今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

「みかんの日」のひとりごと 

2015-12-03 | ひとりごと
12月3日は「みかんの日」。「いいみっか(3日)ん」の語呂合せで、全国果実生産出荷安定協議会と農林水産省が制定し、11月3日と12月3日の年2回実施しているらしい。この日に、各地のみかん関係の業者がいろいろイベント等を行っているのかもしれないが、私はどのようなイベントをしているのかはよく知らない。
ただ、この「みかんの日」については、以前にこのブログで書いたことがある(ここ参照)ので、どうしようかと思ったが、今NHKの朝ドラで放送している「あさが来た」(*1)を見ていてちょっと”ひとりごと”を言ってみたくなった。
この朝ドラ「あさが来た」は非常に人気が高いようである。
朝ドラ「あさが来た」で、波瑠演じる主人公のヒロイン・白岡あさのモデルは大阪を拠点に活動した実業家の広岡浅子で、その生涯を描いた古川智映子の『小説 土佐堀川』(*2参照)を原案とし、大森美香が脚本を手掛けたものであるが、『土佐堀川』は、限りなくノンフィクションに近い物語だそうである。
広岡浅子は、京都の豪商小石川三井家(10男高春の家系で、東京に出る前は京都御所に近い油小路通出水に住んでいたので、出水家とも。明治維新後、東京の小石川に住まいを移したことから小石川家と呼ばれるようになった。三井家家系については*3参照)の三井高益(テレビドラマでは今井忠興のモデルとなっている人物)の四女に生まれ、鴻池善右衛門と並ぶ大坂の豪商であった第8代加島屋久右衛門正饒(まさあつ。ドラマでは白岡正吉)の次男・広岡信五郎(ドラマでは白岡新次郎)に嫁ぎ、幕末から大正の、日本人の女性が表舞台に出ることがなかった時代に、企業経営者として、銀行(加島銀行)や生命保険会社(大同生命)、更には女子大学校(現・ 日本女子大学)を日本で初めて作り、女性起業家のパイオニアとして知られている。
この物語は、朝ドラでは初となる江戸時代後期の安政4年(西暦1857年)から始まり、様々な困難を乗り越えて成長するあさと、その姉・はつや家族らの生き方を描いている。
宮崎あおいが演じている2歳年上の姉はつのモデルも実在の人物で三井春。
ドラマ第10週、11週では九州での石炭事業が順調に進むあさ(波瑠)のもとに祖父忠政(林与一)が危篤という知らせが届く。あさより、一足先にはつ(宮崎あおい)が息子の藍之助と今井家に戻っていた。そして落ちぶれた眉山家の貧乏暮らしを気遣う、母の梨江(寺島しのぶ)に、「身に足りた暮らしをしている」と穏やかに報告するはつ。京都に集まった家族が、忠政の最期をみとった後、父忠興(升 毅)は政府のすすめで、他の商家と共同で国立銀行を作るという。そして今井家が東京へ移る前に、母の梨江が加野屋に訪ねてきた。
夫新次郎(玉木宏)との事が不安になっているあさに「これからの女はあさのように生きた方が良いかもしれない」と励ます梨江。
それから、はつに渡してほしいと和歌山にある土地の証文をあさに手渡した。どうせ使っていない土地だから、はつ一家の為に役立てたいとのこと。
しかし、施しを受けるわけにはいかない、と証文を返そうとするはつ。そのはつにあさは「バンク(銀行)や。施しやあらへん。何倍にでもして返したらよろしいのや」と説得。それを、はつも受け入れ、結局土地はもらうことに。
はつの夫惣兵衛(柄本佑)はいつか土地を持って農業で暮らしていきたいとはつに語っていたことがあるが、惣兵衛の母眉山菊(萬田久子)が反対することが分かっているので、家に帰っても和歌山で農業をやりたいとはなかなか言い出せなかったはつであったが、惣兵衛には和歌山の土地の話を切り出した。
惣兵衛は大喜びで、ある晩、父栄達(辰巳琢郎)と菊にも話をし栄達は喜んでくれたが、菊はやはり、大反対。
「うちは大阪の山王寺屋(実在した大坂の両替商・天王寺屋五兵衛の末裔がモデル)の内儀だす!和歌山になんか金輪際いかしまへん!!」。それを聞いて、くやしさで拳を握りしめる惣兵衛。
そして、菊と対立していた惣兵衛が「すぐに戻ってくるさかい」と言い残して家を出て行ってしまった。
惣兵衛の二度目の家出に、また戻ってこないのではないかと不安を感じながらも、はつは帰りを信じていたが、菊は今度こそ戻ってこないだろうと嫌味を言う。
長らく家を空けていた惣兵衛が、ある日突然家に帰ってきた。どこに行っていたのかと聞くはつに、目にも鮮やかなみかんを差し出し、和歌山に行っていたという。
一方、この頃、加野屋では正吉が皆を集めて「本日限りで加野屋の家督を譲ることにした」と、正吉は跡取りに三男の榮三郎を指名したことを告げる。
そして、重要な奥の仕事である襲名披露の取り仕切りを任されて慌てるあさ。
その頃、はつの住んでいる納屋では和歌山の土地を見てきた惣兵衛がみかん畑や梅畑を作りたいと話していた。いつものように惣兵衛をなじる菊にはつは、とうとう黙っていられなくなる。
「今の旦那様は昔の旦那様ではございまへん。どうか今回だけは旦那様の言い分を聞いたげとくんなはれ」
菊も心の奥では惣兵衛の言い分が正しい事に気が付いていたので、栄達のフォローもあり和歌山行きを承諾した。
加野屋の家督相続の襲名披露も無事に終了。
その3日後、眉山家は新次郎やあさたちに見送られて、再出発を目指して和歌山へと旅立っていくことになる。
私達が一般に「みかん」と呼んでいるものは、ミカン科柑橘類のなかの「ウンシュウミカン」を言っていることが多い。漢字では「温州蜜柑」と書くが、これは、柑橘の名産地であった中国浙江省の温州に因んで命名されたそうだが、日本原産種と推定されており、一般には鹿児島県の長島町(東町・長島町)という所で、約300年以上前の温州みかんの古木が見つかっているそうで、そこが原産地とされているそうだ。江戸時代より前の代表的なみかんは温州みかんではなく、紀州有田の「キシュウミカン(紀州みかん)」だったそうで、約800年前に中国原産の小ミカンが熊本県経由で伝わったものが元だそうであり紀伊国屋文左衛門によって、寛永年間(1634年)に江戸に出荷され名が広まり、明治時代の中頃まではわが国を代表するみかんであったそうだが、明治以降温州みかんが全国的に栽培されるようになったようだ。
ちょうど、朝ドラ{あさが来た}の眉山家の人々が再出発を目指して和歌山へ来たころからである。その後のはつと惣兵衛のその後がどうなったのかは知らないが、きっと成功したものだろうと信じたい。
300年も前から日本にあったにもかかわらず温州みかんが、現在のように広がらなかったのは、温州みかんが「種なしみかん」だったことから、子供ができなくなるなどの理由で、縁起が悪いと思われたことが理由の一つではないかと言われているそうだ。今ではみかんと言えば種なしが当たり前のようになっているが、そういえば、私等が子供の頃食べたみかんには種のあるものも多かったように思うが・・・。

みかんは甘い柑橘ということから漢字では「蜜柑」と表記される。古くは「みっかん」と読まれたようだが、最初の音節が短くなったようだ。日本の代表的な果物であり、バナナのように、素手で容易に果皮をむいて食べることができるため、これからの季節である寒い冬になれば炬燵の上にみかんという光景が一般家庭に多く見られるようになる。
平成25年の蜜柑(みかん)収穫量が日本一多い都道府県は「和歌山県」であり、それに愛媛県、静岡県が続いている。
農林水産省の公表(2014/5/13)により、和歌山県は平成25年の蜜柑(みかん)収穫量が168,900トンで、全国総収穫量(895,900トン)の約18.9%を占めている(*4参照)。
平成25年都道府県別蜜柑(みかん)収穫量ランキング(単位t=トン)
1 和歌山県 168900
2 愛媛県 137800
3 静岡県 121800
そして、和歌山県内で昨年、生産されたみかんの収穫量は17万3700トンで、都道府県別の収穫量で11年連続で日本一となっている。みかんは豊作の「表年」と果実数が少なくなる「裏年」が1年ごとに繰り返すが、裏年にあたる昨年は、表年の平成25年より3%上回り、裏年の収穫量が前年の表年を上回ったのは18年ぶりだという(*5参照)。
「ウンシュウミカン」の主な産地の殆どが太平洋や瀬戸内海に面した沿岸地である。温暖な気候を好むが、柑橘の中では比較的寒さに強い。
ただ、近年、若い世代を中心に“果物離れ”が進んでいるという。
かつて果物を食べるといえば、皮をむいて生で食べることだったが、最近では食べやすさを狙って、カットフルーツやスイーツ、ジュースなどの加工品も多くなっている。私たちの食生活の中で、果物の位置付けが変化しているようだ。
 残暑も過ぎ、味覚の秋が到来すると、ブドウや梨、柿などの旬の果物が出回り、食卓を彩る。ぶどう狩りや梨もぎで採れたての味を楽しむ人も多いことだろう。
ところが近年、日本人は果物をあまり食べなくなっている。特に40~50代の世代で果物離れが顕著で、果物全体の消費は横ばいだが、生鮮果実としての消費は減少が続いている一方、輸入品を中心に加工品の消費は増加しているという。
かつて果物を食べるといえば、皮をむいて生で食べることだったが、最近では食べやすさを狙って、カットフルーツ(*6)やスイーツジュースなどの加工品も多くなっており、私たちの食生活の中で、果物の位置付けが変化しているようだ。
近年、日本人は果物をあまり食べなくなっており、特に40~50代の世代で果物離れが顕著だそうで、果物全体の消費は横ばいだが、生鮮果実としての消費は減少が続いている。一方、輸入品を中心に加工品の消費は増加しているのだそうだ。
農林水産省などの調査によれば、果物を食べない理由には「他に食べる食品があるから」「日持ちがしないから」「皮をむくのに手間がかかるから」「価格が高いから」などが挙がっており、さらに、特に若者からは「べたべたするのがいや」「酸っぱいのが苦手」などの声があり、若い人ほど果実加工品を好む傾向が強いそうだ。
もともと日本人の果物摂取量は海外に比べてもかなり少なく、2009年の国連食糧農業機関(FAO)の統計では、日本人1人あたりの年間果物摂取量は176カ国中127位。この年の1日あたりの平均摂取量は144グラムで、世界平均の200グラムに達していなかったそうだ。
先進国の中では最低クラスで、日本人は欧米の3分の1から半分くらいしか果物を食べていない。欧米では、果物は野菜と同じように食材として使われているのに対し、日本では主にデザートとして食べられ、嗜好品として位置づけられてきた。このような食文化の違いも、欧米に比べて果物の摂取量の少ない要因だと考えられているそうだが・・・(*7参照)。
私の感覚では、日本の生鮮果物は諸外国と比べて高すぎるのではないか・・・?
農家が味や品質にこだわるのは良いが、欧米のように、果物を野菜と同じように食材として使えるほど安くはないと思うよ・・・。そう感じるのは私のような年金暮らしの老人だからかもしれないが・・・。日常食べる野菜も安くはないが、今年など、暖冬で野菜も非常に高くて鍋もの商材がうれていないと聞いている。一度以下のページを見てみるとよい。
高品質の日本の農産物が海外で売れない理由 WEDGE Infinity(ウェッジ)
高品質が売り物だという日本の農産物、、野菜も、果物も高すぎるのではないか。それは、いつまでも消費者のことを考えずに、農業保護をしているからだろうと私は思う。
TPP(環太平洋経済連携協定)交渉も大筋合意がなされ、いよいよ正式な締結・発行に向けた国会審議が行われているようだが、野菜などよりも果物の関税17%がゼロか大幅引き下げとなったら、リンゴや温州ミカンへの影響は大きいだろう。以下参照、
b>自給率70%台の野菜と果物 TPPでどうなる | FOOCOM.NET
なにか陰でこそこそ行われているTPP。私達にはよくわからないが、生産者保護もよいが、消費者である国民のこともよくよく考えてどうするかを決めてくださいよね・・・。
2000年に、文部省(現文部科学省)、厚生省(現厚生労働省)、農林水産省が示した食生活指針(*8参照)において、果物は野菜と同様に毎日の食生活にとって必需品であると位置づけられた。国の指針上、私たちの食生活における果物は「あってもなくてもいいもの」から「なくてはならないもの」へと立場が変わったのである。
総務省「家計調査」をもとに作成した「1人あたりの生鮮果実年間購入量」(単位はキログラム。2人以上の世帯) を見ると以下のようになっている。
1993年1位温州ミカン6,9   2位オレンジ5,3  3位バナナ4,4
2011年1位バナナ6,4     2位オレンジ4,0  3位温州ミカン3,8
2013年1位バナナ5,0     2位オレンジ4,4  3位温州ミカン4,0
食生活の必需品になったにもかかわらず、果物の消費量はなおも減っている。最も消費が落ち込んでいるのが、冬の食卓に欠かせないみかんだ。総務省の「家計調査」によると、みかんの消費量はピークの1980年から30年で3分の1まで減少した。一方、バナナの消費は2倍以上に増えている。果物消費量ランキングでは、長年みかんがトップを維持してきたが、2004年からはバナナにトップを奪われてしまったようだ(*7参照)。
何か前にも書いた「みかんの日」に、炬燵に入って大好きなおいしいみかんが毎日食べれるように・・・。ささやかな願いごとのボヤキとなってしまったが、「食べよ食べよ」という前に、誰でもが食べれるように安くして欲しいよね~。
12月に入るとあっという間に正月が来る。師走とはよく言ったもので、例年、この忙しい月は人並みに私も忙しく、ブログもお休みしている。今年も、明日から正月の松の内(私の場合15日まで)が明けるまではお休みしますのでよろしくお願いします。
今年はご訪問有難うございました。皆さまも良い年お迎えてください。ブログ再開時には、またよろしくm(._.)mお願いします。
参考
*1:NHK連続テレビ小説「あさが来た」
http://www.nhk.or.jp/asagakita/
*2:【広岡浅子の生涯】NHK朝ドラ「あさが来た」原案は小説・土佐堀川(古川智映子)
http://matome.naver.jp/odai/2142122482143657901
*3:三井家発祥の地・松阪:江戸期|三井の歴史|三井広報委員会
http://mitsuipr.com/history/edo/index.html
*4:平成25年都道府県別蜜柑(みかん)収穫量ランキング 
http://jp1.com/ranking/%e9%83%bd%e9%81%93%e5%ba%9c%e7%9c%8c%e5%88%a5%e8%9c%9c%e6%9f%91%e3%81%bf%e3%81%8b%e3%82%93%e5%8f%8e%e7%a9%ab%e9%87%8f%e3%83%a9%e3%83%b3%e3%82%ad%e3%83%b3%e3%82%b0/
*5:和歌山県産ミカン、11年連続日本一 収穫量で「表年」の前年を上回る ...
http://www.sankei.com/west/news/150526/wst1505260029-n1.html
*6:カットフルーツ | カット野菜大事典
http://cut.i-yasai.com/fruit/
*7:果物を食べなくなった日本人|食の安全|JBpress - isMedia
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/41648
*8:農林水産省/食生活指針について
http://www.maff.go.jp/j/syokuiku/shishinn.html
大河ドラマ特集:あさが来た
http://tvtaiga.com/category/asa/asa2/
12月3日 みかんの日|なるほど統計学園 - 総務省統計局
http://www.stat.go.jp/naruhodo/c3d1203.htm
TPPについて分り易く解説
http://yokohama-web.net/archives/461
TPP問題における論点と諸問題
,http://mark-t3963.com/category/tpp/
JATAFF:読み物コーナー:農作物の話:みかんとその仲間たち
https://www.jataff.jp/reading/index.html

