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記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

神戸市長選で革新系候補が当選。六大都市全ての市長が革新系となる

2011-10-28 | 歴史
1973(昭和48)年10月28日投票の神戸市長選挙で、社会・共産・公明・民社推薦の宮崎辰雄候補が自民推薦の前代議士を破って当選。これで太平洋ベルト地帯の6大都市首長は、全て革新系となった。上掲の写真は、上から時計回りに、大島靖大阪市長、船橋求己京都市長、飛鳥田一雄横浜市長、宮崎辰雄神戸市長、本山政雄名古屋市長と都知事美濃部亮吉(写真、文:朝日クロニクル「週間20世紀」1973年号より)。
宮崎辰雄は、神戸市助役を経て、1969(昭和44)年から神戸市長を5期20年(1969年 – 1989年)務めた他、財団法人神戸都市問題研究所(※1 )の創設者・理事長としても活躍した。
「最小の経費で最大の市民福祉」を基本理念に、「山、海へ行く」のスローガンの元、神戸のシンボル「六甲山」を大胆に削り取り、その土砂を神戸港の埋め立てに利用することで、ポートアイランド六甲アイランドなど巨大な人工島を次々に造成。1981(昭和56)年には神戸ポートアイランド博覧会協会会長として「新しい”海の文化都市”の創造」をテーマーに「ポートピア'81」の開催を成功させ、この博覧会の成功は、1980年代後半の「地方博ブーム」の火付け役ともなり、また、埋め立て地の売却益や、外国金融機関からの起債を中心に、国からの補助金に頼ることなく自力で神戸市を大きくする行政手法を展開。一連の宮崎行政は、都市経営のモデルとして「株式会社神戸市」と呼ばれ、国内外から大きな注目を浴びたものだ。
宮崎が市町退任後のことであるが、そのポートアイランドの南側沖合には、1995(平成7)年、1月17日、あの直下型の阪神淡路大震災(マグニチュード7.3)に遭遇後、街の回復に努めるが神戸の歴史的にも最も重要な港が被害にあったため、神戸港へ入港の船も大阪港など他の都市港にとられ、産業も1部他都市へ移転するなど今も苦戦を強いられている。そのため、市民おなかに賛否両論ある中、神戸市の再生をかけて、新たにポートアイランド沖南側に人工島が建設され、2006(平成18)年2月16日に神戸空港が、開港したが・・・・・。現在、空港の利用数が当初の目標数にいたらず、この空港建設費を補う予定にしていた土地売却や、企業誘致など進まず、震災後の神戸の財政がピンチに陥っているが・・・。そこには、宮崎が市長をしていたときからの神戸沖空港建設問題が絡んでいる。この空港問題に触れる前に、当時の社会問題を少し振り返ってみよう。
日本の戦後改革に次いで、日本社会を大きく変えたのは、高度経済成長期であり、それは、一般には1954(昭和29)年12月から1973(昭和48)年11月までの約19年間をさすといわれている。つまり、先に述べた革新系の宮崎が自民推薦の前代議士を破って神戸市長に当選し、神戸が革新自治体となった頃までである。
この間には1964(昭和39年)後半から1965(昭和40)年に掛けておきた証券不況も乗り越え成長をしているとき、アメリカ経済の衰退が進み、1971(昭和46)年8月、ニクソン・ショック(金ドル交換停止)、円切り上げもなんとか乗り切り、日本経済の規模は、国内総生産(GDP)では、名目で約13,5倍、実質で約5倍に増加し、都市から農村への人口移動の激増、産業構造の転換がもたらされるが、その半面、こうした経済成長の陰で社会公共投資や福祉支出は低水準にとどまり、また生活環境の破壊が起こり「水俣病」や「イタイイタイ病」、「四日市ぜんそく」といった公害病の発生、大量生産の裏返しとしての、ゴミ問題などの公害の問題や交通戦争そして、過密化という都市問題と地方の過疎化という問題が同時進行することになった。この当時TV番組では、1972(昭和47)年1月1日から放映されていた笹沢左保の同名小説をテレビドラマ化した『木枯し紋次郎』の主人公が新しいヒーローとして人気を集めていた。本作は、これまでの股旅物の主流であった「ヒーロー然とした渡世人がバッタバッタと悪人達をなぎ倒し、善良な人々を救う」といったスタイルを排し、他人との関わりを極力避け、己の腕一本で生きようとする紋次郎のニヒルなスタイルと、主演の中村敦夫のクールな佇まいが見事にマッチし、空前の大人気番組となり、劇中紋次郎が口にする「あっしには関わりのねぇことでござんす」の醒めたセリフが、学生やサラリーマなど若者の間での流行語にもなっていたが、その当時の世相について、私の手持ちのアサヒクロニクル「週刊20世紀」(1973年号)冒頭には、以下のように書いている。
”「世界各国に比べ日本の若者はとりわけ強い不満をもっている。」という調査結果が1973(昭和48)年に発表された。調査をしたのは当時の総理府で、米英仏独だけでなく北欧、アジアの国々の10代20代を調べて比べたものだ。「国は国民の福祉や権利を守っていると思わない」と答えた日本の若者は他の国よりも断然多いし、「産業開発を優先しすぎて個人の生活を不幸にしている」と思う若ものの数も他国に比べてかなり高かった。家庭の暮らし、学校や職場の生活、友人関係、社会生活などについての不満度はいずれも驚くほどに高い。戦後50年足らずのうちに、日本の開発は恐ろしい速さで進み、世界有数の過密社会・競争社会が生まれていたのだ。農作物の輸入が増え、食料自給率が減った。地価が高騰し、土地成金が輩出し、人々は大都市の息苦しさに喘ぐようになった。開発優先の政治、カネがものをいう政治への不満は強い。・・・が、政治を変える筋道は見つからない。戦後の日本では「カネカネ、ハヤクハヤク」の考え方が人々の心を汚染した、と歎いたのは日本を良く知るバーナード・リーチだが、そうして作り上げた社会こそが若ものの不安・不満を助長したのだろう。”・・・と。
これを読んでいると、この時代には、日本だけでなく世界中の若者が21世紀初頭の社会の姿について暗い見通しを持っていたといえる。当時紋次郎のしらけたセリフが流行った要因が出来上がっていたわけである。
1973(昭和48)年に発表された当時の総理府調査を今、私は確認できていないが、以下参考に記載の※2:「福祉社会」の【表3-171】1人当たり社会保障給付費の国際比較(単位:ドル)の1973年のところを見ると、この時点では他国に比べて極端に低いことは理解できる。
そのような背景があったからこそ、1960年代末には、東京・大阪・京都・沖縄で革新知事が誕生し、1970年代前半、反公害や福祉政策・憲法擁護を訴え、革新首長が相次いで誕生することとなった。
そして、高度経済成長時代後半にはその政策の見直しが迫られ、公害対策基本法の制定(1967年)や当時通産大臣であった田中角栄が日本列島を高速交通網(高速道路、新幹線)で結び、地方の工業化を促進し、過疎と過密や、公害の問題を同時に解決することを提唱した『日本列島改造論』(1972年6月発刊)へと繋がることになる。
この『日本列島改造論』の発刊された翌・7月に田中が首相となり、この本に促された構想が即具体化されると、日本列島改造ブームが起き 、『日本列島改造論』で開発の候補地とされた地域では土地の買い占めが行われ、地価が急激に上昇した。この影響で物価が上昇してインフレーションが発生し、1973(昭和48)年春頃には物価高が社会問題化する。その対応に苦慮しているうちに、同年10月に起きた石油ショックによる相次いだ便乗値上げなどにより、さらにインフレーションが加速されることとなってしまった。
このような中、田中内閣は1972(昭和47)年には老人医療の無料化(※3)、1973(昭和48)年には年金給付額の大幅な引き上げなどを行なうなど、1973(昭和48)年を福祉元年と位置づけ、社会保障の大幅な制度拡充を実施した(※4参照)が、これは、東京をはじめ全国の主要都市で、「福祉と環境」を掲げた、革新自治体の誕生や参議院での保革伯仲が予測される状況にあったなど、当時の政治状況への危機感からのものであり、福祉国家の明確なビジョンに基づく成果ではなく、政権維持のための政治論理によるものであったといえる。企業も低成長時代に対応した減量経営を進め、超効率社会を目指した。GNP(国民総生産。注:GDPとは違う。)第一主義に軌道修正をくわえ、もっとゆとりある生活を求めた日本人は、この石油危機を境にふたたび馬車馬のように働き続け、単身赴任・過労死というそれまでに見られなかった現象にあらわれるように、すべてが企業中心に動き出すという、企業社会(※5)、会社人間を生み出すことになっていった。
1973(昭和48)年3月に刊行され「空前の大ベストセラー」となった小松左京の『日本沈没』は、日本列島が地殻変動によって沈没し、日本人が国土を喪失し、ユダヤ人のような流民の民となるといった壮大なSF小説であったが、これも、前年に田中内閣が打ち出した「日本列島改造論」に対する皮肉なアンチテーゼ(、最初の命題の反対の理論・主張。逆のテーマを持つ物)であったかもしれない。
前置きが長くなったが、ここっで、本題に戻る。
北側が山、南側が海の東西に細長い地形の神戸は大都市でありながら平らな市街地が少ない。そのため、明治時代には、神戸の中央を流れる旧湊川を埋め立てて、一大市街地を造成して出来たのが「新開地」の誕生である。埋立事業は、そんな神戸市が発展するための必要欠くべからざる宿命的なプロジェクトであったともいえる。
敗戦後の神戸の復興機である昭和20年代から30年代にかけて、故・原口忠次郎市長(在職1949年-1969年。※6)時代に始まった東部、西部の海面埋立事業を皮切りに、技術者(工学博士)でもあった原口の発想「山、海へ行く」のスローガンによる土地造成事業を受け継いだ宮崎辰雄市長による昭和40年代以降のポートアイランドや六甲アイランドといった巨大な人工島建設へとつながる、巨大プロジェクトであった。
神戸空港建設計画は、そもそも、戦後間なしの戦災復興都市計画として、1946(昭和21)年の「市復興基本計画要綱」に初めて登場するが、その具体的な神戸沖空港建設の計画は、1969(昭和44)年5月に当時の運輸省の関西新空港構想(※7)に始まっている。
一方、当時の大阪国際空港関西国際空港と区別する上では伊丹空港と呼ばれている)の交通アクセスの良さは、同時に周辺住民の騒音被害と背と腹の問題を抱えていた。1970(昭和45)年には、国際博覧会史上アジアで初めての開催かつ、日本で最初の国際博覧会となる「大阪万博」に合わせて3千メートルの滑走路を増設。ジェット化はさらに進み、深夜にも郵便用の飛行機が飛んだ。1969(昭和44)年から「静かな夜を返せ」と住民たちが夜間飛行差し止めなどを求め相次いで国を訴えた(大阪空港公害訴訟については、コトバンク又、Wikipedia参照)。
周辺の11市でつくる「大阪国際空港騒音対策協議会」も「空港撤去」を旗印にしていた。こうした動きを受け、当時の運輸省でも、後の関西国際空港につながる新空港の海上建設を模索され、この構想では、関西新空港予定地(関西第二空港予定地)は神戸沖の他にも、播磨灘、淡路島、大阪・泉州沖が想定されていたが、大都市圏からのアクセスの利便性により神戸沖が有力視されていた。
第1期宮崎辰雄市政の時代は、このように、公害反対を強く主張する革新勢力に力があった時代でもあったことから、1972(昭和47)年の神戸市議会は「神戸沖空港反対決議」を賛成多数で可決した(反対決議案に賛成した市会会派=公明党、社会党、民社党、共産党)。また、翌1973(昭和48)年3月、宮崎市長(当時・保守系)も、市会本会議で神戸沖空港反対を表明。
そして、同年10月28日投票の神戸市長選挙では、空港問題が最大の争点となるが、これまで宮崎市長を支持していた自民党が宮崎の「空港反対」に不快感を示して対立候補を立てたため、逆に、これまで市長不支持だった共産党が市長支持派に加わり、社会・共産・公明・民社が推す宮崎が、革新系市長として再選されることになったことから、翌年の答申では泉州(現在の大阪府南部)沖となった(※8:「神戸空港を考えよう」の★「神戸空港計画」が歩んだ波乱の歴史参照)。
先にも触れたように、高度経済成長と共に社会問題となっていた公害、環境問題に対する世論の関心の高まり、成田・伊丹を契機とする、反騒音・反公害運動の活発化は無視できなかったわけであり、政治基盤がまだ、安定していない宮崎市長には空港建設方針を取り下げなければ落選間違いなしの背景があったことから、「空港に固執し政権の座から転落するか、空港を断念して政権を死守するかという厳しい選択を迫られていたわけだ。
国政の選挙でも同じことだが、民主主義国家による選挙においては、政治家は、国民の投票によって選ばれるわけであるから、どうしても、国民の支持がなければ当選することが出来ないが、その国民は世論に左右される。しかし、この世論というものは一体誰がどのように作り出しているのか・・・。
マスコミが意見を述べる場合、自分たちが行なったアンケートなどの結果をもって、世論・世論と言うが、今朝(2011・10・28)朝日新聞天声人語に、以下のようなことが書いてあった。
”うそには3種類ある、と言ったのは19世紀英国の宰相ディズレーリだった。すなわち、普通のうそ、ひどいうそ、そして統計数字であると。統計に限らず数字は水物で、例えば質問の仕方でがらりと変わる。いささか古い国内の例だが「規則を曲げて無理な仕事をさせることもあるが、仕事以外でも人の面倒をよく見る」という課長を良いと答える人は84%いた。ところが前後を入れ替えて、「仕事以外でも人の面倒をよく見るが、規則を曲げて無理な仕事をさせることもある」だと47%に減ったそうだ。”・・・と。私など現役時代仕事上、このようなテクニックは自分でも人を説得するときによく使ったし、又、逆にいろんな場面で、このようなことを意識的に利用して使っている人を多く見てきた。だから、アンケートなどの統計数字も、質問側がある種の思惑を持って質問すれば、その回答も、質問側の期待した思惑通りになる事を知っている。だから、マスコミの行なうアンケートが全てそうだとは思わないが、かなり多くのアンケートに、そのような意図を持って行なわれたと感じるものがあるので、マスコミが、アンケートの結果をもって、それを「世論」と言っていても・・・そんな魔物のような世論を、私はいつも懐疑的に見ているのだが・・・。
