今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

秀吉が吉野で花見の宴を行った日

2016-02-27 | 歴史
文禄3年(1594年)2月27日、豊臣秀吉吉野で大々的に.花見の宴を行った。
吉野は桜の名所であり、2月27日といってもこれは旧暦であり、新暦に直すと4月17日になるので、まさに花の見頃である。
豊臣秀吉の花見といえば.その最晩年の慶長3年3月15日(1598年4月20日)に、京都の醍醐寺三宝院裏の山麓において催した花見の宴(醍醐の花見参照)が有名である。
このとき花見は、豊臣秀頼北政所淀殿ら近親の者を初めとして、諸大名からその配下の女房女中衆約1300人を召し従えた盛大な催しで、九州平定直後に催された北野大茶湯と双璧を成す秀吉一世一代の催し物として知られている。
しかし、吉野の花見は文禄の役(文禄・慶長の役参照)の真っただ中に行われたものであり、そんな中、秀吉は徳川家康宇喜多秀家前田利家伊達政宗ら錚々たる武将をはじめ、茶人(茶道に通じた人)、連歌師たちを伴い、総勢5千人を引き連れ訪れて吉水院(吉水神社)を本陣とし、盛大な花見の宴を催し、ここには5日間滞在し、そのとき、歌の会、茶の会、お能の会なども開いて豪遊したといわれる。
この時の吉野の花見は、参加の規模から言っても醍醐の花見を大幅に上回るすごいものだった。吉野へは私も三度ほど観光に行ったことがあるが、吉水神社に、一目千本という看板があるところは、その名の通り、中千本、上千本の山桜が一望できる(ここ参照)。おそらく、秀吉もその景色を見て、「絶景じゃ。絶景じゃ。」と子供のように喜んだことだろう。

上掲図版は、この時の吉野の花見の模様を描いたと推定される六曲一双の「豊公吉野花見図屏風」(重要文化財。細見美術館蔵)の部分図。輿に乗った秀吉一行らしき行列が金峯山寺仁王門にさしかかる。一行の中には朝鮮南蛮人と思しき人物も見える(画像は『週刊朝日百科日本の歴史32』6-297p掲載のものを借用)。画像はクリックで拡大する。赤丸で囲んでいるところが腰に乗った秀吉。画像全体図を見たい時は以下参照。以下画像も開いた後閲覧モードで表示すれば画像をクリックで拡大することができる。


先にも書いたように、吉野の花見は「文禄の役」の真っただ中で開催されたものであるが、文禄天正の後、慶長の前。1593年(グレゴリオ暦。ユリウス暦では1592年)から1596年までの期間を指し、元号は、天正20年12月8日(グレゴリオ暦1593年1月10日)に、天正から文禄に改元された。
この改元の2年前、天正18年(1590年)に秀吉は関東へ遠征し、後北条氏の本拠小田原城を攻め、北条氏政北条氏直父子を降伏させた。北条氏政、同じく小田原城に籠もっていた北条氏照は切腹させ、氏直は紀伊の高野山に追放。これによって、秀吉の天下統一事業がほぼ完成された。
後北条氏を下し天下を統一することで秀吉は戦国の世を終わらせたが、毛利氏長宗我部氏島津氏といった有力大名を滅ぼすことはせず、従属臣従させるにとどまっていた。また、徳川氏は石高250万石を有し、秀吉自身の蔵入地222万石より多い石高を有するほどであった(ここ注釈 23参照)。
その翌・天正19年(1591年)、秀吉の信頼も厚く、豊臣政権で徳川家康という最大の爆弾を抱えた中での政権運営の調整役であり、政権の安定には欠かせぬ人物だった豊臣秀長(秀吉の異父弟、同父弟説もあるそうだ)が1月22日に死亡、次いで、8月5日には、自らの後継者に指名していた秀吉の嫡男鶴松が僅か3歳で病死した。
後継者を失った秀吉は、甥の秀次を家督相続の養子として関白職を譲り、秀次は聚楽第に入り天下人となった。 
秀吉は太閤(前関白の尊称)と呼ばれるようになるが、秀吉は全権を譲らず、依然として統括的立場を保持して二元政治を敷いた。
そして、この年8月、秀吉は来春に「唐入り」を決行することを全国に布告。まず肥前国に出兵拠点となる名護屋城を築き始めている。秀吉の出兵の準備は天正 14 (1586) 年九州征伐の頃からすでにできていたようである。
この年、重用してきた茶人・千利休が突然秀吉の逆鱗に触れ堺に蟄居を命じられている。利休の弟子である古田重然細川忠興らの助命嘆願も適わず、京都に呼び戻された利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられ、その首は一条戻橋に晒されている。死の原因はいろいろと言われている(ここ参照)。
翌・天正20年(1592年)1月29日、秀次は、左大臣に補任された。2月には2回目の天皇(後陽成天皇)行幸があり、秀次がこれを聚楽第で迎えているが、これは秀次への権力世襲を内外に示したものと理解されている。3月26日に淀殿を伴って名護屋城に出征した秀吉が唐入りに専念する一方で、秀次とその家臣団による国内統治機構の整備は進んでいっていたようである。
そして、この年・天正20年12月8日に元号が文禄に改元されたのだが、この改元、後陽成天皇の代始改元とはいうものの即位6年目という歴史上3番目に長い遅滞(ここの注釈1参照)で、この時期に天皇即位や天変地異など特に改元すべきふさわしい理由はなく、これは秀次の関白世襲、つまり武家関白制の統治権の移譲に関係した改元(「武家関白制」を採った豊臣政権最初の改元)であり、新天皇の代始改元を行いたかった公家側の希望と日本全国の平定を果たした武家側の要請が一致して実施された改元であると考えられている(関白相論の中の5 武家関白制を参照)。

改元した文禄元年(1592年)の3月、秀吉は、征服と朝鮮の服属を目指して宇喜多秀家を元帥とする16万の軍勢を朝鮮に出兵している。文禄の役の始まりである。
初期は日本軍が朝鮮軍を撃破し、漢城平壌などを占領するなど圧倒したが、各地の義兵による抵抗や明の援軍が到着したことによって戦況は膠着状態となり、翌・文禄2年(1593年)、明との間に講和交渉が開始され休戦した。
この文禄の役と、慶長2年(1597年)の講和交渉決裂によって再開され、慶長3年(1598年)の太閤豊臣秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結した「慶長の役」とを合わせた2度の戦役を総称して、一般的には「文禄・慶長の役」と呼ばれることが多い(この戦役の詳しいことは「文禄・慶長の役また参考の*1など参照)。

ところで、関白となった豊臣秀次ではあったが、やがて不幸な境遇となる。
肥前から戻っていた淀殿が懐妊し、文禄2年(1593年)8月3日、お拾(後の秀頼)を産んだ。淀殿懐妊が判明した当初は、老い先短い秀吉も平静を装っていたが、いざ生まれてみると、やはり、自分の子を後継者にしたいと考えるようになり、秀吉が秀次に関白を譲ったのは早計であったと思い直したとしても不思議はなかった。
山科言経の日記『言経卿記』によると、9月4日、秀吉は伏見城に来て、日本を5つに分け、その4つを秀次に、残り1つを秀頼に譲ると申し渡したそうである(Wikipedia)。
この後、秀次は熱海に湯治に行ったが、旅先より淀殿に対して見舞状を出す(*2:「萩の御前」のここ参照)など良好な態度であった。
ところが、秀次の蔵入地の管理などを司り、また右筆をも務めた駒井 重勝の『駒井日記』(『駒井中書日次記』『文禄日記』ともいう。*3参照)の10月1日の条によると、前田利家夫妻を仲介人として、まだ生まれたばかりの秀頼と当時1歳の秀次の娘(後の露月院)を婚約させ、将来は舅婿の関係とすることで両人に天下を受け継がせるのが秀吉の考えであり、秀次が湯治より帰ったら言い渡されるそうだと(祐筆の)木下半介が(駒井に)教えたと言う(*2:「萩の御前」のここ参照)。これからは3代目の後継者は秀頼としたいという秀吉の意図が読み取れるが、このような重大な決定が不在中(熱海に湯治,帰還は11月)に頭越しに決められては秀次の感情も変わっていったと思われる。
しかし、『駒井日記』によると、文禄3年(1594年)2月8日、秀次は北政所と吉野に花見に行っており、9日には大坂城で秀吉自身が能を舞ったのを五番見物した。13日から20日までは2人とも伏見城にあって舞を舞ったり宴会をしたりして、27日には一緒に吉野に花見に行っている。3月18日には、滋養に利くという虎の骨が朝鮮から秀次のもとに送られてきたので、山中長俊が煎じたものを秀吉に献じて残りを食している。・・・と、このような仲睦まじい様子が記されており、まだ両者の関係は、少なくとも表面上は何事もなく良好に過ごしていたようだ。
しかし、文禄4年(1595年)6月、秀次に謀反の疑いが持ち上がり、結果的に秀次を粛清する方向に傾いていった。そして、同4年(1595年)7月8日、秀次は、高野山に追放、出家させられ、同年7月15日に切腹を命じられ、遺体は青巌寺(現在の総本山金剛峯寺の前身)に葬られ、秀次の首は三条河原へ送られた。
秀吉は秀次やその重臣の死罪や、懲罰だけでは満足せず、係累の根絶をはかった。三条河原に塚を築いて秀次の首が西向きに据えられ、その首が見下ろす前で、最も寵愛を受けていた一の台はじめ若君4名と姫君、側室・侍女・乳母ら39名の全員が斬首され、その大量の遺体はまとめて一つの穴に投じ、この穴を埋め立てた塚の上に秀次の首を収めた石櫃が置いた首塚が造られ、首塚の石塔の碑銘には「秀次悪逆」の文字が彫られていたというからすさまじい(詳細は英次切腹事件、参考の*4など参照)。

最後に、また話は元に戻るが、文禄の役の真っただ中のこのような時期に、総勢5千人をも引き連れての吉野での花見の宴、そして、今は重要文化財ともなっている豪華絢爛な『豊公吉野花見図屏風』を描かせたのにはどのような意図があったのであろうか。以下参考の*5:細見美術館所蔵『豊公吉野花見図屏風』の寿祝性では、以下のように解説している。

