今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

年賀状特別扱い開始の日

2009-12-15 | 記念日
今日12月15日は「年賀状特別扱い開始の日」
全国の郵便局では、この日から年賀はがきの特別扱いを開始している。25日までに投函された分についての年賀はがきは、翌年1月1日(元旦)に必ず配達されるという特別な制度である。
年賀状とは新年に送られる郵便葉書やカードを用いた挨拶状のことであるが、日本では、古く奈良時代より新年の年始回りという年始の挨拶をする行事があり、平安時代には貴族や公家にもその風習が広まり、挨拶が行えないような遠方などの人への年始回りに変わるものとして書状でも交わされるようになった。時代とともに新年の挨拶は一般に広まり、江戸時代になると飛脚が書状を運ぶようになる。明治維新後の1871(明治4)年、郵便制度が確立したが年賀状は書状で送るところがほとんどで、数は決して多くはなかったが、1873(明治6)年に「郵便はがき」を発行するようになると、年始の挨拶を簡潔に安価で書き送れるということで葉書で年賀状を送る習慣が急速に広まり、明治20年頃になると年賀状を出すことが国民の間に年末年始の行事の1つとして定着。その結果、年末年始にかけて年賀状が集中し、郵便取扱量が何十倍にもなり、郵便事業に携わる人の数の制約から膨大な年賀状のため郵便物全体の処理が遅れ、年賀状以外の郵便物にも影響し通常より到着が遅れることがしばしば発生するようになった。そのようなことを解決する対策として1899(明治32)年、12月に東京など指定された郵便局での年賀郵便の特別取扱が始まったのが最初であり、それを全国に広げ、完全に全国の郵便局で実施されるようになったのは1905(明治38)年のことである。なお年賀状は本来、元日に書いて投函するものであるがこの特別取扱をきっかけに年末に投函し元日に配達するようになった。また、当時はある程度の枚数を束ねて札をつけ、郵便局に持ち込むことが原則であったが、1907(明治40)年から葉書の表に「年賀」であることを表記すれば枚数にかかわらず郵便ポストへの投函も可能となった。
年賀状用としては、通常使用されるはがきと異なる年賀はがきが毎年11月から発売されるため、これを用いることが多いが、2010(平成22)年用の年賀はがきは、今年は、11月29日より全国一斉発売されたが、日本郵政グループの郵便事業株式会社、郵便局株式会社によると、今年の総発行枚数は前年比87.9%の約36億4000万枚。なお、昨年の最終発行枚数は41億3684万枚だったという。
最近は、パソコンや携帯電話などインターネットの発達により、若い人の間では、年賀状を出さずメールや電話で済ませる人も多くなったようだ。それに、今までは、年賀状繋がりで、学生時代の友達や現役時代の会社仲間など、もう、卒業や退職以来逢うこともなくなった人達との年賀状のみの交信も多くあったが、最近は、このような形式的な年賀状だけの繋がりを断つ人もひともふえてきたようだ。現に、私も年齢的に、現役時代から交信を続けてきた仲間でも、ここ10年以上も年賀状以外交信のなかった者との年賀状繋がりを徐々に減らしてきている。なかなかこのような繋がりは、自分の方から断つのは気が引けるのもので、切れずに困っている人も多いようだ。しかし、昨年以降の不況の深刻化により、そのような繋がりは自然と減ってゆくだろうね~。
年賀はがきや印面下部に年賀と朱記したはがきなどのステーショナリーを、郵便ポストに設置された専用投入口に投函した場合は消印は省略されるが、1月8日に差し出したものからはすべて消印が押される。なお、郵便局内での作業負荷の関係上、2010(平成22)年の元日に届けるには12月25日までに差し出す必要があるが、同社は、「26日以降同月28日までに差し出していただいた年賀状も、できる限り元日にお届けできるよう取り組みます」・・・としているようだが、折角の年賀状を、確実に元日に届けるためには、25日までに差し出すよう方がよいだろうね~。
私もぼちぼと、年賀状づくりにもとりからなければいけない。12月は、正月用の家の内外の掃除、自分の部屋の書類や趣味の雑多なコレクション類の整理、又、パソコンの中に保存している画像やデーターなどの整理といろいろやらなくてはいけないことが多く、ここに来て、かなり、気ぜわしくなってきた。