誕生花 「りんどう」

2015-09-16 | ひとりごと
今日・9月16日に該当する、記念日や歴史、行事等に、今までに書いていない適当なものがみあたらなかったので、今日は、9月16日の「誕生花」について書いてみることにする。
例によって、何時も利用しているインターネット百科事典「ウィキペディア」(英: Wikipedia)を見ると、9月16日の「誕生花」として、リンドウ(*1やコトバンクも参照)とオリヅルランがあった。
リンドウは、リンドウ科リンドウ属多年生植物であるが、オリヅルランは、キジカクシ科・オリヅルラン属に属する常緑で、ある程度成長すると細長い花茎を高くのばし、白い花がまばらに咲くが、あくまで花を観賞するというよりも観葉植物としてよく栽培されている。
この他、ネットでいろいろ調べていると、アキノタムラソウ(秋の田村草)アマランサス((別名: 紐鶏頭。*3のここ参照)、ベロニカ(別名:瑠璃虎の尾。*3のここ参照)、ハゲイトウ(葉鶏頭)ホトトギス(杜鵑草)ヨウシュヤマゴボウ(洋種山牛蒡)などたくさんある(*2参照)。
誕生花は、生まれた月日にちなんだ花のことで、相手に気持ちを伝えるときに,その花のもつ特徴や香などから象徴的な意味をもたせたもの。花言葉には人それぞれのイメージの違いから様々な花言葉が付けられてきた。したがって、誕生花そのものの概念・起源や、誰が決定しているのか等その由来は国や地域によって諸説分かれているようであり、日本国内においても、誕生花 と その日にちの定義はまちまちのようである。
数ある誕生花の中でも、日本では特に、9月16日の誕生花として人気があるのは、何といっても「リンドウ」であろう。
以前、このブログで、誕生花「ジギタリス」 について書いたことがある(ここ参照)のだが、リンドウも私の好きの花の一つでもあることから、今日は、誕生花「リンドウ」について書くことにした。
私の場合、リンドウといえば、私も大ファンだった歌手島倉 千代子が歌っていた『りんどう峠』(作詞:西條八十、作詞:古賀政男)を思い出す。

りんりんりんどうの 花咲くころサ
姉サは馬コで お嫁に行った
りんりんりんどうは 濃むらさき
姉サの小袖も 濃むらさき
濃むらさき
ハイノハイノハイ
(「りんどう峠」歌詞1番)

1954(昭和29)年、コロムビア全国歌謡コンクールで優勝し、同社と専属契約した島倉千代子は翌1955(昭和30)年3月、16歳の時、本名島倉千代子で歌手デビューした。
この時のデビュー曲『この世の花』(同名の映画三部作の主題歌)は半年後に200万枚達成し人気歌手となった。『この世の花』に続いて、同年初の古賀メロディー『りんどう峠』(作詞は西條 八十による)を発表し大ヒット。130万枚を売り上げるなど、この年23曲、1956年34曲、1957年37曲、1958年33曲と驚異的な速さで新曲を次々と発表して、1957年NHK紅白歌合戦(第8回)に初出場以来紅白の常連となり、2004年(第55回)まで35回も出場している。
そういえば、『りんどう峠』は、1957(昭和32)年1月15日公開の松竹カラー色彩で描く娯楽股旅映画『りんどう鴉』(*4)の挿入歌として使われていた。
この映画の主役は歌う映画スターとして人気のあった高田 浩吉で、3人の美女が出ていた。高峰三枝子瑳峨三智子雪代敬子
島倉千代子は、馬子お千代役でのゲスト出演であり、馬を曳く娘っ子の端役であった。ただ馬をひきながら『りんどう峠』を歌うだけで、台詞(セリフ)はなし。高田浩吉が、歌って女に惚れられチャンバラする娯楽時代劇で、チャンバラ映画が大好であった私などは、こんな映画でも見に行ったものだが、チャンバラ映画ファン向けというより、どちらかというと松竹得意の女性ファン向け映画ではあった。

りんどう峠 - 島倉千代子 - 歌詞&動画視聴 : 歌ネット動画プラス

この歌は今の時代からは想像できない、牧歌的な光景が描かれている。ゆったりとしたのどかなテンポの古賀メロディーの中に、馬に乗って隣町へ嫁いでゆく姉はあとを振り返り/\しながら峠の向こうへ消えてゆく。それを見送る妹との別れを淡々と織り込んでいる。
それは、りんどうの花が咲くころであり、リンリンと鳴る馬の鈴も次第に遠ざかり、濃むらさき(濃い紫)のリンドウの花だけがあとに残る。小雨と涙に濡れながら・・・
ちょっと、センチな内容の歌ではあるが、島倉のハイトーンの明るい歌声と合いの手の「ハイの ハイの ハイ」がそれを明るいものにしてくれている。
この歌、非常に音域も広く、特に高温のきれいな声が出ないと歌えない曲なので、結構歌うには、難しい曲だが、それを見事に歌いこなしている、歌詞も良いが島倉の歌唱力も、素晴らしい。当時の良い歌謡曲は、作詞家、作曲家、歌手の三者による総合芸術作品と言えるだろう。今は、このような良い歌謡曲が衰退し、聞けないのが、私たちの年代のものには寂しい。
この歌が発表されたのは、終戦からちょうど10年後のこと。高度経済成長期に入った(1954年から)とは言え、まだ、まだ、戦争の傷跡が、当時の町や、村、そして、人々の心にも残り、古い習慣や文化も残っていたが、その後、日本は急成長し、農村の風景・生活も、また都市も含め、国の全体が、大きく変貌を遂げていく。
この歌のリンドウの花咲く峠は一体どこなのだろう。馬子が出てくるので私など、東北地方の山村の光景が目に浮かぶのだが・・・。
映画『りんどう鴉』は、いかさま師高崎の仁蔵を斬って草蛙(わらじ)をはいたりんどうの政こと高田浩吉が道中、信州の伊那富長野県上伊那郡辰野町にある地名)にやって来ての物語だったが・・・。

「山の秋は旧盆のころからはじまる。(中間略)
秋風は急に吹いてきて、一朝にして季節の感じを変えてしまう。ばさりとススキをゆする風が西山から来ると、もう昨日のような日中の暑さは拭い去られ、すっかりさわやかな日和(ひより)となって、清涼限りなく、まったく宝玉のような東北の秋の日が毎日つづく。空は緑がかった青にすみきり、鳥がわたり、モズが鳴き、赤トンボが群をなして低く飛ぶ。いちめんのススキ原の白い穂は海の波のように風になびき、その大きな動きを見ると、わたくしは妙にワグネルの「リエンチ序曲」のあの大きな動きを連想する。ススキ原の中の小路をゆくと路ばたにはアスター(キク科エゾギク属の草花)系の白や紫の花が一ぱいに咲きそろい、オミナエシ(女郎花)、オトコエシ(男郎花*3のここ参照)が高く群をぬいて咲き、やがてキキョウが紫にぱっちりとひらき、最後にリンドウがずんぐりと低く蕾(つぼみ)を出す。リンドウはの降りる頃でもまだ残って咲く強い草だ。」

上掲の文は、『智恵子抄』等の詩集で知られる詩人・彫刻家高村光太郎の随筆『 山の秋』 (*5の「青空文庫」参照)からの抜粋だが、「昌歓寺」(*6)という曹洞宗 のお寺の名前が出て来るから岩手県の光景だ。高村光太郎は、1945(昭和20)年4月の空襲により東京のアトリエとともに多くの彫刻やデッサンを焼失後、花巻郊外の稗貫郡太田村山口(現在は花巻市)に粗末な小屋を建てて移り住み、ここで7年間独居自炊の生活を送っているから、そのころのことを書いたものだろう。
タイトル『山の秋』の光景がよく表現されている。ちなみに「ワグネル」とはリヒャルト・ワーグナー>の「リエンチ序曲のことであり、以下で聴ける。

ワーグナー:歌劇「リエンツィ」序曲

リンドウ(和名:龍膽=竜胆)は、本州から四国・九州の湿った野山に自生する(近縁種も含めるとほぼ日本全域に分布しているようだ)。花期は秋・9~11月。秋空に映える濃い青紫色の花は野趣・美しさ・かわいらしさなどを兼ね備えた日本人の心に響く古くから親しまれてきた野草ともいえる。
かつては水田周辺の草地やため池の堤防などにアキノキリンソウなどの草花とともに、たくさん自生しているのがみられたが、それは農業との関係で定期的に草刈りがなされ、草丈が低い状態に保たれていたためだったが、近年、そのような手入れのはいる場所が少なくなったため、リンドウをはじめこれらの植物は見る機会が少なくなってしまったようである。高村光太郎が花巻市に小屋を建てて住んでいたころは、リンドウなどどこでも見られたのだろう。

