今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

引っ越しのお知らせ

2016-06-12 | 掲示板
ご訪問ありがとうございます。
毎日たくさんの方に訪問いただき感謝しています。
当ブログをはじめて、もう15年近くなります。
そのため画像のアップ等、いよいよ容量にも限界が来ており、残念ながら当ブログの引っ越しをします。
引っ越し先は、以下です。
FC2ブログ「この一枚の絵
URLは以下です
http://f2yousan.blog.fc2.com/
また、当ブログは、CATVでのHP「よーさんの我楽多部屋」の別館的なものでしたが、
CATVはHPを中止するので、やむなく本館「よーさんの我楽多部屋」もライブドアブログへ
老いの愉しみ」というタイトルに名称変更し、順次移行しています。ブログのURLは以下です。
http://blog.livedoor.jp/liveyousan/archives/cat_239396.html
CATVHP「よーさんの我楽多」当ブログ「今日のことあれこれと・・・」も15年ほどかけて作ったものであり。容量が大きく一度に引っ越しができず順次の引っ越しで、完全に引っ越すまでは時間を要します・
したがって、本館「よーさんの我楽多部屋」は本年中に引っ越しするまでおいておきます。。
また、当Gooブログ「今日のことあれこれと・・・」は完全にデーター以降するまで記事はそのまま残しておきます。
今後はライブドアブログの「老いの愉しみ」を本館として、FC2ブログの「この一枚の絵」をその別館という位置づけで記事をアップしてゆきます。
また、「老いの愉しみ」の中でも、過去の「今日のことあれこれと・・・」の中で、「ひとりごと」として書いていたものは、カテゴリー「老いのたわごと(ひとりごと)」ととして書いています。
本館と別館はリンクでつないでいますのでどちらからでも相互に行き来できます。
ライブドアブログも、FC2ブログもHPではないのでCATVでの本館HP「よーさんの我楽多」の時のようにホームページビルダーを使って、思うようなページがつくれません。
慣れないHTML言語などを使いながらの更新なので、未だ、中途半端なところがありますが、これからは、新ページへご訪問よろしくお願いします。
今までの画像掲示板は基本的に本館の「老いの愉しみ」の方に全てを継続添付しています。その中の一つを「この一枚の絵」専用としています。
できれば、私のページへのリンクは「老いの愉しみ」の方のアドレスをしていただけるとありがたいです。
今まで通り新館へのご訪問お待ちしております。再度以下へ新ページ書いておきます。
本館「老いの愉しみ」
http://blog.livedoor.jp/liveyousan/archives/cat_239396.html
別館「この一枚の絵」
http://f2yousan.blog.fc2.com/
今までGooブログへのご訪問本当にありがとうございました。

