子供を産まないというよりも子供を産めない最大の原因は生活難にあるとも言われている。この様な問題が、すぐに解決できる方法があるのならそれを提案すべきだ。
もし、実際に子供を産む女性の高齢出産にも問題があるとすれば、それはそれで真剣に対応してゆかなければいけないのではないだろうか。何でも批判さえすればよいというものではないだろう。

かって、農村社会を中心とする日本では、人は労働力として貴重な存在であり、子供を産めない女性は「石女(うまずめ)」と呼ばれ、白い目で見られさえしてきた。そして、子供は「子宝」といわれ、女性には家庭で子供を産み、育てる良妻賢母が求められてきた。
そのような中、明治から昭和初期にかけて、13人もの子どもを出産しながら歌人、作家、思想家として大活躍した与謝野晶子は働く女性と子育てについて大正の昔に繰り広げられた母性保護論争(※10:「いくじれん」の少子化危機突破タスクフォースの開催について 参照)の前に、評論『母性偏重を排す』(1916年、※11参照)の中で、「誤解を惹かないために予め断って置く。私は母たることを拒みもしなければ悔いもしない、むしろ私が母としての私をも実現し得たことにそれ相応の満足を実感している。誇示していうのでなく、私の上に現存している真実をありのままに語る態度で私はこれを述べる。私は一人または二人の子供を生み、育て、かつ教えている婦人たちに比べてそれ以上の母たる労苦を経験している。この事実は、ここに書こうとする私の感想が母の権利を棄て、もしくは母の義務から逃れようとする手前勝手から出発していないことを証明するであろう。」・・・と、断った上で、「エレン・ケイトルストイの主張する「母性中心説」を否定し、最後に「我国の婦人の大多数は盛に子供を生んで毎年六、七十万ずつの人口を増している。あるいは国力に比べて増し過ぎるという議論さえある。私たちはむしろこの多産の事実について厳粛に反省せねばならない時に臨んでいる。旧式な賢母良妻主義に人間の活動を束縛する不自然な母性中心説を加味してこの上人口の増殖を奨励するような軽佻(けいちょう)な流行を見ないようにしたいものである。」と結んでいる。