1981(昭和58)年3月 ポートアイランド第一期事業が完成し、記念事業として「神戸ポートアイランド博覧会」が開催され、予想入場者数を310万人上回る1,610万人が来場。60億円の黒字を計上し、神戸市の都市経営が国内外から評価されたものの、港湾都市神戸市にとって、将来的にも、隣接する大阪との都市間競争に打ち勝って西日本の経済中枢都市の位置を占めるには、当時、海上輸送だけではなく航空輸送を確保することが欠くことの出来ない戦略的インフラだと考えられていた。だから、まだ勢いのあった当時の神戸であれば、空港を持つことによって、もっと、神戸を発展させることが出来たかもしれないし、宮崎市長自身は空港建設をすべきだった考えていたようである。
結局、空港建設問題が政局に利用され、選挙民が空港への反対の意思表示をしたことになってしまった以上、空港建設反対は、当選至上主義の選挙制度の持つ限界を表しているともいえるだろう。
ただ、以下参考の※9:「神戸空港を取り巻く情勢をどうみるか、その1」でも書かれているように、宮崎市長が建設に賛成意見であったならば、次回の1977(昭和52)年選挙で方針変更を主張し、政治生命をかけて立候補すべきであっただろうがそれをしなかった。そのくせ、彼の回顧録を読むと、神戸空港建設の撤回声明は「一世一代の不覚」、「本心に反した反対声明」、「偽りの誓い」とかいった言葉であふれており、市民に対して「空港建設撤回という心にもない公約」をしたことを心の底から「後悔」している。助役16年、市長20年、計36年の政治生活のなかの「最大の判断ミス」だといっているという。
伊丹空港の騒音訴訟問題があったことなどから、1973年の時点では、神戸沖に拠点空港を新設し、伊丹は廃止するというのが運輸省内の大方針にもなっていたといわれる。にもかかわらず、それまで、空港建設に積極的であった神戸市が世論に推されて、土壇場になって「変節」したことから運輸省が激怒し、「神戸市には絶対空港はつくらせない。」と当時の幹部が断言して以降、神戸市は運輸省から「出入り差し止め」を宣告され、新空港建設計画は、大阪・泉州沖を候補地に絞り、地元の説得に乗り出すことになったわけである。
ところが、泉州沖空港計画が具体化するにつれて、宮崎市長が1982(昭和57)年になって神戸沖空港計画(国内線専用空港として)をふたたび蒸し返し、それも驚いたことに、建設反対決議をしたはずの社会党や共産党までが空港反対から空港建設へ一斉に「転向」。この段階から市当局、議会各派、市職労を含めての市役所挙げての空港建設に邁進する「市役所一家体制」が出来上がってしまった。・・・・と、言っているように、その後、1989(平成元)年 10月 には、神戸市長選挙で宮崎市政継承を掲げ、自民党から共産党まで全政党が支持、推薦する笹山幸俊助役が当選 し、翌年には 神戸市会、兵庫県会で「神戸空港推進」を全会一致で決議し、「市役所一家体制」で神戸沖空港建設へ邁進していく。
神戸空港建設には、大阪国際空港や関西空港があることによる採算の問題、空域の調整の難しさや船舶航路との干渉(ここ参照)、予定地域の活断層など安全性の問題などに疑問を持つ人がおり、早期から反対運動が存在した。
1990年の全会一致の推進議決の段階でも、議会内に空港反対の意見が存在し、社会党と新社会の分裂の要素の一つともなったようだ。また、「神戸空港を考える会」も発足した。しかしこれらの活動は概して限定的で全市民的な運動とは成り得ていなかった。
神戸空港問題が大きな市民活動になったのは未曾有の被害を出した阪神淡路大震災後である。
笹山市長は引き続き空港建設を明言し、震災復興計画に神戸空港計画を盛り込んで「防災の拠点」と位置づけた。しかし震災で日々の生活にダメージをうけた市民の感情とは大きく隔離し、むしろ逆なでしたものとして大きな反発(市民救済より従来型の建設に力点を置くやり方)を招いた。
この時、笹山市長は「市民に財政負担は一切かけない」事を明言した。笹山市長の案では空港埋立地の売却益によって、市税を使うことなく、債務を完済出来るという考えであった。しかし、埋め立てを中心とした土地開発行政、いわゆる「神戸方式」は実質的にはバブル崩壊以前から行き詰ってきていたが、『一度覚えた成功方式』の転換、修正は困難であった(以下参考の※10:「神戸市財政の根本問題」の“神戸の地震は89年に起きたんや!”参照)。
震災前から増加しつつあった市債が急増し、起債残高が一般会計、特別会計等をあわせ3兆円にもなり、財政的に厳しい状況での大規模プロジェクトを危惧する考えなどもあわせ、また、他の地方空港が経営的に成功している例がないこともあって、空港反対は次第に大きな市民運動へと発展した。
1998(平成10)年、住民投票条例の直接請求を求める署名運動が展開されて有効署名は307,797人に達した。この直接請求を受けて「神戸空港建設の是非を問う住民投票条例案」が議会に提案されるが、空港建設推進派が多数を占めていた議会では、大差で否決された。
2001(平成11)年の神戸市長選挙では、神戸市助役で元空港整備本部長だった矢田立郎(無所属)が初当選。このとき空港反対派は候補者一本化に失敗。以後、議会では、2003(平成15)年の市議会選挙では、建設反対派議員は議席を減らす結果となり、一部の市民グループによって、空港工事差し止めの一連の訴訟が行われたものの、それも、地裁・高裁そして、2007年の最高裁ともに却下される。
開港前の最後の選挙である2005(平成17)年の神戸市長選挙では、タケノコのように乱立した「神戸空港反対派」の候補者をまたも一本化に失敗し、反対派へ投票した人の方が多いにもかかわらず、現職の矢田候補が再選され、2006(平成18)年2月16日、これらの経緯をふまえて神戸空港が開港してしまった(関西三空港の経緯と現状 参照)。
結局、前宮崎市長の中途半端な空港建設への転換以降、その後継の歴代助役上がりの市町が、市会、役所とひとつになって、市民の反対を押し切って強引に空港を作っては見たけれど、利用客は伸びず、空港埋立地の売却益もならず、市の財政を圧迫しつづける結果となっている。これは、国政選挙でも同じだが、組織票で固まっている候補者に対抗して当選するのがいかに難しいことかを顕わしている。
これだけ助役上がりの市長が、長く続けば腐敗も起こるわけで、与党会派が多数を占めている市議には市政への厳しいチェック機能を期待するのが難しく、市職員の支持をえて市長となっている者が、市職員の勝手にしていることに対しての監視の目も甘くなるだろう。又、市長と民間との間に、馴れ合いや、もたれ合いの癒着構造も出来るだろう。
今、小沢一郎政治資金規制法違反の容疑で裁判で裁かれているが、その中の西松建設からの裏金を受け取った、受け取っていないなどの問題も含まれているが、西松建設の裏金が問題になったとき、献金先として名前が挙がったのは、なにも小沢氏だけではなく多くの自民党議員やその他の野党議員、それに自治体首長の名も何人か上っているが、この中には確りと矢田立郎神戸市長の名も上っている(※11、※12参照)。
私は現役時代、飲み友達でもある、ある会社の開発関係の者から聞いた話で、神戸で、大型店等が出店するときには、裏で金が飛び回っており、その人の会社はこのような金の問題には非常にお硬く、そのよう開発がらみの裏金を出さないので、99%決まりかけた物件が、結局、最後には、地元の同業他社に巻き返され、潰れてしまったと歎いていたのを思い出す。
宮崎以降「市役所一家体制」で市長選には次々と助役を推してくる市側に対抗し、それに勝てるだけの大物を市民側が市長選に擁立できなかったことが、このような事態を招くことになってしまったのだが、その結果、ポートピア博開催まで、他都市から注目されていた神戸市が、今どんな状況になってしまっているか・・・・、同じ市民としては、恥ずかしくて書く気もしないので、気になる人は以下参考の※13、又、※10でも読んでみてください。しかし、日本では、民主党をはじめ、どこの党も、その市の将来のために、政略を離れて真剣に取り組むことが出来ないのかと、本当に、情けなくなるが、こんな三流の政治家ばかりになってしまったのも、結局は、国民の政治に対する意識の低さからなのだろうね~。
参考:
※1:-KIUR-(財)神戸都市問題研究所トップページ
http://www.kiur.or.jp/
※2:福祉社会
http://www.wa.commufa.jp/~anknak/ronbun10fukushi.htm
※3:厚生年金・国民年金情報通
http://www.office-onoduka.com/nenkinblog/2008/03/post_130.html
※4:なぜ社会保障制度の財政負担が高くなってしまったのか?
http://life-insurance2.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-8a16.html
※5:企業社会01
http://www.res.otemon.ac.jp/~murakami/kigyoushakai01.htm
※6:銅像 原口忠次郎
http://www4.airnet.ne.jp/soutai/07_douzou/26_ha/haraguti_tyuujirou.html
※7:あゆみ(H20 12) - 関西空港調査会(PDF)
http://www.kar.or.jp/history/ayumi.pdf#search='関西新空港構想'
※8:神戸空港を考えよう
http://kobe.kazamidori.net/airport/
※9:神戸空港を取り巻く情勢をどうみるか、その1、(神戸市長選座談会、その8)
http://d.hatena.ne.jp/hiroharablog/20091216/1260951525
※10;神戸市財政の根本問題
http://www.inouetsutomu.jp/how-to-change.html
※11:NPJ通信 小沢問題をどう考えるか-検察権力・マスコミ報道との関連で (上)
http://www.news-pj.net/npj/kimura/020.html
※12:裏金疑惑の西松建設 関連政治団体
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-12-21/2008122115_01_0.html
※13:2011統一地方選(神戸市議選、明石市長選、兵庫県議選)
http://koubeno-hige.blog.ocn.ne.jp/blog/2009/08/post_5e91.html
明日への選択 第6部 神戸市長選 揺れる構図
http://www.kobe-np.co.jp/rentoku/shakai/200910asu/04.shtml
神戸市における戦災の状況(兵庫県): 一般戦災ホームページ
http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kinki_07.html日本労働運動史
http://www.mcg-j.org/mcgtext/jpnrodo/jpnrodo.htm
生活史研究試論生活「転換点」の意義
http://www.bukkyo-u.ac.jp/mmc01/takashin/Papers/199903_seikatsu/index.html
国立社会保障・人口問題研究所
http://www.ipss.go.jp/ss-cost/j/kyuhuhi-h19/kyuuhu_h19.asp
神戸市・神戸空港の経緯
http://www.city.kobe.lg.jp/life/access/airport/index_04.html
火を噴いた「神戸空港廃港」論:FACTA online
http://facta.co.jp/article/200912004002.html
他都市と比べる神戸市の財政状況 - よこはた和幸
http://www.yokohata.net/c.ball26.htm
厚生労働省:社会保障給付費
http://www.mhlw.go.jp/toukei/list/124-1a.html
国立社会保障・人口問題研究所
http://www.ipss.go.jp/ss-cost/j/kyuhuhi-h19/kyuuhu_h19.asp
1973年[ザ・20世紀]
http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1973.html
1973年の政治 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/1973%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%94%BF%E6%B2%BB
神戸空港の現状
http://www.jalcrew.jp/kyousen_pub/file/23-054_%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%83%85%E5%8B%A2%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9%E7%A5%9E%E6%88%B8%E7%A9%BA%E6%B8%AF%E3%81%AE%E7%8F%BE%E7%8A%B6%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6.pdf#search='神戸空港の現状'