芳年画 花井お梅

2016-06-09 | 歴史

花井お梅


上掲の画像は 近世人物誌やまと新聞 第二百六十三号附録   月岡 芳年 「花井お梅 」(早稲田大学図書館:古典籍総合データベース: :[近世人物誌]中泉政太郎、 編集※1よりここクリックで画像がみられる。 
やまと新聞』は、1886(明治19)年から1945(昭和20)年にかけて発行されていた日刊新聞であり、明治後期には東京の有力紙のひとつであり、錦絵新聞講談筆記の連載などで好評を博していたようだ。
錦絵新聞とは、明治初期の数年間に発行されていた視覚的ニュース・メディアであり、一つの新聞記事を浮世絵の一種である錦絵一枚で絵説きしたもの。グラフィックとしての錦絵に着目して新聞錦絵と呼ばれることもあるようだ。
明治初期に東京で創刊された「新聞」は東京土産になるほど流行したが、知識人層向けで振り仮名や絵もなく、一般大衆には読みにくいものであった。この「新聞」を浮世絵の題材に取り上げて、当時まだ平仮名しか読めない大衆も絵と平易な詞で理解できるようにしたものが錦絵新聞である。土屋礼子は「非知識人層を読者対象とした小新聞に連なるニュース媒体であった」と位置づけているそうだ。
錦絵新聞は近代ジャーナリズムの勃興期に、新聞というものを一般大衆の身近なものにしたメディアであった。1874(明治7)年に、東京の版元「具足屋」が『東京日日新聞』の記事を題材に、落合芳幾の錦絵にふりがなつき解説文を添えて錦絵版の『東京日日新聞』として売り出したものが最初だそうである(※2参照)。錦絵というグラフィックを用いてセンセーショナルな事件を報じるメディアは、「猟奇的・煽情的な内容」は「現代の写真週刊誌に似た性格のものであったともいえる。
錦絵版『東京日日新聞』は、錦絵のわかりやすさと「新聞」の目新しさ、トピックの面白さで大変な人気を得た。これに倣って、『郵便報知新聞』の記事に月岡芳年の錦絵を添えたもののほか、東京、大阪、京都などの版元から約40種もの錦絵新聞が続々と誕生したという。しかし、錦絵新聞同様の平易な文章と内容に、錦絵より作成に時間のかからない単色ずりの挿絵を組み合わせた小新聞が発行されるようになると、これに押されて錦絵新聞は誕生から10年もたたないうちにほとんど姿を消した。
、『やまと新聞』も同様である。同紙は1886(明治19)年10月7日、『東京日日新聞』の創始者でもある條野伝平(採菊)によって創刊された『警察新報』(明治17年創刊)を改題して発刊されたもののようである。
同紙は雑報や論説も載せたが、庶民向けの娯楽趣味の宣伝に努めたいわゆる小新聞であり、花柳界や芸能界の記事、続き読み物、ゴシップ記事などが中心的な記事であったようだ。月岡芳年・水野年方らの挿絵でも知られ、時折つけた付録には、芳年の描いた色鮮やかな大判新聞錦絵「近世人物誌」シリーズもある。

1887(明治20)年6月9日、日本橋浜町の待合茶屋・酔月楼の女将だった花井お梅が、使用人の八杉峰三郎を刺殺する事件があった。
冒頭の画像は、、同事件「花井お梅事件」(別名箱屋事件)を題材にした、同年8月20日付の近世人物誌 『やまと新聞』 第二百六十三号附録である(「近世人物誌」以下参考の※1:「早稲田大学図書館:古典籍総合データベース」で見ることができる)。

明治の文学史にいわゆる「毒婦物」というジャンルが成立したのは明治初期のことである。”富や力あるいは異性など、男の欲望を掻き立てるものは女にとっても同じであるが、異なるのは、欲望の追求がときに英雄的行為として賞賛される男に対して、欲望をあらわにした女には懲罰が待っているというところだろう。
人は一方で、そうした女に対する恐怖や嫌悪を感じるとともに、他方では彼女に誘惑されてみたい、あるいはそのような魅力を分かち持ってみたいというひそかな欲望や憧憬を抱いている。
自らが隠し持つ欲望に対する社会的、道徳的な嫌疑を欲望の対象になすり付け、欲望を抱いた自己の代わりに処罰する。つまるところ、そのような、「毒婦の物語」とは、「処罰の物語」でもあった。
そのような毒婦物の代表的なものに「夜嵐お絹」、「高橋お伝」、そして、この「花井阿梅」などもその一人として描かれている。