しかし、1930年代の日本は、毎年100万人ずつ人口が増加していたが、日中戦争の影響もあり1938 (昭和13) 年には30万人ほどの増加(本当は30万の減少らしい。このことは後に記す)と、大幅な後退となってしまった。そこには、大正からの“晩婚少子”傾向に出征兵(軍隊に加わって戦地に行く兵のこと)「の増加が追い打ちをかけたためであった。
この人口減少に危機感を強めた厚生省は、その対策に迫られ、翌1939(昭和14)年8月8日、「優良多子家庭表彰要綱」を発表、又、同年9月30日には、同省付属予防局民族衛生研究会がドイツの「配偶者選択10箇条」を手本に、子供を増やそうと「結婚十訓」を発表するところとなったという(「結婚十訓」など※5 :「女性手帳」参照)。
人口政策(※1:「国立社会保障・人口問題研究所」の刊行物>人口問題研究の第2巻 第2号 06 人口政策確立要綱の決定第1巻 第1号17 人口問題研究所設置に関する若干の新聞論説抜萃 参照)は満州事変から日中戦争に突入していく 口実となってきたが、太平洋戦争に至る過程で, 人口政策は戦争のための人的資源と して「産めよ殖せよ」政策に転換していったようだ。
そして、「結婚十訓」の最後の「産めよ殖やせよ」が、その後1人歩きしていき、1940(昭和15)年に、初めて優良多子家庭の表彰を実施し、1941(昭和16)年に閣議決定された「人口政策確立要綱」では、当時の24歳の結婚平均年齢21歳にして出生数増を促し、「早く結婚して5人の子供を産むことが日本人に課せられた義務である」とされた。
ただ、厚生省の発表した「産めよ、殖やせよ」のスローガンはこの「結婚十訓」から来ているが、本来の言葉は「産めよ育てよ国のため」だったのだという。
人口問題について、1926(大正15)年「産めよ殖えよ」(『経済往来』=日本評論社が発行した月刊総合雑誌)を書いた高田 保馬は、日本の人口が増えても問題はないといっているのであって、「産めよ殖やせよ」のような政策を実施せよといっているわけではないことはその論文を読めばわかるという(※13:「お産を待ちながら:私にとっての大きな発見3」 のタグ / 産めよ殖やせよの高田保馬「産めよ殖えよ」参照)。
1938(昭和13)年1月、国民の体力向上を目指して厚生省が設置され、11月に、厚生省予防局に民族衛生研究会が設置される(参考の★印参照)。
そして、12月には、国立人口問題研究所(現:国立社会保障・人口問題研究所)設置に向けて上田貞次郎が1939(昭和14)年2月、「我国現下の人口問題」を発表。
ここで、初めて出生率低下の傾向についての言及、又、この中で「産めよ殖えよ」というかけ声が出始めていることにも触れた部分があるそうだ(※13参照)。
1938(昭和13)年の人口動態が、翌年に発表されたとき、自然増加が約30万の減少を示したことから(このあたり、100万から30万に下がったのではなく、30万減少したということだったようだ)、「産めよ殖やせよ」という多産奨励策が声高に叫ばれるようになるが、これに対置させるために、上田が持ち出したのが、「育てよ病ますな」という標語だったという。
「我国現下の人口問題」(講演)で、上田は、戦争が人口に及ぼす影響を、ドイツの例を取り、説明しており、人口ピラミッドが、ある年齢のところが欠けているために、日本のようにピラミッド型にならず、紡錘型になっていること。国内の食糧物資が不足すると犠牲になるのは小さな子供で、乳幼児の死亡率が増加して、引いては後年、大人の人口を減らす原因になること。また、多くの戦死者が出て、後年まで大きな影響を及ぼすこと(「子供のない国民」)。
一方、さらに重要な問題として、死亡率の問題があること。日本の総人口に対する死亡率を見ると段々に下がってきており、これは喜ばしいことであるが、欧米の死亡率に比べるとまだ非常な高率を示していること(5歳になるまでに4分の1が死亡)。
「産めよ、殖えよ」には確かに根拠はあるが(と譲歩しつつ)、「育てよ、病ますな」ということを同時に考えてもらいたいと、上田はくり返し訴えている(※14参照)そうで、上田が亡くなった翌1941(昭和16)年、人口政策要綱とともに発表された正式な「結婚十訓」の10番目の標語は、「産めよ殖やせよ国の為」ではなく、「産めよ育てよ国の為」となっていたという。
これは上田の闘いの名残りであり、人的資源ということばを始めて用いたのも、この時期のことであるという。上田は、こうした事態に危機感を募らせ、このとき以降、このかけ声に対抗すべく、自分自身の標語「育てよ、病ますな」を並置させるようになったようだ。
上田の遺稿となった、「支那事変と我国人口問題」でも、「事変の結果として第一に現わるるは出生の減少であるが、それに対する政策は産児奨励のみではない。むしろ産まれたものの健康を維持し、その死亡を少なくすることに重点をおいてしかるべきである」として、「育てよ病ますな」の標語を提言。
そして、「もし我国の乳幼児及び少年層の死亡率が一躍して欧州と同じくなるならば、たとい現在の産児は少なくなっても、二十年後の生存者は却って多くなる計算である」と、その本質において、軍部のキャンペーンに真っ向から対立する論理を展開していたそうだ(※13「お産を待ちながら:私にとっての大きな発見3」 のタグ / 産めよ殖やせよの上田貞次郎とともに13 参照)。
1939年8月8日、厚生省より多子家庭表彰要綱が発表されたとき、これを伝える新聞報道には、「産めよ殖やせよ」ということばがすでに使われていたという。
同年8月25日、上田らの尽力によって、厚生省内に国立人口問題研究所が設置される。同年10月4日に厚生省予防局民族衛生研究会より「結婚十則」の草案が出される。その10番目の標語は「産めよ殖やせよ国の為」となっていた。
しかし、上田が亡くなった翌年、人口政策要綱とともに発表された正式な「結婚十訓」の10番目の標語は、「産めよ殖やせよ国の為」ではなく、「産めよ育てよ国の為」となっていたという。
いずれにしても、「人口政策要綱」が「単に産めよ増やせよ」だけを言っているのではなく、人口増加の方策について、「人口の増加は永遠の発展を確保するため出生の増加を基調とするものとし併せて死亡の減少を諮るものとしており、その上で、精神的および肉体的な資質の増強も計画しているなど、幅広いものであった。
日本が太平洋戦争に突入したことなどその良し悪しは別として、そのような戦時体制の中で出された「人口政策要綱」を当時の時代背景を考慮することなく、ただ、現在のような平和な時代を前提に、「産めよ増やせよ」といったところにだけ注目して批判をするのは好きじゃないね~。