老舗の日

2011-10-20 | 記念日
日本記念日協会の今日・10月20日の記念日を見ると、「老舗の日」が合った。
由来には、“日本は創業100年を超える企業が世界一多いといわれる。その日本が世界に誇るべき老舗の良さを見直すのを目的として、老舗の商品を扱う「老舗通販.net」を運営するスターマーク株式会社が制定。日付は商売の神様として知られる恵比寿様の祭り、恵比寿講の日にちなんで。」・・・とあった。
因みに、今日の記念日を「老舗の日」としているのだから、「老舗の店」のことなど何か書いたことがあるかと思って、老舗通販.Net(※1)のHPを覗いてみたが、“現在、江戸の昔より明治初年にかけて創業された、百年以上の伝統を有する、古いのれんの店53店の集い「東都のれん会」加盟店にご出店いただいております”・・とあったこと、又、そこに、出店の店の商品の通販をしているらしいということ以外は何も書かれてはいなかった。要するに、単なる、CMの一環としての記念日登録なのだろう。
記念日の“日付は商売の神様として知られる恵比寿様の祭り、恵比寿講の日にちなんで。”・・・とあるが、恵比寿様とは、「えびす神社」のご祭神「えびす」のことだろう。
現在では一般に七福神の一員で、釣竿を持ち鯛を抱えた福々しい姿で、大黒天(大国さん)とともに、恵比寿大黒と併称され、福神の代表格として知られており、関西では「えべっさん」の愛称で親しまれている。
だが、それは中世以降の信仰で、「えびす」の由来をたどると非常に複雑な経緯をもっている。「えびす」には、夷、戎、胡、蛭子、恵比須、恵比寿、恵美須などの字があてられ、その語源は、異邦人や辺境に住む人々を意味するエミシ・エビスの語に由来するとされている。
その姿があらわすように、もともとエビスは、漁業の祖神、海上の守護神として漁民の間で信仰され始めたと考えられているが、この神について書けば長くなるので、今日は「えびす」のことを書くつもりはないため、「えびす」のことは、Wikipediaのえびす又、以下参考の※2「豆知識」の“七福神(エビス)”や、※3:「えびす信仰」に詳しく書かれているので、そこを参照されたい。
いずれにしても、えびすが、イザナギイザナミの子である蛭子命(ヒルコ)や大国主命(大黒さん)の子事代主(コトシロヌシ)に結び付けられたのは両神とも水に関連していたためであり、えびすを祀る神社も、概ね「ヒルコ神」系と「事代主神」系に別れているようであり、ヒルコ神系のえびす神社の総本社は、我が地元・兵庫県西宮市西宮神社であり、事代主神系のえびす神社の総本社が、島根県松江市美保神社である。
もともと漁神であったと思われるエビスは中世期には商業神としての性格をもったらしく平安時代後期には、えびすを市場の神(市神参照)として祀ったという記録が有り、鎌倉時代にも鶴岡八幡宮内に市神としてえびすを祀ったという(鎌倉でのえびす神招致については、※4及び、※5のNo139 ,No141 、No 149 などを参照されるとよい)。このため、中世に商業が発展するにつれ商売繁盛の神としての性格も現れ、それは同時に福神としても信仰されるようになったのだろう。
えびす神社では、神無月旧暦10月)に、出雲に赴かない「留守神」とされたえびす神を祀り、えびす講(※6。※7も参照)を催し、1年の無事を感謝し、五穀豊穣、大漁、あるいは商売繁盛を祈願している。旧暦10月20日は新暦に直すと年によって変動するため、多くの場所や神社では、11月20日を中心にその前後に行なわれているが、地方や社寺によっては、収穫後の感謝を祝う秋(旧暦10月20日)と年の初めの豊作祈願を祝う春(正月20日)の2回開催したりもしている。地域によって期日は一定ではなく、京阪では、正月10日を十日えびす(※8参照)といって西宮神社や大阪今宮戎神社などへ参拝するが、江戸では、正月と1月20日に祀った。
商家のえびす講は、江戸時代に町民(町人)の発展に伴って大流行し、各地でが結成された。江戸では、10月、京阪では1月に、床の間にえびす神を祀り、得意先と宴を設けて、賑やかに祝った。膳の決まりは無いが、恵比寿大黒にちなんだ鯛や、季節性の高いもの、江戸なら、出始めのべったら漬けなどが好んで載せられたようだ。また、賑やかに座敷にある品などに大きな値をつけ売買の真似事などをした。
江戸時代の浮世草子・人形浄瑠璃作家にして俳人でもある井原西鶴が、貞享5年(1688年)に刊行した各巻5章、6巻30章の短編からなる『日本永代蔵』の「見立て養子が利発」(巻六の二)に、えびす(夷)講の様子が描かれている(『日本永代蔵』は、※9:「デジタルアーカイブPORTAL_国立国会図書」で読むことが出来る。)。

上掲の画像は、 『日本永代倉』に(国立国会図書館蔵)に描かれている「夷講」の様子(画像は、NHKデーター通信部編、「ヴィジュアル百科 江戸事情」第1巻生活編より)。
京阪では、この日を“誓文払い”ともいい、商人が平素の利得の罪ほろぼしのために、この日に限って商売抜きで安売りをした。誓文とは、神に誓う起請文のことで、嘘いつわりの罪を払い、神の罰を免れようとするのが誓文払いである。しかし、えびす講には人出が多いことから、次第にそれらの人出を当てにして、誓文払い用の特別廉価品を仕入れて売るようになり、期間ものばされて、売らんかなの催しになってしまっていた。そして、呉服店(和服参照)など商店だけではなく、この日には市が立ち、魚や根菜など青物も売られるようになった。商売の神様を商売人が、利用しない手は無いってことなのだろうが・・・。
そういえば、私が、若かりし頃、商法などの勉強していたとき、佐賀 潜商法の解説のなかに、普通の民事のことは、民法で解決できるのだが、利益を追求する商人は欲が深いので、民法では解決が出来ないことが多く、それで商法がつくられた・・・とあったのを思い出す。
さて、これから老舗のことについて書くが、江戸時代前期・元禄期に活躍した近松門左衛門人形浄瑠璃心中天網島』(享保5年=1720年作。全三段)は、近松の世話物の中でも、特に傑作と高く評価されている作品であり、実説の紙屋治兵衛と遊女小春の網島(大阪市都島区)大長寺(※10参照)での心中事件(享保5年10月14日と伝えられる)を脚色したものであるが、この作品の”天満紙屋内の段”の冒頭に、以下のような語りで「老舗」の名が出てくる。
「福徳に天満つ神の名をすぐに天神橋と行き通ふ所も神のお前町営む業も紙見世に、紙屋治兵衛と名をつけて千早ふるほど買ひに来る、かみは正直商売は、所がらなり老舗なり。」・・・と(本文、※11:「鶴沢八介メモリアル【文楽】ホームページ床本集」の44心中天網島参照)。
治兵衛 は大阪の天満天神社前の御前町に紙を商う店を出している。「ちはやふる」はこの神にかかる枕ことばで、同時に、客が「降る」ほど買いに来る繁昌ぶりを表わしている。「紙は正直」は紙の商売が正直ということと、「正直の頭に神宿る」ということわざを掛けている。「所がらなり」は、天満橋は現在でも賑やかな商店街であり、治兵衛 は、こんな繁華な場所に老舗をかまえていたのである。
この作品には、冶兵衛と小春には、死ななければならない定めがあり、追い込まれた末に心中しなければならない「必然」が描かれているが、そのような因果の網が如何に緻密に張り巡らされているかに驚かされる。興味のある人は、以下参考の※12:「日本古代史論壇」で詳しく解説されているので参照されるとよい。
又、井原西鶴の『日本永代蔵』(副題“大福新長者教”)は、副題が示すように、江戸時代の町人らの勤勉・節倹・才知によって富を築こうとする、またそれに失敗する町人らの盛衰を描いた町人物の代表作の一つであるが、その中の「世渡りには淀鯉のはたらき」(巻五の二)に、商売替えして成功した男の例があり、西鶴は、この男の商売の仕方を「商人は只しにせが大事ぞかし」と述べているが、ここでの「しにせ」は得意先のひいきと信用の意で使われている。
この『日本永代蔵』が刊行された頃になると、それまで高度成長を続けてきた経済都市京・大坂もかげりを見せ始め、商業資本主義も行き詰まって飽和状態を示すようになっていた。そのような時代背景から西鶴は、厳格な身分制度(士農工商)のこの時代にあっては、分相応の生活をすることに加えて、現状を直視した生活を営むことが必要であって、職業は親代々から伝わったものを引き継ぎ、得意先を大切にし、新しい取引もしないで、堅実に商売をすることの必要性を述べているが、ここでは、親代々の商売を継いで成功しなくても、他の商売で成功することもあるという例として挙げている(※9、※13、※14参照)。
老舗」(しにせ)のもともとの語源は、動詞「為似す・仕似す(しに)す」に由来し、「似せる」「真似てする」などその連用形が名詞化され「しにせ」になったとされており、江戸時代になって、先祖代々の家業を絶やさず守り継ぐ意味となり、長年商売をして信用を得る意味で用いられるようになったようだ。老舗を“ろうほ”と呼んでも誤りではない。
「老舗」の定義の一つとしては、東京商工リサーチによると創業30年以上事業を行っている企業となっている。
老舗は昔から伝統的に事業を展開するため信用性が高いとされるが、一方で経営が保守的になりやすい傾向も見出せる。平成不況では、ニッチ市場など末端消費者のニーズ(needs)に即した業態が急成長を見せる一方で、老舗が時代の波に乗りきれずに倒産(いわゆる老舗倒産)するケースも増えてきている(※15参照)。
日本には創業100年以上の企業が10万、200年以上の企業が3000以上ある(横澤利昌・編『老舗企業の研究』生産性出版2000年)そうだが、そこには、酒造・和菓子・製造業など伝統産業が多くを占めるが、それらの会社は常に時代の流れに合わせえて変わってきたから存続できたのだろう。
17世紀の後半の江戸には、伊勢・近江・京都をはじめとする上方出身の新興商人たちがたくさん進出した。その中には近世を通じて豪商としての地位を保ち、近代にまで名を残した家が幾つかある。その代表的な例が、三井高利に始まる三井家であろう(三井家のことは、※16:「三井の歴史【三井公報委員会】参照)。
呉服店には江戸時代に創業した所も多いが、百貨店に変化していった老舗も多く、2000年代現在に生き残っている呉服屋を出自とする百貨店に関しては、三井高利が起した三越(創業1673年。現在は、三越伊勢丹ホールディングス傘下の三越伊勢丹が運営)が代表格である(日本の百貨店参照)。
井原西鶴は先に挙げた貞享5年(1688年)刊行の『日本永代蔵』(副題“大福新長者教”)の中で、実在した人物によって才覚重視を強調しているが、「昔は掛け算今は当座銀」(巻一の四)で、駿河町(現在の日本橋室町の一角)へ移転して6年目、江戸進出15年目の「越後屋」呉服店を紹介している。このタイトルは、「昔は後払いの売掛による商売であったが、今は現金売買である」といったところか。そこには、
「三井九郎右衛門といふ男、手金の光、むかし小判の駿河町と云所に、面九間に四十間((間口が九間に奥行が四十間))に、棟高く長屋作りして、新棚(「棚」=「店」、新しい店)を出し、万現銀売り(すべて現金売り)に、かけねなし(定価より高くした値はない)と相定め、四十余人、利発手代(賢い手代)を追まはし(自由に指揮し)、一人一色の役目」」・・・・とある。三井九郎右衛門は、三井財閥の基礎を築いた三井八郎右衛門の誤りで、三井 八郎右衞門は、三井家総領家である北家の当主が代々名乗った名前であり、ここに登場する三井 八郎右衞門は三井高利の次男で江戸の店を任された三井 高富のことだろうか。それとも高利のことを言っているのだろうか。
寛永12年(1635年)に母・殊法(この母親が素晴らしく有能で三井家の基礎はこの殊法により築かれたとも言われる)の命を受けて、14歳のとき一度は江戸に出て兄俊次が開いた呉服店に入って修行していた高利であったが、慶安2年(1649年)に松坂への帰国を余儀なくされた。
高利は、松阪で母親の仕事を手伝いながら家業を拡張し、商業に加えて金融業をも営み、資金を蓄積し、江戸進出の機会を待った。そして、妻を迎え、子宝に恵まれた高利は、自分の子どもたちが、15歳になると、男子は江戸の商人の下に送って商売を見習わせた。
江戸において自らの店を創業することができたのは、それから38年後の延宝元年(1673年)兄利次が没してからのことであった。しかし、このとき高利はすでに52歳の老齢であった。そのため、江戸で修行中の息子達に指示し、江戸随一の呉服街であった江戸本町に間口9尺(2.7m)の小さな借り店舗に、呉服店関係の店「三井越後屋呉服店」(越後屋)を開業させた。次いで京都に仕入れ店を開いた。京都の店は長男・高平に、江戸の店は次男・高富に管理させ、高利は江戸に赴くことなく、松阪にあってこれらの店の采配を振るった。
しかし、江戸の呉服店としては後発に属し、開業当時は間口9尺で使用人10人足らず、武家屋敷の顧客など一軒もないというような、苦しい立場からの出発であっことから、高利が編み出した新商法が当時当たり前であった掛売から、「店前現銀〔金〕掛け値なし」への切り替えであった。
掛売りは貸倒れや掛売りの金利がかさむため、商品の値が高く、資金の回転も悪かったが、店前売りに切り替え、商品の値を下げ、正札をつけて定価制(掛け値なし)による店頭販売での現銀(金)取引を奨励した。この現金売りによる収入は資金の回転を早め、二節季払い(年二回の「節季」【 盆暮れ等】払い)の仕入れ先には数倍活用された。
その新商法が旧態依然の同業者間からは反感を持たれ、嫌がらせをされ、追い出され、仕方なく、天和3年(1683年)本町1丁目から、近くの駿河町に移転したが、商売は繁盛を続け、両替店三井銀行【現:三井住友銀行】の前身である三井両替店)をももつ大商人の道を歩みだした。
越後屋は、はじめ4間間口の小さな店であったが、あっと言う間に店間口は東西が36間を越し、駿河町表間口の半分を占めるほどになっていった。その後、大阪にも進出し、三都に呉服・両替の店を構え三都の両替店は、幕府の金銀御為替御用にも大きく関与した。