そもそも吉野花見は、秀吉の生母、天瑞院の三回忌法要を執りおこなう高野山への参詣途上で催され、宗教的色彩の濃い大和・紀伊地方の人心を引きつける効果があったと推測される。・・・が、このような、政治的な側面とは別に高野山詣でとは別の吉野花見の独特な意義も見られるようだ。
天野文雄の研究によると豊臣一族を中心に演じられた九番の能が注目されるという。
最初に秀吉が演じたのは新曲のいわゆる豊公能(*6参照)の「吉野詣」であり、吉野を詣でた秀吉を蔵王権現が迎え、吉野の天女の舞と共に秀吉の収める天下を言祝ぐ(ことほぐ)という内容であった。
吉野の天女の舞は宮中大嘗祭五節舞の起源であり、かって吉野に御幸した天武天皇の前に降りたという仙女の舞である。吉野での今一つの主要な催しの歌会でも、吉野の乙女(*7参照)や神と、秀吉の治世の永遠と長寿が詠われて、能の「吉野詣」と重なり合う。
すなわち、吉野の花見は、天武天皇の御幸を淵源として、 王権との関わり深い吉野の支配と豊臣一族の結束を確認するものであり、秀吉の統治する天下を賛美するものであったと解釈される。
細身本はいわば秀吉の御幸図として構成されるが、現実の地形とは異なって、相対するよう描かれた蔵王堂(金峯山寺蔵王堂=本堂)に向かう秀吉に画面は集約される。
穏やかな対角線構図のもと、参道の人々、道筋の両脇に列なる桜や金雲は左方向への動勢を生み、秀吉は蔵王堂へと向かい、正対する蔵王堂は周囲の侍や見物人と共に秀吉を待ち受ける。
秀吉の宿所吉水院には能舞台が配され、細見本は能と歌の世界に支えられながら、人々がにぎわいや楽しみを享受し、蔵王権現の居ます花咲き誇る吉野山に秀吉を迎え入れ、言祝ぐ絵画なのである。・・と。

能は室町期に京都での猿楽師観阿弥世阿弥が出て、興隆した能楽(江戸時代までは猿楽と呼ばれた)であり、将軍・足利義満の保護のもと、幕府の儀式で演じられ、武家社会に広がり、室町時代に大成された猿楽の能はその後、専業役者が舞台を勤めるだけでなく、やがて謡を習う素人が増え、 謡本が書写・出版されてゆくと共に、戦国時代には、舞台にも権力者が立ち織田信長や豊臣秀吉ら諸大名が共演・競演する時代になる。
ただ「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり・・・」のセリフで知られる、信長が愛好した「敦盛」は映画やテレビなどでは能楽のごとく扱われてきたきらいがあるがこれは、幸若舞・・、そのまた昔は曲舞(くせまい)と呼ばれた芸能であり、能(猿楽)ではない。
それに対して、秀吉は晩年熱心に猿楽を演じたようであるが、その一方で、秀吉は大和四座(大和猿楽の諸座のうち、円満井〔えんまんい。金春座〕・坂戸〔さかど。金剛座〕・外山〔とび。宝生座〕・結崎〔ゆうざき。観世座〕の四座。)以外の猿楽には興味を示さなかったため、この時期に多くの猿楽の座が消滅していった。いわば、現在能と称されている猿楽が、それ以外の猿楽から秀吉によって選別されたようである。
秀吉が能に熱中したのは、晩年の6年ほどで、主君・織田信長を倒した明智光秀柴田勝家、北条氏を滅ぼし、天下統一を遂げた後のこと。
当時の秀吉は能に傾倒すること甚だしく、手ほどきもそこそこに、既存の作品を演じるだけでは飽き足らず、自身の偉業を後世に伝える10番におよぶ新作能(「豊公能」また、「太閤能」ともいわれる)を作らせているという。
現存する『吉野詣』『高野参詣』『明智(討伐)』『柴田(退治)』『北条(征討)』の5作は、法橋大村 由己が新作した謡に、金春八郎安照(金春流六十二世宗家)に節や型を付けさせ、大坂城本丸において秀吉が能を演じ、簾中方(すだれの内側にいる者。本丸の正妻は北の政所)に見せる目的であったようだ(*8参照)。
『明智(討伐)』・『柴田(退治)』・『北条(征伐)』は秀吉の戦功を称えたものであるが、特に『明智(討伐)』は、秀吉のお気に入りであったようだ。
大村 由己は、播磨国三木の出身。号は藻虫斎梅庵。初め僧籍であったが、還俗して天下統一に邁進する秀吉に近侍して、彼の軍記である『天正記』なども記述しているが、いずれも秀吉の偉大さを殊更強調して書かれたものだそうであり、由己は豊臣政権の正統性を訴えるスポークスマンとしての役割を担っていたのではないかといわれている。

俺でも天下取りになれそうだと、秀吉が思ったのは、高松攻めの時に信長死の知らせが届いて黒田官兵衛に、
「殿様には御愁嘆の様には相見え申し候得ども、御そこ心をば推量仕り候。目出度き事出で来たるよ。御博打をも遊ばされ、幽古申上げられ候通り、吉野の花も、今盛りぞや。櫻の花寒のうちに御覧成され度くと思し召され候ても、時来たらでは見られぬ花なり。春の雨風の陽気を請け、おのがまゝに咲き出るものなれば、心にまかせぬと相見え申し候。此の上は、光秀と分目(わけめ)の御合戦成される御尤もに候。目出度きぞや御花見初めと覚え申し候」(*9:近代デジタルライブラリー - 川角太閤記. 上の42頁~43頁、コマ番号25コマ目より抜粋)。
・・・と言われた時、要するに、これからはあんたの時代だ。しっかりしなさいと、官兵衛孝高に肩をたたかれたあのあたりからであろう。なお、ここで官兵衛が言っている「幽古申上げられ候通り」の「幽古」とは、豊臣秀吉に御伽衆として仕えた「由己」(大村 由己)の誤写だろうと海音寺潮五郎著『新太閤記(三)』にはあるようだ(*10参照)。

能の『吉野詣』は、先にも書いた通り、吉野に参詣した秀吉に蔵王権現が現れ、秀吉の治世を寿ぐ、といった内容のものである。吉野山に上り、念願の花見(2月27日)を果たした後、2月29日に開催の歌会では「花の願ひ」を題にして、以下の歌を詠んでいる。

「年月を 心にかけし 吉野山 花の盛りを 今日見つるかな」(秀吉)

長い年月・・「いつか自分が天下人となれたら・・・」と、戦乱に明け暮れ、駆け抜けた日々・・・
今、やっと、長い年月、夢見てきた「吉野の桜」が見れる花の盛り。わが世の盛りを迎えた今日こそ・・
この吉野の桜を愛でる事ができた・・。
秀吉が、戦乱の世を経て、ようやく念願の吉野の花見をかなえた喜びが伝わってくる。ほかに、豊臣秀次、徳川家康、前田利家、伊達政宗の歌も残っている(*11見参照)。

『高野参詣』は、母大政所の三回忌に高野に詣でた秀吉に、大政所の亡霊が現れて秀吉の孝行を称えるというもの。
翌月2日に秀吉は吉野を出て高野山に向かう(このとき、秀次は別れて郡山へ向かっているようだ)。『駒井日記』によれば3日に高野山に登り三千五百余石を布施し、4 日に母大政所の位牌所で法事を執り行って、高野での秀吉は上機嫌であったという。5日に演能、6日に奥の院で連歌、7 日にまで帰る予定が、実際には5 日の未刻(午後2 時頃)に下山して兵庫(和歌山県橋本市)の寺まで帰ったともあり、この点、『太閤記』(小瀬甫庵著、寛永10年頃刊行)巻第十六・高野詣之事は、「高野参詣」の演能途中で天変地異が襲来し、驚いた秀吉が急いで下山したことにしているというが・・(*8参照)。

吉野の桜の由来は、約1300年前修験道の開祖・役行者(役 小角)が、修行によって日本独自の仏である金剛蔵王権現を祈りだした時、その姿をヤマザクラの木で刻みお祀りしたことに始まると云われている。以来、花見のためにではなく、蔵王権現や役行者に対する信仰の証として、信者たちによって献木として植え続けられ、現在の花の吉野ができたと云われている。いわば、信仰の対象だった吉野の桜であった。
しかし、秀吉のこの吉野桜の宴は余りにも豪勢であり、さぞかし民衆も気になったことだろう。宴をのぞき見した者から口コミで広がったのか、桜の宴が日本人の間で一般化したのはこの頃からだろうという。
この花見の翌年・文禄4年(1595年)には、花見に同席していた甥の関白・秀次を自刃に追い込む事になる。
そして、慶長3年(1598年)8月18日、天下人秀吉は今だ幼い秀頼に心を残しながら京都伏見城の一室で息を引き取った。時に62歳であった。
それから6年を経た慶長9年(1604年)8月、秀吉の七回忌。泣き太閤秀吉への親しみと新しく誕生した徳川幕府への反撥が民衆を駆り立て、老若男女挙げての華やかな豊国祭(豊国社臨時祭.)が京の町に繰り広げられた。
しかし、その後、徳川幕府は、秀吉の幻を恐れ、豊臣家を滅ぼすだけにとどまらず、大阪城、豊国神社と秀吉の遺影はすべて取り壊すのであった。以下は、徳川美術館所蔵『豊国祭礼図屏風』(重要文化財)である。


豊臣秀吉の七回忌の臨時祭礼を描いた『豊国祭礼図屏風』には、豊国神社所蔵のもの、妙法院所蔵のもの(模本)、徳川美術館所蔵のものがあるらしい。
豊国神社所蔵、徳川美術館所蔵の右隻には、豊国神社で行われた祭礼の様子が描かれており、同神社門前に設けられた舞台では能を愛した秀吉に奉納する「新作能」が舞われている様子が描かれている。
その他、これら3つの「豊国祭礼図」の違いなどは以下を参照されるとよい。面白いことも書かれているよ。





参考:
*1:秀吉はなぜ朝鮮に出兵したのか~~朝鮮出兵1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-category-51.html
*2:「萩の御前」
http://chachahime.hanagasumi.net/
*3:駒井日記 - 近代デジタルライブラリー - 国立国会図書館
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920418/297
*4:豊臣秀次とその妻たち - 滋賀県観光情報
http://www.biwako-visitors.jp/go-shiga/feature/toyotomi.html
*5:細http://www.biwako-visitors.jp/go-shiga/feature/toyotomi.html見美術館所蔵「豊公吉野花見図屏風」の寿祝性(第五十五回美学会全国大会発表要旨)
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006265705
*6:能楽トリビア:Q104:豊臣秀吉が舞った新作能とは? - the-Noh.com
http://www.the-noh.com/jp/trivia/104.html
*7:国栖:壬申の乱と天武天皇(能、謡曲鑑賞) - 日本語と日本文化
http://japanese.hix05.com/Noh/5/yokyoku503.kuzu.html
*8:文禄三年の音楽事情と『太閤記』 : <高野参詣> - 金沢大学(Adobe PDF)
http://dspace.lib.kanazawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/2297/23822/1/AA12392672-2-01.pdf#search='%E8%83%BD++%E5%90%89%E9%87%8E%E8%A9%A3'
*9:近代デジタルライブラリー - 川角太閤記. 上
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/899814
10:カソケ フル【幽古】の例文集・使い方辞典 - 用例.jp
http://yourei.jp/%E5%B9%BD%E5%8F%A4
*11:豊臣秀吉 芳野(吉野)の花見 - 世界遺産の吉水神社から
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshimizushrine/61158033.html
備前老人日:記羽柴秀吉殿一
http://bizenrouzin.asablo.jp/blog/2009/01/10/4049417