そのため、このブログも、明日から正月15日くらいまで約1ヵ月は休もうと思っている。皆さんもこれから大掃除や忘年会クリスマス、それにお正月、会社や仲間との新年会とお忙しいことでしょう。今年は、不景気でいろいろと大変な人も多いでしょうが、どうか良いお年をお迎えください。今年のこのブログへの、訪問有り難うございました。暫く休み来年中旬頃から始めますのでこのブログ又、見てください。よろしく御願いします<(_ _)>。
参考:
年賀状 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B4%E8%B3%80%E7%8A%B6
年賀はがき全国一斉発売
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091028-00000025-oric-ent
日本郵政ホーム‐日本郵政
http://www.japanpost.jp/




正月始め

2009-12-13 | 行事
1年の締めくくりの年である12月。人々は、新しい年を迎えるために忙しく過ごす。
旧暦12月を師走または、年の極 まる月の意から極月(ごくげつ、ごくづき)と呼び、現在では師走は、新暦12月の別名としても用いられている。その由来は坊主(師・師には、僧侶の意味もある)が走り回るほど忙しくなるからと、言われているが、本来は伊勢神宮や各地崇敬社の御師(神宮大麻・神札を配る祈祷師)達が各家庭を巡る事からであったそうだ(師走の語源は以下参考の※:語源由来辞典に詳しく載っている)。
冒頭左の図は、『天和長久四季あそび』 十二月のてい、右の図は、:『大晦日曙草子』で、蔵書のNHKデーター情報部編、ヴィジュアル百科『江戸事情』より抜粋したもの。ヴィジュアル百科『江戸事情』には、あまりこの図のことを詳しくは書いてないが、左図、『天和長久四季あそび』のことについては、以下参考の※:「柏書房 連載『江戸東京歳時記をあるく』第39回:師走の煤払い」に詳しく書いてあるが、その中に、この絵の解説に“十二月のてい。極月ニなれバ一年のきハめ月とて、すすをはらひ十三日より事はじめとして正月の物をうりはじめ、もちをつけバせきぞろうばらがせがミ、物せわしき月也。”と書かれているという。
江戸時代、正月準備を始める期日は12月13日とする地域が多く、この日から煤払い、門松にする松を山から伐(き)り出す松迎え、餅つきなどを行なった。関西などでは13日を「正月始め」として祝い、関東では8日を事始と言って正月の準備を始める日としていたよううだ(以前に、このブログで、「御事納め」について書いたことがある(以下参考の※:12月8日「御事納め」参照)。
冒頭左図の中に①と書かれているのが煤払いの様子。今の電気やガスではなく火を燃やすのに薪を使っていた時代、毎日家のなかで火を使うと、年末にはかなりの煤や塵が溜まる。「煤払い」は正月を迎えるにあたって、はたきや笹竹、煤竹(すすだけ)を使って一年の埃と煤(ちり)を綺麗に払い落とし、家の内外を大掃除する年中行事の1つであるが、宮中では20日以降の吉日に行なうが、家や地域により日どりはまちまちで、13日にする地域が多いが、これは江戸幕府が1日から12日の間に煤払いを行い、13日に納めの祝いをした風が広まったといわれている。
冒頭の右図『大晦日曙草子』は、江戸時代後期の戯作者山東京山(山東京伝は兄)がライフワークとして天保10年(1839年)頃から書き上げたものらしい。
天井などの高い位置の掃除には同図の重ねた畳にもたせ掛けているような長い柄の煤竹を用いて払い落とすが、この煤竹を翌年まで保存して小正月の火祭りで燃やす所もある。これを見ても「煤払い」が正月を迎えるにあたっての単なる日常的な大掃除ではなく、歳神を家にお迎えしてお祀りするために家を清める、宗教的行事であり、正月事始め、神祭りの始め、物忌みの始の行事だったことが窺える。つまり、「煤払い」には、煤や埃と一緒に厄や穢(けが)れを祓う(はらう)という意味も含まれていたのだ。
当時の煤払いは大仕事であり、煤払いの日の食事などには手軽な握飯や、煮しめ、蕎麦などが準備されたようだ。右図は、中央に、食時として蕎麦らしきものを食べているところが描かれている。また、「中入りにあんころを喰う13日」の川柳があるように、間食には甘い餅が出されたようだ。右図の右上、積み上げた畳の上に置かれている重箱がそのようだ。