1912年(明治45)6月12日から3日間、東京・浅草駒形町の蓬莱座(浅草座参照)で浅草公園芸妓による慈善演芸会が華々しく催されていた。出し物は、「花井お梅浜町河岸峯吉殺し」。
芸妓玉桜家小花が主人公花井お梅、待合浜野家が峯吉、幇間桜川呂孝(〔注1〕参照)が車引きに扮している。
23日、舞台が峯吉殺しの山場に差し掛かったときだった。平土間(ここ参照)で見物していた本物の花井お梅が舞台に駆け上がり、小花をひっつかまえて息巻いた。「誰に断ってこの狂言を出した」
見物人総立ちの騒ぎになり、座主関三十郎(5代目と思われる)、松永忠吉が仲裁に入ってその場は引き取らせ、25日蓬莱座でお梅に渡りをつけて手打ちした。.
本物のお梅は、1887(明治20)年6月9日、日本橋区浜町箱屋三味線の箱をもって、客席へ出る芸者の伴をする男)の八杉峯吉(34)を刺殺した。
「白薩摩(白薩摩焼泥染白大島。画像ここ参照。紬のことは※3参照)の浴衣の上に藍微塵の お召(あわせ)、黒繻子に八反の腹合せの帯をしどなく締め、白縮緬の湯具踏みしだきて降りしきる雨に傘をもささず鮮血の滴る出刃包丁を掲げたる一人の美人」(東京日日新聞)が、大川端に開いた酔月楼の門を叩き、父に、「私しゃ、今箱屋の峯吉を突き殺したよ」と言い残し、久松町警察署へ自首した。
当時お梅は24歳。15歳で芸妓になり、18歳で独り立ちして、事件の一ヵ月前に、実父花井専之助の名義で酔月楼という待合茶屋を開いた。しかし、営業をめぐって、父娘はしばしば衝突した。専之助は一旦お梅に任せたのに、5月27日朝、自分が仕切るといって突然休業の札を貼り出したという。
お梅は家を飛び出して、池上の温泉や京橋の知人宅を泊まり歩いたが、身の置き所もなく困り果て、つらつら考えるに、峯吉こと八杉峯三郎は自分が芸妓をしていた頃から雇い置き、専之助を助けるような顔をして利益を図っている、おかげで父と不仲になった、と思い当たったようだ。
6月9日に仲裁の者が酔月楼に出かけたが、父は留守で、峯吉が「あんな者はいてもいなくてもいい」といったと聞くに及び、お梅は怒りを抑えきれなくなった。
そして、午後9時過ぎ、楼近くに行き、車引きに梅吉を呼び出させた。
「専之助が立腹しているから急に帰る訳にもいかない、ともかく知り合いの家へ行っている」と峯吉。果てはお梅への恋慕を打ち明け、意に添うよう強要した。それで、お梅は持っていた出刃包丁を峯吉の背に刺した。
同年(明治20)11月の公判には傍聴人が1000人以上詰めかけ、邸内は身動きもならず、ガラス窓が破損したという。過半は、窓外で人山を築いて、何時静まるとも知れない騒ぎなので、警官が追い払い、門を閉ざして開廷したそうだ。

冒頭掲載の近世人物誌 『やまと新聞』 第二百六十三号附録の画像は、1887(明治20)年11月の公判開始以前の8月20日付で書かれたものであり、まだ事実関係がはっきりしていないために、事件の原因についても二説の風聞を併記して、「種々入込たる事情もあらんか」と推測するにとどまっている。以下その全文である。
今ハ酔月の女房お梅故は柳橋では小秀、新橋でハ秀吉とて三筋の糸に総を掛け、三弾の何でも宜と気随気まぐれで鳴らした果、五月の闇の暗き夜に、以前ハ内箱今ハ食客の峯吉を殺せし事ハ普く人の知る所ながら、彼を殺せしといふ原因に二様あり、一は峯吉が平生よりお梅に懸想し言寄ることも数度なりしが、流石に面恥かかするも気の毒とて風の柳に受居りしを、或る夜兇器をもつて情欲を遂んと迫りしより止を得ず之を切害せしといふにあり、一ハ世にも人にも包むべき一大事を峯吉に洩せしに、彼の同意をせざるより事の爰に及びしともいふ二者何れが是なるか公判の上ならでハ知るによしなし、唯お梅は是迄も情夫の自己につれなかりしを憤り之を害さんと威したる事二度に及ベり、されバ此度の峯吉殺しも想ふに種々入込たる事情もあらんか兎にかく凄き婦人なりかし