「日本の植物学の父」といわれ、多数の新種を発見し命名も行った近代植物分類学の権威である植物学者牧野 富太郎は、『植物知識』(*7青空文庫参照)の冒頭序文に、以下のように書いている。
は、率直にいえば生殖器である。」「この花は、種子(たね)を生ずるために存在している器官である。もし種子を生ずる必要がなかったならば、花はまったく無用の長物で、植物の上には現(あらわ)れなかったであろう。そしてその花形(かけい)、花色(かしょく)、雌雄(しゆうずい)の機能は種子を作る花の構(かまえ)であり、花の天から受け得た役目である。ゆえに植物には花のないものはなく、もしも花がなければ、花に代わるべき器官があって生殖を司(つかさど)っている。」・・・と。そして、最後に、
「われらが花を見るのは、植物学者以外は、この花の真目的を嘆美(たんび)するのではなくて、多くは、ただその表面に現れている美を賞観(しょうかん)して楽しんでいるにすぎない。花に言わすれば、誠(まこと)に迷惑至極と歎(かこつ)であろう。花のために、一掬(いっきく)の涙があってもよいではないか。」・・・と。

牧野 富太郎のような植物学者でもない、私なども、花の真目的を嘆美することなく、ただ見た目を楽しんでいるだけなので、何と言ってよいかわからないが、彼は、この序文の中間では、今独身貴族を謳歌している人たちにはちょっと頭の痛いことをも書いている。ここではそんなことには触れないこととする。ただ、今のままでは日本の総人口は、2060年には9000万人を割り込み、8,674万人になると推計されている(*8参照)ことだけを記しておこう。これだけ人口が減少すれば、当然、日本の経済力も落ちることは間違いないだろうね。
牧野 富太郎は序文に続いていろいろ花の解説をしているが、リンドウの花については以下のように解説している。

「リンドウというのは漢名、「龍胆」の唐音の音転(おんてん)であって、今これが日本で、この草の通称となっている。中国の書物によれば、その葉は、龍葵(りゅうき)のようで味が(きも)のように苦(にが)いからそれで龍胆(りんどう)というのだと解釈してあるが、しかし葉が苦いというよりは根の方がもっと苦い、すなわちこの根からいわゆるゲンチアナチンキが製せられ、健胃剤(けんいざい)に使われている。
 リンドウは昔ニガナ(*9も参照)といった。すなわち、その草の味が苦いからであろう。また播州〔兵庫県南部〕ではオコリオトシというそうだが、これもその草を煎じて飲めば味が苦いから、病気のオコリがオチル、すなわち癒(なお)るというのであろう。また葉が笹のようであるから、ササリンドウの名もある。
 リンドウは向陽(こうよう)の山地、もしくは原野の草間(そうかん)に多く生ずる宿根草(しゅっこんそう)で、茎(くき)は三〇~六〇センチメートルばかり、葉は狭(せま)くて尖(とが)り無柄(むへい。=葉柄を欠いた)で茎を抱いて対生(たいせい)し、全辺で葉中(ようちゅう)に三縦脈(じゅうみゃく)があり、元来緑色なれど、日を受けて往々紫色に染(そ)んでいる。秋更(ふけ)ての候(こう=季候。時候)、その花は茎頂(けいちょう。=植物の茎の先端部分で細胞分裂が行われる部分)に集合して咲き、また梢葉腋(しょうようえき)にも咲く。花下(かか)に緑(りょくがく)があって、尖がった五つの狭長片(きょうちょうへん。狭長=細長い)に分かれ、花冠(かかん)は大きな筒をなし、口は五裂(れつ)して副片(ふくへん)がある。この花冠は非常に日光に敏感であるから、日が当たると開き、日がかげると閉じる。
 ゆえに雨天の日は終日開かなく、また夜中もむろん閉じている。閉じるとその形が筆の頴(ほ=ほさき)の形をしていて捩(ねじ)れたたんでいる。色は藍紫色(らんししょく)で外は往々褐紫色(かっししょく)を呈(てい)しているが、まれに白花のものがある。筒中(とうちゅう)に五雄蕊(ゆうずい)と一雌蕊(しずい)とが見られる。花後(かご)には、宿存花冠(しゅくそんかかん)の中で長莢(ちょうきょう=ながさや)状の果実が熟し、二つに裂て細かい種子が出る。このように果実が熟した後茎(くき)は枯(かれ)行き、根は残るのである。
 花は形が大きく且(かつ)はなはだ風情があり、ことにもろもろの花のなくなった晩秋に咲くので、このうえもなく懐かしく感じ、これを愛する気が油然(ゆうぜん)と湧(わき)出るのを禁じ得ない。されども、人々が野や山より移して庭に栽植しないのはどうしたものか、やはり、野に置けれんげそうの類かとも思えども、しかしそう野でこれを楽しむ人もないようだ。
 リンドウはリンドウ科( Gentianaceae )に属し、わが邦(くに)では本科中の代表者といってよい。そしてその学名は Gentiana scabra Bunge var. Buergeri Maxim. である。この学名中にある var. はラテン語 varietas(英語の variety)の略字で、変種ということである。
このリンドウ属(Gentiana)には、わが邦(くに)に三十種以上の種類があるが、その中でアサマリンドウ(*10のここ参照)、トウヤクリンドウ(*1のここ参照)、オヤマリンドウハルリンドウフデリンドウ、コケリンドウ(*11参照)などは著名な種類である。右のアサマリンドウは、伊勢〔三重県〕の朝熊山(あさまやま)にあるから名づけたものだが、また土佐〔高知県〕の横倉山にも産する。
 根の味が最も苦く、能(よ)く振ふり出して健胃(けんい)のために飲用するセンブリは、一(いつ)にトウヤク(当薬)ともいい、やはりこのリンドウ科に属すれど、これはリンドウ属のものではなく、まったく別属のもので、その学名を Swertia japonica Makino といい、効力ある薬用植物として『日本薬局方』に登録せられている。秋に原野に行けば、採集ができる。」・・と。

リンドウの花の説明の中でも、牧野が言いたい花の真目的のことはきっちりと述べられている。彼が如何に草木を重要なものと考え愛していたかは最後の“あとがき”のところを読めばわかる。時間があればぜひ読まれたい。

補足すると。りんどう(竜胆)の属名のGentiana(ゲンティアナ)は紀元前180年~167年に存在したイリュリア王国(現バルカン半島西部)の最後の王ゲンティウスに由来したものだそうだ。、古代ローマの博物学者大プリニウスが著した百科全書的な書『博物誌』に彼がリンドウの薬効を発見したということが書かれているそうだ(*1また、*12参照)。
上記牧野 富太郎の『植物知識』に出てくる「オヤマリンドウ」(学名:Gentiana makinoi)、「センブリ」(千振、学名:Swertia japonica (Schult.) Makino)の学名にある、makinoi や、Makino
は、牧野富太郎の名に因んだものである。彼が命名したものは2500種以上(新種1000、新変種1500)とされ、自らの新種発見も600種余りとされている。

日本では平安時代中期に作られた源順の『和名類聚抄』((『和名抄』とも)は龍膽(竜胆)の和名として、「衣也美久佐」(えやみくさ)や「爾(尓)加奈」(にかな)」」と名づけた。全草は苦く、それを中国では竜の胆に例え、日本では万葉仮名を読み替え「笑止草(えやみぐさ)」、や「苦菜(にがな)」と名づけたようである(*1参照)。しかし、エヤミとは『疫病』を意味する古語であり、「笑止草(えやみぐさ)」は「疫(えやみ)草(ぐさ)」かと思うが、エヤミ「瘧」とも書くことから「瘧草」(わらわやみぐさ)ともなるのかもしれない。そうすれば「瘧草」(わらわやみぐさ)から「笑止草(えやみぐさ)」への転嫁も考えられる。
竜胆は天平5年(733年)に完成した『出雲国風土記』の神門郡(*13の〔凡諸山野所在草木〕のところ参照)に初見するが、『万葉集』では歌われていないそうだ。リンドウは竜胆の音読みで、『枕草子』に、以下のように読まれている。

竜胆(り敬老の日」のプレゼントとして人気の高い花のようだ。
理由は、ちょうど最盛期の花ということに加えて、リンドウの色(紫)が、聖徳太子のはじめた冠位十二階制度の中で、当時一番高位の色とされていた。そのことから、リンドウの色の紫色が古来より位の高い人、尊敬に値する人に身にまとってもらう色として大切にされてきたこと、リンドウの落ち着いた日本情緒あふれる雰囲気が、「シルバー世代」の好みに合うといったイメージが出来上がっているからではないかな?
それに、9月16日頃が、ちょうど「敬老の日」の時期に当たる。「敬老の日」は、9月の第3月曜日。今年・2015年の場合は、9月21日がその日になる。プレゼントにはまだ日がある。プレゼントには、リンドウの花など添えられてはどうだろう。

参考:
*1:跡見群芳譜巻五 野草譜- 跡見学園
http://www2.mmc.atomi.ac.jp/web01/Flower%20Information%20by%20Vps/Flower%20Albumn/chap5.htm
*2: 9月生まれの人の誕生花 ・花言葉| チルの工房【无域屋】花札庵
http://chills-lab.com/lofday/month-09/#16
*3:季節の花300
http://www.hana300.com/aatanjyo09.html
*4:りんどう鴉 | Movie Walker
http://movie.walkerplus.com/mv24950/
*5:高村光太郎 山の秋 (青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/001168/files/43782_25641.html
*6:曹洞宗 法音山 昌歓寺
http://ww5.et.tiki.ne.jp/~jin-s/
*7:牧野 富太郎『植物知識』(青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/001266/files/46821_29301.html
*8:(2)将来推計人口でみる50年後の日本|平成24年版高齢社会白書
http://www8.cao.go.jp/kourei/whitepaper/w-2012/zenbun/s1_1_1_02.html
*9:野の花散歩・ニガナいろいろ
http://www.geocities.jp/mc7045/sub74.htm
*10:四季の山野草図鑑
http://www.sanyasou.com/index/idx_flame.htm
*11:コケリンドウ/みんなの花図鑑 - 総合花サイトみんなの花図鑑
https://minhana.net/wiki/%E3%82%B3%E3%82%B1%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A6
*12:Fringed Gentian | Satchanから自然便り
http://plaza.rakuten.co.jp/washingtonbird/diary/200610050000/
*13:出雲国風土記(原文) - Synapse
http://www3.synapse.ne.jp/kintaro/c400files.htm
*14枕草子(堺本)
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/makurasakai.html
<7>青雲の志7林虎彦その3 学名に「マキノ」鼻高々 : 地域 : 読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/local/kochi/feature/CO003998/20130405-OYT8T01405.html
国立国会図書館デジタルコレクション - 和名類聚抄 20巻
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2606770
366日・誕生花の辞典
http://www.366flower.net/
誕生花 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%95%E7%94%9F%E8%8A%B1

五月雨忌(村下孝蔵の忌日)、ヒット曲「初恋」に因み『恋』について

2015-06-24 | ひとりごと
今日6月24日は『五月雨忌』。歌手・村下孝蔵の1999(平成11)年の忌日。
Wikipedia によれば、村下孝蔵は、1953(昭和28)年2月28日、熊本県水俣市の生まれ。子供の頃、ロカビリーに夢中になっていた。ベンチャーズに憧れ、12歳の時映画『エレキの若大将』(1965年公開)で加山雄三の『夜空の星』を聴いたことをきっかけに「ボクも作曲する。歌う。エレキギターも持つ」と言うようになったという。
当時東宝の若手看板スターとして大活躍していた加山の娯楽映画『若大将シリーズ』の一つ『エレキの若大将』では、加山の代表曲である『君といつまでも』(歌詞J-Lyric.netのここ参照)と『夜空の星』(歌詞J-Lyric.netのここ参照)の2曲が挿入歌として歌われていた。いずれも、作詞は岩谷時子で、作曲は弾厚作(加山自身の作曲家としてのペンネーム)である。
いずれも『恋』の歌であり、映画では、『君といつまでも』は戦場ヶ原で若大将の雄一(加山)と恋人役の澄子(星由里子)がデュエットするシーンで歌われ、『夜空の星』は、エレキ合戦のシーンと日光でのシーンに使用されていた。
どちらの曲も大ヒットしたが、当時としては、ちょっと恰好良すぎてキザにも感じられたが加山のような良い男が照れながら言っているから良いのだろうが、「幸せだなァ・・・」の有名なセリフで知られる、『君といつまでも』は350万枚の大ヒットになり、1966(昭和41)年の第8回日本レコード大賞の大本命とされていたのだが、結局大賞は同曲に比べ売り上げ面で劣る橋幸夫の『霧氷』が受賞することとなり、「君といつまでも」は特別賞に留まった。当時それまで、格好良い男性としては石原裕次郎などがいたが、タフガイの石原などとは全くタイプの違う清々しい感じの若大将・加山だからこそ似合う恋の歌という感じである。当時としてはモダンすぎた。まだまだ、橋幸夫や舟木一夫の歌が大もての時代であった。