また、左図に戻るが、左図に②とかかれているのが、餅搗(つ)きのようすである。正月の餅を搗く日は家によってよって異なるが、12月15日くらいから搗き始めたようだ。大店や寺院などは自分のところで搗いたが、29日に搗くことは苦餅といって忌む風がある。餅搗きは一般には人を雇って自宅で搗いてもらう引摺(ず)り餅(数人が組んで餅搗きの道具を携え、注文を受けた家で搗く)や街の菓子屋に予約して出来上がりを買う賃餅が利用されたが、左図では、家の中の土間で男が餅を搗き、傍らで女たちが餅をこさえている。
図の中の③は、年末の物売りの様子。正月用品を商う物売りが町を行きかっている。図では正月の子供の遊戯具のぶりぶり(振振)と羽子板、お膳の振り売りなどが描かれている。「ぶりぶり」は、八角型の槌(つち)の頭に似た木製の玩具で、長い紐をつけて振り回して遊び、また、毬杖(ぎっちょう)のように玉を打ち合って遊んだようだ。
④の顔に布をしている人物が、節季候(せきぞろ)。右図、『天和長久四季あそび』の解説の中に“もちをつけバせきぞろうばらがせがミ”と出てくるが、節季候は、年末に巡ってくる物貰い。
この時代になると、俳句の季題「暮」にもなっており、松尾芭蕉も元禄3年(1690)師走朔日、京都付近で、「節季候の来れば風雅も師走哉」の句を読んでいる(以下参考の※:「芭蕉db」のここ参照)。
節季候は、江戸時代の初期の京都では、笠にシダの葉をさして布で顔を覆った姿で家々を回って踊った。又、女の節季候は、姥等といい、京都だけにみられたようだ。江戸時代後期の江戸では、編み笠を深くかぶって覆面をし、簓(ささら)や太鼓を伴奏に歌い銭を乞うたという(ヴィジュアル百貨『江戸事情』)。
節季候は「節季に候」の意。「節」とは、時節。季節のこと。暮れや正月の松の内にかけて赤絹で顔を覆い2~3人1組になって各家の門前に現れ「せきぞろござれや」とはやしながら歌舞(かぶ) し、初春(の祝事を述べて、米銭を乞い歩いたもの。門付け(かどづけ(以下参考の※:「Yahoo!百科事典-門付」参照)芸人の一であるが、実態は乞食同然であったようである。
古くは時節を定めて門ごとに神が訪れて祝福を垂れたという民俗信仰に端を発し、 千秋万歳・唱門師(以下参考の※:「Yahoo!百科事典-唱門師」参照)らが活動したが、のちには神官や僧の変型したものも現れた。もとは季節的なものとそうでないものとがあり、季節的に訪れる代表的なものとして、年の暮れに現れる節季候・婆等、初春に万歳・春駒・鳥追い・大黒舞い・獅子舞い・ちょろけん・猿まわし・太神楽などがあった。これら、門付け芸人の門付け芸の起りを見ると、平安時代には、神道・仏教それぞれの社寺の祭事に誦まれていた祭文、又、このころ盛んに行われていた陰陽道でも、除災招福祈祷の際に読まれていた陰陽道流の祭文が次第に、歌謡化、滑稽化し芸能化へとすすみ、江戸時代にいろいろな芸を産むことになったようだ。詳しくは以下参考の※:「祭文」を参照すると良い。
又、芸人の起こりを見ると、近年、中世の研究により、既存の諸社会集団(共同体)から排除・脱落・疎外されることによって個別的に発生したが、彼ら独自の集団(宿)を形成し、中期後期にいたり、様々な職能を会得する中で、斃(たおれ)牛馬処理(死んだ牛馬の処理)に関わる集団と、,陰陽師や雑芸の集団に文化を遂げていったことが知られている(週間朝日百貨「日本の歴史」)。これらの生活を支えた生業は勧進であった。小屋ごとに勧進場というテリトリーがあり、小屋ごとに勧進権を独占した。中世の多くは異形(蓬髪・顎鬚・童姿等)の者であった。古代にあっては人と異界の狭間に暮らす「人ならぬ存在」であった。中世の絵巻物などを見ていると覆面をした人々が随分多く見られる。覆面をする理由はいろいろあるが、覆面の重要な意味には変装があり、覆面をして変装をすることで自分を解き放ち別の自由なる世界へとわが身を移してゆく・・・覆面にはそのような呪力が篭もると信じられていたのではないかという。衣類について、は膝より長い着物は禁止され、着物の色は藍か渋染めに限定されていた。図左の④の節季候も膝までの着物を着ている。(異界の世界の詳しくは、アサヒクロニクル「日本の歴史」10-悪党と飛礫・童と遊び、76-賎民と王権等を読まれると良い)。