現代の日本では凄まじい勢いで少子・高齢化が進んでいる。
日本では2005年から2055年の間に日本人の労働力が半減し、高齢者の割合は50年間で20%から40%に倍増すると予測されている。そして、2050年には日本人は5人に2人が65歳以上の高齢者になる。つまり、今後日本では労働力が半減し、高齢者が倍増すると予測されている。このような急速な少子高齢化の進展は、社会保障制度に変革を迫るだけでなく、経済構造、政治制度、家族形態など日本のあらゆる制度を根底から覆すインパクトがある。
一般に資本主義経済の発展に伴い、国民生活の近代化の過程において、出生率と死亡率はともに逐次低落し、多産多死型の人口から少産少死型の人口に変貌するものとされている(人口転換参照)が、我が国においても、ほぼ1920 (大正9)年を境にして、出生率と死亡率が着実に低下し始めた。
日本は、平均寿命、高齢者数、高齢化のスピードという三点において、世界一の高齢化社会といえる。
日本の少子高齢化の原因は、出生数が減り、一方で、平均寿命が延びて高齢者が増えているためであるが、日本の人口構成を人口ピラミッドで見ると、第1次ベビー・ブームの1947年 - 1949年(昭和22 - 24年)生まれと第2次ベビーブームの1971年 - 1974年(昭和46年 - 49年)生まれの2つの世代に膨らみがあり、出生数の減少で若い世代の裾が狭まっている。また、第1次ベビーブームの人達が、高齢者の仲間入りを始めているため今後の高齢化は一気に進展する。
近年ではこのような少子高齢化の進行に伴い、次の段階として到来するのは従来の段階に当てはまらない、少産多死型の形態と考えられており、日本ではすでにその兆候が表れ始めているのである(※16参照)。
高齢化のもととなる平均寿命の延びは、社会保障制度、特に疾病保険と医療扶助の急速な普及と、医療学および公衆衛生の驚異的な進歩による死亡率の低下であり、これをとやかく言うことはないであろう。問題は少子化である。
少子化とは、普通に言えば、出生率の低下あるいは生まれてくる子ども数の減少を意味しているが、一般的には、出生率の水準が特に人口置換水準(Replacement-level fertility)以下にまで低下すること(故に、単なる出生率の低下とは異なるとされる)をいう。
人口置換水準とは、長期的に人口が安定的に維持される合計特殊出生率(1人の女性が一生の間に産む子の数)をいい、少子化の指標としては一般的にはこの指標が用いられるが、合計特殊出生率の推移は参考※17:「少子化の要因と対策-晩婚化、未婚化」の図1-1を見られるとよい。

人口学によれば、合計特殊出生率は、有配偶出生率(一夫婦当たりの出生率)と有配偶率(結婚率)の影響を受ける。図5-1(※3参照)は、合計特殊出生率の低下が「有配偶出生率」と「有配偶率」のどちらの要因がどれだけ影響して生じたものなのかを示しているが、このグラフを観察すると、なぜ少子化の原因が女性の「晩婚化」「未婚化(非婚化)」であると指摘されるのかが分かる。
1970年代までの合計特殊出生率の低下は、有配偶出生率と有配偶率の両方の低下が要因であるが、特に有配偶出生率、つまり一夫婦当たりの子供の数の減少の影響が大きいといわれている。一方、1980年代以降は、有配偶者出生率は上昇したにもかかわらず、それを相殺して余りある程に有配偶率が大きく減少し、結果として合計特殊出生率が低下しているのだそうだ。したがって、合計特殊出生率という指標を用いて少子化の原因は何かを考えるなら、1980年以降の少子化の要因は「有配偶率」の低下、つまり結婚率の低下であるという結論になるという。
合計特殊出生率の変化の要因分析からは、有配偶出生率の低下よりも有配偶率の低下が少子化の要因であるという結果になるから、結婚した女性が子供を産まなくなったのではなく、女性の初婚年齢が上がっている(晩婚化)、女性がなかなか結婚しなくなった(未婚化さらには非婚化)という現象が少子化の原因だと指摘されるのは、合計特殊出生率を少子化の指標として使う以上は仕方のないことだが、現在、間違いなく「少子化の原因は晩婚化及び未婚化である」と結論づけるのは難しいものの、晩婚化や未婚化が進行しているのは事実である。
したがって、なぜ晩婚化や未婚化(非婚化)という現象が生じているのかを考え、その対応が考えられるべきであるが、晩婚化や未婚化の要因としてあげられるものとしては、
(1) 女性の経済力上昇による結婚による利点の減少、結婚のリスク化
(2) フリーターやニートの増加などによる経済的不安
(3) 育児支援制度の不備
などがあるという。いずれにしても、今程に晩婚化や未婚化が進んだ一つの要因としては、女性の社会進出と、その女性の「将来に対する不安」が挙げられるようであり、この「女性の社会進出と少子化対策」については、女性の権利と少子化対策は果たして両立するのか…といった従来からの複雑な問題があるが、これらを解決するためには、結局は、子供をどのように産み育てるかといった婚姻制度まで含めた社会の仕組みや、将来不安をなくすための経済上の問題(雇用制度や、働き方)など、一朝一夕には解決し難い問題に正面から取り組まなくてはいけないだろう。
これは、エネルギー問題で原子力発電所をどうするか…などといった問題の何倍もの難しい問題だろう。「女性手帳」の配布ぐらいのことで、協力を得られず突き上げられていてるような大臣には重荷だろうね~。