・・・・と。
市ヶ谷監獄(現在の新宿区住吉町にあった「市谷谷町囚獄役所」が明治36年「市谷監獄」と改称。近くにあった東京監獄、大正11年市谷刑務所と改称とは別物)に収監されていた花井お梅(このとき40才)が1903(明治36)年4月10日に満期になって出獄した。夜12時を期して、看守長が出獄の旨を申し渡すと、お梅は満面の笑みをたたえて、恭(うやうや)しく長年の行為を感謝したという。
午前零時半、差し入れの黒縮緬花菱三つ紋付き二枚重ねの小袖繻珍(しゅちん)の丸帯をしめ、新調の駒下駄をはいて15年ぶりに刑務所から出てきた。
降りしきる雨の中、出迎えの兄や親類の人たちと日本橋浜町にある兄の家に落ち着いた。
ばか騒ぎをもくろんだ多数の出迎え人や物見高い見物人は午前4時ごろから押し寄せたが、すでに深夜に出獄したと係官から聞かされて、一同「アッとばかりに失望したのもおかしい。・・と同年4月11日付東京朝日新聞にはあるようだ。

「出獄後の花井お梅が堅気な稼業に心を込め、罪を滅さんともがくことは世間に隠れもなき話になるが、とかく耳たぶが薄い(運が悪い)と見えて、何の商売もヤンヤと行かず」、汁粉屋に失敗して牛込岩戸町で小間物店を開いたが、これも断念して、浜町へ舞い戻り、再び汁粉屋に転業と、明治38年2月25日付の東京朝日新聞は伝えているそうだ。
その後も、豊島銀行頭取と称する鈴木某に騙され無一物になり、進退窮まって俳優を志願したので、横浜、横須賀、桐生などから買い込みが来た。
峯吉殺しから鈴木某に逃げられるまでを芝居に仕立てて登場すると意気込んでいる、と報じられるなど、今でいうワイドショーの主役のようであったらしい。しかし、蓬莱座の一件を最後にお梅はゴシップ記事から姿を消したという(朝日クロニクル週刊20世紀1912年号)。彼女は、その後旅回りの役者などもしていたそうだが、1916(大正5)年夏、53歳の頃には、、新橋の芸妓に戻り、秀之助を名乗っていたそうだが、その年、12月13日、肺炎のため、蔵前片町(現、台東区蔵前1丁目)にあった病院で没したという。
この花井お梅の起こした事件は、河竹黙阿弥作『月梅薫朧夜』(役者絵、明治劇散切物の画は以下でみられる)の題で上演、評判となったほか、真山青果が脚色した『仮名屋小梅』(※4参照)、そして、川口松太郎の『明治一代女』として、新派劇の名狂言となった。

月梅薫朧夜 - 早稲田大学演劇博物館 浮世絵閲覧システム

川口松太郎の、『オール読物』誌に連載された小説『明治一代女』(昭和10年)は、「鶴八鶴次郎」「風流深川唄」と併せて"第1回直木賞を受賞している名作であるが、自身の脚色による新派劇は1935(昭和10)年、明治座にて初演され、また、日活入江プロで映画化もされているそうだ。このときの映画は見ていないのでよく知らないが、19558昭和30)年公開の伊藤大輔監督による同名映画(大映)は見たことがある(※5参照)。
最初の日活入江プロの時に作られた藤田まさと作詞による同名の主題歌(作曲は大村能章)はよく流行ったな~。
(歌詞一番)
 浮いた浮いたと 浜町河岸に
  浮かれ柳の はずかしや
  人目しのんで 小舟を出せば
  すねた夜風が 邪魔をする
このときの歌手は元芸者の新橋 喜代三。このころは、葭町(藤本)二三吉市丸小唄勝太郎などの芸者歌手全盛の時代だったな~。
明治一代女の歌もいろいろな歌手にカバーされているが、その中に、私の大好きな美空ひばりのものもある。
彼女は、どんな曲を歌ってもうまいね~。さすが天才歌手だ。今日はこのひばりの歌を聴いて終わることにしよう。ここでは、初代、新橋 喜代三の他いろんなカバー歌手の歌も聞けるよ。