正月始めの最も重要な行事である煤払いも、今では13日にしたのでは日がありすぎるので、この日には神棚と仏壇の清掃のみを行い、家の中の掃除は暮れもおしせまってからやるようになった。戦後の私が子供の頃、近所のどこの家も家族総出で大掃除をしていたが今ではそのような風景は見られなくなり、正月を迎える為にといって、特別、年末に大掃除をしないと言う家庭も増えてきたと聞く。家人の郷里もそうだが、私の親も、この年代のものは、男は外で仕事をするもの、家庭の奥向きのことは、主婦に任せきりで、掃除などすることもなかったが、ただ、正月の祝いや神仏に関わること(掃除、供え物など、松飾など)等については、すべて自分で行い、年末の大掃除も取り仕切り中心になってやっていた。それを見習い私なども、掃除などは、夫婦で適当に分担しているが、仏事などはすべて基本的には私が行なうようにしている。ただ、戦後、核家族化も進み、我が家でも息子などとは結婚後別所帯となっており、このような行事がどのように受け継がれるか・・・余り期待は出来そうにない。
餅搗きも私がまだ子供の頃は、近所の家数件と組んで、餅搗き屋に頼んで家の前で搗いてもらっていた。搗けた餅はそれぞれの家の主婦が中心となって飾り餅や小餅、伸餅など作っていたが、まだ、食べ物も十分でなかった時代、子供たちは、その横で、出来たての柔らかいあんころもちを喰べるのが楽しみだったのを思い出す。こんな餅も正月飾りもすべて、年末ギリギリに商店から買うようになったが、正月用のお飾りの餅・ 鏡餅も、このごろは、パックにつめたものが売られており、多くの家庭はこのようなものをお飾りとしている。門松も森林資源愛護の観点から飾ること事態が良くない・・といったことになり今では、殆ど飾っている家はなくなった。戦後、日本の伝統文化が、どんどんと薄れてゆく中で、西洋のクリスマスなどが賑やかにもてはやされている。さ~、私の孫の代くらいになると、正月は、ただのニューイヤーでしかなくなっているのだろうね~。寂しい話だ。
大掃除についての面白い繪物語が京都大学電子図書館で公開展示されている。『付喪神』と言うタイトルである。“「付喪神」(つくもがみ)は、暮れの煤払いで捨てられたことに腹を立て、妖物に変化した古道具たちが、人間への復讐を図って悪さをするも、最後には改心、仏門での修行を経て成仏を果たす”というもの。興味のある人は御覧になると良い。以下で見ることが出来る。ここには、他にもいといとおもしろい絵物語が沢山あるよ。
貴重資料画像--京都大学電子図書館
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/index.html
(画像は、左:「天和長久四季あそび」十二月のてい、国立国会図書館蔵。右:『大晦日曙草子』都立中央図書館蔵。NHKデーター情報部編、ヴィジュアル百貨「江戸事情」より)
参考:
※:語源由来辞典:師走
http://gogen-allguide.com/si/shiwasu.html
※:柏書房 連載『江戸東京歳時記をあるく』第39回:師走の煤払い
http://www.kashiwashobo.co.jp/new_web/column/rensai/r03-39.html
※:12月8日「御事納め」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/295d0fe2ad1cf7925c775865d0b229ae
※:芭蕉db
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/basho.htm
※:叡智の禁書図書館<情報と書評>
http://library666.seesaa.net/archives/200709-7.html
※:祭文 さいもん
http://www.tabiken.com/history/doc/H/H055L100.HTM
Yahoo!百科事典-門付
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E9%96%80%E4%BB%98/
Yahoo!百科事典-唱門師