冒頭の画像は、参考※18:「平成24年版 子ども・子育て白書」第2章 出生率等の現状より「出生数及び合計特殊出生率の年次推移」
参考
★厚生省には優生学の関する諸問題を所管するため、予防課内に優生科が設けられた。また、1934年から断種法案が繰り返し議会に提出されていたことを受け、厚生省よ某局では、特に精神患者の増加防止を目指すという趣旨に基づき民族優勢協議会を設置した。厚生省には優生学の関する諸問題を所管するため、予防課内に優生科が設けられた。また、1934年から断種法案が繰り返し議会に提出されていたことを受け、厚生省よ某局では、特に精神患者の増加防止を目指すという趣旨に基づき民族優勢協議会を設置した。(人口問題に対する国民意識 - 政策科学部のⅡ郵政結婚の法制化をめぐる論議参照)

※1:新聞記事文庫 人口(6-070)-神戸大学附属図書館
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=10000848&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA
※2:太平洋戦争の原因と結末
http://www12.plala.or.jp/rekisi/dainiji.html
※3:タイトルを参考にさせてください
http://questionbox.jp.msn.com/qa8119888.html
※4:資料4 妊娠・出産検討サブチーム報告(PDF形式:162KB) - 内閣府
http://www8.cao.go.jp/shoushi/taskforce/k_3/pdf/s4.pdf#search='%E5%86%85%E9%96%A3%E5%BA%9C+%E7%94%9F%E5%91%BD%E3%81%A8%E5%A5%B3%E6%80%A7%E3%81%AE%E6%89%8B%E5%B8%B3'
※5 :女性手帳
http://tamutamu2011.kuronowish.com/jyoseitetyou.htm
※6:日本産科婦人科学会
http://www.jsog.or.jp/
※7:ニュースコーナー - ジョナス・アソシエイツ・ジャパン
http://www.jonas.co.jp/news.html
※8:不妊治療初診者は30代後半が圧倒的多数 - 日経ウーマンオンライン
http://wol.nikkeibp.co.jp/article/column/20111004/114288/?P=4
※9:NHKスペシャル|産みたいのに 産めない~卵子老化の衝撃~
http://www.nhk.or.jp/special/detail/2012/0623/
※10 :いくじれん
http://www.eqg.org/index.html
※11:与謝野晶子 母性偏重を排す - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000885/files/3321_6547.html
※12:国立社会保障・人口問題研究所
http://www.ipss.go.jp/index.asp
※13 :お産を待ちながら:私にとっての大きな発見3
http://midwifewada.seesaa.net/archives/20111221-1.html
※14:上田貞次郎「国立人口問題研究所生まる」
http://www.lit.nagoya-u.ac.jp/~kamimura/demography.htm
※15:昭和31年度版厚生白書「序章 わが国の人口問題と社会保障 厚生行政の背景」
 http://www.mhlw.go.jp/toukei_hakusho/hakusho/kousei/1956/dl/02.pdf#search='%E6%88%91%E5%9B%BD%E7%8F%BE%E4%B8%8B%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E5%95%8F%E9%A1%8C'
※16:「人口変形・縮小社会」の到来(少産・多死型)(Adobe PDF)
https://www.kantei.go.jp/jp/singi/syakaihosyoukokuminkaigi/kaisai/syotoku/dai03/03siryou1.pdf#search='%E5%B0%91%E7%94%A3%E5%A4%9A%E6%AD%BB%E5%9E%8B'
※17:少子化の要因と対策-晩婚化、未婚化
http://www.sanfujinka-debut.com/topics/birthrate/main05.htm
※18:平成24年版子ども・子育て白書 全文(PDF形式) - 内閣府
http://www8.cao.go.jp/shoushi/whitepaper/w-2012/24pdfhonpen/24honpen.html
少子化対策:厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/seisaku/syousika/
生活困難を抱える男女に関する検討会報告書 - 内閣府男女共同参画局Adobe PDF)
http://www.gender.go.jp/research/kenkyu/konnan/pdf/seikatsukonnan.pdf#search='%E7%94%A3%E3%82%81%E3%82%88%E6%AE%96%E3%81%88%E3%82%88+%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%BE%80%E6%9D%A5'
古典を読む・母性保護論争─晶子とらいてう
http://www.eqg.org/lecture/hogo1.html