明治一代女 - 美空ひばり - 歌詞&動画視聴 : 歌ネット動画プラス

参考
〔注1〕明治41年幇間の桜川忠考に入門し、大正6年より桜川忠七を名乗っていた人物がいる。この桜川忠考が、桜川呂孝の弟子だろうか。また、桜川忠考の弟子?かどうかは知らないが、その忠七の流れを汲むと思われる人たちが桜川米七、七光、九助 七太郎(女幇間)と名乗り今も幇間芸を広めているようだ。以下参照参照。
花柳界雑学 - 全国花街・花柳界情報専門サイト ざ・花柳界
リンク
※1早稲田大学図書館:古典籍総合データベース: :[近世人物誌] 
※2:コラム:明治の錦絵 | 錦絵でたのしむ江戸の名所 - 国立国会図書館
※3:よくわかる!大島紬(総集編) | きもの知るほど  
※4: 「伝統歌舞伎保存会」 葉月会のアルバム(第十四回)
※5:明治一代女 | Movie Walker
ニュースの誕生:かわら版と新聞錦絵の情報世界:目次
二木紘三のうた物語7:マ行の歌

備中高松城の水攻

2016-06-03 | 歴史

天正10年6 月3日(西暦1582年6月22日)中国地方の雄毛利氏配下の清水宗治の守備する備中高松城を水攻め中の羽柴秀吉軍が、この日、毛利方に「本能寺の変」を知らせる使者を捕え、その一報を知る。織田信長の死を秘匿しつつ、翌4日毛利家と和睦し、城主清水宗治の切腹を見届けた秀吉は、明智光秀を討つため、中国大返し畿内に戻り、6月13日からの山崎の戦いで光秀を破り織田 信長の実質的な後継者の道を歩むことになる。
冒頭の図は、「赤松之城水責之図」(東京都立中央図書館所蔵)。ここクリックで拡大図が見れる。
これとは別に、和歌山市立博物館には、歌川国芳の門人一猛齋芳虎(歌川 芳虎の画号)の描いた「水攻防戦之図」もある。以下参照。
水攻防戦之図・赤松水攻之図 文化遺産オンライン
上図は、秀吉が本陣をはった石井山から水攻めの様子を眺めた構図をとっている。
芳虎は、錦絵「道外武者御代の若餅」では、徳川家康の天下取りを揶揄した落首「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座して喰らふは 徳の川」(この狂歌は、天保~嘉永期に出回ったといわれている)に着想を得て、織田信長と明智光秀が搗き、豊臣秀吉がこねた餅を徳川家康が食うという絵を描き家康の天下取りを諷刺したとされ、手鎖50日の処罰を受けたという。画像はここ参照。芳虎の諷刺精神も国芳に倣うものであったようだ。
高松に到着した秀吉の陣は、当初、高松城の北東2.1㎞にある龍王山(現在の最上稲荷山妙教寺付近)に置かれたが、築堤を築く頃には高松城から南東800mのところにある石井山(岡山市北区立田)に移した。理由は、石井山の方が高松城が手に取るように見えるのと、足守川の増水で毛利勢がうかつに近づけないことで安全がある程度確保できたからと考えられている。参考※1:「岡山県古代吉備文化財センター」の以下参照。ここには、当時の「高松城水攻め陣営配置図」が詳しく描かれている。
備中高松城跡
自刃した清水宗治の首級は、この本陣に於いて、秀吉の首実検の後、手厚く葬られ、一基の五輪塔を建立されたといわれているが、その後、備中高松城本丸跡へ首塚の移築がなされたようだ。本丸跡には首塚と辞世の歌碑が建っている。
辞世の句
「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して」

戦国時代備中国高松(現・岡山県岡山市北区高松)に存在した高松城は、讃岐高松城と区別して備中高松城とも呼ばれる(※1のここまた※2のここ参照)。
築城時期はっきりしないが、備中松山城城主・三村氏の命により、備中守護代で三村氏の有力家臣でもあった石川氏が築いた城である。
戦国時代の備中は守護細川氏が衰退した後、国人領主が割拠する状態にあったが、なかでも台頭していたのは三村氏であった。
三村家親は、出雲尼子氏に代わって中国地方の覇者となった安芸の毛利氏に接近し勢力を備前美作に広げたものの、備前浦上氏傘下の宇喜多直家により家親が暗殺され、つづく明善寺合戦において三村氏は敗退、その勢力は衰えた。のち直家と結んだ毛利氏により三村氏は滅ぼされ(備中兵乱)、その傘下であった城主の多くは毛利氏を頼ったが、その一人が清水宗治であった。
清水宗治は。天正3年(1575年)の備中兵乱の際、三村氏譜代・石川氏の娘婿・重臣の立場にありながら主家を離れて毛利氏に加担したが、宗治が備中兵乱後に高松城の城主となった経緯は不詳であり、石川氏滅亡以前より宗治が城主であったともいわれているそうだ。