高校を卒業した村下は得意の水泳で実業団・新日本製鐵八幡製鐵所入社するが9月には、退職し、当時父親が東洋工業に転職して広島市に転居したのを機に、自身も広島へ移り、1972(昭和47)年、日本デザイナー学院広島校インテリアデザイン科へ入学。友達がいなかった村下は、平和公園で一人でギターを弾くことが多かったという。
『エレキの若大将』に憧れ、ベンチャーズに心酔していた村下が、広島でエレキ・ギターフォークギターに持ち替え、曲作りを始めた理由は、当時の広島は吉田拓郎のコピーをやる人が多く、フォークギターを持たなければ仲間が作れなかったためであったという。
日本デザイナー学院卒業後ヤマハ広島店に就職し、2年間、ピアノ購入契約で実績を挙げ、1975(昭和50)年からはピアノ調律師として勤務する傍ら、ホテルのラウンジで弾き語りのアルバイト等で地道に音楽活動を継続.1979(昭和54)年、26歳の時、ヤマハを退社し自主制作レコード『それぞれの風』を発表。これが地元テレビのディレクターに認められたのがプロとしてデビューするきっかけとなったようだ。
同じ頃、知人のライブハウス店主から勧められ、当時のCBSソニー(現在のソニー・ミュージックエンタテインメント)の全国オーディション(第1回CBS・ソニーオーディション)に応募し、グランプリを獲得。これがきっかけとなって27歳にしてシングル『月あかり』でプロ歌手としてデビューすることになったという。
その後、『春雨』(1981年)、『ゆうこ』(1982年)を発売、そして、1983(昭和58)年、30歳にして発表した5枚目のシングル『初恋』が、オリコンチャートで最高3位を記録する大ヒットとなった(※1参照)。
『初恋』は村下がバラードとして作ったものを編曲家の水谷公生がテンポを上げてポップ系に編曲し、村下がそれを受け入れたことで完成をみた楽曲であったという。
『初恋』発売の前後に村下は肝炎を患い、『初恋 』がヒットしてもテレビ番組にはほとんど出演できなかった。また、肝炎が原因で広島と東京の往復が出来なくなり、1984(昭和59)年末には生活の拠点を東京に移し、同年秋から全国ツアーを開始したが、翌1985(昭和60)年に再び体調が悪化し、入退院を繰り返していたようだ。
その後、1989(昭和64.平成元)年、『陽だまり』、アルバム『野菊よ 僕は…』を、1992(平成4)年シングル『ロマンスカー』を発売するが芳しくはなく、この時期の村下は試行錯誤の末、「自分には"初恋"を越える曲はできんかもしれん」「時代は追いかけるものではなく、巡りくるもの。向こうからやってくるのよ」という境地に至っていたという。
1999(平成11)年6月20日、駒込のスタジオでコンサートのリハーサル中に突然体調不良を訴え、入院。診察で「高血圧性脳内出血」と判明した直後、意識不明の昏睡状態に陥り、僅か4日後の6月24日に死去したという。<享年46歳>。
命日である6月24日は、ヒット曲『初恋』のワンフレーズより、五月雨 (さみだれ。梅雨)の時期であることから「五月雨忌」と呼ばれ、10年以上経過した今でもメモリアルイベントが開催されているそうだ。また、村下の死去から14年を経た2013(平成25)年、故郷水俣市の商店街『ふれあい一番街』に「初恋」の歌碑が建立され、商店街ストリートの名称もこれにちなみ『初恋通り』と改名されたという。
ただ、正直私は村下のことは余り良く知らないのでこれ以上彼自身のことを書く材料がない。従って、今日の「五月雨忌」が彼の最大のヒット曲『初恋』から名付けられたものと言うので巨はそのことに因み、『恋』をテーに書くことにする。まずはそのヒット曲を聞くことから始めよう。


上掲は、村下孝蔵のヒット曲 『初恋』。歌詞は、以下を参照されるとよい。
村下孝蔵 初恋 歌詞- J=Lyric.net

五月雨は緑色
悲しくさせたよ一人の午後は
恋をして寂しくて
届かぬ想いを暖めていた
好きだよと言えずに初恋は

・・・と続く『初恋』の歌の冒頭の歌詞「五月雨は緑色」。どんよりとした梅雨時の景色から、この時期の色としては、はなんとなく薄いグレーを思い浮かばせたりするかもしれないが・・・・。
卯の花月(卯の花の咲く月の意。旧暦4月の 異称)に取って代わる五月雨(旧暦5月に降る雨)は、「卯の花腐(くだ)し」とも呼ばれる。そんな露雨(つゆあめ=梅雨)によってこそ「新鮮な若葉」が映えて来るのだとすると、「五月雨」にふさわしい色は「緑色」と言えるのかも知れない。
そんな梅雨時に一人でいると何となく悲しくて、そして、特に恋をしていると淋(さび)しくもなるものだろう。
【淋】という字にはもともとは「さびしい」という意味はない。元来は水が注いだり、したたるさま、さらに転じて長雨のことを指すようになった(ニコニコ大百科参照)。【淋】を「さびしい」意味に用いるのは日本独特の用法で、おそらくは淋雨(梅雨などの長雨)に降り込まれて行き場のない侘(わび)しさから連想したものだろうといわれている。
「好きだよと言えずに初恋は…」と、青春の甘酸っぱさが曲全体に広がるこの『、初恋』の歌。「30にもなって何を青臭い歌を歌っているんだと思うかもしれないが、今だからこそ歌える歌でもある。中学生の頃の感覚を残しておきたいんです」・・・と村下は言っているそうだ。
歌詞は村下の実体験に基づいたもので、熊本の中学時代、テニス部の女の子を好きになった。放課後の校庭をラケットを握りながら、走り回る可憐な少女。それを校舎の窓から見る孝蔵少年。「好きだよ」のひと言が言えないまま、彼女は転校してしまった。その面影がいつまでたっても忘れられない…。・・・のだと。
この曲、梅雨時の6月に有線放送やラジオのヒットチャート上位に入り、レコード売り上げもアップしたが、切ないフォーク調の歌は、レコードを普段あまり買わない中高年にも支持されたという(※1参照)。
叶わなかった初恋の苦い経験は私にもあるが、それは誰にでもあるのではないか。梅雨時に、バーで独り侘しく飲んでいる時などに有線でこのような歌を聞いていると、いい年したおっさんも若い時のことを思い出して、ちよっとおせんち(sentimental)になったりするものだ。

“初恋”といえば前にも、このブログ10月30日「初恋の日」でも書いたのだが、島崎藤村が『文学界』(1896年)に発表した『初恋』というタイトルの詩を思い出した。この詩を収めた処女詩集『若菜集』(※2「青空文庫」の藤村詩抄参照)は翌1897(明治30)年8月に刊行されている。藤村のこの詩は日本の近代詩を代表する傑作と言われており、多くの人が一度は、中学か高校生の頃に読んでいるのではないだろうか。

まだあげ初めし 前髪の 林檎のもとに 見えしとき
前にさしたる 花櫛の 花ある君と 思いけり

やさしく白き 手をのべて 林檎をわれに あたへしは
薄紅の 秋の実に 人こひ初めし はじめなり

わがこころなき ためいきの その髪の毛に かゝるとき
たのしき恋の 盃を 君が情に 酌みしかな

林檎畑の 樹の下に おのづからなる 細道は
誰がふみそめし かたみぞと 問いたまふこそ こひしけれ

藤村の「初恋」の詩に、若松 甲が曲をつけ、歌手・舟木一夫により歌われた同名の歌『初恋』がある。NHK紅白歌合戦(1969=昭和44年第20回)でも歌われていた。「初恋」は七五調のリズムで書かれていて日本人には馴染みやすい歌だ。「初恋」の詩は4番まであるが、歌では4番は歌われていない。


上掲は、舟木一夫 初恋(昭和46年)
「まだあげそめし前髪」は、「髪をあげてまだ日がたたない少女の前髪」のことであり、髪をあげるとは明治時代では、少女が12、3歳頃になると、肉体的な成熟を迎えたとして、大人になった印に、それまでの振り分け髪(今で云う「おかっぱ」)から(まげ)を結い髪形を変えた。
藤村の『初恋』は、単に初々しい恋を詠った作品というよりは、そんな成人を迎え、大人の仲間入りをした女性に、あこがれと淡いエロスを感じている少年の姿を描いた、つまり、この初恋は「禁断の恋」であったようだ(詳しくは、上記の私のブログ「初恋の日」また※3参照)。

「恋をしましょう 恋をして
浮いた浮いたで 暮らしましょ
熱い涙も 流しましょ
昔の人は 言いました
恋はするほど 艶がでる(繰り返し)

・・・と詠ったのは、演歌歌手畠山みどりの『恋は神代の昔から』(作詞:星野哲郎 作曲:市川昭介)。


上掲は、恋は神代の昔から 畠山みどり (1978)
1960(昭和35)年、素人のど自慢番組『トップライトショウ』(ニッポン放送)で優勝したことでレコード会社の関係者の目に入り、日本コロムビアに入社。入社後1年4ヶ月間、船村徹の下でレッスンに通う傍ら、島倉千代子などコロムビアの看板歌手の前座を努めた後、1962(昭和37)年にこの曲でデビューした。扇片手に袴姿という奇抜さもあいまって、畠山の名は一躍、全国に知れ渡ることとなった。
村下が、加山の『夜空の星』を聞いた3年前のこと。歌のタイトルじゃないけれど、“恋は神代の昔から”・・・とはよく言ったもの。
【恋】とは、一般には、特定の異性に強く惹(ひ)かれ,会いたい,ひとりじめにしたい,一緒になりたいと思う気持ち(大辞林 第三版)。また、切ないまでに深く思いを寄せること。恋愛(デジタル大辞泉)。…と解説されている。
「恋に上下の隔てなし」と云うことわざもある。つまり、恋をするのに、家柄(家系や地位)や、貧しさ、豊かさなどの、区別はなく、 お互いの心に、思い抱く気持ちしだいであるということ(「恋に上下の差別なし」とも)。老若男女を問わず昔から誰もが“恋をし、心をときめかせ、また、それが実らず悩んだりしてきたものだ。
現存する日本最古の歌集『万葉集』には、数々の恋の歌がある。その恋・愛の形はさまざまで、その時代を生きた 人たちの心を知る事ができるとともに、今の私たちの気持ちと何ら変わることのない恋の 喜びや苦しみを共有することができる。日本語の中にまだ仮名と呼ばれるものができる前に書かれたもので、 原文は全部漢字で書かれているが、ここでは現代語訳文で大伴坂上郎女の歌を2~3紹介しておこう。訳文等は、※4:「やまとうた」の千人万首:大伴坂上郎女を参照)、
坂上郎女は、大伴安麻呂石川内命婦の間の子。稲公の姉。大伴旅人の異母妹。家持の叔母、姑でもある。
額田王以後最大の女性歌人であり、『万葉集』には、長歌・短歌合わせて84首が収録されており、女性歌人としては最多入集であり、全体でも家持・人麻呂に次ぐ第三位の数にあたる。

我あれのみぞ君には恋ふる我が背子が恋ふと言ふことは言ことのなぐさぞ(万4-656)
【通釈】私の方が一方的にあなたに恋しているのです。あなたが恋していると言うのは、口先だけの慰めなのですよ。

思へどもしるしも無しと知るものを何かここだく我あが恋ひ渡る(万4-658)
【通釈】いくら恋しく思っても、何の甲斐もないと知っているのに、どうしてこれ程私はずっと恋し続けているのだろう。
やるせないね~、片思いの苦しさがよく伝わってくる歌だ。

黒髪に白髪しろかみ交じり老ゆるまでかかる恋にはいまだ逢はなくに(万4-563)
【通釈】黒髪に白髪が混じって、これほど年寄るまで、こんな恋にはまだ出逢ったことはありませんことよ。
【補記】この歌は、天平元年から二年頃の作と推測され、郎女は30歳前後。この時代の結婚年齢は、 一般的に男性が17~8歳前後で、女性は13歳くらいで結婚していたと言うから、30歳と云えば、おばあちゃん扱いされる年代。
例え女性でも、おばあちゃんと云われる年代になっても、色恋だけは、なくならないもの。いや、相手にされないと思うと余計に恋しさはつのるのかもしれない。これは、男性であっても同じことだろう。
『万葉集』の多くはじつは恋愛の歌である。以下参考※5「たのしい万葉集」では、そんな“恋の歌”を分類し、まとめている。どんな歌があるか興味のある人は覗いてみるとよい。今の私たちの気持ちと何ら変わることのない恋の喜びや苦しみを共有することができるだろう。

たのしい万葉集:恋の歌

○ある一人の人間のそばにいると、他の人間の存在などまったく問題でなくなることがある。それが恋というものである。
ツルゲーネフ(ロシアの小説家 / 1818~1883)