上掲図が、江戸駿河町・三井越後屋の図(三井銀行蔵。写真は、週間朝日百科「日本の歴史84・近世Ⅱ」より)であり、下に掲載の図が「越後屋」の商い風景。三越資料館蔵として、週間朝日百科「日本の歴史68・近世Ⅰに掲載されていたものである。
越後屋は、「現金安売り掛け値なし」での「店前売り」だけではなく、「小裂何程にても売ります(切り売り)」もしていた。また、反物を、金襴類、羽二重類、紗綾類、紅類、麻袴 類、毛織類等などと分類し、店員の担当を生地ごとに明確に分け、顧客の如何なる質問 にも応じられる販売体制を敷いていたがこの手法は、「一人一色の役目」と言われていた。そのほか、数十人の仕立屋を抱え、いそぎ客へは即座仕立てによる販売方法が述べられている他、いろは付きの引出で商品の管理を行い、この店にはないという物がなく何でも揃っていると、『日本永代蔵』では「越後屋」での商品管理の方法や品揃えの良さを述べ、「大商人の手本なるべし」と絶賛している。
それに、広告文を史実的に見ると、天和3年(1683年)3月、越後屋が江戸府内全域に配った引き札(ちらし)の「現金安売り掛け値なし」のコピーが日本での第1号だという。
この引札のコピーは、八郎右衞門自らの起草と見られるが、修辞(レトリック)を一切排した実用文形式で、越後屋の営業哲学を鮮明に盛り込んだものだそうで、これが当時の商慣習を一挙に改変させることになり、以後この形式の引き札が江戸の町に氾濫するようになった。まさに見事なコピーライティングであり、時代を先取るプロモーション戦略であったと言えるだろう。
又、西鶴の『日本永代蔵』でのこのような実在した人物による成功例は、虚構として作り上げた人物の成功譚よりも、当時の町人たちに大きな影響を与えたことであったろう。
しかし、このように成功し、一代で大きな財を成し得ても、それを子孫が維持し続けることはなかなか難しいことである。多くは累代にわたって分散されていってしまうからだ。
高利は、元禄7年(1694年)に没したが、その後も三井が発展の途をたどり、幾多の危難をのりこえて、近代以降も財閥(三井財閥)として繁栄できた一因としては、高利の「真底一致」の方針と、それを細かく規定した二代目、高平が制定した家憲「宗竺(そうちく)遺書」の存在があるという。
つまり、高利は残された資産を分割することなく、共有して運用することを子供たちに望み、子供たちは、その遺志を継ぎ高平の主導のもと兄弟全員の仕事として、家業を続けることにし、また新たなお店(たな)を起こしている。そして三都の諸店や幕府の御為替御用など営業内容も複雑となりこれを統括する組織として「大元方(おおもとかた)」が宝永7年(1710)に設置されている。これは、三井一族の事業を統括し、共有とした財産を維持・運営する今で言うところのホールディングカンパニー(「持株会社」)的な機能をもつ最高機関ともいえよう。
続いて、高平と都市の近い2人の兄弟で享保7年【1722年】に家法である、「宗竺遺書」(宗竺とは高平の隠居名)が作成され、他の12人の同属(三井では同苗と称するそうだ)がその遵守を誓ったという。これらの内容は単なる精神的な家訓や資産の配分方法を示した遺書とは異なり、かなりの長文で具体的なことを示したものだそうであり、この中には、同苗の子弟の教育方針も定められており、例え一人っ子の惣領であっても一家の害になるような者は勘当し、同苗から養子をとるとか、愚鈍で渡世も出来ないような者は出家させよといった厳しい方針が示されているそうだが、その内容等は、※16:三井の歴史【三井公報委員会HP】を参照されると良い。また、越後屋呉服店の創業に関しては、以下参考の※17:「我が国に於ける革新的小売業の源流ー越後屋呉服店の創業に関して」で詳しく解析されているので興味のある人は見られるとよい。
最近、総合製紙大手の大王製紙の井川意高元会長(47才)が子会社から総額80億円超の資金を個人的に借り入れたとして辞任した問題で、元会長の借入総額が100億円を上回る見通しであることが同社関係者の話で分かったという。また、借り入れのうち数億円は米国ラスベガスのホテルに開設された元会長の個人口座に直接入金されていたとみられることも判明したそうだ(※18)。
大王製紙は、愛媛県宇摩郡三島村(現在の四国中央市)出身の井川伊勢吉が1941年(昭和16年)に設立した四国紙業株式会社が前身で、大王製紙は、四国紙業など14社が1943年(昭和18年)に合併して発足した会社。中心である四国紙業の創業者(井川伊勢吉)の孫が、こんなことをしでかし、又、井川意高が社長時代のものもらしいが、東証1部に上場されている会社内で、このような商法違反行為が行なわれていたということが信じられない。三井の同苗から見ればどういうことになるのだろう・・・・。
株式会社は、社長のものではなく、株主のもの。会社には、代表取締役を監視する監査役もおり、会計監査をしている公認会計士もいるはずだ。それらの機関が全く機能していなかった言うことだろうが、なんとも情けない話ではある。
やはり、江戸時代末期の呉服店出身の老舗で、戦後急成長した企業に、三重県四日市市の老舗呉服商「岡田屋」(創業は宝暦8年=1758年。太物【絹織物を呉服というのに対して、綿織物・麻織物など太い糸の織物の総称。】・小間物商「篠原屋」)がある。この「岡田屋」を経営する岡田家に伝わる家訓は「大黒柱に車をつけよ」であり、岡田卓也氏の同名の著書も出版されているが、本来動かないはず、あるいは、動かしてはならないとされているはずの「大黒柱」であっても、時代の変化によっては、車をつけて、動かすつもりで対応しなくてはならないという意味であり、著書では、呉服屋であった岡田屋が、人の流れを見ながら、戦前に繁華街であった場所から、四日市市役所近辺へ、更には四日市駅前へと移転し、更には郊外型のショッピングセンターのモデルへと進化を遂げていったことを例に挙げて、変化への対応の重要性を説明している。
今では、日本の流通業界ナンバーワンといえるまでに育ったイオン株式会社であるが、イオンは、大手流通グループ「イオングループ」を統括する純粋持株会社(※19)であり、このイオングループは、イオン株式会社(旧:ジャスコ株式会社)を純粋持株会社に、イオンリテール株式会社を中核に、国内外190余の企業で構成される大手流通企業グループである。
旧:ジャスコは、1970年(昭和45年)、当時はローカルスーパーマーケットチェーンの域を出なかった岡田屋が、フタギ(兵庫県姫路市)、シロ(大阪府吹田市)と提携し、この3社が共同出資で共同仕入会社の「ジャスコ株式会社」を設立したことを起源とする。
ジャスコは「商業を通じて地域社会に奉仕しよう」を社是(会社や結社の経営上の方針・主張。また、それを表す言葉。)とし、社命も「日本ユナイテッド・チェーン株式会社」の英語訳である"Japan United Stores COmpany"の頭文字をとったものとなっている。この社是の目的と使命に共鳴する同志朋友の参画と結集をもって『連邦制経営』を推し進め、参画企業との合併や買収を続けながら、全国各地へと展開をしていった。
又、ジャスコの事実上の創業者でもある岡田卓也(元岡田屋社長)の強力なリーダーシップのもと、同業他社や百貨店などが駅前や中心街に多くの店を構え苦しんでいる中、岡田屋時代の家訓そのままに、時流のモータリーゼーションの発達に合わせて、既存の駅前や中心街の店を積極的にスクラップし、郊外型の大型ショッピングセンター中心への出店に方向を転換。つまり、スクラップアンドビルド政策により企業規模を拡大してきた。
私は、現役時代の仕事の関係でジャスコのことは良く知っているが、ジャスコの中心企業であった岡田屋はなによりも信用である「のれん」を第一の財産とした経営方針を貫いていた。又、マスコミではあまり取り上げられなかったが、社会貢献活動にも早くから力を入れていた。そして、ズット先の、将来の企業規模が拡大された時の姿を描いて、大きくなった企業を管理運営していけるだけの幹部候補を確保すべく、従業員教育に最大の力を入れていたことは、流通業界で知らぬ人はないほど有名であった。
岡田卓也は岡田屋時代から、岡田屋は地方では成功していたが、企業の寿命は30年しかもたないと常に考え、何時、地方の岡田屋を捨てきれるかを考えていたという(※20)。その結果が、当時では目珍しい3社合併によるジャスコ設立へと繋がったのである。合併後も、絶えず、次の30年後の姿を描きながら、それを実現するための政策を立案し、それを実現してきた人だ。そして、「改革」を重視し、経営幹部には失敗を恐れず新しいことにチャレンジする人間を抜擢してこれに取り組ませ、そのための資格制度を社内に設け、能力主義の人事政策をとってきた。
ただ、基本の本業から大きく外れないことを鉄則としている。つまり、消費者との接点となる小売業(本業)から大きく離れず、将来どんな変化にも対応出来るよう様々な業種・業態開発を行ない、本業である小売業とのシナジー効果を生み出した。小売業以外の分野、例えば保険業や金融業などの業態へも進出もそうだ。
グループ内の企業の幹部を年に一度集めて行なわれる政策会で、求められる決まりごとは、現状に満足しないでの「革新に継ぐ革新をする」ことである。その努力がこの企業を今の姿にした。
1989年(平成元年)にグループ名称を「ジャスコグループ」から「イオングループ」へ変更しているが、「イオン (ÆON)」とは、古典ギリシア語 αἰών(aiōn、アイオーン)に由来するラテン語で、「永遠」を意味している。同社において社名をジャスコやイオンへと商号を変更してきたのは単に多くの企業との合併や買収をし。企業規模が拡大したから変更したのではなく、企業がひとつの目的を達成したときに、それを区切りに、グループ会社の全員に新たなる次の目標を明確にしたトップの意思を表したものとなっているのだ(※20、※21など参照)。商号変更後、イオンは永遠に発展するため、グローバル化の中で、今は世界に目を向けた戦略の下、海外への企業進出に本格的に取り組んでいる。
少子高齢化の進む日本のマーケットの将来は縮小せざるを得ない。イオンは、早くから社員の資格制度の中に英語検定を条件に入れるなど、海外との取引の出来る人材開発を準備してきている。海外への出店が加速していくだろう。
このように、今、歴史のある老舗と言われる企業で、生き残っているところは、その規模の大小を問わず、ただ古くからの伝統を守り、信用を大切にするだけでなく、絶えず、時代の流れに合わせた革新的経営にも取り組んできたところのみが今、存続できているのだろう。
時代の流れがどんどん変化し、変わりながら企業の仕組みや商品サービスが何も変わっていないことなどありえないことだ。表面上は古い伝統を守り続けているだけのように見えても、見えないところで、大変な時代への対応のための努力がされているのだ。
常に改善と変化へ、時にはのリスクを取りながらでも改革へのチャレンジすること意外に、時代の変化に取り残されない方法などないのである。
岡田の危惧していた時代よりも10年ほど遅れて、それでも、今から約30年前の1980年代には「会社の寿命は30年」説が言われるようになったが、これは確か日経ビジネスの統計によるものだったと思う。「企業にも寿命があり、優良企業とはやされても盛りは30年まで」という結論は衝撃的に受け止められた(※22参照。『会社の寿命―盛者必衰』と言う本も1989年に日経ビジネスから出版されている)。
しかも、世界のグローバル化も進み、社会の変化が激しくなってきた中、バブルも弾け、市場規模も縮小してきている今日、長引く不況の中で、ひとつの事業が利益を生み続けられるスパンは年々、短くなっているであろうが、会社の寿命も10年から5年に向かっているという(※23参照)。
この30年で跡形も無くなった会社もあり、いまも健在な会社もあるが、これからどう対処していかなければならないのか?以下参考の※22、※23など読んだ上、※24:「企業の寿命と再生:純丘曜彰 教授博士」など読むと分かりやすいのではないか・・・。
老舗といわれる会社だけでなく、会社と運命共同体の関係にあるサラリーマンも、今後のライフプラン(生活設計)を考える上で、現状をよく理解しておかなければならないだろう。
ギリシャを含むPIIGS(ピーグス)と呼ばれる国々は、今起こっている世界金融危機において金融・財政部門の改善が自国の力のみでは達成出来ない可能性のある国々であるが、2009年末からギリシャを中心とした財政破綻とユーロへの影響の懸念が強まっており、世界の経済は先行きが見えなくなってきているのだから・・・。以下参考の※25:「総括・平成大不況」ではバブルの問題や原因が良くわかるよ。
参考:
※1:老舗通販.net
http://www.starmark.co.jp/
※2:豆知識
http://www.geocities.jp/mitaka_makita/kaisetu/mokuji.html
※3:えびす信仰
http://homepage3.nifty.com/kencho/ebisu.html
※4:ようこそ「金沢・時代の小波 金沢・七福神巡り」へ
http://homepage2.nifty.com/351217/kanazawa8.htm#tomioka
※5:鎌倉TODAY>鎌倉を知る”KIさんの鎌倉レポート”
http://www.kamakuratoday.com/suki/ki/index.html
※6:冠婚葬祭マナー百科:秋の行事:えびす講の由来
http://5go.biz/kankon/q10_4.htm
※7:忌籠祭(いごもりまつり) -Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%BF%8C%E7%B1%A0%E7%A5%AD/
※8:えびす宮総本社 西宮神社 公式サイト
http://nishinomiya-ebisu.com/index.html
※9:デジタルアーカイブPORTAL_国立国会図書:「日本永代蔵」
http://porta.ndl.go.jp/Result/R000000008/I000019950
※10:小春・治兵衛の墓(大阪市都島区)
http://www12.plala.or.jp/HOUJI/shiseki/newpage455.htm
※11:鶴沢八介メモリアル【文楽】ホームページ床本集
http://homepage2.nifty.com/hachisuke/yukahon.html
※12:日本古代史論壇
http://www.ribenshi.com/forum/thread-3556-1-1.html
※13:日本永代蔵 - 京都大学電子図書館
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/np/eidai.html
※14:永代蔵・胸算用に見る町人の姿
http://onda.frontierseminar.com/ei.doc
※15:2010年「業歴30年以上の企業倒産」調査【東京商工リサーチ】
http://www.tsr-net.co.jp/news/analysis/2011/1208627_1903.html
※16:三井の歴史【三井公報委員会HP】
http://www.mitsuipr.com/history/edo/tanjo.html
※17:我が国に於ける革新的小売業の源流ー越後屋呉服店の操業に関して
http://www.biwa.ne.jp/~akira036/PDF/write13.pdf#search='越後屋 面九間 四十間'
※18:<大王製紙>井川元会長 借入総額が100億円超の見通し
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111018-00000009-mai-soci
※19:純粋持株会社 - 金融用語辞典
http://www.findai.com/yogo/0265.htm
※20: [PDF]創業時からの家訓「大黒柱に車を付けよ」
http://www.zeroemission.co.jp/B-LIFE/SFC/speech04/sp0406.pdf
※21:「イオン」ネーミング変更に秘められた企業体の意思
http://www.id10.jp/brandingnews/101101
※22:「会社の寿命30年」説を検証 - 日経NEEDSで読み解く
http://www.nikkei.co.jp/needs/analysis/04/a040922.html
※23:【会社の寿命】今や"寿命"はわずか5年:日経ビジネスオンライン
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20090212/185916/
24:企業の寿命と再生:純丘曜彰 教授博士
http://www.insightnow.jp/article/5706
※25:総括・平成大不況
http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~morisaki/004econo_leaks/fukyou2.htm
老舗倒産の動向調査 | 帝国データバンク[TDB]
http://www.tdb.co.jp/report/watching/press/p050301.html
老舗 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%81%E8%88%97