上掲は歌川国芳の高弟落合芳幾の錦絵『太平記英勇傳 清水長左衛門宗治』。以下でこの錦絵の全画像が見れる。 
浮世絵で見る戦国武将 ~太平記英勇伝~ (前半) - YouTube
浮世絵で見る戦国武将 ~太平記英勇伝~ (後半)- YouTube

15世紀末当時、備前国は赤松氏守護代として浦上氏が支配していた。清水宗治(長左衛門)は、父清水宗則の3人の子の一人(次男)で、天文6年( 1537年)に、備中国賀陽郡清水村(現在の岡山県総社市井手)で生まれたとされているようだ。
戦国時代初期の清水宗則(備後守)は備中国の国人・石川久式(左衛門尉)に従属していたという。
天正2年(1574年)備中の戦国大名三村家の重臣だった主家の石川家が毛利家により滅ぼされた際、清水家は石川家から離反して毛利家の小早川隆景に味方し、その功績により石川久式の出城だった備中高松城を預けられたという。
備中国国人清水氏は、赤松氏家臣団難波氏族(※4参照)の一族である。
当時、備前国は赤松氏の守護代として浦上氏が支配していたが、室町初期備前守護に任じられたこともある有力国人の松田氏が、文明15年 から16 年(1483-4年)に備前国で勃発した騒乱(守護赤松、浦上の福岡城〔※2のここ、また※3のここ参照〕を山名、松田の軍が攻めた)に一役をかい、赤松・浦上氏の備前支配を排除しようとした。この合戦は福岡合戦(※5参照)と呼ばれ、備前国における戦国時代への突入の契機と考えられている。こうして、浦上氏と松田氏は備前国内で互いに勢力を争うようになった。
戦国期の難波十郎兵衛行豊は、嘉吉の 乱で没落した赤松氏を再興した赤松政則の娘を娶り、赤松家中で重くもちいられていたようだ 。また浦上氏にも属したようで、鳥取荘内・居都荘内に所領を与えられており、行豊の孫宗綱は、備中国賀陽郡八田部領の清水城主となり、その子宗則は清水氏を称したという(※5参照)。この宗則の子が豊臣秀吉の水攻めで知られる高松城主清水長左衛門尉宗治その人なのである。
「高松城の水攻め」の図を一勇斎国芳(歌川 国芳)は「赤松之城水責之図」としている。「高松の城」をなぜ国芳は「赤松之城」としているのか?
色々調べたがよくわからないが、前述のように、「高松城」は、当時備前国を支配していた、赤松氏家臣団難波氏族の清水宗則が備後守として、管理していた城であったからであろうと推測している。