○誠の恋をするものは、みな一目で恋をする。
シェイクスピア(英国の劇作家、詩人 / 1564~1616)

○わたし、おりこうな女になんてなりたくないわ。だって、恋に落ちたんですもの。
リリアン・ヘルマン(米国の脚本家 / 1905~1984)

○恋をして、しかも賢くあることは不可能だ。
フランシス・べーコン(英国の哲学者、神学者、法学者 / 1561~1626)

○我々は恋をすると、現在はっきりと信じているものまでも、疑うようになるということが、しばしばあるものである。
ラ・ロシュフコー(フランスの貴族、モラリスト文学者 / 1613~1680)

○真の恋の兆候は、男においては臆病さに、女は大胆さにある。
ヴィクトル・ユーゴー(フランスのロマン主義の詩人、小説家 / 1802~1885)

○恋は全て初恋です。相手が違うからです。
中谷彰宏(日本の作家、俳優 / 1959~)

昔から、恋にまつわる名言は無数に存在する。先に挙げた名言は、以下参考の※6:「e恋愛名言集」にあるものを引用させてもらった。
日本では、
「恋は盲目」(恋は常識や理性を失わせてしまう,の意。)
『恋は思案の外』(恋は常識や理性では割り切れないものだ。)
『恋は闇』(恋は人の理性を失わせるということのたとえ。また、恋の逢瀬(おうせ)には暗闇が好都合の意にも用いる。)
なんて言葉があるように胸を焦がすような恋に落ちると、人は冷静ではいられなくなる。恋は昔から、人の心を掻き乱し、周りを見えなくさせて、常識や理性を失わせて判断力を狂わせてしまう・・・。これは、誰でも一度は経験があるのではないですか?
最新の科学研究では、どうやらこれらのことが本当あることが明らかになっているのだという。
人は恋に落ちると脳内麻薬といわれる脳の中で分泌されるホルモン”ドーパミン”(快楽ホルモン)が放出され、脳が快感を感じ、これが、→全身に興奮が伝わり、鼓動が早まって胸がドキドキする→恋愛特有の症状が起こる。・・・ことにつながっているのだと言う。つまり、このようなのメカニズムが関係しているのだそうだ(※7、※8参照)。
そして、男女の結び付きに重要となるドーパミンを意図的に増やことは可能なのだという。ええ・・・!ドーパミンを増やすことができるの?・・・ちょっと気になりませんか。そんな人は、参考※8を参照されるとよい。
ただ, 脳科学的な側面からは、恋がもたらす人体の影響についてわかり始めているが、恋愛に関する心理学の専門家は「恋の感情が雪だるま式に暴走した結果、ストーカー行為を生じることもあるが、残念ながらその原因を突き止めるにはいたっていないらしい(※7参照)。
ストーカー行為にまで行くのは別として、恋に燃えてしまうほど、相手しか見えなくなり、それ以外が見えなくなってしまうことはよくある。好きであるほど、相手一点に集中しすぎてしまうために、脳内バランスが悪くなってしまうのだが、恋に燃えている本人には、「それがなぜ悪い」と分からなくなってしまう。そのため気づかないうちに、友人関係、家族関係、勉強や仕事に集中ができなくなり、学業にも専念できなくなってしまったりする。このようなことは結婚前のまだ若いときであれば、「若気の至り」で許されもするが、結婚後では痛みが大きい。そのため、「恋は盲目」という恥ずかしい経験は、できれば早いうちに経験しておいた方が良いのだろう。
人生80年の時代、健康で長生きするのには、老いても恋心はなくしたくないが、えてして、「老いらくの恋」は行き着くところまで行ってしまうこともある。なかなかうまくゆかないものだが、恋をしたい人は、恋愛にかんする心理学的なものをまとめたブログもあるので、興味があれば、以下参考の※9や10など参照されるとよいだろう。

冒頭の画像は村下孝蔵の CD『初恋~浅き夢みし』ジャケット。絵は村上保の切り紙絵。

参考:
※1:365日 あの頃ヒット曲ランキング 【1983年6月】初恋/村下孝蔵
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/yomimono/music/anokoro/06/kiji/K20110624001067080.html
※2:青空文庫/作家別作品リスト:島崎 藤村
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person158.html
※3:誤解される初恋・・
http://poemculture.main.jp/touson01.html
※4:やまとうた
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/index.html
※5たのしい万葉集
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/index.html
※6:e恋愛名言集
http://rennai-meigen.com/koi/
※7:「恋は盲目」「恋は麻薬」は本当だった! 最新研究で恋がおよぼす影響が明らかに
http://rocketnews24.com/2012/11/19/266596/
※8:蓮香先生の「恋愛」クリニック
http://www.sunmarie.com/msn_renka/index18.html
※9:心理学:恋愛心理(ガールズ)- NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/topic/1M63K
※10:恋愛初心者のための30の基本基本 | HappyLifeStyle 
https://happylifestyle.com/2865
村下孝蔵-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8B%E5%AD%9D%E8%94%B5

床屋さんのサインポール

2014-06-25 | ひとりごと
「床屋さんはどこも赤青白の3色の回転灯が店の前にあるけれど、どうしてかな~?」

子育てしたことのある人なら、だれもが小さな子供の質問にどきまぎさせられた経験を持っているのではないだろうか。
北極と南極の氷、どう違う?(03/15)
植物にも体温はあるの?(03/29)
クモの巣はどう作る?(04/05)
好奇心の旺盛な子供に、このような質問を次々とされたらどうします?
私は新聞などちょっと面白いと思った記事を見つけるとスクラップを残してあるのですが、冒頭の質問は、2011(平成23)年の今日・6月25日付朝日新聞朝刊 be 連載の「ののちゃんのDO科学」欄に掲載されていたののちゃんの疑問である。以下の質問も同様。以下参照。
朝日新聞デジタル:ののちゃんのDO科学一覧

さて、先に書いた床屋さんの赤・白・青の三色の縞模様がクルクルと回転する細長い円柱形の看板はサインポール(signpole)と呼び、今では、理容店を 示すシンボルともなっている。
営業中であることを表すため回しているが、この三色の「サインポール」は、世界共通のマークだという。
サインポールの由来には諸説あるようで、Wikipediaには4種類の説を上げている(※1参照)が、「ののちゃんのDO科学」ではののちゃんの質問に対して、その中の一説を藤原先生が、確からしいところの話として以下のように説明していた。
中世のヨーロッパでは、歯を直したり傷を手当てしたりする人たちが理髪外科医と呼ばれ、髪を整える仕事もしていた。
その治療法の中に「瀉血(しゃけつ)」というのがあり、体の悪い部分に、悪い血が集まるから、病気を治すためにその血を体外に出そうとした。当時はこのような方法が盛んだったようで、患者に棒を握らせて、血が棒を伝わって受け皿へ落ちるようにしていた。
だから血が目立たないように棒は赤く塗られていたらしい。治療後に巻く白い包帯が棒に巻きついたことがあり、そんな様子から赤と白が理髪外科医の看板に使われるようになったという。
「では、青は何なの?」というののちゃんの説明に、
いろいろな看板が使われるうちに青も加わったみたい。その後、専門性が高まって外科と理髪が分けられるようになり、イギリスで、1745年に仕事別に組合を作った時、外科は赤白、理髪は赤青白を使うようになったんだって。理髪店の団体の人に聞いてもこの説が有力だって教えてくれた。
お医者さんがやっていたことと関係づけて、赤は、動脈、青は静脈、白は包帯を表すという説明も聞く。ただ動脈を赤、静脈を青で表すのは、1628年の発表で用いられたのが最初らしい。
しかし、赤青白を使った看板はその前からあったので、この説は後から広がっただけと言えそうだ。この説は
日本心臓財団のHP※2:「赤いハートは聖杯から」に、もう少し詳しく書かれているのでそこを読まれるとよい。

上掲の画像は、Wikipediaに掲載の「中世ヨーロッパの瀉血」の様子を描いた画像。これを見ると、瀉血をするのに棒をもっているようには見えないが・・・。

それでは、「サインポール」は、何時日本でも使われるようになったのか?
日本には、髪結いという仕事が江戸時代にもあったが 、西洋風の理髪店は1869(明治2)年に横浜が開かれたのが最初。その2年後、赤青白に塗り分けた看板の記録が残っているらしいので、西洋の理髪技術とともに入ってきたようだ。このことは この後でまた書くことにしよう。
「美容院」では赤青白の「サインポール」を使っていないが、「美容院」が法律で区別されたのは第二次世界大戦の後のことであり、その時に、赤青白の「サインポール」は、理髪店が継いだらしい。
よく見るといろんなタイプの「サインポール」があり、型の違いだけでなく、緑やオレンジを使った色変わりタイプ、また、店頭に立てているような大きいものは、存在感はあるが、出し入れが大変と、最近は壁に取り付ける小型のものに人気があるようだ。
では、とりあえず「サインポール」の話はこれまでにして、次は床屋の話に移ろう。
現在の理容店(理髪店)は、一般的に散髪屋、床屋という呼び名が用いられ、「理容室」は男性用であり、「美容室」は女性用といったイメージを持つ人が多いかもしれないが、美容と理容の意味は似ているが、これは男女の区別ではなく、法律で次の通り、業務内容が明確に区別されている。
○理容:頭髪の刈込、顔そり等の方法により容姿を整えること(理容師法第1条の2第1項)
○美容:パーマネントウエーブ、結髪、化粧等の方法により容姿を美しくすること(美容師法第2条第1項)
そもそも、理容の場合、仕事のなりたちは、文明開花散髪脱刀令(明治4年8月9日太政官第399)が発布されたあたりに遡る。しかし、この法令は一般に「断髪令」という名称で知られているが、実際は、髪型を自由にして構わないという布告であり、髷を禁止して散髪を強制する布告ではなかった。
この断髪令が布告される3ヵ月前に、
半髪頭をたゝいてみれば因循姑息の声がする
惣髪頭をたゝいてみれば王政復古の音がする
ザンギリ(斬切)頭をたゝいてみれば文明開化の音がする
という俗謡が新聞に掲載され、流行したが、これは新政府の木戸孝允が新聞の果たす役割が大きいことに着目し掲載させたもので、文明開化にザンギリ頭が欠くことのできないものであるという観念を国民に植え付けたのだそうだ(※3:「全国理容生活衛生同業組合連合会」の理容の歴史のここ参照)。
男性が髪型改革で混乱した影響からか、女性の中から黒髪をバッサリと切ってしまう人が現れた。これに対し、政府部内でもこの現象を問題視して、明治5 年4月5日(1872年5月11日)に「婦女子のザンギリと男装はひっきょう『散髪の儀は勝手たるべし』とのかねての布告の趣旨のとり違えであるから婦女は従前のとおりにせよ」という布告を出すに至り、ついには、明治6年(1873年2 月13日には「婦人断髪禁止令」が出されている。
そののち「婦人束髪会」(著者:豊原国周。※4参照)は、男性の断髪に対する政府の「散髪七徳の広告」(大坂新聞・明治6年1月20付け。※3のここ参照)と同様に、「女子の今日の結髪は、実に無駄遣いである」と結髪の不経済さを説くなどして、執拗に日本髪廃止に力を入れた(※3のここ参照)。以後、新しく開発された近代束髪は明治の女性の間に多く見られるようになるが、 基本的に女性は明治時代になっても髪を結うのが普通であって、「カットでそろえる」という概念はなかったようだ。
そのため、最初は理容美容が一緒だった法律「理容師法」が昭和23年(1948年)1月につくられ、徐々に成熟してきたことによって、昭和32年(1957年)に、単独の法律「理容師法」「美容師法」に分かれたのだという。※3また理美容を参照)。

現在の理容店は、一般的に床屋という呼び名を用いるが、これは江戸時代から明治にかけての理髪業に従事する人を総称し、髪結いといったが、男の髪を結ったり、ひげやさかやき(月代)をそったりするのを職業とした店を「髪結い床」と呼んだことに由来する。

床屋発祥の地は山口県下関市といわれており、髪結職の業祖に関しては江戸時代中期につくられたといわれる「一銭職由緒書」という史料が各地に伝えられているそうで、同書によれば、藤原鎌足の子孫である藤原晴基(または基晴)の三男ともいわれる藤原采女亮政之新羅人から技術を学び髪結所を開業したのが始まりとされているそうだ。
店の中に床の間を設け亀山天皇と藤原家を奉る祭壇があり、人々は“床の間のある店”から転じて“床屋”という屋号で呼ぶようになったという。采女之亮はその後鎌倉に移り、幕府からも重用されるほどになったといわれている。
そして、日本における理美容業の祖として、昭和のはじめ頃まで全国の理美容業者は采女亮の命日である17日を毎月の休みとしていたようだ(※3のここ参照)。