焼うどんの日

2011-10-14 | 記念日
日本記念日協会に今日10月14日の記念日として「焼うどんの日」が登録されている。
記念日の由来を見ると”焼うどん発祥の地の福岡県北九州市小倉で、まちおこしの活動をしている小倉焼うどん研究所(※1)が制定。小倉の焼うどんを全国に広め、その歴史、地域に根ざした食文化を理解してもらうのが目的で、日付は2002年10月14日に、静岡県富士宮市の「富士宮やきそば学会」との対決イベント「焼うどんバトル特別編~天下分け麺の戦い~」を行い、北九州市小倉が焼うどん発祥の地として有名になったことから。”・・・とあった。
Wikipediaによると、1945(昭和20)年の終戦直後、小倉市(現北九州市小倉北区)の「だるま堂」(※2)の店主が、関西で流行りのソース焼きそばを作ろうと思ったが、物資不足の折、中華のそば玉が手に入らず、代わりに「干しうどん」をゆがき、焼いて出したところ大好評だったのが始まりと言われる。尚、だるま堂の店主は2005(平成17)年に亡くなったが、いっしょに店で焼いていた妻は、60年以上たった今でも健在で、同じように干しうどんを使っての焼きうどんを作り続けているそうだ。現在、小倉北区内においてJR小倉駅周辺から旦過(たんが)市場(※3)にかけて焼きうどんを食べられる店が20店舗以上あるようだ(※1にマップがある)。
一般的に、焼うどんの調理法は焼きそばと大差はないが、ソースではなく、醤油や、塩コショウを味付けに使うこともあるが、小倉焼うどん研究所が定める「小倉発祥焼うどんの定義」なるものがある。以下の通り(※1より)。

一、乾麺をしようするべし。
一、キャベツは若松産であるべし。
一豚肉はバラ肉であるべし。
一、玉葱はその甘味を引き出すべし。
一、秘伝のソースは良く研究するべし。
一、削り節はアジ、サバ節を使用するべし。
一、小倉地酒で香り豊に仕上げるべし。
※5項目は必ず取りいれるべし。”とある。