長谷川平蔵建言により無宿人の厚生施設「石川島人足寄場」が設置された日

2016-02-19 | 歴史
「石川島人足寄場」は寛政2年2月19日(西暦1790年4月3日)、火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)の長である長谷川平蔵宣以(はせがわへいぞうのぶため)の建言により、江戸市中を徘徊する無宿人の強制収容施設として設置されたものである。
長谷川平蔵宣以とは、時代小説・時代劇ファンなら知らぬ人はいないだろう、あの池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』の主人公「鬼平」のモデルとなっている実在の人物である。
宣以は、400石の旗本である長谷川宣雄の長男として生まれるが、その生まれた日は正確にはわかっていないようだが、資料によれば没年が寛政7年(1795年)とあり、逆算して延享2年(1745年)ごろの生まれと考えられている。八代将軍吉宗が息子家重に将軍職を譲った時期である。幼名は銕三郎(てつさぶろう)、あるいは銕次郎(てつじろう)といった。
明和5年(1768年)12月5日、23歳の時に江戸幕府10代将軍・徳川家治御目見えし、長谷川家の家督相続後は、父・宣雄と同じく平蔵(へいぞう)を通称とする。
時期は不明であるが旗本の大橋与惣兵衛親英(200俵取りの御船手であったという)の娘と結婚し、明和8年(1771年)には嫡男である宣義を授かっている。宣以は、父宣雄が、自分同様に火付盗賊改加役に就任後、明暦の大火文化の大火と共に江戸三大大火の一つといわれる明和9年(1772年)2月29日に発生した明和の大火(目黒行人坂大火)では、犯人である武州熊谷無宿の真秀という坊主を捕らえ、火刑に処した功績が評価され、安永元年(1772年)10月15日に、京都西町奉行に転任したことにより、宣以も一旦妻子と共に京都に行くが、父は8ヶ後の安永2年(1773年)6月に急死したため、江戸に戻ってきて、同年9月に30歳で長谷川家の家督を継ぎ、小普請組支配・長田越中守元鋪(Wikipediaでは、長田備中守とあるが誤記らしい。*1:『鬼平犯科帳』Who's Whoの京都町奉行・備中守宣雄の死(2)参照)の配下となった。
「鬼平」のドラマにも見られるように、平蔵はこの頃(青年時代)は放蕩無頼の風来坊だったようで、「本所の銕」などと呼ばれて恐れられたようだ。
そのことは、若かりし頃の平蔵の行状について、平蔵の死後に書かれた『京兆府尹記事』(岡藤利忠著*:2)に記述がある。その現代語訳(*3参照)では以下のようになるらしい。
「此の人、闊達の生まれつきゆえ、父備中守(正しくは越中守らしい)貯えおきし金銀も遣い果たし、遊里(一定の区画を仕切って遊女屋を集めてある地域。)へかよい、あまつさえ悪友と席をおなじうして、不相応のことなどいたし、大通といわれる身持ちをしける。その屋敷本所二ッ目なりければ、本所の銕とあだ名せられ、いわゆる通りものなりける」・・・と
当時の本所は明暦の大火以後開拓され新開地としての岡場所深川に発展して この頃は吉原に匹敵するほどの歓楽地になっていた。 

●上掲の画像はマイコレクションより、新橋演舞場での平成五年二月公演『鬼平犯科帳・むかしの女』のチラシである。主演の鬼平は御存じ二代目中村吉右衛門、昔の女を演じるのは今は亡き名女優・山田五十鈴である。テレビでの鬼平第2シリーズの第2話でやはり山田がこのむかしの女を演じていた)。

葦火(干した葦を燃やすたき火のこと)の喜助が8年ぶりに姿をあらわした。腕利きの男を2・3人探しているという。人を殺さず、女も犯さぬ見事な務めをしてきたその老党がいったん盗みの足を洗って8年目に何故・・・。
その頃、『雷神党』と呼ばれる無頼浪人の集団が、殺しや喧嘩、押し借り(強引に金品を借りること)強請をはたらいて江戸市中を荒らしていた。彼らの調べにあたる火付盗賊改めの長官、長谷川平蔵(宣以)はある日、三味線を持った一人の門付け女に出会う。それこそ、平蔵が「入江町の虎」と呼ばれ、本所で大暴れをしていた若い頃に一時はともに暮らしたこともある女、お六の二十年後の姿であった。・・・(チラシのあらすじより抜粋)。

尾張屋清七版『江戸切絵図・本所絵図』(江戸後期発行)の本所・入江町に「長谷川」という小さな武家屋敷があり、池波正太郎は、そこを鬼平が「入江町の銕」時代に育った屋敷としているそうだ。現代は東京都墨田区緑4丁目(.地図)付近に当たる。
若いころに、放蕩三昧の暮らしで父がせっせと貯めこんだ財を使い果たし、女を買い、悪友とつるんでいた(行動を共にする)というが、まさに鬼平犯科帳に描かれる“本所の銕”のイメージそのものであり、十二分に下情(一般の民衆の実情。庶民生活のようす)に通じていたからこそ、のちの鬼平の働きぶりへとつながっていくのだろう。
●上掲は『江戸切絵図・本所絵図』。詳細は、以下国立国会図書館の拡大画像で本所入江町 (下段右)の赤い丸印をつけているところ(植村帯刀屋敷の上)に「長谷川」とあるのを確認されるとよい。
国立国会図書館デジタルコレクション - 〔江戸切絵図〕. 本所絵図

旧中川隅田川を東西に結ぶ竪川は明暦の大火後の万治二2 年(1659年)に 行われた本所開拓に伴い開削された掘割(人工河川)であり、隅田川(大川=吾妻橋周辺より下流部はこう呼ばれていた)には、近いほうから順に一之橋から六之橋まで単純に番号を振った橋が架けられた。
これらの橋は通称として「一ツ目橋」「二ツ目橋」などとも呼ばれていたが、『京兆府尹記事』には「「本所の銕」「その屋敷本所二ッ目なりければ」とあるが、 『江戸切絵図・本所絵図』に描かれる本所・入江町の「長谷川」とあるところは、三ツ目橋を渡った辺りである。
若干の距離があるが、どちらが本当か知らラないが、『鬼平犯科帳』に登場する、軍鶏鍋や「五鉄」は本所二つ目の橋の挟にあったことになっている。むろん、作品の中の架空のものだが, その説明板もある(ここ参照)、

平蔵はその後、31歳で江戸城西の丸御書院番士(将軍世子の警護役)を経て、天明6年(1786)41歳で、番方最高位である御先手組弓頭に任ぜられなど順調に出世をしていった。
幕府の御先手組というのは、戦時ならば将軍出陣の先鋒を勤めるわけだが、江戸時代に入ってからは戦乱があまりなくなり、平時は江戸城に配置されている各門の警備、将軍外出時の警護、江戸城下の治安維持等を務め、由緒ある旧家の人が任命されていた。
同じく江戸城下の治安を預かる町奉行が役方(文官)であり、その部下である町与力や町同心とは対照的に、御先手組は番方(武官)であり、その部下である組与力・組同心の取り締まり方は極めて荒っぽく、江戸の民衆から恐れられていた。
火付盗賊改方は主に重罪である火付け(放火)、盗賊(押し込み強盗団)、賭博を取り締まった役職であり、本来、臨時の役職で、御先手弓・筒之頭から選ばれ、御先手頭の職務との兼役なため「加役」(かやく)とも呼ばれた。時代劇などでは「火盗改」(かとうあらため)、或いは「火盗」(かとう)と略して呼ばれることがある。
火付盗賊改は、盗賊改、火付盗賊改の両役に分かれ、もとは町奉行所の管掌する所であったが、明暦の大火(明暦3年1月18日〔1657年3月2日〕から1月20日〔3月4日〕)以後、盗賊が武装盗賊団であることが多く、また捜査撹乱を狙って犯行後に家屋に火を放ち逃走する手口も横行したことから、彼らが抵抗を行った場合に非武装の町奉行では手に負えなかったことから、幕府はそれら凶悪犯を取り締まる(武力制圧することの出来る)、専任の役所を設けることにしたものである。
まず、寛文年間 (1661年~1672年) に、まず「盗賊改」が設置され、寛文5年(1665年),関東強盗追捕に任ぜられた先手頭・水野小左衛門守正が、盗賊改役を兼ね町奉行所から独立したのが始まり(コトバンク参照)のようである。その後、天和年間 (1681年~1683年) に火付改が設置された。
初代の火付盗賊改の頭(長官)としては「鬼勘解由」と恐れられた中山勘解由が知られるが、当時は火付改と盗賊改は統合されておらず、初代火付改(天和3年=1683年。)の中山直房のこととも、また、同日に盗賊改(初代ではない)に任じられた直房の父の中山 直守とも言われているようだ。
火付け盗賊改方の決められた役所は無く、先手頭などの役宅を臨時の役所として利用した。任命された先手組の組織(与力;5―10騎)、同心:30―50人)がそのまま使われるが、取り締まりに熟練した者が、火付盗賊改方頭が代わってもそのまま同職に残ることもあった。町奉行所と同じように目明し(岡っ引き)も使った。
最も有名なのが、天明7年(1787年)から寛政7年(1795年)まで長官を務め『鬼平犯科帳』のモデルともなっている鬼平こと長谷川平蔵以宣であるが、それが実在の人物であること、そして活躍していたらしいことは事実の様であるが、『鬼平犯科帳』で語られる個々の事件はあくまで池波正太郎の創作である。
長谷川平蔵(宣以)が、父も務めた火付盗賊改役に任ぜられたのは天明7年(1787年)9月9日、42歳の時だった。

天明年間(1781 ~ 89)、冷害や浅間山の噴火(天明3 年)による降灰や大火、洪水等の天災などを原因として諸国では深刻な飢饉が発生した。江戸三大飢饉の一つ、天明の飢饉である。
中でも、平蔵が火付け盗賊改方長官になる4カ月前の天明7 年(1787年)5 月の打ちこわし発生数は江戸時代を通じて最多であり、極めて激しかったが、そのころ、彼は、先にも書いたように、番方最高位である御先手組弓頭に任ぜられていた。
この飢饉の影響で、江戸市中の米価は高騰し、普段は銭百文で白米一升余が買えたのに、この年春から夏にかけては、わずか三合とか二合になった。しかもその高い米さえ悪徳商人が買い占めて出回らなくなり、5月20日、遂に江戸民衆は蜂起した。その数五千余。以後24日ごろまで、昼夜の別なく、江戸中の米商、あるいは米を買い占めているとみられた富商の家々を遂に打ち壊した。
武家の囲米も襲撃の対象となり、時の老中田沼意次の囲米に対しても放出を要求した。24日に長谷川平蔵はじめ十組のお先手組が鎮圧に出動し、また幕府が施米やコメの安売りを行ったのでようやく沈静化している(週刊朝日百科「日本の歴史84)。