髪を結う場合、自分で髪を結う場合と人に結ってもらう場合がある。
雑用をこなす召使がいる武士と違い、庶民は自分で、月代(さかやき)を剃ることができず髪結いに頼んでいた(貧しい人は月代を伸ばしっぱなしにしたり妻に剃ってもらうなどした)。
江戸時代になって髪結い職というのが、社会的要求から男子の場合は公に許された鑑札制となり、慶長末(17世紀初頭)の高札には「一銭剃り」とか「一文剃り」とあるという(NHKデーター情報部編ヴィジュアル百科『江戸事情』第六巻服飾編)。
男性の髪結いは月代が広まった室町後期位から江戸初期に永楽銭一文程度の料金で髪を結い月代を剃った「一銭剃」が起源だといわれている。髪結いは町や村単位で抱えられ、床と呼ばれる仮店で商売を行ったため床屋とも呼ばれる。
床屋が特に多かったのは独身男性が多い江戸だったが万治年間(17世紀中頃)、江戸市中に髪結床の株を設け、1町内に1か所、八百八町に1件ずつとして八百八株と定めた。床屋の数はこれ以後増え続け、幕末には2400余り開業されているという。
1軒の店舗を構えたりせず江戸初期は江戸も京阪も大きな橋の袂など往来の多い所へ床を置き、葦簀(よしず)や幕の類を巡らして、通行人の求めに応じて月代を剃ったり髪を結った。
江戸の男性はかなり頻繁に床屋に通っていたらしく床屋は番所や社交場としても利用された。
江戸や大阪・京都では、髪結い職人の数を限定して営業保障をする一方、髪結いに対して交役を課し、床屋は幕府に届出して開業した後は町の管理下で見張りなどの役割を果たしており番所会所と融合したものを内床、橋のそばや辻で営業するものを出床、また髪結いの道具一式を納めた道具箱を持って得意先回りをするものは廻り髪結いと呼ばれた(大坂では床髪結は牢番役を務めその中核には一人の組頭がいたという)。
当時の床屋は現在の美容院と違って客の髭を剃ったり眉を整えたり耳掃除までしていたため、かなり長い年月の修行が必要になる技術職でもあったようだ。床屋の料金は天明年間でおおよそ一回280文前後で、月代・顔剃り、耳掃除、髪の結いなおしをする。
一方、得意先と年季契約して出張する「廻り髪結い」は大店などに抱えられており、主人からは一回100文前後、ほかの従業員はその半額程度の料金を取ったという。決められた料金のほかに、「あごつき」といって得意先に食事を出してもらう契約のところもあり、また祝い事のご祝儀なども届けられるなど、腕のよい髪結いならそれなりに余裕のある暮らしを送っていたようである。

上掲の画像は「(洛中)と郊外(洛外)の景観や風俗を描いた江戸時代以降の屏風絵『洛中洛外図屏風』(舟木本、屏風六曲一双)東京国立博物館蔵に、描かれている「床屋と番人」である。原画は以下でみられる。向かって左から2曲目橋の袂に描かれている。

東京国立博物館 - コレクション 名品ギャラリー 館蔵品一覧 洛中洛外図


上掲の画像は、式亭三馬の滑稽本『浮世床』に描かれている「髪結い床」の図である。
この図に出てくる床屋は、長屋の一角に店を構え、客は上り框の板敷に座り、月代や顔をそり、髷を結いなおしてもらっている。親方のほかに下職も何人かいた。湯屋の二階(※5参照)と同様、順番待ちの客にとっては良い社交場でもあった。

上掲の画像は場所回りの髪結床(出床)の図である。向かって左:山東京伝作・画『青楼晝之世界錦之裏国立国会図書館蔵。右:英泉画 「髪結い床の図」名古屋市博物館蔵である。
左図は、遊郭などを回り、夫人の髪を結っている(女髪結い)。女の人の髪は遊女以外は自分で結うことを原則とし、髪を結えれば一人前と言われた。女性の髪を手がける女髪結いは明和年間(1764年から1771年)あたりから登場したようだ。奢侈を戒めることから何度か禁令が出たようだ。また、右図、英泉の『青楼晝之世界錦之裏』の原画は以下でみられる。

電子図書 戯場訓蒙図彙 - 文化デジタルライブラリー


上掲の画像は、歌舞伎を題材とした読み物『戯場訓蒙図彙』(享保3年=1803年 初代(歌川豊国画)に出てくる芝居の楽屋裏に設けられた「床山」の図である。役者の髪を専門に結う職人を床山と呼び、現代もその名は続いている。(※ここに掲載の画像等はいずれも私の蔵書NHKデーター情報部編ヴィジュアル百科『江戸事情』第一巻生活編、第六巻服飾編のものを使用した)。
 
江戸時代までの月代を剃り、髷を結う床屋ではなく、現代的な西洋理髪をする床屋を、明治の初めころは西洋床と呼んでいた。その最初の西洋床は、外国との通商条約(日米修好通商条約を参照)が締結されたことにより開港された港町から始まるが、特に江戸に近い横浜で始まった。
その祖は南京町で開業した小倉虎吉や松本定吉という人物等だとされている。
そして、一般の人たちが、散切り(ざんぎり)頭になったのは、散髪脱刀令が出された後の1873(明治6年)3月明治天皇が西洋風に断髪したことで、官吏を中心にこれに従う者が増え、一般の国民も同様にする者が増えていったが、それでも保守的な男髷姿を選ぶ人を(半ば揶揄して)「丁髷頭」と呼ぶようになった。そして、1887(明治20)年頃には、殆どの人が散切り頭になったといわれている。

これで床屋とサインポールの話は終わるが、「なぜ?」「なぜ?」を連発するののちゃん・・・いや、多くの小さな子供の質問に辟易している人も多いのではないかと思うが、大変なことではあるが、その質問にちゃんと答えてやるのが一番の教育なのだろう。
古代ギリシアの哲学者であるソクラテスは、「知らないのに知っていると思っている人より、知らないので知らないと思っている人(無知の知)のほうが優れている」と言っており、弟子のプラトン等への教育方法としては“相手に問いかけて、答えを相手の言葉で相手の中から引き出す”=“問答法”が有名。
ソクラテスは「 私は自分が何も知らないということを知っている 」と主張して いるのだからソクラテス自身は何も教えはしない。
ただ、知らないから教えてと「問うこと」だけをする。問われた相手の回答に納得できなければ更に問いを出す。
これを繰り返し最後には、相手は自分の納得できる回答をする。この答は 相手の中で出来たもの。だからソクラテスは教えていないことになるのだ。
ソクラテスの場合は「これはなにか?」と問答しながら、結局最後には相手に自らその真実を気づかせている。
これとは逆に、仕事でも勉強でも疑問があった時には、 知らないことは知ったふりをせずに人に聞くことが大切である。
ところが最近の若者は、聞くのが恥ずかしい。まあよくわからないけどいいやと解決しないことが多くあるようだ。
そういうことを積み重ねていると、後々痛い目を見ることになる。
『聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥』・・・という諺もある。
私も現役時代感じたことであるが、学生時代とは異なり、一般社会では仕事のできる人と頭の良し悪し(この場合、一流の大学を出たとか、なんでも良く知っているとか)はあまり関係ない。
仕事のできる人とできない人は「、知らないことを知らないとわきまえているか否か」で決まる。
仕事でも勉強でもできる人ほど、判らないことは判らないと疑問点は質問していることが多い。つまり、知ったかぶりはしていない。
彼らは、聞くことを恥ずかしいなどと思わず、わからないままにしておいて、成果が出ないことを恥ずかしいと思っている人達である。
若いうちは特に誰にでもなんでも聞けるという特権を持っている。年を重ねるほどに聞きづらいことも、若いうちなら許される。そしてチャレンジし、失敗することも・・・・。

生涯に約1300もの発明をしたアメリカの発明家・起業家であるトーマス・エジソンは、発明王また、エジソンの研究所が置かれたニュージャージー州のメンロパークにちなんで「メンロパークの魔術師」とも呼ばれるが、彼の功績は、伝記などに記されている“発明”ではなく“発明”という行為を大勢の人間に認知させたことが何よりも重要なことであったと言われている。
それまでの発明と言うものは「立派な学校を出た一流の科学者が作り出すもの」という既成概念があった。しかしエジソンは幼いころから正規の教育を受けられないという困難に見舞われたが、図書館などで独学し、新聞の売り子(販売員)として働くことでわずかなお金をコツコツと貯め自分の実験室を作った逸話などでも知られている。16歳ころには電信技士として働くようになり、さまざまな土地を放浪しつつも、自力で様々な科学雑誌を読破して学び続けた。耳が不自由になったにもかかわらず、それに負けず、努力を積み重ね成功したことでも知られている。
エジソンは成功した人物として知られているが、その一方で、それと同じくらい、あるいはそれ以上に数々の失敗・敗北を経験したことでも知られいる。
そんな努力の積み重ねで身に付けた科学知識で様々な発明を作り上げていった。そして発明を一般人にも手の届く、アメリカンドリームを実現する手段へと多くの人たちに夢を与えた人であった。
数多くの発明の中では「電球を発明した」人物としても有名だが、実際には電球の原理はエジソン以前にすでに知られ、エジソンの独創ではない。彼は、電球などの家電を含めて発電から送電までを含む電力の事業化をして普及させ、その電気の流れに乗せてさまざまな電化製品を開発・製造・販売した偉大なイノベーターであったのである(※7参照)。
そんなエジソンの名言・格言(※8参照)には、
「失敗したわけではない。それを誤りだと言ってはいけない。勉強したのだと言いたまえ。」
「私は失敗したことがない。ただ、1万通りの、うまく行かない方法を見つけただけだ。」
「私たちの最大の弱点は諦めることにある。成功するのに最も確実な方法は、常にもう一回だけ試してみることだ。」
・・・といったように失敗を恐れないチャレンジする姿勢こそが、成功の条件だと言っている。ただ、当然、判らないことをわからないままにしていたわけではないだろう。自分で知らべ、判らないことは当然誰にでも相談しながら実験した事だろうと私は思っている。
無論、人にものを聞くのに、全く考えずに、質問していてはいけないが、独りで考えても解決しないことは、質問すべきだろう。
何も考えずに質問しても実力はつかない。自分なりに論理を組み立て、ここまではわかるが、この部分がわからない。この部分について、自分はこう思うのだが、なぜこうなのか。といったような自分なりの見解を持って、質問をしなければいけないだろう・・・。
経営の神様と言われる松下幸之助も質問することの大切さを説いている。「成功した秘訣は何か」と聞かれた時に彼は「わからないことがあったら人に尋ねることだ」と答えているのである(※9参照)。

ただ、今日の「床屋さんとサインポール」の質問をしたののちゃんのような小さな子供は好奇心の塊のようなもの。子どもにとってはなにごとも初体験で、自分が知らないことはストレートに素直に聞いてくる。それに対して、「そんなことはもう少し大きくなればわかる・・」などと拒否せずに、なんでも真面目に答えてやることが大切だろう。
そして、ソクラテスじゃないけれど、「それでこれはどうなると思う?」と新たな質問を投げかけて考えさせたり、一緒に百科事典などで調べてみて一緒に勉強してやることがその子の成長へのより動機づけとなるのではないか。
それやこれやで、今日は、「ののちゃんのDO科学」過去記事(※9)などについて、一緒に子供と話しをしてみても面白いかもしれないね。

参考:
※1:サインポール - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB
※2:日本心臓財団HP-赤いハートは聖杯から
http://www.jhf.or.jp/bunko/mimiyori/14.html
※3:全国理容生活衛生同業組合連合会
http://www.riyo.or.jp/
※4: 国立国会図書館デジタル化資料 - 婦人束髪会
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1305531
※5:世風呂:江戸の湯屋・ページ5
http://www5.ocn.ne.jp/~ukiyo26/yuya5.html
※6:自己成長のチャンスは質問力にあった!経営の神様・松下幸之助も認めるその重要性 ...
http://u-note.me/note/47485774
※7:電力事業と計測の歴史 (その1) - 日本電気技術者協会
http://www.jeea.or.jp/course/contents/02102/
※8:トーマス・エジソンの名言・格言集。失敗は勉強である!
http://iyashitour.com/archives/20390
※9:asahi.com:過去記事一覧 - ののちゃんのDO科学 - NIE
http://www.asahi.com/edu/nie/tamate/index2.html