焼きうどんは小倉から各地に広がっていったということだが、他の地域では「ゆでうどん」を使う店がほとんどであろうが、「小倉発祥焼うどんの定義」には、その特色が色々書かれているが、何よりの特徴は「干しうどん」(乾麺)を使用していることにあるようだ。
「乾麺」は、食味に関しては、調理法(茹で戻し方法)にもよるが生麺にくらべ、一般に麺のコシが強いことが多いようなので、焼うどんには適しているのだろう。私は食べたことがないが、小倉焼うどんは、焼き目がしっかりと付いた、もっちりとした食感が茹で麺にはない美味しさだといわれている。
2002年(平成14)年10月12日に、静岡県の富士宮やきそばと小倉の焼きうどんが勝負する「天下分け麺の戦い!」が、福岡県北九州市小倉の小倉城公園で行われ、この顛末はテレビを通じて全国に放映された。
このイベントを仕掛けたのは、小倉焼うどん研究所の方で、同研究所がこのイベントを開催するようになった経緯などは、同研究所HP(※1)の「実録!小倉焼うどん物語」に詳しく書かれているが、要約すると以下の通りである。
小倉のホテルで、小倉らしいものを食べたいとの宿泊客の要望が多いことを知った、当時、ホテルの企画広報担当をしていた主任が、鉄の町、工業の町と言われる北九州市のホテルの宿泊客は、その多くが観光ではなく出張者であることから、近くで、短時間で、食べられる小倉発祥の焼うどんを売り出したいと考えた。しかし、まだ小倉が焼うどん発祥の地であることを地元でも知って居る者が多くはなかったことから、小倉の焼うどんの名を世に出すために何か大きなイベントを利用しようと考えたのが出発点であったようだ。
その後、1999年(平成11)年に、現在の小倉焼うどん研究所の所長を始め、“元気な街北九州を目指そう”と集まった有志で、街の活性化に取り組む任意団体NPO法人「北九州青年みらい塾」を結成(※4)し、2001(平成13)年10月「焼うどんバトル~発祥の地の名にかけて~」の名で、誰が作る焼うどんが一番美味しいかを競うイベントを小倉の中心部で開催。
予想以上にイベントが盛り上がり、又、予想以上に地元媒体に取り上げられ、焼うどんに対する認知度や評価も多少上ったことから、積極的に焼きうどんを活用した街づくりに取り組もうと、同みらい塾内に小倉焼うどん研究所が誕生。小倉の街で行なわれていた冬のイベント「食市食座」への参加や焼うどんマップ作りなどに力を入れていたが、もっと大きなイベントをしようと企画されたのが、「天下分け麺の戦い!」であった。
これは、「2002(平成14)年が、小倉城築城400年に当たることから、築城年にちなんで400人の人に焼きうどんを食べて貰おうというもので、丁度、翌・2003(平成15)年1月から、NHK大河ドラマ「武蔵~MUSAI~」が放映されることになっていたことや、北九州市は源平の合戦の舞台ともなっていた壇ノ浦を抱えていることから、「北九州ほど決闘や合戦という言葉が似合うところが無い!」と小倉城でイベントをやろうと考えた。
そして、「どこと戦わせるか」ということで、「焼うどんの永遠のライバルと言えば焼ソバだろう。そして、焼ソバと言えば、いま静岡県の富士宮焼ソバが人気がある」ということで、すでに食で町おこしを成功させていた富士宮やきそば学会の渡辺会長に相談し引き受けてもらったという。
そして、“勝敗はともかく、イベントの盛り上がりはすごく、小倉場天守閣前には今まで見たこともない大勢の人が集まり、地元新聞の告知報道を機に、YAHOO!のトピックスで取り上げられ、それを発端として、中央のマスコミにも取り上げられるようになり、キー曲のワイドショー4番組に特集が組まれるほどのイベントとなった。こうして、小倉焼うどんが一定の認知をされるようになった”・・・・とある。
ところで、対戦相手に選ばれた、静岡県富士宮市の焼きそば「富士宮やきそば」は、1999(平成11)年に富士宮市の地域おこしに付いて話し合いをしている際に、古くから食べられてきた独自性のある地元の焼きそばに着目したのがきっかけで新たに命名された名称であり(※5)、独自調査の結果、富士宮市がやきそばの消費量が日本一であったことから、2000(平成12)年に町おこし(地域おこしの1つの呼称)として「富士宮やきそば学会」を立ち上げ、地元で食べられている焼きそばを「富士宮やきそば」として、PRキャンペーンを行っていた。
以下参考に記載の※6:「街物語第四章富士宮◇街を食す」によれば、小倉での戦いは「焼きうどんVS焼きそば」の対決で、自らの市を焼きうどん発祥の地としている北九州市小倉からの挑戦を、富士宮やきそばが受けて立った麺バトルであった。多くのマスコミが注目したこの異種対戦は、202対197で「富士宮やきそば」は惜しくも敗退。巌流島を有する下関市の江島市長が立会い役となり、「富士宮は一年間無償で小倉焼うどんのPRを行なう」という誓約書が交わされたのだそうだ。
しかし、同HPにも書かれているように、この「天下分け麺の戦い!」は会場が挑戦者の小倉でのものであり、つまり富士宮にとってはアウェー戦であり、そのため、この富士宮の惜敗は大きく評価された。・・・とあるが、だから、小倉焼うどん研究所の「実録!小倉焼うどん物語」でも、 “勝敗はともかとして、・・・”と、敢えて勝敗の結果のことには触れていないのだろう。しかし、僅差で敗れた相手に、「一年間無償で小倉焼うどんのPRを行なわせる」などというのは、ちょっぴり、嫌味だね~。ただ、「富士宮やきそば」の名も有名になり、同そばは、2004(平成16)年に、「富士宮やきそば学会」の登録商標となっている。
このイベントが元で、以降、うどんや焼そばのような俗に言うB級グルメで、地域おこしをしようという動きが日本各地で見られる中、ご当地グルメを利用し全国に知ってもらえるような宣伝活動をしようとする団体・グループが各地に出来、日々の活動の成果をお披露目するイベント、つまり、現在、テレビなどマスメディアなどでも、話題となっているB-1グランプリ開催の元になったとも言われており、その点では、小倉焼うどん研究所の主催した「天下分け麺の戦い!」の果たした功績は非常に大きいといえるだろう。
B-1グランプリは、「B級ご当地グルメでまちおこし団体連絡協議会」(通称:愛Bリーグ)と、開催地の実行委員会が、安くて旨くて地元の人に愛されている地域の名物料理や郷土料理を「B級ご当地グルメ」と定義し、その日本一を決めようという趣旨で主催している大会であり、正式名称は「B級ご当地グルメの祭典! B-1グランプリ」である(詳細は、以下参考※7:「B級ご当地グルメの祭典 B-1グランプリ公式サイト」の“B-1グランプリとは”を参照)。
その第1回は、2006(平成18)年2月に、青森県の八戸せんべい汁研究所(※8)の企画プロデュースにより青森県八戸市で開催(2日間)されている。参加申し込みをしたのは、小倉焼うどんが最初の返事だったという。極寒の地八戸でのイベントには、参加申し込みもなかなかなかったようだが、当日(2日間)は、10の団体が集まり、1.7万人の来場者があったようだ。
この後、B-1グランプリは、毎年1回行なわれ、第2回富士宮大会で21店、 25.0万人、第3回久留米大会では24店、 20.3万人 、第4回秋田県横手大会では26店、 26.7万人、そして、昨:2010(平成22)年9月 19日・20日、神奈川県厚木市では、過去最大の46店が出展し、 43.5万人の動員実績を残しているようだ。
因みに、このB-1グランプリの第1回(2006年)と第2回(2007年)の両大会で第1位(ゴールドグランプリにかがやいたのは、「富士宮やきそば」であり、又、この2007(平成19)年に農林水産省が主催して、「農山漁村の郷土料理百選」が選ばれているが、この時、農山漁村との関係は薄いものの地域住民にご当地自慢の料理として広く愛されている料理23品目も、別枠で「御当地人気料理特選」として選定(約1700点の中から選ばれたという)されているが、この中に、「富士宮やきそば」が選ばれている。
しかし、残念ながら、「小倉焼うどん」はB-1グランプリにも、御当地人気料理特選にも選ばれてはいない。やはり、同じ小麦粉を原料とする麺類であっても、例え、生ではなく、干したうどん(乾麺)使用とはいえ、最初から、麺のコシを高めるためにかん水(鹹水)を加えて作られた中華麺には、コシの強さで及ばないし、焼きそば用に販売されている麺は、ほぐしやすいように油処理もされていることが多く、当初から焼いて美味しく食べるように特化して作られている。こんな焼きそば用の麺に対して、そのようなことを目的として作られていない代替品の利用では、素材の面での相違が大きいだろう。
関西は粉物が好きで粉食文化が発達しているが、現代、麺類では、関東のそばに対して関西はうどんが主となっている。しかし、焼いて食べる場合には、好みにより焼きうどんを食べる人もいるが、人数的には焼きそばを食べる人の方が断然多いだろう。
「富士宮やきそば」は、第3回(2008年)B-1グランプリでも特別賞となっており、その人気は高く、地域おこしの成功例の代表格でもある。「富士宮やきそば」は、登録商標であるが、この名称を使用して販売するためには条件が定められており、例えば、その中に、富士宮市内の製麺会社(マルモ食品、曽我めん、叶屋、木下製麺所)と仕入れ契約をかわすなどの条件がある(※9)。
富士宮市は、富士山本宮浅間大社門前町であり、富士登山者や寺社への参拝客が多く訪れていた。また富士宮には身延線の主要駅も存在し、静岡県と山梨県を結ぶ交通の要所でもあった。
そのような歴史的背景から主に戦後にやきそばを売る店が増えはじめ、地域に根付いたものとなっていたようである。先にも述べたように、独自調査の結果、富士宮市がやきそばの消費量日本一であったようだ。
そんな富士宮の「やきそば」が他の地域のものとは異なる特徴のあることに注目し、富士宮やきそばを通じて 元気なまちづくりを目指す「まちおこし」を実行したという。
焼きそば用に使用する素材の主をなすものは、当然に、焼きそば用の麺であるが、この麺が他の地のものには見られないコシがあるのが特徴で、富士宮では地元産の小麦粉を使用している。
その焼きそば用の麺の由来については富士宮市の製麺会社で、この麺の発明者ともいわれるマルモ食品工業が「戦後の食料難の時代に創業者の望月晟敏が戦地で食したビーフンを再現しようと試みた過程でこの蒸し麺が生まれました。この麺の特徴は、水分が少なく、調理する際に水を加えたり、キャベツの水気でお好みの硬さで食することができます。」と麺の開発について、又、それに「肉かす(豚の背脂を絞って残った物)を利用して、香ばしい味を出し、だし粉を加えることで富士宮の味となりました」と、「富士宮やきそば」が美味しい理由をも述べている。
太平洋戦争の前後には山梨県から物資の調達に来る買い出し客や、物々交換で物資を求めて来る人たちもいた。こうした人々の中には山梨県にそんなやきそばを持ち帰りたいという人がいたが、当時の保冷技術と交通手段は未発達であり、山梨県に到着するまでには麺が傷んでしまうという難題があった。こうした課題を克服するため麺作りにも工夫がなされていったとされているようだ(Wikipedia)。
※マルモ食品ほか地元の製麺会社の麺には色々特徴があるようだが、そのことは以下参考に記載の※10:「秘密基地なブログ: 富士宮やきそばの歴史」などに記されている。
「地域おこし」とは、市町村、あるいは市町村内の一定の地区の経済や文化を活性化させることであり、「町おこし」又「村おこし」などともも呼称される。
かって、大量生産されている商品がもてはやされた大量消費社会の時代、農山漁村など都市部への労働力人口が流出し、地域の産業や諸活動の担い手が不足し、これら地方の空洞化・衰退が始まった。しかし、1960年代の高度経済成長が終わると、都市部への人口流出により起こった地域の産業や住民層が空洞化してしまった後の経済的な建て直しや人口回復などが必要となってきた。そのための活動が「地域おこし」である。
かって、日本の地域開発は、企業誘致や国による画一的な開発計画に頼っていたが、近年これらのやりかたに限界が来ており、今までのように、国や政府の政策に頼るばかりでなく、自ら自分たちの地域の持つ特徴・特性を生かして、地域の人々を巻き込んでの地域の内部的発展が求められる時代に入っている。
地域の自立、地域主権の確立が時代のテーマー(地域主権戦略会議参照)として浮上している今日の社会では、内外からその付加価値が問われる。そこで注目されたものに、地域ブランドと言う考え型がある。
それまでの大量生産された単なるモノは人気がなくなり始めたことから、企画化された商品ではなく、全国各地でそれぞれの地域が独自の魅力を自由に追求し、競い合いながらその地のブランドをアピールしあう。それが、地方の時代への展開を推し進め、日本を元気にするためのキー概念(key conceptの日本語化。重要な概念。骨格となる発想や観点・決め手のこと。)となる。
これら地域ブランドの考え方は、民間企業が、マーケティング上のブランド戦略上の見地から、商品等を通じて消費者との関係を構築するために活用されてきた手法である。
その着目の1つは、自分たちの地域・町に着目した観光地ブランド、2つ目は、モノに着目した特産品ブランド、3つ目として、そこに住む人、生活に着目する暮らしブランドなどがあるが、本質的には、これら3つの領域は有機的に結びついているので、これらを、総合的に強化することで大きな相乗効果を生み出すことが出来る。そのために、地域ブランドづくりには、先ず、そのための推進母体づくりをし、その明確なシンボルをつくり、地域との接点づくりへとステップを踏んで進めることが重要である。
このような地域ブランド育成のために、地域名と商品名の商標登録を受け付ける「商標法の一部を改正する法律」が2005(平成16)年に成立し、2006(平成18)年に施行され、地域団体商標制度が始まった。
そんな地域ブランド作りの代表的なものに、平松守彦・大分県知事の提唱による「一村一品運動」があった。この運動は、地域産業の重要性が注目された1970年代後半に始まった地域振興運動の一つであり、各市町村がそれぞれ一つの特産品を育てることにより地域全体の活性化を図ろうとするものであった。
この一村一品運動の源流は、既に、大分県の旧大山町(現・日田市大山町)が1961(昭和36)年から行っていたNPC運動(New Plum and Chestnut運動) である(※11参照)。
これは、旧大山町の持つ山間部と言う点を生かし、そこの環境にあった農作物を生産するほか、付加価値が高い梅干などの商品に加工して出荷位を行なう運動であり、これが成功したことにより、一村一品運動という形で、同じような活動が大分県全体に広がったのである。
このような、地域指向から生まれた一村一品運動の特徴は、その地域の持つ特性を全面的に押し出した商品を生産することによって、地域の活性化を図ってゆこうとするものであり、商品の生産による「まちおこし」を行なうにあたっては、その地域資源を用いて地域の特徴を全面に押し出してゆくことが原則となっている。
そして、地域の人たちが共通の目標を掲げ、自主的な取り組みを尊重し、行政は技術支援やマーケティング等の側面支援に徹することにより、自主的に特産品を育てることができる人や地域を育てる「人づくり」「地域づくり」を行った。また、付加価値の高い特産品を生産することによって農林水産業の収益構造の改善に貢献した。
しかし、一村一品運動に多く見られるもう一つの特徴として、消費の場を地域内でなく、地域外に求めがちであるということがあげられる。売り出した商品がたまたま市場の要求に適合し、金銭的な利益をあげただけでは「まちおこし」が成功したとはいえないだろう。「まちおこし」の目的は、金銭的な利益の追求ではなく、その活動によって地域内の経済や労働力の循環、産業の振興などの成果を長期に渡ってあげていかなければいけない。
そして、食を通じた「まちおこし」として、イベントや物産展への参加による広報活動が行なわれている。メディだけでなく直接消費者と触れ合う形での広報活動の中でも、全国的な知名度を誇るイベントの1つが、今注目を集めているB-1グランプリへの参加による全国的な知名度の獲得である。
これを、上手く利用し、今や全国区の地域ブランドとなったものの1つが、「富士宮やきそば」であろう。
以下参考に記載の※12:「(財)地域活性化センター」の、”地域づくりの事例>地域事業を生かした地域の活性化”の中にある、事例22)静岡県富士宮市を見ると、今や全国区の地域ブランドとなった「富士宮やきそば」について、以下のように紹介されている。
“ただ地元での「日常的な普通の食べ物」にすぎなかった「やきそば」に、付加価値を付けて世に送り出した結果、富士宮やきそば今では全国から年間50万人もの人が、「やきそば」を食べるために富士宮市に訪れるまでになった。しかし、富士山を背景とする自然豊かな富士宮市の地域食材は、「やきそば」だけではない。豊富な湧き水を使ったニジマス、地酒、広大な朝霧高原の酪農、日本一の標高差を活かした多品種の野菜など、美味で特色のある食材がたくさんある。そこで、富士宮市は、「富士宮やきそば」の人気に堂々と便乗し、これらの地域食材にも着目することとなった。・・・として、次に、地域力再生総研の取組を紹介している。
つまり、「富士宮やきそば」は、もともと地元にあった特異な富士宮産の小麦粉を使用し、それに工夫した作り方での特色ある「焼きそば」が、現地の小麦粉生産者、「焼きそば」を作るお店やその材料を販売する会社、店舗、そして。それを求める消費者へと結びつける“つなぎ役”となり、「B-1グランプリ」で得た名声を最大限に利用して、地元への観光、他産業への発展へと連鎖的に繋げてゆき、先にも書いた本来の「まちおこし」の目的、「金銭的な利益の追求ではなく、その活動によって地域内の経済や労働力の循環、産業の振興などの成果を長期に渡ってあげていく」ことに繋げているのである。
そのような意味で、せっかく「B-1グランプリ」開催の元になったとも言われる「天下分け麺の戦い!」をしかけた、「小倉焼うどん」が、(財)地域活性化センターの地域づくりの事例として、挙げられていないのは、単に、地元の焼きうどんの宣伝のみに終わっているからではないだろうか・・・。少し、残念な気がする。
最近は「B-1グランプリ」へ参加し、ゴールドグランプリとなった料理は一気に知名度が上がり、その料理の地元に経済効果をもたらしていることから、投票において、組織票を使っての不正さえも見られたという(※13)。
B級ご当地グルメの祭典 B-1グランプリ公式サイト(※7)の「B-1グランプリとは」のところで、以下のように説明している。
“B-1グランプリはメディアで「日本最大規模のグルメイベント」として紹介されることがありますが、実は私たちはB-1グランプリをグルメイベントとして開催しているのではありません。
 B-1グランプリでは、日本全国の自慢の料理が提供されます。しかし料理を売ること自体を目的としているのではく、料理を通じて「地域をPRする」ことで、一人でも多くのお客さんに現地に足を運んでもらおうという、地域活性化を目的とした「まちおこしイベント」なのです。
それゆえにグランプリの称号は「まちおこし団体」に対して贈られるものであり、「料理」に与えられるものではありません。料理の味の日本一を決めるイベントではなく、料理=B級ご当地グルメの味を含めたまちおこし活動の日本一を競うイベントなのです。“・・・と。
しかし、現実には、B-1グランプリに出場するのは特定団体の加盟団体に限定され、その加盟団体も多くは「地域おこし」を標榜しながら、実は飲食店など「業界おこし」にすぎないとの「地域おこし」専門家の指摘もある(『地域再生の罠』 ちくま新書、2010年)ようだ。さらに、B-1グランプリの知名度が上昇するのに比例して、2008年頃からはグランプリに出場するためにM、ご当地B級グルメを創作する傾向も見られている。特にご当地焼きそば、ご当地カレーは乱立しており、単に「その地域特産の食材」を無理やり詰め込んでできたメニューでご当地グルメを名乗る安易な発想には強い批判も出来ているようだ。・・・私は、このようなイベントには参加したことがないので実態はよく知らないが、これからの時代を考えて、しっかりと、本来の「まちづくり」の一環として取り組むよう行政なども指導力を発揮していって欲しいものだと願っている。
B-1グランプリの次回開催は、「第6回 B級ご当地グルメの祭典! B-1グランプリin姫路 」と名うって、わが地元である兵庫県で開催される(開催日 2011年11月12日~13日)。
それも、会場は、ユネスコ世界遺産に登録されている 姫路城周辺。興味のある方は是非参加ください。
第6回 B級ご当地グルメの祭典! B-1グランプリin姫路 
公式HP ⇒ http://www.b1-himeji.jp/index.html