しあわせ運べるように

2014-01-17 | ひとりごと
昨日、NHKのあさイチで阪神淡路大震災以降神戸で歌い継がれている歌の紹介があった。
神戸市内の小学校で音楽教諭臼井 真さん作詞・作曲による「しあわせ運べるように」である。
同震災から今年は19年目にあたる。私の母は震災の前年に亡くなり、我が家で49日の法要を執り行い、兄弟並びに親戚一同が帰ったその翌朝の大地震であった。幸い我が家は、地盤の確りしている山の登り口にあるので、倒壊は免れたが、2階のベランダから浜側のJR新長田から高取の間の大火災の光景はいまだに忘れられない。火災のあった後の町の光景は、まさに、第2次世界大戦後の焼け野原と同じであった。
同震災では多くの人が亡くなられたが、震災では無事に命を取り止めたものの、その心労で、震災直後に多くのお年寄りが亡くなられた。
変な話だが、後に震災の話が出るとよく、「あなたのお母さんはいい時に亡くなられてよかったね」といわれた。地震で怖い目をしなくて良かったからである。いわれる通り、非常に臆病で怖がりのおふくろなど、震災の時生きていても、震災後亡くなられた多くのお年寄り同様、1~2か月のうちに心労でなくなっていただろう。
そんなこと考えていたら、学生時代の友人のことを思い出した。震災で家が倒壊し、その時、私より相当早く結婚をしていたので、同居の息子夫婦には子供が生まれていた。その子は1歳になったばかりの女の子であった。
その孫が生きていれば今年は成人式を迎えていたはずだ。親として子供に先立たれたこと、いつまでたっても心の傷は消えず本当につらいことだろう。
早いものだ。心残りであった私の一人息子も震災の翌年に結婚をしてくれた。この正月、我が家に遊びに来てくれた孫も中学2年になっている。震災を知らない世代だ。
神戸の街も、外見は復興したが未だに、震災の傷の癒えない人たちが多い。
6434人が亡くなり、3人が行方不明になった阪神・淡路大震災は今日、発生から19年となる。神戸市内では各地で追悼行事が催され、被災地は祈りに包まれる。
私の住んでいる同じ町内にある私の信仰しているお寺も、毎年、1月17日には阪神淡路大震災犠牲者追悼の供養が行われる。私も今から、お寺へお参りをします。

「しあわせ運べるように」の歌いい歌ですよ。
阪神淡路大震災被災者の、そして、2011年3月の東日本大震災被災者の方々の幸せを願って「しあわせ運べるように」歌ってあげてください。
歌詞の神戸のところは、被災地名に変えて歌ってもいいですね。