この騒乱鎮圧には、月番の町奉行所両役(南は山村信濃守良旺、北は曲渕甲斐守景漸)、火盗改役・堀 帯刀組(先手弓一番手)も無能で、役に立たないというので、幕府は、組頭が比較的若い長谷川平蔵をはじめとする十組のお先手組に出動命令を出したわけである。このことは、江戸幕府の公式記録『続徳川実紀』にも記録されている。
その中で、10組の組頭の中で、一番年の若い長谷川平蔵が代表のように先頭にあげられているのは興味深い。詳しくは、以下参考に記載の*1:『鬼平犯科帳』Who's Whoの先手組に鎮圧出動指令を見られるとよい。
騒乱鎮圧にあたっていた町奉行所両役のうち、別けても北町奉行の曲淵甲斐守景漸などは、米穀支給を望んで景漸を頼って押しかけてきた町人達へ暴言をはきこの暴言が、町人の怒りの導火線に火を付け、群衆による複数の米問屋などが襲撃、江戸市中が一時無秩序状態になるほどの大規模な打ちこわしに発展したとされている。そして、拡大するこの事態取り締まりに出向うともせず、寺社奉行や、勘定奉行などからも厳しく非難され、しぶしぶ出向いても、打ちこわし勢を片っ端から捕縛するようなことはせず、基本的に打ちこわし時に盗みを行う者を捕まえるのみに留まった。
このように鎮圧に消極的ながらも尽力したものの、町奉行所の手勢の数のみでは対応できず、逆に襲撃されるような状態であったようである。もっとも、町奉行所の権限では米価高騰を引き起こした当時の癒着構造や品不足などを抜本から解決できるわけではなかったのだが・・・。
もはや事態が町奉行の手には負えないと判断されたため、幕府は、長谷川平蔵ら先手組頭10名に市中取り締まりを命じ、騒動を起こしている者を捕縛して町奉行に引き渡し、状況によっては切り捨てても構わないとした。しかし、実際に打ちこわし勢を捕縛した先手組は2組に過ぎず、残りの8組は江戸町中を巡回しているだけであったという。活躍した2組の中に当然平蔵組がいたことだろうことは想像できる。
とにかく先にも書いたような諸政策により、5月25日(1787年7月10日)には、江戸打ちこわしはほぼ沈静化したが、 同年、打ちこわしの発生および対応の遅さの責を被る形で曲淵甲斐守は奉行を罷免され、6月10日に石河政武が後任の北町奉行となり、景漸は西ノ丸留守居に降格させられ、また南町、北町両奉行所の与力の総責任者である年番与力に対し、ともに江戸追放、お家断絶の処分が下された。
この打ちこわしによる幕府役人側の処分者は、景漸を含めこの三名のみだそうである。
このような情勢下、打ちこわし勢以外の多くの人々は、自らの利益のために米の買い占め、売り惜しみをした米屋、民衆が厳しい困窮状態に追い込まれながら何ら有効な対策を取ろうとしなかった町奉行、そしてこのような事態を招いた田沼意次の政治に対する厳しい批判の目を向け、逆に打ちこわし勢に対して同情的であった。そのため、事後、逮捕者などは生活苦に追い込まれた上での打ちこわしという行為がそれほど反社会的行為とは言えないとしてほとんどの人が解放された由。
そして、正式な処分ではないが、当時、権勢を誇った老中田沼意次の失脚と、次世代政権で政治の清廉を追求した老中松平定信(第8代将軍・徳川吉宗の孫)の台頭は、この打ちこわしがきっかけともされている(詳しくは「天明の打ちこわし」を参照)。

この時の功あってか、長谷川平蔵は、天明7年(1787年)9月19日に火付盗賊改役に任ぜられている。
天明の飢饉では、異常気象による干ばつ、冷害、洪水、大噴火の降灰の被害に各地の農民は田畑を捨て、都市へ流入したものの、幕府の対応の遅れから、多くは定職に就けず、宿無、乞食、悪事を働く者が徘徊し、暴徒による打ち壊しなど治安悪化が常態化していた。
このように、天明の打ちこわしの背景には都市下層民の不安定な生活、そして疲弊した農村から都市へ多くの人々が流入するといった社会問題、また米価高騰の一因となった通貨政策の問題などがあった。
定信が老中に就任したのは、天明の飢饉に起因する諸問題を抱えていた時期であり、定信の第一の課題は、田沼政権に幕を引いた打ちこわし防止など、都市秩序の維持に結びついた農村政策であり、中でも、最初の大事業は無宿者対策で、都市秩序維持のために帰る先のある都市住民の帰村を促す旧里帰農奨励令、飢饉時などのための七分積立金令の公布、そして長谷川平蔵の建議による、帰り先のない者、軽罪で刑を終えた後も立ち直れない者など無宿人への授産(失業者・貧困者などに仕事を与え、生計を立てさせること。→授産所参照)を目的とした石川島人足寄場の設置などの政策が実施された。

●上掲の画像は、江戸の裏長屋の日常生活の一端(『合巻・絵半切りかくしの文月』からであるが、大都市江戸に流入した細民たちは、絶えず無秩序化する要素をはらんでいた。画像は、個人蔵。『週刊朝日百科日本の歴史84』掲載のもの借用)
長谷川平蔵こと鬼平は、神稲小僧(真刀 徳次郎)や妖盗葵小僧の逮捕など、そのすぐれた働きによって、捕物の名人と讃えられ、また、歴代の火盗改長官とは異なり、無用な拷問を避け、自白によって罪を認めさせたことや、若い頃から独自に培ってきた情報網を使い迅速な逮捕で市中の評判となったことなどは、寛政の改革で知られる松平定信の側近水野為長が記録した『よしの冊子(ぞうし)』にも記されているようだ。
『よしの冊子』は、天明7年(1787年)に30歳という若さで老中に抜擢された松平定信が、まだ経験も浅く、政府の内部事情に疎かったため、老中の座についたその日から、学友で側近の水野為長が隠密を使って情報を集め、世情を定信に伝えるためその要旨をまとめ記録した風聞書であり、文が「なんとかのよし」でしめられているので「よしの冊子」と一般に呼ばれている。
以下参考の*4 :『鬼平犯科帳』Who's Who:現代語訳『よしの冊子』から、一部抜粋させてもらうと、以下のようなことが書かれている。

一. 長谷川平蔵はいたって精勤。
町々は大悦びのよし。
いまでは長谷川が町奉行のようで、町奉行が加役のようになっており、町奉行は大いにへこんでいるとのこと。
なにもかも長谷川に先をとられ、これでは叶わぬといっているよし。
町奉行もいままでと違い、平蔵に対しても出精して勤めねばならぬようになり、諸事心をつけていると申されたよし。(『よしの冊子(ぞうし)』まとめ8、寛政元年5月12日付)

一、長谷川(平蔵 46歳)は、なんと申しても、このごろの利け者のよし。もっとも、いたって大衒者ではあるけれど、それをお取り用いあるのは、宰相ご賢慮の上だろうと噂されている。
ことに町方では一統相服し、本所へんではこの後は本所の町奉行になられそうな、いや、なってほしい、慈悲深い方じゃと歓んでいるらしい。
松平(久松)左金吾(=定寅。50歳 2000石)は、誤認逮捕であっても打ったり拷問にかけたりして責めるので、町方では左金吾様はいやだ、同じ縛られるなら長谷川様にしたい、左金吾様はひどいばかりだ、平蔵様は叱ることもしないし、打ちたたきもなされないと、どこでも評判がよろしい。(『よしの冊子』まとめ 6、寛政3年(1791)4月21日)

しかし、長谷川平蔵の名が歴史に刻まれたのは、捕物の名人としてではなく、石川島人足寄場の設立と維持に尽力したためである。
同様の施設は、安永9年(1780年)に深川茂森(しげもり)町に牧野 成賢が設立した無宿養育所があったが、逃亡者が相次ぎ、天明6年(1786年)に廃止されている。
だが、天明の飢饉以降、激増した江戸に無宿人や浮浪人が激増してふたたび社会問題化したため、彼らを、一箇所に集め、犯罪者化を防ぐと共に職業教育(授産)を施して更生させるという平蔵の構想(建言)が、松平定信に採用され設置されたものである。
その場所には、隅田川河口の石川島佃島の中間にある鉄砲洲向島の芦(あし)沼1万6030坪の沮洳(そじょ)地(=湿地)を整地してあてた。
寛政4年(1792年)には、寄場奉行を設置して管理機構を整備し、また、隣接する石川(大隅守)八左衛門政次(隅田川の河口石川島の名称は代々ここに居住していた旗本石川八左衛門政次がいたことからその名がついたといわれている)の屋敷を上地(あげち=民間から幕府・政府に召し上げられた土地)して、その跡地1万6700坪を寄場付属地に編入している。
寄場内には手業場があり、収容者に大工、建具、塗物、紙漉(す)きや米搗(つ)き、油絞り、牡蠣殻灰(かきがらはい。カキの殻を焼いて粉末にしたもの。石灰の代用にする)製造、炭団(たどん)作り、藁(わら)細工などに従事させた。
これらの作業に対しては賃金が支払われたが、その3分の1は強制的に積み立てさせ、出所時に生業復興資金として渡した。収容員数は、文化・文政期(1804~30)まで140~150人、天保期(1830~44)以降は400~600人に上った。
収容者には、柿)色に水玉模様を白く染め抜いた衣類が支給され、また、人足の教化のために大島有隣(1755―1836)らを講師として心学道話を行っていたそうだ。
江戸以外にも、常陸国上郷村(茨城県つくば市上郷)、長崎、箱館、横須賀などに人足寄場が設置されており、いずれも江戸同様、予防拘禁による治安対策と授産更生という社会政策を兼ねるものであった。
江戸の人足寄場は、明治維新により石川島徒場となり、その後幾度か改称されて、明治10年(1877年)警視庁管轄下の石川島監獄署となった。遺構は明治28 年(1895年)に取り壊されたが、その制度は、巣鴨監獄を経て府中刑務所に引き継がれた(コトバンク参照)。
火付盗賊改方は窃盗・強盗・放火などにおける捜査権こそ持つものの裁判権はほとんど認められておらず、敲き(たたき)刑以上の刑罰に問うべき容疑者の裁定に際しては老中の裁可を仰ぐ必要があった。
なお、火付盗賊改方長官は矯正授産施設である人足寄場も所管したが、初代の人足寄場管理者である長谷川宣以以外は、火付盗賊改方とは別組織の長である寄場奉行として、町奉行の管轄下に置かれていたようである。