治安維持法

2014-03-10 | ひとりごと
第2次安倍内閣は、昨2013(平成25)年10月25日、防衛・外交など日本の安全保障に関する情報のうち「特に秘匿することが必要であるもの」を「特定秘密」に指定し、取扱者の適正評価の実施や漏洩した場合の罰則などを定めた法律「特定秘密保護法」の法案を安全保障会議で了承を経たうえで閣議決定して第185回国会に提出し、同年12月6日に成立させ、12月13日に公布した。公布から1年以内に施行されることになっている(同法附則第1条)。
これに対して、マスメディアなどが「特定秘密保護法反対」の大合唱を唱えている。
その反対理由として一番よく耳にするのが「戦前の治安維持法(法律第54号)のように言論統制を行なう法律だ」というものである。

治安維持法は、全33条より成る(うち2条削除)治安警察法(明治33年3月10日法律第36号)とともに、戦前の有名な治安立法として知られている。
先ず、最初に、予備知識として、上記2つの治安立法成立の目的を書いておこう。
日清戦争後の資本主義の発展とともに労働運動黎明期を迎え、労働組合期成会の結成(1897)を起点に労働組合運動の発足と争議の多発化に悩まされていた。また、海外からは社会主義運動の普及が始まった。
明治政府は自由民権運動抑圧に用いた刑法270条や集会及政社法(集会条例また※1参照)、治罪法(※2も参照)などの諸法律では対応できないと考え労働運動の取締りなどを目的に新たな治安立法として制定(1900年)されたものが治安警察法(明治33年3月10日法律第36号)である。
旧憲法下で,政治集会,結社,デモなどを取り締まり、政治結社・集会の届出,女子・教員・軍人などの政治結社加入禁止を定め,集会などの解散権を警察官に与えた。
一方の治安維持法(1941年=昭和16年3月10日法律第54号)は、国体皇室)や私有財産制を否定する運動を取り締まることを目的として制定された法律であり、当初は、1925(大正14)年4月22日に法律第46号として制定され、1941(昭和16)年に全面改正されたものである。
余談だが「治安警察法」(明治33年)の制定日と1925(大正14)年制定の「治安維持法」(昭和16年)の全面改正日が奇しくも今日と同じ3月10日である。

治安維持法は1925(大正14)年4月22日に公布され、同年5月12日に施行。普通選挙法とほぼ同時に制定されたことからよく「飴と鞭」の関係にもなぞらえられるが、なぜ両法は1925年(大正14)年3月の護憲三派による第1次加藤高明内閣による第50回帝国議会でほとんど同時に成立したのであろうか。
普通選挙法も治安法も第一次世界大戦における民衆の政治化の所産である。
普選運動は日清戦争に始まるが、全国的な要求運動は1919(大正8)年に盛り上がる。運動は1920(大正9)年春の第14回衆議院議員総選挙で普選反対を唱える党首原敬政友会の圧勝に水を差されはしたものの、1922 (大正11)年春の第45帝国議会で、野党の憲政会国民党(のちの革新倶楽部)との統一普選案が出来たことで復活する。
一方労働者・農民の普選運動の高揚を背景に、1920(大正9)年には、日本社会主義同盟が結成され、1921(大正10)年春には当時は非合法な秘密結社日本共産党(第一次共産党)が生まれる。
この動きを察知した司法省や内務省は原敬首相の意向のもとに「危険思想」取り締まりのための新しい治安立法に着手して、「過激社会運動取締法案」を第45回議会に提出するが野党や言論界の強い反対で審議未了となリ、普選法案と新治安立法案は相打ちする型となった。
治安立法優先の政友会・官僚勢力路線と普選優先の野党路線の結合の道は関東大震災(1923年=大正12年9月1日)の直後に成立した第2次山本権兵衛内閣によって開かれた。
普選主張の先頭に立つ逓信大臣犬飼毅と治安立法の推進者で司法大臣の平沼騏一郎との間に、両社抱き合わせの相互承認が行われた。
山本首相は、普選実現を声明し、議会は大震災下の緊急勅令治安維持ノ為ニスル罰則ニ関スル件(大正12年勅令第403号)を承認した。
同年12月に起きた虎ノ門事件の政治的責任から、山本内閣が総辞職した後、総選挙施行のため中立的な内閣の出現を望む西園寺公望の推薦によって登場した清浦奎吾内閣に対して、第2次護憲運動が起こり、選挙戦となった。
衆議院の政友会、憲政会、革新倶楽部の三会派(いわゆる護憲三派)は普選を公約し、他方政府の与党・政友本党は「独立の生計」の条件付き普選を主張した。
「独立の生計を有する者」(※3:新聞記事文庫 「独立の生計」参照)とは、事実上所帯主を意味し、有権者は30%以上減る。
選挙戦に圧勝した護憲3派の連立内閣は公約通り、普選法案を代50議会に提出した。天皇の諮問機関で、重要法案の事前審査権を持つ枢密院は官僚勢力の牙城であったが、普選法を承認するに際し、「思想ノ取締」を「必要条件」(平沼)とした。
一方枢密院は、同時に進行していた日ソ基本条約の審査にあたっても「過激思想」の流入を取り締まるため「最も有効凱切(非常に大切な。ぴたりと当てはまる)なる措置ヲ実施」せよと求めた。
政府は2月20日の枢密院本会議の普選法案採決の前日に治安維持法案を衆議院に緊急上程した。
明治政府は、枢密院の強要に屈して治安維持法案を提出したのではない。普選と治安維持を抱き合わせる・・・つまり、労働者・農民にも選挙権を与えるが、その政治的進出は極力抑制する・・・という山本内閣の方針は受け継がれ、治安維持法立案の作業は清浦内閣下ですでに始まっていた。
政府原案は「国体もしくは政体ヲ変革シ、マタハ私有財産制度を否認スルコトヲ目的トスル」結社その他の行動を最高刑罰10年の重刑で取り締まるというものであったが、衆議院では「政体」の2字は専制的官僚機構への批判の自由まで束縛する恐れがあるとしたうえ、3月7日ほとんど全院一致で可決した(反対議員は18議員)。3月19日貴族院も可決した。
普選法は貴族院の抵抗でもめたが、ここで流産すれば「過激思想」が盛んになるという認識で一致した元老院西園寺公望や政府首脳の努力で、会期延長の末3月29日に成立した。普選法と治安維持法はどちらか一方が先に成立することは当時の政治力学上不可能であった。

●上掲の画像は普選法が成立してホット一息の大臣。前列右から若槻内相、幣原外相、犬飼逓信相、高橋農商務相、加藤首相、岡田文相、(3月29日)。加藤首相は「多年の懸案であった普通選挙・・・等』国民の権利に関する問題を解決し得たから此議会は永く日本の憲政史上に特筆されるべきものであろう」(3月30日付朝日新聞)と談話を発表したという(『朝日クロニクル週刊20世紀』1925年号)。

第2次世界大戦前の治安維持法も後に改悪を重ねて悪法に成長していったが、当初はおとなしいものであった。
先にも書いたように、治安維持法は同じ月に成立した普通選挙法と抱き合わせの「飴と鞭」の立法と云う説もあるが、むしろ、第1次世界大戦後のいわゆる大正テモクラシー運動が起こる中、1925(大正14)年1月のソビエト連邦との国交樹立(日ソ基本条約)を境に、共産主義・無政府主義(アナーキズム、中でも社会的無政府主義)による革命運動の激化が懸念されていた。そんな中、普通選挙法の施行により、このような考え方が日本で主流になり、国家体制に危機を及ぼさないようその対策という性格が強かったとの説もある。
成立した主な条文の内容は,国体の変革または私有財産制度の否認を目的とした結社を取り締まることを中心とするものであった。
従って、当時、法律が取り締まりの対象とした国内の第1次共産党は1924(大正13)年3月頃に解散していたのでさしあたり適用する対象もなくなっていたのだが・・・。
この条文にある「国体」という言葉は、教育勅語に出てくる道徳的用語(国民の忠孝心が「国体の精華」であり「教育の淵源」である)で、法律用語としては内容がはっきりせず使い方でどうにでも解釈できる危険な言葉でもあった。

そして、1926大正15)年1月に京都帝国大学などが主体の左翼学生運動日本学生社会科学研究会(学連)に対して日本で最初の治安維持法が適用され学生38人が検挙される事件が起こった(京都学連事件参照)。
前年12月に警察が出版法違反事件として検挙し立件出来ずに釈放したものを検事局が治安維持法違反事件に仕立て直したものだと言われる。
この事件は当時の為政者層の思想・教育への危機感の大きさを象徴しているともいえる。この事件では司法省の張り切りぶりが目に付く。この事件を期に司法省は思想問題への取り組みを本格化させる。
「学術研究の範囲を超越し苛も国体を変革し又は社会組織の根底を破壊せんとする言論をなし、若くはその実行に関する協議をなすに至りては毫も仮籍する所なく之を糾弾せざるべからず」(1926年5月警察部長会議における小山松吉検事総長の訓示『日本労働年間』1927年版)という徹底した抑圧姿勢に特徴がある。
警察の視察取締もこの京都学連事件以後、変化が見られ、警察当局が公然と学内に侵入し、学内取締も「他の一般社会運動に対すると何等異ならない状態に至った。ビラ撒布による検束(東大)、不法検束による警察の暴行事件(京大、九州歯科専門学校)などが頻繁に起こりはじめたという(※4参)。
こうした中、1926 (大正15)年には 東京の共同印刷でのストライキが60日の大争議(いわゆる「共同印刷争議」)に発展する(徳永直による小説『太陽のない街』の大争議)、新潟県の小作争議が警官隊との衝突事件に発展する事件(木崎村小作争議)が起こるなど、この年の同盟罷業(ストライキ)は469件、小作争議は2751件で、前年に比べ飛躍的に増加していたという(『朝日クロニクル週刊20世紀』1926年号)。
こうした情勢の中で秘密裏に共産党再建大会が開かれていた。そして、2年後の1928(昭和3)年2月に国政最初の普通選挙が行われ、共産党は政治的に活躍するが、学連事件の公訴審中に全国一斉の共産党員大検挙が行われる(三・一五事件)。
時の田中義一内閣は、第55回帝国議会に治安維持法改正案を上程し、治安維持法の改正を行って最高刑を死刑とし、共産党を中心する反体制勢力の壊滅を図ろうとしたが、死刑を含む刑罰の強化は、あまりにも弾圧的として野党や言論界の強い反対で改正案は審議未了となった。普通選挙法と新治安立法は相打ちする形となった。
しかし、田中は、議会の審議を経ずに、改正を強行し、緊急勅令「治安維持法中改正ノ件」(昭和3年6月29日勅令第129号)により改正法の公布をした(以下参考の※05のレファレンスコード:A03033700800に、罰則の強化の理由を「罰則が此の極悪なる犯罪に対し不適当不充分なるに由り」とする説明。この改正が、「議会の協賛を得るに至ら」ず、「緊急勅令の形式に依って実施された」ことが記されている。※5のレファレンスコード:A03021692600では、三・一五事件を契機として実施された第1次法改正の御署名原本。改正点が記載されており、主な改正点は、罰則を強化、最高刑を懲役10年から死刑もしくは無期懲役に、したこと、「結社の目的遂行の為にする行為」も処罰の対象に含めるようになったことなどが記されている。)。
同法改悪の第1点は、旧法1条の構成要件を国体変革と私有財産制度の否認とに分離し、国体変革の指導者に対しては死刑、無期、若しくは5年以上の有期懲役と刑罰を加重したことであり、その第2点は、新たに国体変革を目的とする「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者」に2年以上の有期懲役を科したことである。これにより、権力が危険と判断するすべての人を合法的に逮捕、処罰することができる根拠ができたわけである。
さらに政府は、全国主要府県の警察部にも特高警察を設置すると共に、特高警察と両輪的役割りを果たす思想検事(一般検察実務から独立した思想問題専従の特別部として設けられた)を新たに設け、出版法等諸法も治安維持法と結合させて治安立法の役割を担わせ、弾圧体制を一層強化させるなどして、日本共産党を壊滅に追い込んだ。
これは、田中・鈴木・原と政党内閣でありながら大正デモクラシーに批判的な人々が治安関係を占めた(田中は元陸軍大将、鈴木は社会運動弾圧で活躍した検事総長、原は鈴木とともに国本社会員)という矛盾に由来する政策であった。
その後、治安維持法は政府批判をする者すべて弾圧の対象となっていき、国民の言論の自由を弾圧する悪法として猛威を振るい始めた。
あたかも、日本は恐慌のさなか同盟罷業(ストライキ)や、小作争議の件数がますます増加の一途をたどった。治安維持法は、こうした労働者・農民の抵抗を弾圧し、後には宗教団体や、右翼活動、自由主義等まで弾圧をおこなう法的手段として機能していったのである。
同法は、太平洋戦争を目前にした1941(昭和16)年3月10日にはこれまでの全7条のものを全65条とする全面改正(昭和16年3月10日法律第54号)が行われた。
1941(昭和16)年法は同年5月15日に施行されたが、その特徴は以下のようなものであった。
全般的な重罰化
禁錮刑はなくなり、有期懲役刑に一本化したが、刑期下限が全般的に引き上げられたこと。
取締範囲の拡大
「国体ノ変革」結社を支援する結社、「組織ヲ準備スルコトヲ目的」とする結社(準備結社)などを禁ずる規定を創設したこと。官憲により「準備行為」を行ったと判断されれば検挙されるため、事実上誰でも犯罪者にできるようになった。
また、昭和3年6月29日勅令第129号では、過激社会運動取締法案にあった「宣伝」への罰則は削除されていたがその「宣伝」への罰則が復活した。
刑事手続面
従来法においては刑事訴訟法によるとされた刑事手続について、特別な(=官憲側にすれば簡便な)手続を導入したこと、例えば、本来判事の行うべき召喚拘引等を検事の権限としたこと、二審制としたこと、弁護人は「司法大臣ノ予メ定メタル弁護士ノ中ヨリ選任スベシ」として私選弁護人を禁じたこと等。 予防拘禁制度 刑の執行を終えて釈放すべきときに「更ニ同章ニ掲グル罪ヲ犯スノ虞アルコト顕著」と判断された場合、新たに開設された予防拘禁所にその者を拘禁できる(期間2年、ただし更新可能)としたこと。
治安維持法のことなど詳しくは、以下参考の※6又※7:「治安維持法と小林多喜二虐殺」とその中にある治安維持法を参照されるとよい。