「しあわせ運べるように」作詞・作曲 臼井 真
神戸市立港島小学校生徒による合唱は下で聞ける。
>「しあわせ運べるように」神戸市立港島小学校生徒-YouTube


歌会始の儀

2014-01-15 | 行事
皇室に伝わる文化(※1参照)は数々あるが、そのうちに、皇居において毎年1月に行われる、講書始に次いで行われるものに歌会始がある。
日本では『万葉集』の時代から和歌を詠み、歌い継がれ、この誇るべき文化を共有してきたが、この文化の中心におられたのが天皇であった。
元々は、皇族・貴族等が集い共通の題で歌(和歌)を詠んで披露しあう会を「歌会」といい、宮中では奈良・平安の時代から様々な機会に催され、年中行事としての歌会などのほかに、毎月の月次歌会が催されるようにもなった。これらの中で天皇が年の始めの歌会として催されるものが歌御会が(うたごかいはじめ)と呼ばれていた。
この「歌会始」のもととなる「歌御会始」の起源は必ずしも明らかではないが、鎌倉時代中期、太政官の外記が朝儀、公事を記録した公日記『外記日記』には亀山天皇期の文永4年(1267年)1月15日に宮中で「内裏御会始」という歌会が行われたと記録されているそうだ。
ただし、宮内庁のホームページ(※1)には記されていないがWikipedia-歌会始(※2)によると、以下のように記されている。
“当時は作文始・御遊始(管弦)と合わせた一連の行事として捉えられて御会始と呼ばれており、1日のうちに3つを行うのが通例と考えられていた。また年始に限らず、天皇や治天の君の執政開始後に開催される場合もあった。ただし、御会始そのものは室町時代に中絶しており、『晴和歌御会作法故実』(著者不明であるが、霊元上皇書写の国立歴史民俗博物館所蔵本がある)という書物によれば、後円融天皇永和年間の和歌御会始を模範として後柏原天皇が明応10年(文亀元年/1501年)正月の月次歌会を独立した儀式として執り行ったことが記されており、これが歌会始の直接的起源であると考えられている(参考の★参照)。」・・・と。
だから、歌御会始の起源は、遅くとも鎌倉時代中期の時代まで遡ることができるようだが、以後中断することもあったようだが、江戸時代からはほぼ毎年開催されるようになり、明治維新後も、1869(明治2)年1月に明治天皇により即位後最初の会が京都御所で開かれた。ただ、このとき詠進は、宮内省に置かれた御歌所が行なった。
1926(大正15)年には,皇室儀制令(大正15年皇室令第7号.※3参照)が制定され、その附式に歌会始の式次第が定められた。これにより,古くから歌御会始といわれていたものが、以後は「歌会始」といわれることになった。
先の大戦後は宮内省に置かれていた御歌所が廃止され、昭和22年(1947年)より在野の歌人に選歌が委嘱された。また、広く一般の詠進を求めるため、勅題は平易なものとされた。
毎年1月の歌会始の儀では、預選者(入選者)は、式場への参入が認められ、天皇皇后両陛下とともに会場(宮殿「松の間」)に出席。
入選者、選者、特に天皇から指命された召人、皇族、最後に天皇の順に披講される。まず講師(こうじ。全句を節をつけずに読む役)が読み上げ、発声(はっせい。第1句から節をつけて歌う役)が初句を節をつけて歌い、二句以下を講頌(こうしょう。第2句以下を発声に合わせて歌う役)数名が加わって歌い上げるそうだ((現在の概要参照)。
2014(平成26年)年1月1日、天皇ご一家は、新年を迎えられた。天皇陛下は年頭にあたっての所感を宮内庁を通じて文書で公表された。
2011(平成23)年3月11日の東日本大震災から3回目の冬を迎えても原発事故(福島第一原子力発電所事故参照)の影響で地元に戻れない人々や、仮設住宅で暮らす人々に触れ「被災者のことが改めて深く案じられます」とつづられた。そして、又、 陛下は昨年を「多くの人々が様々な困難に直面し、苦労も多かったことと察しています」と振り返られた。新年には、国民皆が苦しい人々の荷を分かち持つとともに「世界の人々とも相携え、平和を求め、良き未来を築くために力を尽くしていくよう願っています」と記された。
又宮内庁は新年にあたり、天皇陛下が昨年詠まれた歌5首と皇后さまの歌3首を発表された。陛下の詠まれた5首には、10月の熊本県訪問で面会した水俣病患者への思いを詠んだ歌があった。また、皇居にて詠まれた2首の歌の中には、原発事故被災者を思いやる歌があった。以下がその歌である。
〈水俣を訪れて〉
「患ひの元知れずして病みをりし人らの苦しみいかばかりなりし」
〈皇居にて二首〉の中の1種
「被災地の冬の暮らしはいかならむ陽(ひ)の暖かき東京にゐて」