参考:
*1:『鬼平犯科帳』Who's Who
http://chuukyuu.info/who/edo/index.html
*2:京兆府尹記事. 巻之1-20 / 岡藤利忠 [撰] - Waseda University Library
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/i13/i13_00668/index.html
*3:鬼平を歩く・実録長谷川平蔵 - 雑学大学通信
http://zatsugakudaigakutushin.web.fc2.com/zatugaku/000716.html
*4 :『鬼平犯科帳』Who's Who:現代語訳『よしの冊子』(まとめ 1)
http://chuukyuu.info/who/edo/2009/08/post-e5f4.html
石川島・人足寄場(にんそくよせば)跡
http://ksei.exblog.jp/9023055
「長谷川平蔵 その生涯と人足寄場」① (江戸に関する本)気ままに江戸♪
http://wheatbaku.exblog.jp/14674039/



レトルトカレーの日

2016-02-12 | 記念日
今日2月12日は、「レトルトカレーの日」
袋をあけて取り出した乾燥麺をどんぶりなどの食器に入れ、熱湯をかけて蓋をする。「お湯をかけて2分間」待てば食べられる・・・の謳い文句で、日清食品が袋入りのインスタントラーメンを「チキンラーメン」の名で売り出したのが、1958(昭和33)年8月25日のこと。この商品は当時「魔法のラーメン」と言われ、人気を博した。価格は35円。当時、中華そばやうどんを店で食べるのと変わらない値段であり、うどんなら1玉6円の時代であった(*1参照)。
今度は3分間待てば“国民食カレーが食べられるようになった。
1968(昭和33)年のこの日(2月12日)、大塚食品工業(現:大塚食品)が、袋ごと3分間熱湯に温めるだけで食べられる日本初のレトルト食品「ボンカレー」を発売した。今日の記念日はその大塚食品が制定したもの。今も多くのカレーファンに愛され続けている。

レトルト(英語:Retort)の原語はオランダ語で、をかけて短時間で滅菌処理する釜(加圧加熱殺菌釜)をいう(ここ、参照)が広義では缶詰も含まれようだが、レトルト食品,という場合、一般には「レトルトパウチ(Retort pouch)食品」の略称として広く定着している。
パウチはポーチ、小袋のことである。日本では「レトルトパウチ食品品質表示基準」(平成12年12月19日農林水産省告示第1680号)によって以下のように、定義されている。
「レトルトパウチ食品」について
「プラスチックフィルム若しくは金属箔又はこれらを多層に合わせたものを袋状その他の形に成形した容器(気密性及び遮光性を有するものに限る。)に調製した食品を詰め、熱溶融により密封し、加圧加熱殺菌したもの」・・・と。

保存食の歴史は戦争の歴史でもある。外国遠征で東奔西走し戦闘に明け暮れたナポレオンは、軍用食保存技術の公募をし、これに応じたニコラ・アペールによって発明された瓶詰を採用、またこの原理を応用して1810年には、イギリスのピーター・デュラントにより金属缶に詰めて密封した缶詰が作られた。
しかし、この缶詰はハンマーと(のみ)、戦場では銃剣によって開封されていた不便なものであった(缶切りによって開けられるようになるのは、1858年、アメリカのエズラ・J・ワーナーの缶切り開発まで待たねばならなかった。*2も参照)。
その後、1950年代に、アメリカ陸軍補給部隊研究開発局が缶詰にかわる軍用携帯食として開発したのがレトルト食品である。缶詰の重さや、空缶処理の問題を改善するのが狙いであった。その後、アポロ計画宇宙食に採用されたことで多くの食品メーカーに注目されるようになった。
しかし、アメリカでは、当時既に一般家庭に冷凍冷蔵庫が普及しており、各種の冷凍食品が発売されていたことからまったく普及しなかった(パッケージの貼り合わせに接着剤を用いているため、アメリカ食品医薬品局より認可が下りなかったのも原因の一つである)ようである。
逆に日本では、当時は冷凍冷蔵庫の普及が遅れていたため、常温で流通、保存できる缶詰にかわる新しい加工食品として期待がかけられていた。

大塚食品(工業)は1964(昭和39)年、関西でカレー粉や即席固形カレーを製造販売していた会社を、大塚グループが引き継いでスタートしたが、当時はすでにカレー粉や缶詰での販売で、メーカー間の競争が激しく、大塚食品は「他社と同じものを作っても勝ち目はない、何か違ったものを作りたい」と考えていた。
そんなときに、米国のパッケージ専門誌『モダン・パッケージ』に掲載された「US Army Natick Lab」の記事に缶詰に代わる軍用の携帯食としてソーセージ真空パックにしたものが紹介されているのを目にし、「この技術をカレーと組み合わせたら、お湯で温めるだけで食べられるカレーが出来るかもしれない」と考え、この新しい技術との出会いをきっかけに、「一人前入りで、お湯で温めるだけで食べられるカレー、誰でも失敗しないカレー」のコンセプトで開発をスタートしたという。

レトルト食品には、高温処理しても食品そのものの品質を落とさない独自の調理技術と、長期保存を可能にする殺菌技術、そして高温殺菌に耐えられる包装技術の3つが必要である。
しかし、大塚食品には当時はパウチ(レトルト食品を封入している袋)にする包材もなければ、レトルト釜もなかったが、幸い大塚グループで持っていた点滴液の殺菌技術を応用して、レトルト釜を自分たちで作ったという(*3参照)。
そして試行錯誤の末、世界初の市販用レトルトカレーとして発売された最初の「ボンカレー」は、透明な合成樹脂(ポリエチレンとポリエステル)のみによる2層の積層加工で光、酸素を透過する透明フイルム制の袋に入っていたことから、密封が完全ではなく、レトルト最大の特徴である保存性が低く(賞味期限も冬場:3ヶ月、夏場:2ヶ月)、また、輸送中に穴が空くなど強度の問題もあり、常温流通に耐えられず、阪神地区限定品どまりであった。
ただ、当時は牛肉がまだ高価であったが「ボンカレー」は牛肉100%にこだわり、とっておきのごちそうメニューとして食卓に提供された。「ボンカレー」のネーミングはフランス語BON(良い、おいしい)と英語のCURRY(カレー)を組み合わせ、まさにおいしいカレーという意味が込められている。
このレトルトパウチ問題の解決をするため、内側のポリプロピレンと外側のポリエステル間に東洋製罐が開発したアルミ箔を挟んだ3層遮光性パウチ(袋)を使って強度を増した改良版パウチで化粧直しをし、翌1969(昭和34)年4月再デビューした。
賞味期限は一気に2年に延び、これが、大評判をとった。また、流通過程での破損も解決でき、大量陳列により消費者にアピールすることもできるようになって、同年5月に「ボンカレー」はついに全国発売に至った。それは、松山容子パッケージのもので味は野菜ベースであった。
テレビCMにはパッケージのモデルである女優の松山容子と俳優の品川隆二が夫婦役でやっていた記憶がある。
しかし、今は一般的となったレトルトカレーではあるが、レトルトの特徴などがはじめはなかなか消費者に受け入れられず、ボンカレー発売当時の宣伝は「3分温めるだけですぐ食べられる」という内容のもので、その宣伝からも分かるように、保存性よりも簡便性を前面に打ち出した、いわば、インスタント食品の一種として普及していった。
しかし、この当時、外食の素うどん50~60円の時代(うどん・そばの価格推移は*4参照)に、ボンカレーは1個80円。「高すぎる」というのが当時の反応であったため、当時、営業マンが全国各地に、ホーロー看板を自ら貼りにまわって普及に努めた。


上掲の画像は、当時駅や街角で見かけたホーロー看板。
ホーロー看板は、全国で9万5千枚も取り付けられたという。そうした営業マンの努力の甲斐もあり、ボンカレーはしだいに浸透し、売上を伸ばし、1973(昭和53)年には年間販売数量1億食を達成したという。そして、この年に放送されたテレビコマーシャルの「3分間待つのだぞ」という落語家笑福亭仁鶴によるセリフは流行語にもなった。



上掲は、1972年CM大塚のボンカレー・子連れ狼編- YouTube

日本の高度経済成長は1962(昭和37)年1月から1965(昭和40)年10月まで、高度成長第二期(輸出・財政主導型)が1965(昭和40)年11月から1973(昭和48)年11月までとされるが、1970年代以降も、経済成長は続き(*5参照)、都市を中心とした核家族化が進んだことによって、食事の個食化も進み、一人でおいしく手軽に食べられる一食完結型の食品の需要が高まった(ここでいう個食は、食育に関する言葉6つ「こ食」(*6、*7参照)の中の「孤食」に当たる。)。
そんな中、1971(昭和46)年にはハウス食品が『ククレカレー』を大ヒットさせるなど、他の大手食品メーカーもつぎつぎにレトルトカレー市場に参入。
市場に競合商品も増えたため、1978(昭和53)年には、大塚食品は日本人の嗜好の変化に合わせて香辛料やフルーツを贅沢に使った新商品『ボンカレーゴールド』(ここ参照)を発売。
ボンカレーと食材の構成を替えたこの商品は、以後、ボンカレーに取って代わり主力製品とななっている。テレビCMには巨人軍の王選手(後に郷ひろみ田村正和所ジョージ松坂慶子池谷幸雄ともさかりえ)を起用した。
レトルト食品は、カレーのほか、ハヤシ、パスタソース、どんぶり物や、麻婆料理の素、シチュー、スープ、ハンバーグ類、ぜんざいと、現在では多くのレトルト食品が出回っている。
1972(昭和47)年に、冷凍米飯(調理加工した米飯をマイナス40度以下で急冷凍したもの)、1973(昭和48)年のレトルト赤飯、に続いて、1975(昭和50) 年にやっとレトルト白飯が開発され、その他にも昔からの缶詰米飯やチルド米飯など、主食である「ごはん」も簡便保存食としてのマーケットが出来はじめていた。
給食のカレーなど鍋で煮込むと一人ひとりに肉と野菜の量が均一にならないうらみがあるが、レトルトのカレーは、ソースと具を別々に調理した後に両者を分量通り、パウチに充填し、加熱殺菌するので均一の商品ができる。
そんなレトルトのカレーにレトルトの米飯なども出来て、これにて、レトルトのカレーライスも完結というところだ。
初期のボンカレーのポスターでは、女優の松山容子が、にっこり微笑み、「独身の味 ボンカレー」とうたう。その後、新婚の味というコピーもあった。
ブームに火をつけたのは単身者だが、女性の職場進出、核家族の進行、高齢化に伴う独居老人の増加がその後の“個食“の時代と相まって、カレーを中心にレトルト食品が食卓での足場を固めていく。
カレーに不可欠な「ご飯」だが、米飯を気密な容器にパックし、保存が効くようにした「包装米飯」(通称パックごはん)には、「レトルト米飯」のほかに、「無菌化包装米飯がある。
「レトルト米飯」はその製造工程により、赤飯(もち米を含む)や粥(水分を多く含む)には適しているが、白飯には適していない面かったが、レトルト米飯より少し遅れて、1988(昭和63)年になって、「サトウの切り餅」で知られる佐藤食品工業(略称サトウ食品)が、レンジアップタイプ(電子レンジによる加熱)の無菌包装米飯「白飯:サトウのごはん」の販売を開始した。
それまでのレトルト米飯は炊飯後に真空パックし、高圧を掛けて加熱殺菌するタイプの物がほとんどで、製造後1年間程度まで長期保存できる利点があったものの、水分が多くてまとわり付きやすく、米飯本来の食感を維持できないという品質上の難点があり、専ら携帯食としての需要がメインであった。
マーケット的には1985(昭和60)年頃より電子レンジ食品ブームが起き、この年、エスビー食品から電子レンジカレーライス(レンジブランチ:ご飯生産は“樋口敬治商店〔現たいまつ食品〕”)、“越後製菓”からは農協ブランドで白飯(越後のごはん)などが相次いで発売され、この年以後、無菌包装米飯の白飯の発売が相次ぐようになり、無菌化包装米飯は登場して以来、徐々にレトルト米飯に取って変わりつつあるようだ(*8)。
ボンカレー発売35年目の2003(平成15)年には、ボンカレーがリニューアルされた。従来の調理法では沸騰したお湯に袋ごといれ煮立つのを待つもので、電子レンジを使う場合は袋から容器に移し替えて温めなければならなかったが、レトルトパウチの改良により袋のまま電子レンジにいれて調理できるようになり、さらに、2009(平成21)年2月12日に、「フタをあけ、箱ごとレンジで1分40秒」のカンタン調理で食べられる『ボンカレーネオ』が発売された。
今では、ボンカレーはすべてレンジ調理が可能になっており、また、次々と素材や、味の改良もされており、利用者にとっては、一層簡単・便利に美味しいものが食べられる様になっている。
私も現役時代、5年ほど単身赴任していたので、レトルトカレーはよく利用させてもらったが、近年、カレーの本場であるインドでもレトルトカレーが普及しており、夫婦共稼ぎの家庭などで人気を博しているという。
このようなレトルト食品は、長持ちするので、東日本大震災以降、非常食としても見直されている。
2014(平成26 )年、大塚食品とバイオテックジャパン(*9)が共同開発した緊急備蓄用カレーライス『ライス72H+ボンカレー72Hセット』が発売されている(*10参照)。
これは、水も加熱も一切不要で、一袋に開けてそのまま食べられるというレトルト食品で、中には、ライス、カレールウ、お手拭き、スプーン、ゴミ捨て用シールと必要なものがすべて入っている。ただ、気になるライスは、1パックにおよそコップ1杯分(160ml)の水が含まれているとのことで少し柔らかめだが、常温保存で3年間と賞味期限も長いので、非常食として常備しておいてもいいかもね。