マスメディアは言論の統制を非常に恐れる。20世紀の日本における言論表現に自由とそれに対する規制は、1945(昭和45)年までの戦前・戦中時代、第2次世界大戦後の米軍占領時代、その後現在の3つの時期に分けられるであろう。その中の第2次世界大戦後米軍占領時代、やその後現在のことは省略し、その第1期、先に述べた戦前の明治憲法体制下でのことを少し書こう。
大日本帝国憲法では、「日本臣民は法律の範囲内において言論著作印行集会及結社の自由を有す」と定められたが、その自由はあくまで天皇から臣民に与えられたもので、近代民主主義社会の基本的人権としては保障されなかった。
大日本帝国憲法下では、1909(明治42)年の新聞紙法、1925(大正14)年の治安維持法、1938(昭和13)年国家総動員法を柱に、1945(昭和20)年の敗戦まで、言論表現の自由は窒息させられた。同時に富国強兵の国策に共鳴した新聞が率先して、軍国主義世論を誘導、戦争の旗振り役を果たしてきた。
しかし、そんな暗い谷間の時代でも、果敢な言論活動を繰り広げていた人たちはいたのである。
1904(明治37)年の日露戦争当時歌人与謝野晶子は雑誌『明星』に「君死に給うこと勿れ」を発表、「旅順の城はほろぶとも ほろびずとても何事か」(旅順の城が陥落するか陥落しないかなんてどうでもいいのです)「すめらみことは戦ひに おほみずからは出まさね」(天皇陛下は戦争にご自分は出撃なさらずに)と言い切っている(※8参照)。
今これだけの反戦・天皇批判をどれだけの人、メディアが発表できるだろうか。
東洋経済新報時代の石橋湛山は当時の国策の主流であった「大日本主義」を批判し小日本主義を主張、1921(大正10)年に『大日本主義の幻想』(※9参照)を書き朝鮮・台湾・南樺太の放棄を主張し植民地政策からの絶縁を求めた。
また、桐生悠々は明治末から昭和初期にかけて反権力・反軍的な言論(広い意味でのファシズム批判)をくりひろげ、特に1933(昭和8)年信濃毎日新聞時代に関東一帯で行われた防空演習を批判した社説『関東防空大演習を嗤(わら)ふ』で、敵機の空襲があったならば木造家屋の多い東京は焦土化すること、被害規模は関東大震災に及ぶであろうこと、空襲は何度も繰り返されるであろうこと・・・等12年後の日本各都市の惨状をかなり正確に予言した上で、「だから、敵機を関東の空に、帝都の空に迎へ撃つといふことは、我軍の敗北そのものである」「要するに、航空戦は...空撃したものの勝であり空撃されたものの負である」と喝破。この言説は陸軍の怒りを買い軍部に追われ、ミニコミ誌『他山の石』を出して、日米戦争の危険を警告している(※10参照)。
これらはいずれもジャーナリズム・世論の潮流に逆らう孤立した言論であった。
満州事変から日中戦争、そして太平洋戦争期、記事掲載禁止が乱発され、真珠湾攻撃の1941(昭和16)年12月8日から軍事上の秘密だとして、気象に関する情報(天気予報)は一切、 新聞やラジオから姿を消したという。そして、嘘で固めた大本営発表は典型的なディスインフォメーション(虚報による世論操作)だった。
報道管制は「示達」(当該記事が掲載された時は多くの場合禁止処分に付するもの。記事差止命令参照。)「警告」(当該記事が掲載された時の社会状勢と記事の態様如何により、禁止処分に付することがあるかも知れないもの)「懇談」(当該記事が掲載されても禁止処分に付さないが、新聞社の徳義に訴えて掲載しないように希望するもの。)の3形式で進められ、一方的な示達、警告が圧倒的に多く、懇談はわずかであった。そして、法的根拠のない「懇談」は世論誘導のための内面指導としてマスメディアの積極的協力を得た。現代の記者クラブにも「懇談」は引き継がれ日常化しているという(『クロニカル週刊20世紀』メディアの100年)。例えば現代の記者クラブの状況など※11参照。尚、戦前の言論弾圧の実態などは※12参照)

現在、われわれが住む日本の国には、戦後改正された『日本国憲法』があり、国民主権の原則に基づいて象徴天皇制のもと、個人の尊厳を基礎に基本的人権の尊重を掲げて各種の憲法上の権利を保障し、戦争の放棄と戦力の不保持という平和主義を定め、また国会・内閣・裁判所の三権分立の国家の統治機構と基本的秩序を定めている。
又、基本的人権は、単に「人権」「基本権」とも呼ばれ、特に第3章で具体的に列挙されている(人権カタログ)。かかる列挙されている権利が憲法上保障されている人権であるが、明文で規定されている権利を超えて判例上認められている人権も存在する(「表現の自由」や「知る権利」、プライバシーの権利など)。
そんな日本で、冒頭にも触れた「特定秘密保護法」が戦前の治安維持法に似ているという指摘がある。
今の日本は戦前の明治憲法制下絶対的な天皇制と軍国主義の日本とは基本的に違う。したがって、言論に関しても、露骨な言論統制はないし、公序良俗に反しないかぎり、言論の自由が許されている。ただ、逆に、先にも述べたような少々の圧力をかけられてもはっきりと真実を述べるだけの勇気あるマスメディアや人が昔のようにいるかに疑問があるくらいである。
治安維持法はすべての国民を対象にする法律だったが、特定秘密保護法は「我が国の安全保障に関する情報のうち特に秘匿することが必要であるものについて、特定秘密の指定及び取扱者の制限その他の必要な事項を定める」(第1条)ものであり、その対象は一般国民ではない。
規制対象になる「特定秘密の取扱者」は主として国家公務員だが、政治家も含まれる。ここから、万が一漏れてはいけない国家秘密が漏れる危険性があると、同盟国であるアメリカが軍事機密を教えてくれないのだという。
尖閣諸島をめぐって中国が盛んに挑発を繰り返している昨今、これではいざというとき日米共同作戦も取れないだろう。秘密保護の法律はアメリカにもあるというが、どこの国にも国外へ洩れてはいけない国家秘密はあるだろうから、その漏えいは守らざるを得ないだろう。
「報道の自由が侵害される」という誤解もある。「国民の知る権利の保障に資する報道又は取材の自由に十分に配慮しなければならない。」ことは第22条に記されており、報道機関は規制対象とはなっていない(※13、※14参照)。
特定秘密保護法は「防衛」「外交」「スパイ」「テロ」と定めれれているが、対象について「その他」という但し書きが出てくるので、政府が無限に拡大解釈できる。秘密保護法は、何を「秘密」にするのか、政府が恣意的に決められる。第三者のチェックも無い。しかも、何が秘密なのかも秘密な為、「特定秘密」に触れたという理由で逮捕された被告人も、何故自分が捕まったのか被疑事実さえ分からない。・・・等々いろいろ心配されるのだが、結局のところ、今の政府・政治家や官僚のするところが、国民やマスコミから十分に信頼されていないところに、このような疑問の声が多く出てくる原因があるのではないだろうか・・・。
東日本大震災福島第一原発事故以降、原子力発電稼働問題等を含め政府や官僚の言ったりしたりしていることを見ていても全く信用できない状況である。
治安維持法も最初は、共産主義・無政府主義などが対象であったのだが、いつのまにか一般市民が弾圧のターゲットとなり、自由にものが言えない社会を作っていった。
現行の政府は信頼できても、いつまた前民主党政権のような訳のわからない人達が政治を動かすことになるかもしれない・・・などと考えいると…さすがの私も不安にはなる。
政府が情報を秘密にすることと、国民の知る権利とのバランスを維持することは難しい問題だ。私には、余り難しいことはわからないが、兎に角しっかりと国民が監視をしてゆかないといけないだろうね。

冒頭の画像は、警視庁検閲課による検閲の様子.
1938(昭和13)年。Wikipediaより。
参考:

※1:中野文庫 - 集会及政社法
http://www.geocities.jp/nakanolib/hou/hm23-53.htm
※2:明治十三年太政官布告第三十七号(治罪法)
http://www.geocities.jp/lucius_aquarius_magister/M13HO037.html
※3:神戸大学附属図書館 デジタルアーカイブ 【 新聞記事文庫 】
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/
※4:Title 文部省の治安機能 : 思想統制から「教学錬成」へ
http://barrel.ih.otaru-uc.ac.jp/bitstream/10252/917/1/Ogino_300123.pdf#search='%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%AD%A6%E9%80%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6+%E7%9C%9F%E7%9B%B8+%E7%9C%9F%E5%AE%9F'
※5 :治安維持法 - アジア歴史資料センター
http://www.jacar.go.jp/topicsfromjacar/03_terms/index03_006.html
※6:治安維持法――なぜ政党政治は「悪法」を生んだか(その1)
http://d.hatena.ne.jp/kosuke64/comment?date=20131204§ion=1386151834
※7: 治安維持法と小林多喜二虐殺
http://tamutamu2011.kuronowish.com/TIANIJIHO.html
※8:小さな資料室資料62与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」http://www.geocities.jp/sybrma/62yosanoakiko.shi.html
※9:大日本主義の幻想”. 電子文藝館. 日本日本ペンクラブ.
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/guest/publication/ishibashitanzan.html
※10:桐生悠々『他山の石』の言論抵抗 - 前坂俊之アーカイブス
http://maechan.sakura.ne.jp/war/data/hhkn/17.pdf#search='%E6%A1%90%E7%94%9F%E6%82%A0%E3%80%85+%E4%BB%96%E5%B1%B1%E3%81%AE%E7%9F%B3'
※11:【特集】記者クラブ問題
http://iwj.co.jp/wj/open/%E8%A8%98%E8%80%85%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%96
※12:15年戦争資料 @wiki - 明治から昭和戦前期までの言論弾圧法の実態とは
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1955.html
※13:特定秘密保護法の全文:朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/articles/TKY201312070353.html
※14:特定秘密保護法について | 首相官邸ホームページ
http://www.kantei.go.jp/jp/pages/tokuteihimitu.html
「特定秘密保護法」の問題性 - 読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/adv/wol/opinion/gover-eco_131111.htm
秘密保護法は戦前の治安維持法と似ているのですか? - 弁護士ドットコム
http://www.bengo4.com/other/1146/1288/b_214313/
歴史評論「治安維持法と弾圧の実態」
http://blog.livedoor.jp/seizi10/archives/1857941.html
治安維持法(法律のみ)
http://hc6.seikyou.ne.jp/home/okisennokioku-bunkan/okinawasendetakan/tianijiho.htm
Life-歴史は繰り返す
http://life-ayu.blog.so-net.ne.jp/2013-12-05
思想と言論
http://cgi.members.interq.or.jp/kanto/just/
Wikipedia -治安維持法
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%BB%E5%AE%89%E7%B6%AD%E6%8C%81%E6%B3%95