例年、新年の「歌会始の儀」の後に翌年のお題が発表されるが、2012(平成24)年歌会始のお題は「岸」であったが、やはり前年の東日本大地震を詠まれた歌が多かった。その中の、天皇陛下、皇后陛下の御歌を以下に記す。
天皇陛下御製
「津波来(こ)し時の岸辺は如何なりしと見下ろす海は青く静まる」
皇后陛下御歌
「帰り来るを立ちて待てるに季(とき)のなく岸とふ文字を歳時記に見ずとき」

上掲の御製は、前年の5月6日に、東日本大震災被災地お見舞いのため岩手県に行幸啓(ぎょうこうけい)になった際、釜石市宮古市の間をヘリコプターにお乗りになり、津波により大きな被害を受けた被災地を上空からご覧になったときの印象を詠まれたものだそうである。
又皇后陛下御歌は、俳句の季語を集めた歳時記に「岸」という項目はなく、そのことから、春夏秋冬季節を問わず、あちこちの岸辺で誰かの帰りを待って佇む人の姿に思いを馳せてお詠みになられた御歌であり、この度の津波で行方不明となった人々の家族へのお気持ちと共に、戦後の外地からの引揚げ者シベリアの抑留者等、様々な場合の待つ人待たれる人の姿を、「岸」という御題に重ねてお詠みになっているようだ。

又、昨・2013(平成25)年歌会始のお題は「立(りつ)」で、その時の天皇陛下の御製・皇后陛下の御歌はは以下のものであった。
天皇陛下御製
万座毛(まんざもう)に昔をしのび巡り行けば彼方(あがた)恩納岳(おんなだけ.。恩納村キャンプ・ハンセン内の実弾演習地内にある山)さやに立ちたり」
この歌は、天皇・皇后両陛下が前年、沖縄県で開催された全国豊かな海づくり大会の機会に沖縄県の景勝地として有名な恩納村の万座毛を訪問した際に、この地と恩納岳が琉歌に詠まれた18世紀の琉球王朝の時代に思いをはせながら詠まれたものとのこと。
難解な歌だが、この歌で注目するのは「彼方」に振られたルビ「あがた」だろう。辞書には「あがた」の読みは出ていないが古歌に用例があるのだろうか。琉球王朝時代の代表的女流歌人と言われる恩納ナビーの歌に「あがた」の読みが出てくる(※4参照)。
皇后陛下御歌
「天地(あめつち)にきざし来たれるものありて君が春野に立たす日近し」
陛下が、前年冠動脈バイパス手術後しばらくの間、胸水貯留の状態が続いたが、春になると体調が良くなると医師から聞いていた皇后さまは、ひたすら春の到来をお待ちでしたが、ある日、あたりの空気にかすかに春の気配を感じられた時に、陛下が春の野にお立ちになるのもきっと近いと、心がはずんだことを詠まれたものだという。皇后さまのお優しいお気持ちが表れている。