一方畿内においては、「天下布武」を掲げた尾張国の信長が他国侵攻の大義名分として足利将軍家嫡流の足利義昭を奉じて上洛を果たし、将軍、次いでは天皇(正親町天皇)の権威を利用して天下に号令。
反対勢力(信長包囲網)の一部を滅ぼすと、将軍義昭を京より追放して室町幕府を事実上滅ぼし、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となり、本格的に天下統一事業を推し進めようとしていた。
このころ、武田信玄西上作戦の途上三河で病を発し死亡)を失った信長包囲網(反織田信長連合)は同年末には実質的に瓦解していた。
上杉家は養子の景勝景虎の間で家督争い、世に言う御館の乱が勃発。武田家北条家もまた、その跡目争いの後ろ盾となり、東国三国の矛先は、信長の方から逸(そ)れていった。
ここで信長の「天下布武」における最重要課題は、政治的・軍事的・経済的にも、目下の敵、西国石山本願寺中国(山陰・山陽)の雄・毛利の攻略にあった。
そこで、信長は、北陸柴田勝家に、東国は、織田信忠滝川一益に一任し、西国の石山本願寺は佐久間信盛に、丹波などの近畿地方明智光秀に一任。
そして、畿内をほぼ制圧した後、最大の敵となっていた西国の雄・毛利氏討伐のため、中国方面軍司令官に任命されたのが羽柴秀吉であった。
しかし、中国攻めの際、毛利氏攻めの先鋒を務めると信長に約していたはずの別所長治が、突如、秀吉に叛旗を翻し、播磨国三木城(兵庫県三木市)に籠城し徹底抗戦した。
これを2年近くに及ぶ兵糧攻めで「干し殺し」(三木合戦参照)にしたあと、秀吉は毛利の領土へ本格的に攻撃を開始する。
毛利と結んでいた因幡山名豊国の居城であった久松山鳥取城(久松山城ともいわれる)攻略に取り掛かるが、難攻不落の要塞であったため、三木城と同様の兵糧攻めを採用した。
このとき守備を指揮していたのは、支援要請を受けた毛利元就の次男吉川元春(毛利 元春)の一門で文武両道に優れた吉川経家であった。
経家は場内に米の備蓄がわずかしかないことに驚き、急いで周辺の農家から米を集めようとしたが、鳥取城を包囲する前に、秀吉は若狭から商船を因幡へと送り込み,米を高値で買い占めさせる一方で、河川や海からの毛利勢の兵糧搬入を阻止した。さらに、秀吉は城内にある兵糧を枯渇させるため、鳥取城を包囲する際、城下周辺の農村を襲い、村人たちを鳥取城内に追い立てた。鳥取城では逃げ込んできた農民たちへの食糧を支給せねばならず、米蔵はあっという間に底をつき、餓死者が続出した。この作戦により瞬く間に兵糧は尽き飢餓に陥った。 何週間か経つと城内の家畜、植物などは食い尽くされ、4か月も経つと餓死者が続出し人肉を食らう者まで現れたという。
これは、,三木城の「干し殺し」と言われる兵糧攻めでは2年近い歳月を要したため、もっと効率的に兵糧攻めを行うため、秀吉の参謀黒田官兵衛が考えた作戦だと言われている。
このときの兵糧攻めについて、信長公記には「餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ、引き出し助け給へと叫び、叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、目もあてられず」と記されており、この凄惨たる状況に、吉川経家は自決と引き換えに降伏し開城した。
このときの兵糧攻めは「三木の干殺し」をはるかに上回る凄惨な状況を生み出した事から、後世「鳥取の飢殺し(渇殺し)」と呼ばれ、兵糧攻めの恐ろしさ、過酷さを後世に伝えることになった。