(冒頭の画像は、向かって左:焼うどんソース味、右:富士宮やきそば。Wikipediaより)
参考:
※1:小倉の焼うどん研究所HP
http://www.kokurayakiudon.com/
※2:小倉名物!焼きうどん@だるま堂
http://hakata.livedoor.biz/archives/1526261.html
※3:旦過市場 
http://tangaichiba.jp/
※4:NPO法人 北九州青年みらい塾
http://www.miraijuku1999.com/
※5:現場と消費者とをつなぐ“町おこし”という試み【富士宮やきそば学会会長 】
http://www.ntt.com/b-advance/leader/200912/index.html
※6:街物語第四章富士宮◇街を食す
http://www.quizzing.jp/machi/04/02.html
※7:B級ご当地グルメの祭典 B-1グランプリ公式サイト
http://b-1grandprix.com/
※8:八戸せんべい汁研究所
http://www.senbei-jiru.com/
※9:富士宮やきそば学会ホームページ
http://www.umya-yakisoba.com/
※ 10:秘密基地なブログ: 富士宮やきそばの歴史
http://www.geocities.jp/syori59/yakisoba/yakisoba.html
※11:NPC運動 - 大分大山町農業協同組合
http://www.oyama-nk.com/rinen/npc.html
※12:(財)地域活性化センター
http://www.chiiki-dukuri-hyakka.or.jp/
※13:悩めるB級グルメの祭典 競争過熱、「不正投票」も - Asahi
http://www.asahi.com/food/news/TKY201009160502.html
焼きうどん-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%BC%E3%81%8D%E3%81%86%E3%81%A9%E3%82%93
地域活性化の事例とは交付金や地域活性化センターについて
http://2chiiki.info/%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E6%B4%BB%E6%80%A7%E5%8C%96%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E6%B4%BB%E6%80%A7%E5%8C%96%E3%81%AE%E4%BA%8B%E4%BE%8B%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BA%A4%E4%BB%98%E9%87%91%E3%82%84%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E6%B4%BB%E6%80%A7%E5%8C%96%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF/

釜山から引揚者2100人を乗せた雲仙丸が舞鶴へ初入港した

2011-10-07 | 歴史
敗戦後の1945(昭和20)年10月7日、釜山から、2100人(復員兵)を乗せた雲仙丸が入港した。
第二次世界大戦に、敗戦後、国外から引き揚げてきた者を一般的に「引揚者」と言うが、この呼称は非戦闘員に対してのみ用いられ、日本軍の軍人・軍属として外地・外国に出征し、その後帰還した者に対しては「復員兵」もしくは「復員者」などと呼ばれた。その意味では、この日、雲仙丸で帰還したのは、軍人、つまり、「復員兵」であった。ここでは、特別断っていない限り、両者を含めた一般的にいうところの引揚者について書く。
この日、以来舞鶴へは1船2千人から3千人の単位で帰還が続いた。
第二次世界大戦終了後、国外から日本へ引き揚げてきた人たちは、諸説あるが、一般・軍人・軍属(軍人以外の軍所属者)合わせて約660万人といわれ、そのうち約半数が一般人である。舞鶴には66万人余と1万6千余柱の遺骨が上陸したという。
当初、舞鶴ほか9港、全国で10箇所(舞鶴、浦賀、呉、下関、博多、佐世保、鹿児島、横浜、仙崎、門司)あった引き揚げ港(引き揚げのために指定された上陸地)も、1950(昭和25)年から引き上げ港は舞鶴だけになった。特にソ連抑留者の引き揚げが多く、いつ帰るかわからない息子、夫の姿をもとめて全国から舞鶴へと人の波が続いた。戦後の海外在住者の引き揚げ業務は、日本の終戦処理の中でも最も重要な案件のひとつであった。
冒頭の画像は、当時の舞鶴での引き揚げの様子。左:上陸前の引揚者(復員兵)たち。右:父の顔も知らぬ幼児とともに。名札を手に肉親を求め、出迎える家族。(写真1948年7月5日のもの。アサヒクロニクル「週間20 世紀」1948年号より)
現在の舞鶴市は、京都府北部(旧丹後国)の日本海に面した市である。もともと市街は、大きく二つに分かれており、1901(明治34)年に、軍事的要地として舞鶴鎮守府が設置されて以来、軍事施設が設置され、日本海側唯一の軍事都市として発展を遂げていた東舞鶴と、田辺藩の城下町・商港から発展した西舞鶴の2つの市から構成されていた。
1943(昭和18)年になり、いよいよ戦局(太平洋戦争)が激化すると、海軍の要請により「時局ノ要請二応ジ大軍港都市建設ノ為」として、海軍記念日にあたる同年5月27日にそれまでの東西舞鶴両市を合併し現在の新しい舞鶴市として誕生した。
だが、この「時局ノ要請二応ジ大軍港都市建設ノ為」として東西舞鶴両市が合併した1943(昭和18)年の戦局を振りかえってみると、実際には、太平洋戦争開戦半年ほどで始まった米軍の反攻が勢いを増し、同年5月には最前線であるガダルカナル島は飢餓の島と化し撤退(ガダルカナル島の戦い参照)。北太平洋では、アッツ島守備隊2500人が玉砕して果てた(アッツ島の戦い参照)。
しかし、政府は、ガダルカナル島撤退のときは「転進」と言う言葉でごまかし、アッツ島の玉砕も「戦史に残る絶妙の転進」と言う言葉でごまかし、大本営は「敵に多大なる被害を与えたるも我が方損害軽微」であると、圧倒的に敗北した時はこれを隠蔽して発表しなかった。物量対物量の消耗戦のなか、戦果を誇る大本営発表の虚勢はまさに、敗戦への序章であった。
余談だが、これを書きながら、2011(平成23)年3月11日の東北地方太平洋沖地震に起因する福島第一原子力発電所事故による、外部への多量の放射性物質漏れと、これに対する政府の対応などを思い出す。この放射性物質漏れ事故は、国際原子力事象評価尺度のレベル7(深刻な事故)に相当するもので、1986(昭和61)年4月26日にソビエト連邦で起きたチェルノブイリ原子力発電所事故以来2例目になるものだが、それを、当初、政府および東電は過少に公表し、正しい対応を素早くやってこなかったため、被災地の人達に多大なる迷惑をかけると共に、その対応遅れが、震災被害全体の復興計画そのものを遅らせてしまっている。
このような重大なことになると、政府やある意味で国策会社とも言えなくも無い東電。これらのみならず、まともな取材もせずに、これらの機関からリーク(leak)されたものを鵜呑みにし、その信憑性を確認もせずに国民に伝える現在のマスコミなど、国民に正しい情報を伝えないやり方は、今も昔と殆ど変わっていないことに驚かされている。
元に戻るが、真珠湾攻撃(太平洋戦争勃発)で始めた対米英蘭戦争も4年目に入った1945(昭和20)年、満州事変から数えれば15年にわたる戦争も、前年、生命線として想定した「絶対国防圏」を突破され、制海権、制空権共に失った日本は、フィリピン硫黄島、沖縄と、アメリカ軍の蛙飛び作戦(アイランドホッピング)にことごとく敗退。日増しに激しさを加える本土空襲で国内は破壊され、実際に戦場となった本土防衛の盾・沖縄での戦い(沖縄戦参照)は酸鼻(さんび)を極めた。
中でも8月6日 広島への原爆投下、 8月9日 長崎への原爆投下 では一瞬の閃光で広島では8万人、長崎でも数万人の即死者を出した。当然、軍事都市舞鶴の海軍工廠、舞鶴港なども大規模な空襲に見舞われ多数の死傷者を出している。
それでも、大本営は本土決戦を「決号作戦」と呼び、この作戦では女子にも竹やり(槍)や、なた(鉈)、かま(鎌)をもって兵士と共に戦うことを求め訓練を義務化した。
上掲の画像は、女子の竹やり訓練の光景である(アサヒクロニクル「週間20世紀」1945年号より)。
まさに、敗戦が決定的になっているにも関わらず、女・子供までを巻き込んで1億総玉砕体制にあった日本も広島、長崎への原爆投下やそれに、日本が実質的に敗戦しているのを狙っていたかのように、ソ連が、日ソ中立条約を完全に破棄して、8月8日、突然日本に対して宣戦布告し、参戦してきたこともあり、8月14日、やっと、天皇の採決でポツダム宣言受諾を決定した(ポツダム宣言原文またその解釈など※2、※3参照)。
翌・8月15日正午、天皇の「終戦の詔書」録音放送(玉音放送と呼ばれる)、日本無条件降伏(※:日本国が無条件降伏したか否かについては様々な見解があるようだ。※1参照)により、太平洋戦争、第2次世界大戦が終結したことになっている。
兎に角、1億総玉砕は避けられたが、この戦争での日本人軍民戦没者は厚生省算定によれば、1937(昭和12)年7月7日の盧溝橋事件(日中全面戦争)以後、310万人だとしている。
この後、同年8月18日満州国皇帝が退位し、満州国が滅亡。日本人の満州開拓移民約27万人のうち、引き揚げまでに約7万8500人が死亡したという。
同年8月22日、北海道沿岸で樺太からの引き揚げ船3隻が潜水艦に攻撃され沈没。約1700人の死者がでた。日本の降伏文書への調印予告、および軍隊への停戦命令布告後に、三船を攻撃した潜水艦について、公式には今もって「国籍不明」と言うことになっているが、恐らく、8月9日に対日参戦したソ連軍が、これを無視し、当時大日本帝国領だった樺太に侵攻していることから、ソ連船の仕業だろうと推測されている(三船殉難事参照)。
戦争に敗れた日本は、史上初の占領下に置かれた。1945(昭和20)年8月30日、連合国軍最高司令官マッカーサーが、厚木基地に到着。日本占領の第一歩を印した。
マッカーサーは、同年9月2日、東京湾に停泊のアメリカ戦艦ミズーリー号艦上で、日本側との降伏文書の正式調印をした。
因みに、「終戦の日はいつ?」と聞かれると、天皇が、8月14日にポツダム宣言受諾を決定し、「終戦の詔書」録音放送をした翌・8月15日とされているのだが、正式には9月2日の降伏文書調印までは戦闘状態であり、厳密に言うと、この日が正式な終戦の日だとする人もいる。太平洋戦争からその終結までの出来事等は太平洋戦争の年表を参照されるとよく分かる。特に8月15日から9月2日までにどのようなことがあったかを時系列で見ておかれるとよい。8月15日以降も戦いが続けられた要因には「終戦の詔書」が、伝わらなかった地域もあっただろうし、8月9日突然のソ連軍侵攻に対する防衛上の問題などもあったろう。以下参考の※4:素朴な疑問集◆第2・日本の終戦の日はいつ?参照されるとよい。
9月2日ミズーリー号艦上での降伏文書の正式調印の日に、マッカーサーは、一般命令第1号(※5参照)で、外地に居住する日本の軍人軍属、一般日本人を連合国軍の管理下に入れた。
前にも書いたが、1945(昭和20)年、敗戦時点で海外に残っていた日本人の数は約660万人で、内訳は、中国軍管区(満州を除く中国、台湾、北緯16度以北の仏印【フランス領インドシナ】)が200万人、ソ連軍管区(満州、北緯38度以北の朝鮮、樺太、千島)が272万人と両軍管区で7割強を占めた。
終戦と同時に、連合国は、海外の日本人全員の即時帰国命令を出したが、これは、8月15日に日本が受諾したポツダム宣言の「九、日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルヘシ」(※2、※3参照)に基づいて行われたものであって、現地に軍人が残留していると、その地におよぼす影響力を恐れたため、早期に軍人の武装の解除と帰国をさせることが目的であって、民間人の引揚については何も記載はない。そのため、外地からの引き揚げは占領統治する連合国の主導で始まり、軍人や官僚らが、帰国したあと、現地に放置されたままの民間人には、国家の保護もなく、自力で、帰ってこなければならなかった。
中国軍管区では、国共内戦に巻き込まれ、ソ連軍管区でのシベリアへの抑留と強制労働など、多くの苦難が待ち受けていた。また、日本送還に関しては、引き揚げの優先順位をめぐり、各地で多様な問題が起こった。南朝鮮(ここ参照)では、軍隊、警察官、神官、芸者、女郎という優先順位での送還をアメリカ軍が指示していた。これを見ても、日本の朝鮮支配において、朝鮮民族の恨みの対象が誰に向けられていたかが窺える。
旧満州では、関東軍満鉄、日本大使館、関東局、満州国政府、国策会社の関係者という優先順位の下で引き揚げが実行された。
そのため満州奥地に入植した開拓団の一般日本人は、敗戦によって情報が途絶したため、流言飛語の下に曠野(こうや)を流亡する民となってしまった。その身に大日本帝国への怨念を背負わされての逃避行は、現地人の襲撃に身を晒すだけでなく、ソ連軍の暴行に日夜さいなまれての行程だった。
ちなみに、三江省方正収容所には、終戦から、翌年5月までの9ヶ月間に8640人が収容されたが、その後、その4分の1強が自決・病死、「満妻(ママ)」すなわち中国人の妻となった者も4分の1強となっている。ハルピンにたどり着けたのは、1200人に過ぎないという。その他は、自ら脱出した者1200人、現地に残った者1120人、ソ連兵に拉致された者460人と記録されているようだ(※6や、※7:読谷村史 「戦時記録」の上巻>第二章>第五節海外の戦争体験>4 「満州」での戦争体験や5 シベリア抑留体験参照)。
各開拓団の青壮年が敗戦3ヶ月前の1945(昭和20)年5月に、関東軍による「根こそぎ動員」で現地召集されたため、老人と女子供の群として、流亡しなければならなくなったことが事態をいっそう悲惨にした。
ただ、アメリカ軍管区とオーストラリア軍管区からの復員・引き揚げは米国から船舶の貸与などの協力を受けるなどして、翌・1946(昭和21)年夏までにほぼ終了した。厚生省『引揚と援護30年の歩み』によると1976年末までの引き揚げ者総数は6,290,702人だったという。(復員輸送艦参照)。
ポツダム宣言受諾の際に日本政府がこだわったのは国体護持だけ、海外在住日本人(民間人)の生命・財産をどう守るかなどということは考えられておらず、「現地定住」の方針を堅持していた。なすすべのない彼らは、上記のような略奪や暴行、飢えなどに悩まされ、命さえ失う人々が続出したが、そんな満州の民間人の引揚が始まるのは、そのような惨状から逃れた人たちが支援活動をするために結成した日本人会の使者が、1946(昭和21)年3月、吉田茂外相に満州での惨状を訴え、民間人の引き揚げ実現を求めるも、占領下の日本政府は無力と応じてもらえず、マッカーサーに面会、人道的立場から引き揚げ実施を約束されたことによるようだ。
ただ、マッカーサーが、単に人道的理由によってのみ行なったわけではなく、満洲からの引き揚げは、当時の冷戦構造を自国に有利に図ろうとする大国(アメリカ・ソ連・中国)の思惑の結果から、実現したものである。そのことは、NHK「その時歴史が動いた」“戦後引き揚げ 660万人故郷への道”(2007年12月 5日放送)でも取り上げられたが、その詳細をここでは書かないが、以下参考の※8:「その時歴史が動いた:戦後引き揚げ」、※9:「戦後満州引き揚げ 故郷への道」には,詳しく書かれているので、そこを見られるとよい。当時の満州からの民間人引揚者のひどい状況と、無責任な日本政府の対応に驚かされるだろう。
海外からの日本人引揚者を港に受け入れるための施設として日本政府が設置したものが地方引揚援護局であるが、1945(昭和20)年9月、舞鶴ほか計10の引き揚げ港に設置されていた。その後増加し、同年11月には引揚げ港は18カ所となった(引揚援護庁参照)。
満州、朝鮮からの引揚者の多くは、博多か佐世保に上陸した。満州、朝鮮からの引揚者の多い博多などの引き揚げ港に設置された引揚援護局内には、民間ボランティア団体が、婦人救護相談所を開設し、引き揚げ女性の相談業務を行なっていた。その業務は、性病の日本への伝播の防止と暴行被害女性の妊娠中絶を目的のひとつとしており、10歳以下の幼女を除く70歳までの全てが対象となっていたという。
NHK「その時歴史が動いた」の話では、博多へ近づき日本が見えると、女性が海に飛び込んで死ぬ人が連続したという。それらの人々は望まない異国の子供を妊娠していて、日本での偏見を恐れての自殺だったそうだ。そんな帰国女性で妊娠している人を救助するためと言うことなのだが・・・。
番組中で紹介していた施設は厚生省博多引揚援護局内の「二日市保養所」である。当時まだ違法だった堕胎手術(堕胎罪)を保養所という名の施設をつくり行なっていたわけだ。女性たちは、設備の十分でない手術室で、麻酔もなく、相当強引な手術に、痛み苦しを必死に耐えていたというのだから哀れな話である。(※10また、※8、※9も参照)。
これら、死ぬ思いで、故国に辿り着いた女性の何時までも癒されぬ傷となって残っていたことだろうが、ことがことだけに、世間には知られないようこっそりと行なわれていたわけだ。
ソ連はシベリア抑留者を復興の強制労働に利用し、彼らの帰国は昭和34(1959)年までかかった。
また引揚者のなかには、途中で親と死別し、無縁故者となった子供が多く見られた。これらの引揚者を迎える世間の目は冷たく、引揚者は故国日本に安住の地を見出せないまま、再起の場をその後ブラジルなど外国に求めた人も少なくなかった(※11)。
敗戦後の復員軍人や多数の海外引揚者、戦災による生産活動の停止とそれに伴う離職者、生産消費財の極度の枯渇などで、食糧増産と失業者の救済対策を緊急にやらねばならなくなっていた。
そこで政府はこの対策として「緊急開拓事業実施要領」(1945年年11月。※12)を決定した。政府の緊急開拓事業は引揚者にとり、新たな生活を切り開く世界と思われた。北海道をはじめとする荒蕪地(こうぶち。土地が荒れて、雑草の茂るがままになっている土地)への入植は、満蒙開拓(ここ参照)や南洋進出(ここ参照)を夢想した引揚者にとり、新しい大地との出会いであり、戦後開拓の幕開けとなったのだが、例えば、北海道でも農業未経験者が、敗戦の荒廃で農機具、肥料等の農業資材が皆無に近い欠乏下での営農など不可能に近く、5ヵ年間のうちに脱落者は46%にも達したと言われているなど、実際には過酷なものであった(※13)。
また、戦後60年を超えた現在に至っても、中国大陸で親子生き別れ・死に別れとなった中国残留日本人孤児などの問題を残している。
敗戦後、海外在住邦人の引揚者約625万人が帰還を終えた1950(昭和25)年、朝鮮戦争の勃発もあり引き揚げは中断していた。
外交関係のない中国との交渉は国連の捕虜特別委員会を通じて行われたがはかばかしい進展は見られなかったが、1952年暮れ、中国の北京放送が「人民団体と交渉の用意がある」と報じ、日本赤十字社、日中友好協会、日本平和連絡委員会が訪中、1953(昭和28)年3月、引き揚げ再開の北京協定を結ぶ(※15)。そして、その帰還先は舞鶴とし、高砂丸を上海、興安丸を秦皇島(チンホワンタオ)、白山丸、白龍丸を塘沽(タンクウ)へ送った。
そして、3月23日朝、帰還者2008人を乗せた興安丸が雨の舞鶴に入港してきた。白くかすんだ湾には歓迎船の群が待ちわび、岸壁には出迎えの家族や団体、報道陣で埋め尽くされた。高砂丸も23日午後に1959人を、白山丸と白龍丸も26日に500人、469人を乗せて入港した。
この年、民間団体による中国引き揚げは7次にわたり、興安丸帰還時に船内で誕生した男児1名を含み2万6051人が帰還した。
また、1950(昭和25)年から中断していたソ連からの引き揚げも3年7ヶ月ぶりに再開され、ナホトカに派遣された興安丸は12月1日811人を乗せて舞鶴港に入港した。
戦後の主な引き揚げ港としては、博多と佐世保が多かった(※16参照)が、舞鶴は1950(昭和25)年以降唯一の引き揚げ港となったことから歌謡曲や映画「岸壁の母」の舞台ともなったことから、日本の引き揚げ工として広く世間に知られるところとなった。