ところでボンカレーのパッケージを飾った松山容子。1960(昭和35)年に、テレビドラマ『天馬天平』(日本電波映画 / フジテレビ。*11参照)で演じた、男装で新撰組と闘う勤皇の姫君・千也姫役が評判となった。ちょうど『崑ちゃんのとんま天狗』(東宝 / 讀賣テレビ放送)の後番組の企画を練っていたスポンサーの大塚製薬がこの人気に着目、この千也姫をモチーフとして、松山を主演に「男を凌ぐ剣の腕をもつ若武者姿の姫君」を主役にしたドラマ企画を打診し、『琴姫七変化』(日本電波映画 / 讀賣テレビ)が製作された。
毎回若武者姿だけでなく、芸者、くノ一、鳥追い・・と、文字通り次々替わる「七変化ぶり」も相まって、番組は2年間にわたり継続され、その容姿と華麗な立ち回りから「アクション女優の先駆け」として人気を博した。
松山は『琴姫』への起用とその人気が契機となり、大塚食品が製造販売する「ボンカレー」の初代パッケージに起用されるなど、大村崑と並び、「大塚グループの顔」として長く起用されることとなったのだが、今一度、当時の姿をみてみたいものだね~。




(冒頭の画像は、発売当時のボンカレー。甘口は赤箱だった。)
参考:
*1:インスタントラーメンの誕生|インスタントラーメン ナビ_一般社団法人 日本即席食品工業協会
http://www.instantramen.or.jp/history/origin.html
*2:製缶技術の変遷・金属缶の歴史|日本製缶協会
http://www.seikan-kyoukai.jp/history/
*3:大塚食品:ボンカレー公式サイト
http://boncurry.jp/
*4:戦後昭和史 - うどん・そばの価格推移
http://shouwashi.com/transition-noodles.html
*5:図録 経済成長率の推移(日本)
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/4400.html
*6:6つの“こ”食
http://www.kobe-kikai-kenpo.org/6_ko.html
*7:「「孤食」という問題?」相模女子大学名誉教授・河上 睦子
*8:無菌包装米飯 - 日本包装学会(Adobe PDF)
, http://www.spstj.jp/publication/archive/vol20/Vol20_No5_1.pdf#search='%E6%9D%B1%E6%B4%8B%E6%B0%B4%E7%94%A3+%E3%83%AC%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%88%E7%B1%B3%E9%A3%AF++%E7%84%A1%E8%8F%8C%E5%8C%96%E5%8C%85%E8%A3%85%E7%B1%B3%E9%A3%AF'
*9:JAPANESE - 植物乳酸菌のパイオニア-バイオテックジャパン
http://www.biotechjapan.co.jp/top.php
*10:調理は一切不要! 開けてそのまま食べられる『ライス72H+ボンカレー72Hセット』を実食レビュー(ガジェット通信)
http://getnews.jp/archives/544570
*11:天馬天平 - テレビドラマデータベース
http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-3580
レトルト食品Q&A|日本調味食品株式会社
http://www.jsf-nicho.co.jp/qanda/index.html
非常食にまつわる雑学 - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2139522256519298201
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
ボンカレー – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%BC





森有礼が日本で初めて、夫婦同権などを交わした契約結婚をした日

2016-02-06 | 歴史
1875(明治八)年の今日・2月6日は、外交官・森有礼(もり ありのり)が日本で初めて、夫婦同権などの契約書を交わす西洋式の結婚式を挙行した日である。

ハイカラ風俗のそこから下って来た山の高嶺――欧化(思想や風習などがの西欧風化)の絶頂――が「鹿鳴館」にあることは衆知のところだが、そこに有名な仮装舞踏会のあったのが明治二十年(1887年)四月(*1参照)で、それから二年経つと、明治二十二年(1889年)二月十一日を期して憲法(大日本帝国憲法)が発布された。
 その朝のことだった。雪が降っていたが――この雪はやがて晴れて、道は冷たく、数万の人出に、往来は夜になると至るところコチコチに踏みかためられたという――文部大臣の森有礼がまだ降りやまない雪の中を、参賀に出ようとすると、あっという間に刺客の手にかかって、やられてしまった。
 森は欧化論(欧化主義)の急進であったが、かねがねそれから来る言動が刺客を招くことになったので、とうに明治八年(1875年)の古きに、斬新無類の結婚式をやってのけて、世人の意表に出ている人。それは結婚式と云おうより結婚宣誓式ともいうべきもので、「紀元二千五百三十五年二月六日、即今東京府知事職ニ在ル大久保一翁ノ面前ニ於テ」という誓文の書出しで、別に「証人」として福沢諭吉を立て、当日は自宅の門前に「俗ニ西洋飾リノ門松ト詠フル如ク緑葉ヲ以テ柱ヲ飾リ」、つまりアーチをこしらえて、国旗を立て、提灯を列ね、「……今晩ノいるみねえしよんノ支度ト見エタリ」
 ここに引用している「」の中の文章は、明治八年二月七日の日日新聞の記事であるが、明治八年にして新聞紙上にイルミネーションと綴らせたのも桁外れならば、いわんやそれを「自宅」に点じたに至って、――ハイカラの張本人ここにありと云わなければならない。
 面白いのはこの日の「月下氷人」(*2参照)格の府知事大久保一翁で、この人はかねて大の刀剣通の、その蒐集する刀の蔵い場に頭を悩めたあげく、束にして四斗樽に刀身を何本も差して、そのぎっしり日本刀のささった樽が、又、橡(つるばみ=クヌギの古名。和名抄、橡の例文ここ参照)の下に家中一杯だったという人である。「ハイカラ」とは一応対蹠的(たいしょてき。二つの物事が正反対の関係にあるさま。)な、江戸藩の名士である。――その古武士然たる人が、スコッチの猟銃服いかめしく身をかためて、森の結婚宣誓式へ乗り込み、中央に座を構えた。
 その時の模様を新聞は云う、「……此ノ盛式ハ東京知事ノ面前ニテ行フト有ル故ニ、大久保公ハ何処ニ御座ルカト見レドモ我輩ハ其顔ヲ知ラネバ何分ニモ見当ラズ、唯怪シムベキハ此正座ニ髭ガ生エタ猟師ヲ見タルノミ。」いずれも礼服揃いの満座の中にこの髭翁だけが「短カキ胴〆ノ附タル服ヲ着シ」とあって「早ク申サバ日本の股引(ももひき)半天(はんてん)ノ拵(そろ)ヘユヱ、連座ノ西洋人ハ勿論、日本人モ扨々(さてさて)失礼ヲ知ラヌぢぢい哉ト横目ニテじろりと睨メタリ。」ところがそれが知事様だと隣席のものに教えられて「我輩ガ考ヘニハ此失敬老人ガヨモヤ大久保公デハ有ルマイ。」公はやはり今席にはいないのであろう。もし万一にもこの猟服の髭翁が公なりとすれば、公は公儀お目附大目附の役も勤めた人であるから、これには余程の深い所存あっての服装だろう、――と大いにヒヤかしてある。
・・・、上記は、木村荘八の随筆『 ハイカラ考』(青空文庫掲載*3参照)からの抜粋であり、()内の注釈は私が付したものである。

一般的に、森 有礼(正字体:森有禮)は福澤諭吉らとともに明治維新期の蒙的思想家にして、政治家として知られている。近代国家・日本を作り上げるため、日本語廃止案をはじめ急激な国家改造に驀進した、初の文部大臣である。そんな、森 有礼が、木村荘八の随筆『ハイカラ考』にもあるように、当時としては奇抜ともいえる妻との契約結婚をし、また、憲法(<ahref= https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95 >大日本帝国憲法)発布の日になぜ刺殺されなければならなかったのか・・・。以下、そんな、森有礼と、当時の日本の状況を見てみゆきたい。

日本は、幕末の安政5年(1858年)に江戸幕府が米・英・仏・露・蘭の5ヵ国それぞれと結んだ条約「安政五カ国条約」(安政の仮条約とも)など欧米列強と締結していた不平等条約条約改正の実現のために、憲法などの法典編纂と並行して、日本の文化をヨーロッパ風にすることで彼らが国際法の適用対象として見なす文明国の一員であることを認めさせようとした。
その代表的な存在が1883(明治16)年に完成した洋風建築の鹿鳴館であり、煉瓦造2階建てで1階に大食堂、談話室、書籍室など、2階が舞踏室で3室開け放つと100坪ほどの広間になった。そこにはバーやビリヤードも設備されていた。
当時の外務卿(後の外務大臣)井上馨自らが鹿鳴館の主人役を務め、華族・政府高官・外交団を集めて夜会などの行事を日夜開いていた。