さて、昨・2013(平成25)年1月16日に発表され、2014(平成26)年1月15日の今日の歌会始のお題は「静(せい)」だったが、両陛下は、どのようなお歌を詠まれるのであろう。
今朝10時30分よりNHK総合テレビで皇居・正殿松の間より生中継される。
辞書などを調べてみると、「」とは「安定した状態であり、確固として地に足をつけた状態で、妄(みだ)りに心動かされることなく、自分自身をしっかりとみつめることのできる静寂なる境地をいう」、とのこと(※5も参照)。
株式市場関係者の間では、この歌会始で発表される「お題」が、不思議と相場に密着するものとして以前から関心を集めていると聞く。
2013(平成25)年のお題は「立」だった。文字通り、相場は政権交代と「アベノミクス」の効果で2012(平成24 )年の土壇場で相場は「立」を演じた。そして、昨年発表された2014年のお題は「静」。躍動感あふれるお題を期待した向きにはやや肩透かしだったかも知れないが、今年も静かに上昇気流に乗っていってくれると有難いのだが・・・・。
兎にも角にもアベノミクスの「三本の矢」により、15年続いたデフレからの脱却に向けて着実に歩みを進め、マイナス成長からプラス成長へ大きく反転し、実態経済が動き始めた。2020年のオリンピックパラリンピック東京大会の招致にも成功した。
日本中を覆っていた暗い空気は一掃され、日本人にも夢や希望の持てる明るい新年を迎えることができたことは確かだ。しかし、円安による諸物価高騰の中、4月からの[消費税増税に伴う国内消費の縮小」の他 「東アジアの外交情勢の不安定化」、「中国経済の想定以上の減速など、新興国における需要減」、「米国の財政問題、欧州債務危機の再燃や中国経済の停滞などによる国内企業への影響拡大」などを挙げ、国内経済の動向を懸念している人たちも多いようだ(※6参照)。
今年の干支は。午は、株式市場関係者の間では「辰巳天井、午尻さがり」といわれ、十二支の中ではこれまで下落率が高いという。
前回の午年の2002 (平成14)年はITバブル崩壊直後で日経平均株価は年間で約19 %下落、その前の1990(平成2)年末は前年末の大納会についた過去最高値3万8915円から約39%の大幅下落となり、バブル崩壊を象徴する年だった(※7参照)。戦後5回の午年の平均はマイナス7・5%で、十二支別の騰落率では最下位だという。
「辰巳天井」の「巳」にあたる昨年は、株価が大幅に上昇。市場では、「消費税増税があり、経済が衰退する局面に陥る可能性も否定できない」と、今年も格言通りの年になってしまうことを警戒する声もあった。
ただ、12月30日の大納会に出席した安倍晋三首相は「午の尻さがりという人がいますが皆さん忘れてください。来年も『うま』くいきます」と強調していたそうだが・・・(※8)。
東京金融市場がスタートした今年1月6日、ご祝儀相場ともいわれる年初の取引は例年上がることが多いのだが、今年の様子は違った。
「円安・株高」に沸いた昨年末とは一転株価急落、荒れる円高で進む荒れ模様となった。
昨年末までの株価上昇の反動で「利益確保の為に投資家が一斉に売り注文を出したようで、2日後には買い戻しが出たが、やはり、春の消費税増税、米国の金融緩和縮小等、景気を支えるのには不安な要素が一杯。今年は、どうなるのか、油断はできない年ではある。
今年の歌会始のお題の通り「静」の年であることを祈るばかりですね。


(冒頭の画像は1950年頃の宮中歌会始。Wikipediaより)
参考
小川剛生「南北朝期の和歌御会始について」『和歌文学研究』78号(1999年6月)(所収:「北朝和歌御会について -「御会始」から「歌会始」へ-」(『二条良基研究』(笠間書院、2005年)第三篇第一章)
※1:宮内庁:皇室に伝わる文化
http://www.kunaicho.go.jp/culture/kosyo/kosho.html
※2:歌会始 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8C%E4%BC%9A%E5%A7%8B
※3:中野文庫 - 皇室儀制令
http://www.geocities.jp/nakanolib/kou/kt15-7.htm
※4:琉 歌
http://www.edu.city.kyoto.jp/hp/saikyo/okinawa/ryuhka.html
※5:静とは - 語彙 - 古今名言集~座右の銘にすべき言葉
http://www.kokin.rr-livelife.net/goi/goi_se/goi_se_15.html
※6:2014年の視点:企業のリスク要因は新興国減速や消費増税
http://jp.reuters.com/article/jp_fed/idJPTYE9BQ01R20131227
※7:バブル崩壊後[平成2年~現在]
http://tax.dreamlog.jp/archives/50464010.html
※8:【大納会】「辰巳天井」で終わったが…来年「午尻 ... - MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/economy/news/131230/fnc13123021100012-n1.htm?utm_source=dlvr.it&utm_medium=twitter

インターネット歳時記 - 日本伝統俳句協会
http://www.haiku.jp/saijiki/
米財政問題、今後も波乱含み 14年2月に債務上限問題 :日本経済新聞
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDC11010_R11C13A2EA2000/
米財政問題に関する与野党合意が成立。政府機関閉鎖は完全に回避へ
http://blogos.com/article/76124/
中国経済の現状2014年1月 政府借金の増加で中国崩壊危機
http://funshoku.blogspot.jp/2014/01/chugoku-keizai-no-genjou-2014-1-seifu-shakkin-zouka-chugoku-houkai-kiki.html
2014年世界経済大予測!vol.2~米中・アジア・新興国の経済見通しのまとめ~
http://zuuonline.com/archives/5690