母は来ました 今日も来た
この岸壁に 今日も来た
とどかぬ願いと 知りながら
もしやもしやに もしやもしやに
ひかされて

「岸壁の母」 作詞:藤田まさと、作曲:平川浪竜、台詞:室町京之介、
岸壁の母」の歌の岸壁とは、舞鶴港の岸壁のこと。引揚船で帰ってくる息子の帰りを待つ母親をマスコミ等が取り上げた呼称であり、そのひとりである端野いせに取材してつくられた。
終戦後、いせさんは、軍人を志し、大学を中退して、1944(昭和19)年に、満洲国に渡り関東軍石頭予備士官学校に入学していたが、同年ソ連軍の攻撃を受けて中国牡丹江にて行方不明となった息子(養子)の生存と復員を信じて1950(昭和25)年1月の引揚船初入港から以後6年間、ソ連ナホトカ港からの引揚船が入港する度に舞鶴の岸壁に立つっていたという。1954(昭和29)年9月には厚生省の死亡理由認定書が発行され、1956(昭和31)年には東京都知事より、中国牡丹江にて戦死との戦死告知書(舞鶴引揚記念館に保存)が発行されている。しかし、帰還を待たれていた子は戦後も生存していたとされるが、それが明らかになったのは、母の没後、2000(平成12年)年8月のことであったそうだ。
作詞した藤田まさとは、端野いせのインタビューを聞いているうちに身につまされ、母親の愛の執念への感動と、戦争へのいいようのない憤りを感じてすぐにペンを取り、高まる激情を抑えつつ詞を書き上げたという。
「岸壁の母」は最初、菊池章子が1954(昭和29)年にヒットさせ、1972年には二葉百合子が「港の名前は舞鶴なのに何故飛んで来てはくれぬのじゃ」の台詞入りで再びヒットさせた。以後、二葉の代表曲ともなったが、二葉は、今年(2011年)3月6日にNHKホールにて最終公演を行い、77年間の芸能生活に終止符を打った。
良い歌なので、以下で、芸能生活70周年(2005年)を迎えたときの歌が聴けるので、最後にこの歌を聴きながら、戦後日本の最大の事業であった引き揚げを思い起こすことにしよう。

YouTube-岸壁の母 二葉百合子
http://www.youtube.com/watch?v=KKrdEkVcEy4&feature=related

今日のブログは、アサヒクロニクル「週間20世紀」の1945年号、1946年号、1948年号1949年号、1953年号などと共に、以下のHPを参照して書いた。
参考:
※1:国民が知らない反日の実態 - GHQの占領政策と影響
http://www35.atwiki.jp/kolia/pages/241.html
※2:ポツダム宣言 - 国立国会図書館
http://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j06.html
※3:ポツダム宣言(1945年7月)
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1941-50/1945_potsudamu.html
※4:素朴な疑問集◆第2日本の終戦の日はいつ?
http://royallibrary.sakura.ne.jp/ww2/gimon/gimon2.html
※5:映像で見る占領期の日本
http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~knagai/GHQFILM/DOCUMENTS/index.html
※6:「中国残留邦人」の形成と受入について[PDF]
http://www.kikokusha-center.or.jp/resource/ronbun/kakuron/24/kaji.pdf
※7:読谷村史 「戦時記録」
http://www.yomitan.jp/sonsi/index.htm
※8:その時歴史が動いた:戦後引き揚げ
http://televiewer.nablog.net/blog/e/20184509.html
※9:戦後満州引き揚げ 故郷への道
http://nozawa22.cocolog-nifty.com/nozawa22/2007/12/nozawa22_1.html
※10:30年前の群像あとがき5 - 灯台守
http://blogs.yahoo.co.jp/raizintai/18515046.html
※11:第7章 日系社会の再統合から現在まで(1) | ブラジル移民の100年
http://www.ndl.go.jp/brasil/s7/s7_1.html
※12:緊急開拓事業実施要領 | 政治・法律・行政 | 国立国会図書館
http://rnavi.ndl.go.jp/politics/entry/bib00681.php
※13:故浜巌氏の遺稿文と戦後緊急開拓のあらまし
http://www.town.kamifurano.hokkaido.jp/hp/saguru/1407iwata.htm
※14:未帰還者留守家族等援護法
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S28/S28HO161.html
※15:在華邦人引揚交渉をめぐる戦後日中関係(Adobe PDF)
http://www.jaas.or.jp/pdf/49-3/54-70.pdf#search='1953年 引き揚げ再開 北京協定
※16:図録アジア太平洋戦争における海外からの引き揚げ
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5226.html
「函館市史」通説編4 6編第1章第1節4-1引揚者受入官庁の設置
http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_04/shishi_06-01/shishi_06-01-01-04-01.htm
※:丹後の地名
http://www.geocities.jp/k_saito_site/
TounReview
http://w01.tp1.jp/~a021223941/
「満洲引揚」スタディーズの試み1)(Adobe PDF
http://mokuroku.biwako.shiga-u.ac.jp/WP/No98.pdf#search='「満洲引揚」スタディーズの試み1'
舞鶴引揚紀念館
http://homepage3.nifty.com/ki43/heiki/hikiage/hikiage.html
その時歴史が動いた 第308回 戦後引き揚げ 660万人故郷への道。
http://blogs.yahoo.co.jp/niitakejp/1936169.html
Category:日本の引揚事業
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%BC%95%E6%8F%9A%E4%BA%8B%E6%A5%AD