上掲の画像は鹿鳴館での舞踏会のようすを描いた錦絵「貴顕舞踏の略図」(楊洲周延画)
このような欧化政策のもと鹿鳴館を設置した背景には、井上は度々ヨーロッパを視察して、現地では日本人が「見た目」によって半未開の人種として実は「珍獣扱い」されているという事実に気づいていた。井上と伊藤博文らは日本人がこうした扱いから免れるようになるためには、欧米と同じ文化水準である事を海外に示さない限りはまともな外交交渉の相手としても認められないという事実に気づいたからのようだ。
しかし、一方、欧化政策を批判する国粋主義者は「嬌奢(きょうしゃ=おごり高ぶり)を競い淫逸(いんいつ)にいたる退廃的行事」として非難の声を挙げていた。また当時にあっては、日本の政府高官やその夫人でも欧米への留学や在外公館での勤務・在住経験のある日本人は、ごく一部(井上馨・武子夫妻や鍋島直大榮子夫妻、大山捨松など)にとどまり、その大部分は西欧式舞踏会におけるマナーやエチケットなどを知るす べもなく、物の食べ方、服の着方、舞踏の仕方などは、西欧人の目からは様にならないものだった。本人たちは真剣勝負だったが、試行するも錯誤ばかりが目立ち。西欧諸国の外交官もうわべでは連夜の舞踏会を楽しみながら、その書面や日記などにはこうした日本人を「滑稽」などと記して嘲笑していたようだ。また、ダンスを踊れる日本人女性が少なかったため、ダンスの訓練を受けた芸妓が舞踏会の「員数」として動員されていたことがジョルジュ・ビゴーの風刺画に描かれ(以下の画参照)、さらに高等女学校の生徒も動員されていたという(近藤富枝『鹿鳴館貴婦人考』講談社)。いずれも画像出展は以下参考の*4より。


鏡に映っているのは猿顔の紳士淑女、いくらうわべを繕っても猿真似と言いたいのだろう。

右:鹿鳴館の舞踏会・コントルダンスの合間.。しゃがんだり背をもたれるポーズでキセルをふかす「淑女」(実は芸者)の醜悪さを描いている。ビゴーは「お里が知れる」と批判しているそうだ。風刺画にある「名摩行」は「なまいき」のこと。
(いずれも、清水勲『ビゴーが見た日本人』講談社学術文庫。風刺雑誌『トバエ』』に掲載されたもの)、
下の画は、 撞球(ビリヤード)をしているところを描いたもの。これも女性は芸者だろう。ソファーには、丸に十のマークが見られるが、寝そべっている行儀の悪い人は、初代文部大臣森有礼を描いているといわれているそうだが・・・。


井上の鹿鳴館外交への風当たりは次第に厳しいものとなり、さらに条約改正案の内容(外国人判事の任用など)が世間に知られると、大反対が起こった(*5参照)。面目を失した井上は1887(明治20)年9月に外務大臣を辞任。欧化政策としての鹿鳴館時代はこうして井上とともにその歴史に一応の幕を下ろすことになった。

さて、肝心の森 有礼(正字体:森有禮)であるが、森は、弘化4年(1847年)、薩摩国鹿児島城下春日小路町(現在の鹿児島県鹿児島市春日町)で薩摩藩士の五男として生まれ、安政7年(1860年)頃より薩摩藩が設立した藩校である造士館で漢学を学び、元治元年(1864年)には、薩英戦争後の藩の近代化政策の一環として島津久光
が西洋式軍学や技術を専門に学ぶ洋学校として設けた「開成所」(1863年に江戸幕府が洋学教育研究機関として設けた同名の開成所とは異なる)に入学し、英学講義を受講する。
慶応元年(1865年)、薩摩藩の命による五代友厚ら3名の使節団・薩摩藩遣英使節団使節団とともに15名の秘密留学生(薩摩藩第一次英国留学生)の一人としてイギリスに密出国(このとき沢井鉄馬と変名している*6参照)し、すでに、長州藩から清国経由でヨーロッパに派遣されていた伊藤俊輔(博文)らの長州五傑とロンドンで会う。


画像は、幕末の薩摩英国留学生、前列左から2人目が森有礼(尚古集成館蔵、週刊朝日百貨日本の歴史96より)
その後、ロシアを旅行し、さらに親日派のローレンス・オリファントの誘いでアメリカにも渡り、オリファントの信奉する新興宗教家トマス・レイク・ハリスの教団と生活をともにし、キリスト教に深い関心を示した。また、アメリカの教科書を集める。明治維新後に帰国した森有礼は、富国強兵のためにはまずは人材育成が急務であり、「国民一人一人が知的に向上せねばならない」と考えていた。そして欧米で見聞してきた「学会」なるものを日本で初めて創立しようと考えた。
そして、「帝都(帝国の首都=帝都東京)下の名家」を召集するために西村茂樹に相談し、同士への呼びかけを始め、当時、27歳であった福澤諭吉を会長に推すも固辞され、森自身が初代社長に就任し、最初の定員は森、西村、福澤他西周西村茂樹中村正直加藤弘之津田真道箕作麟祥杉亨二箕作麟祥の10名で啓蒙活動(*7)を目的とした学社明六社を結成した。
名称の由来は明治6年(1873年)結成からきている。この学社は、機関誌『明六雑誌』を発刊して、当時の青年たちに大きな影響を与えた。
この明治6年という時期は近代日本の最初の大きなターニング・ポイント(転換期)であり、この年は「西郷隆盛征韓論に端を発した明治初期の一大政変(「明治6年の政変」。征韓論政変ともいう)がおこった年でもあった。
この年、当時岩倉使節団が欧米を巡回したその留守の初期明治政府をつくった留守政府の首脳であった西郷隆盛・板垣退助江藤新平後藤象二郎副島種臣rの5人の参議が、征韓論を主張。
これらの人は征韓論では「外征派」ともよばれていたが、この征韓論に対して、50名をこえる岩倉使節団には、その後の政界を牛耳る岩倉具視木戸孝允大久保利通・伊藤博文らを含めた「洋行派」(征韓論では「内治派」ともよばれた)がおり、この「洋行派」との激突が始まったが、森有礼は、これら洋行派をアメリカにいて“繋ぎ”の役割を担った人物でもあった(*8参照)。
結局、この留守派が欧米視察から帰国した洋行派の岩倉具視ら国際関係を配慮した慎重論に敗れ、新政府は分裂し、西郷らは下野した。これにより、明治政界は真ッ二つに割れた。
それが明治6年の政変であり、それがそのまま明治10年(1877年)の西南戦争にまで進む。西郷が死に(同年9月24日)、翌明治11年(1878年)5月14日、その西郷を死に追いやった大久保も暗殺されて死んだ(紀尾井坂の変)。明治維新とはこの二人の死までをさしている。そして、西南戦争以後、不平士族の反対運動は国会開設(ここ参照)や憲法(大日本帝国憲法)制定を要求する自由民権運動(第二段階)に移行してゆくのである。
この流れの中で見ると、明六社首謀者が森有礼であったのは、のちに伊藤博文によって森が最初の外務大輔(文部大臣)に任命(1878)されたことを勘定に入れると、はなはだ皮肉なことでもあったという(*8参照)。
福沢諭吉がつねに明六社と一定の距離をおこうとしていたようだが、それは、明治6年の政変で西郷は鹿児島に帰って私学校をつくって青年たちの指導にあたり、ちょっとした独立国づくりをめざしたのに対して、おなじく下野して土佐に帰った板垣が、立志社をつくってこれを民撰議院設立の建白をへて自由民権運動にもっていった対比に似て、森有礼のやり方と福沢のやり方には、どこか決定的な相違というものがあり、それは、福沢と森の教育の方法論を巡っての論争にも見られる。
福沢の論旨は『学問のすすめ』にも書かれている。森有礼は教育は国家の興廃に関わる一大事として「教育の官立為業」を説き、福沢諭吉はそれに異議を唱えて, 「国民一人ひとりが独立し繁栄して、はじめて国家も独立し繁栄する」という考えを示し「教育の私立為業」の大切さを説いている(*9参照)。
「明六社」の目標は、日本の文明化と西欧化にあったが、とりわけ森有礼の西欧化への姿勢は際立っていた。森は、国語を日本語ではなく、簡易英語に変えよという提案すら行った(*10参照)が米の言語学者、米人の文部省顧問、伊藤博文等の反対を受けあきらめたともいわれるが、なかでも『明六雑誌』に掲載された「妻妾論」(*11:「日本史史料集」の近代編7:戸籍~文明開化1062「森有礼の妻妾論」参照)は、日本で初めて男女の平等と夫婦の対等を主張したものとして有名であり、この論説は明治の言論界に衝撃を与え、男女同権をめぐる論争を引き起こし、しかも、森はこの考えを実践に移した。
森は、洋学教育を受けた開拓使女学校(札幌農学校を経、現:の北海道大学)出身の19歳の聡明な女性で、広瀬阿常(常)と婚約を取り交わした。常は幕臣広瀬秀雄の娘であったと言われている。
世間を驚かせたのは、明治8年(1875年)2月6日、京橋区木挽町の新築の洋館での洋風の結婚式で、以下参考の*12によると、当日は200名を超す参会者の前で、大久保一翁を立会人とし、夫婦対等の婚姻契約書が読み上げられ、証人に福沢諭吉がなり、両人と証人の署名で式は終わり、その後、別室で立食式のパーティーが催されたという。その契約書は以下の3条からなっている(*13より)。
第一条 自分以後森有礼は広瀬阿常を其妻とし、広瀬阿常は森有礼を其夫となすこと
第二条 為約の双方存命して、此約定を廃棄せざる間は共に余念なく相敬し相愛して、夫婦の道を守ること
第三条 有礼阿常夫妻の共有し又共有すべき品に就ては相方合意の上ならでは、他人の貸借或は売買の役を為さざること
右に掲ぐる所の約定を為し、一方犯すに於ては、他の一方是を官に訴へて相当の公裁を願うふことを得べし/明治八年二月六日