そして、天正10年(1582年)いよいよ、秀吉は、毛利氏との対決の為備中国(岡山)に侵攻した。
毛利隆元の嫡男輝元は備中高松城で秀吉を食い止めるため足守川に沿って支城6城(北から順に宮地山城、冠山城、鴨城、日幡山城、庭妹城、松島城)を築いて防備を固めていた。備中高松城にこの支城6条を加えた7城を「境目7城」と言い、これが輝元の防衛線であった。冠山城と鴨城の中間に備中高松城がある。
備中高松城は平野にある平城だが、周囲を池や沼などの低湿地に囲まれており、備中高松城へは容易に近づけさせない自然の要害となており難攻不落を誇っていた。
そのため、秀吉は周囲の小城を次々と攻め落とし、4月15日、秀吉方は宇喜多勢(宇喜多直家の次男秀家勢)を先鋒に3万近い大軍で城を包囲し、2度にわたって攻撃を加えたが、城兵の逆襲を受けて敗退、攻城戦は持久戦となった。
毛利輝元率いる4万の援軍が接近しつつあるが、援軍もなく、1日も早く落城させなければならないる状況において、5月8日(5月29日)に入り軍師・黒田孝高の献策により城を堰堤(えんてい)で囲むという、攻城というよりむしろ土木工事といえるものが開始された。
この城は東と北が山、東に鳴谷川、西に足守川が流れる平城で、秀吉はその西と南を高さ4間(約6m)延長約30丁(約3㎞)の堤防で仕切って二つの川の上流から水を導き、約1,900アール( 1aは100 m2)の湖水の中に城を孤立させた。工事には士卒や農民らを動員し、1俵に付き銭100文、米1升という当時としては非常に高額な報酬を与え、堤防は5月8日の工事着手からわずか12日で完成させ、折しも梅雨時であったことから、降り続いた雨によって足守川が増水し、堰堤内には水が溢れ、城は湖に囲まれた状態になったのである。これが、世に言う「高松城水攻め」であるただ、鳴谷川からの導水工事が城攻略に間に合わず,未完に終わり,この工事を担当した奉行が切腹したと伝えられているそうである。
「高松城の水攻め」は、「三木の干殺し」「鳥取の飢殺し(渇殺し)」と併せて秀吉三大城攻めとして有名である。

「兵糧攻め」は相手を直接傷つけることはないが、敵兵に深刻な痛手を与える残忍な戦術だが特に、秀吉がよく使ったことで知られているが、このような兵糧攻めや水攻めでの城攻めは、すでに信長により使用されていた。
永禄元年(1558年)の「浮野の戦い」(「浮野合戦」)で,大敗した織田 信賢の本拠尾張・岩倉城への攻撃(1559年)では、信賢の籠城戦に対し、周囲にしし垣を張り巡らして完全に取り囲み、数ヶ月の後に降伏させている。
また、信長はこの方式を、今川方となった城鳴海城大高城攻めに適用し、両城の周囲それぞれに砦をいくつか築き、この二城を包囲の上分断、孤立させた兵糧攻めを行っている。落城寸前になった大高城を救援するために、今川義元が出陣してきて「桶狭間の戦い」が起こり、この戦いで今川義元を討ち取って今川軍を退却させたことで歴史上有名である。
その後,近江浅井長政と対立した時には、小谷城の目と鼻の先に在る虎御前山に本陣を布いて砦を修築し、虎御前山から付城宮部城(宮部 継潤の城)まで五十町もの土塁で取り囲み長大な要害を築かせ兵糧封鎖をかけるとともに、敵側には、川の水を堰入れさせる(水攻め)など、後に秀吉が三木城や鳥取城で行った城攻め方法は、この時にすでに見本が完成されていた。この小谷城の包囲を担当していたのが他ならぬ秀吉だったため、信長発案の城攻めの方法を一番習得していたのが彼だったのだろう。
この他、秀吉の小田原征伐の際に、豊臣方の総大将石田光成が、武蔵忍城の攻撃(忍城の戦い参照)において、秀吉を真似た元荒川の水を城周囲に引き込む水攻めが行われたが成功したとは言い難く、光成の資質が問われている。
では、何故秀吉の水攻めが成功したのか?
備中高松城主清水宗治の戦略』の著者多田土喜夫(タダ トキオ)氏が分かり易く「高松城の水攻め」を解説しているものがある。短く要旨のみの解説だが見てみるとよい。













参考:
※1:岡山県古代吉備文化財センター 
http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kodai/kodaik.htm
※2:城郭放浪記
http://www.hb.pei.jp/shiro/
※3:岡山県の訪問城
http://www.geocities.jp/qbpbd900/okayamanosiro.html
※4:国人領主と家紋
http://www2.harimaya.com/sengoku/sengokusi/bimu_03.html
※5:藤陽伝 伊賀氏一族と虎倉城記 文明期の備前国 ―― 福岡合戦 ――
http://kibi2011.blog81.fc2.com/blog-entry-22.html
※6:虎御前山城の歴史と構造|戦国時代の合戦と城
http://www.city.nagahama.shiga.jp/section/kyouken/junior/category_01/02_chusei/battle/toragozeyama.html