まだを囲うことが、上流武士社会や富裕な町人層では普通に行われていた、いわゆる蓄妾制が続いていた時代に妻となるものとの契約結婚など革新的ではあったが、如何にも西洋かぶれ、西洋通を鼻にかけたような行為は、世間に賛否両論の話題をまいたが、余り好意的には受け入れらなかったようで、翌日、東京日日新聞が、「森有礼のハイカラ結婚式」という見出しで、このありさまを皮肉交じりに伝えたことは先に書いた通りである。      
そして、この森有礼と広瀬常の婚約結婚を知り唖然とした女性がいた。鹿児島の森有礼の私塾(当時森有礼は鹿児島で英語を教えていた)で兄事し、慕って上京していた、森をてっきり婚約者と信じ込んでいた古市静子(*14の教育活動に生きた女性たち参照)である。これを知り、後の女医第1号で、親友の萩野吟子が義憤を感じ、森を訪ねて「これが女性尊重論者のなさり方ですか」と何詰。そして静子の女子師範卒までの学費を承諾させたという(アサヒクロニクル週刊20世紀004号)。
森有礼が現一橋大学の前身である私塾・商法講習所を銀座尾張町(現在の松坂屋のあたり)に開設したのも、同じ年(明治8年、1875年)の9月であった。
そして、政局も安定した明治18年(1885年)、第1次伊藤内閣の下で初代文部大臣に就任し、東京高等師範学校東京教育大学を経た、現在の筑波大学)を「教育の総本山」と称して改革を行うなど、日本における教育政策に携わるなど、学制改革を実施した。また、「良妻賢母教育」こそ国是とすべきであると声明。翌年それに基づく「生徒教導方要項」を全国の女学校高等女学校に配っている。
明治19年(1886年)には、学位令を発令し、日本における学位として大博士と博士の二等を定めたほか、教育令に代わる一連の「学校令」の公布に関与し様々な学校制度の整備に奔走 。
この年、妻の常と双方合意し「婚姻契約」を解除して離婚しているが、常夫人は「開明的すぎる森有礼についていけず、性格が弱くて不倫に走った」というような話があるようだが、『秋霖譜―森有礼とその妻』森本 貞子著に、実際には、離婚の理由は、広瀬夫人の実家に養子に入って義兄弟となった広瀬重雄(旧姓:藪重雄)が、自由党激派に属し、政府要人暗殺を企てた静岡事件 ( Category:自由民権運動の事件参照)に関与して罪人になったためである」・・・と書かれているようだ。詳しいことは参考*15:「森有礼夫人・広瀬常の謎」を読まれるとよい。
森は、常子と離婚した翌年に岩倉具視の五女寛子と再婚している。また、古市静子は、森と常子の「契約結婚」解消を遠く聞き、本郷東片町に駒込幼稚園(現:洗足うさぎ幼稚園)を創設した(*16参照)。
明治21年(1888年)森は、、伊藤博文の後任黒田清隆内閣でも留任し、文部大臣として学制改革を実施し、明治六大教育家に数えられているが、そんな森の人生は、意外なところで結末を迎える。
明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法が発布(公布)された(施行:明治23年=1890年11月29日)。アジアで近代憲法が制定されたのは日本が初めてであり、まさに国中がお祭り騒ぎとなった日のことである。
森も初代文部大臣として天皇臨席のもと宮中で催される「大日本帝国憲法発布式典」に参加するため官邸を出た所で、国粋主義者西野文太郎に短刀で脇腹を刺され、応急手当を受けるも傷が深く、翌日午前5時に死去した。まだ43歳だった。
殺人犯西野の犯行は、1887(明治20)年、森が各地で学事巡視するが三重県では伊勢神宮を参拝,この時、参拝時に不敬な態度をとったいわゆる「不敬事件」が引き金になったと見られている。

森文相が特に重視した教育政策の一つに地方視学政策がある。森文相は地方の教育を自ら視察して、しばしば講演や訓示を行ない、地方の教育を激励するとともにその指導監督に努めた。森文相の時代から教育の国家管理が強化されたが、政府が単に法令を定めてこれを実施するにとどまらず、地方の教育を直接に視察監督することの必要を認めていたためである。この観点から、文部省に視学部を設けて視学官を置き、(視学制度の強化拡充を図った(*17の森文相と諸学校令の公布参照)。
森は明治17年(1884年)ヨーロッパから帰国し、同年5月に参事院議官、文部省御用掛兼勤となった時から文部大臣時代の5年足らずの間に、10 日以上に及ぶ長期学事巡視を6 回実施している。そして、巡視の途次各地で知事・郡区長・学務委員・戸長・校長・教員等を集めて演説を行っている。
1887(明治20)年第4回目の「北陸・近畿地方(第3 地方部)」視学の際、11月26日津に到着し、翌27日市街の各学校を巡察し、三重県会議事堂で演説。28日松阪を経て午後山田へ着し、高等小学校巡視後、伊勢神宮を参拝して所謂「伊勢神宮不敬事件」が起こった(*18参照)。
このとき、
森文部大臣は、一般拝所で外套を着けたまま、つかつかと御幌(みとばり:白い幕)をステツキでかかげて内に入ろうとしたので、尾寺禰宜が 「これから内は皇族のほか入られません」と制止したところ「さうか」といつて退出した。また亀田主典(さかん)に「内宮(皇大神宮,のこと)と外宮(豊受大神宮のこと )はどう違ふか」と尋ねられ「御建物は同じです」 といった。内宮へも参拝する予定になっていたので、拝みに内院に入ろうとして制止せられて、 むつとしたのと二見の会合(二見浦で県下の教育者の集会があり講演することになっていた)の時刻は迫るし、御建物が同じなら内宮は止さうといった調子でそのまま二見へ行って一場の講演をした・・・
との文部省の事実調査に対して、地元宇治山田市在住の 大物議員の証言があるそうだ(19 参照)。
この証言通りであれば確かに非常識なことだとは思うが、これは、“捏造された事件”で、西野の懐中に所持していた斬奸状にはこのことが暗殺の理由として記されており、西野は、この無礼は神を冒涜し、皇室を蔑視したもので、立国の基礎を破り、国家を亡滅させるものである。よって斬殺する・・・とあるようだが、この不敬事件は後で、伊勢神宮の神官たちによるでっち上げ事件だったことが判明した。
その様なことをした理由の一つが、森が西洋かぶれのキリスト教徒であることのほか、伊勢神宮の発行する暦(神宮暦参照)の問題がある。森は、あれは学問上、大学が発行すべきものだと主張していたが神官たちにしてみれば、暦の発行権が無くなると、その売上を皆で分配するわけにもいかなくなる。経済的な大打撃である。・・といった理由からだというのである(*20参照)が・・・、その真実はよくわからない。
米国から帰って公議所議事取調べ係りになった森は帰国の翌年(明治2年)に廃刀令を出して武士の魂である刀を禁止した。 小武を捨てて、国防という視点から武を据える理論であるが、大反対に会う。士族の怒りは甚だしく暗殺の危険さえあったという。
彼は留学中にロシアに渡っている。当時、日本はロシアの脅威も感じていた。そして、帝国主義の時代の中にあって、日本の存立と発展を願い、西欧に倣い、西欧と競争することを求め続けた。
近代国家・日本を作り上げるため、日本語廃止案をはじめ急激な国家改造に驀進した初の文部大臣の姿勢が単なる欧化主義、欧米追随と誤って理解され、当時伊勢神宮造営掛であった西野も当時流れていた噂などを信じ、森を許せないと考え犯行に及んだのだろう。
西野のとった行動は世論を二分し、世間では西野に対しての同情も多く集まり、上野にある彼の墓は参拝者が絶えなかったという。 
今日の教育制度は森有礼がつくったものであり森は、明治六大教育家に数えられているが、彼の教育論は富国強兵の国家のための教育であって、国民のための教育ではなかった。それが今日でも引き継がれているのでは・・・との、疑問を呈す人もいるのだが・・・。さ~どうなんだろうか?


参考:
*1:首相官邸で伊藤博文主催による仮面舞踏会が開催された日 -今日のことあれこれと
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/9cca45f07a3d69be1c90bec5094a70d5
*2:月下氷人―中国故事物語
http://homepage1.nifty.com/kjf/China-koji/P-105.htm
*3:木村荘八 ハイカラ考 - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/001312/files/49301_33996.html
*4:フランスの風刺画家、ジョルジュ・ビゴーが見た日本人【明治時代】
http://matome.naver.jp/odai/2137904355726810601
*5:NHK高校講座 | 日本史 | 第29回 第4章 近代国家の形成と国民文化の発展
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/resume029.html
*6:『初代文相 森有礼』 « 鹿児島県立図書館(本館)
https://www.library.pref.kagoshima.jp/honkan/?p=526
*7:明治啓蒙思想
http://homepage3.nifty.com/tanemura/re3_index/7M/me_meiji_keimo.html
*8:592夜『明六社の人びと』戸沢行夫|松岡正剛の千夜千冊 
https://1000ya.isis.ne.jp/0592.html    
*9:「明六社」 啓蒙思想について(Adobe PDF)
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/8430/1/shakaikyouikushujika_1_1.pdf#search='%E6%95%99%E8%82%B2%E3%81%AE%E7%A7%81%E7%AB%8B%E7%82%BA%E6%A5%AD'
*10:国語外国語化論 - 一橋大学附属図書館
http://www.lib.hit-u.ac.jp/service/tenji/eu-lang/kokugo.html
*11:日本史史料集
http://chushingura.biz/p_nihonsi/siryo/ndx_box/ns_ndx.htm
*12:平成24年度学部卒業式における式辞「明六の有礼」(一橋大学 山内進)
http://www.hit-u.ac.jp/guide/message/130322.html
*13:日本史人物 迷言・毒舌集成:125 共に夫婦の道を守ること
http://hanasakesake.seesaa.net/article/421925271.html
*14:日本キリスト教女性史
http://www5e.biglobe.ne.jp/~BCM27946/index.html
*15;森有礼夫人・広瀬常の謎 後編上
http://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/b13ae36f0d94ee47d98431d90300cc1f
*16:現存する日本最古の私立幼稚園
http://stmnr.exblog.jp/24725358
*17:学制百年史―文部科学省
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317609.htm
*18:森有礼の学事巡視―その行程をめぐって―鎌田 佳子
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/618/618PDF/kamada.pdf#search='1887%E5%B9%B4+%E6%A3%AE%E6%9C%89%E7%A4%BC+%E4%B8%89%E9%87%8D%E7%9C%8C+%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E5%8F%82%E6%8B%9D++%E4%B8%8D%E6%95%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6'
*19:森有礼文相不敬・暗殺事件を考える・(警察思潮/昭和9年8月5日発行を読む)
http://senzenyomu.blog82.fc2.com/blog-entry-4.html
*20:非常の人――森有礼の生涯 第九章 凶刃に倒れる - 吉村書院
http://yoshimurashoin.blog.fc2.com/blog-entry-251.html
憲法関連ページの日本国憲法と大日本帝国憲法条文比較(たむたむホームページ)
http://tamutamu2011.kuronowish.com/kennpoujyoubunnhikaku.htm
森有礼【もりありのり】-日本史の雑学事典
http://www.jlogos.com/d013/14625051.html
たむたむホームページ
http://tamutamu2011.kuronowish.com/IRIGUTI.htm
良妻賢母と女性教育について
http://www.ulrich.moehwald.jp/Uni-Pictures/Semi/Lin.pdf#search='%E8%89%AF%E5%A6%BB%E8%B3%A2%E6%AF%8D%E6%95%99%E8%82%B2'