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%94%B1%E9%96%80%E5%B8%AB/
大晦日曙草紙. 初,2-25編 / 山東庵京山 作 ; 香蝶楼国貞 画
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he13/he13_03049/index.html
クリナップ / 江戸散策 / 第32回
http://www.cleanup.co.jp/life/edo/32.shtml
山東京山 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%B1%B1
乞食 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9E%E9%A3%9F
小学館:白土三平 画業50年記念出版 決定版カムイ伝全集全38巻「夙谷の住人達」
http://comics.shogakukan.co.jp/kamui/article_write03.html
萬歳 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%AC%E6%AD%B3
車善七
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8A%E5%96%84%E4%B8%83
陰陽道 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E9%99%BD%E9%81%93
陰陽師 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E9%99%BD%E5%B8%AB
順徳天皇 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%86%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87
年神 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B4%E7%A5%9E


1901年第1回ノーベル賞授賞式が行われた日

2009-12-10 | 歴史
ノーベル賞は、ダイナマイトの発明者として知られるアルフレッド・ノーベルの遺言に従って1901年に始まった世界的な賞である。
ノーベルは、1833年10月21日スウェーデンのストックホルム生まれる。1842年、家族とともにサンクト・ペテルブルグに移住、ノーベルの関心をニトログリセリンに向けさせた化学者ニコライ・ジーニン(Nikolay Zininアニリン誘導体の研究を行なっていた人らしい)らに師事し個人教授を受けたという。1850年、スウェーデン、ドイツ、フランス、イタリア、アメリカへ2年間の修業に出て、化学や機械学、語学を学んだ。クリミア戦争(1853~56)の間は父の軍需工場を手伝い、機雷の敷設など実際的な技術を学び、1863年ストックホルムに戻り、黒色火薬や綿火薬にかわる、ニトログリセリンの研究を父とともに開始した(Yahoo!百科事)
欧州へ修行に出たときパリでテオフィル=ジュール・ペルーズの科学講座を受講したときに、同じ生徒の一人としていた化学者アスカニオ・ソブレロ (Ascanio Sobrero)が発明した爆薬、ニトログリセリンのことを知ったのは、1855年頃らしいが、この爆薬は衝撃や摩擦で爆発するが、普通の火薬のように点火しただけでは爆発しない欠点があり、起爆装置を開発し初めて実用化することに成功。これをさらに改良し1867年珪藻土(けいそうど)に、ニトログリセリンをしみ込ませたダイナマイト(ギリシア語のダイナマイト【dinamis】の語は、その強力な爆発威力により「力」「運動」を意味するらしい)を開発するが、この間、ニトログリセリンの普及で爆発事故が相次ぎ、ノーベル自身弟を事故で失うなど多くの犠牲者が出て国際的物議を醸したが、彼はその後も、科学的、系統的な実験を繰り返し、1886年、より爆発力の大きいダイナマイトを、翌年には200回以上の実験のすえ無煙ニトログリセリン火薬「バリスタイト」(無煙火薬参照)を開発した。ダイナマイトは、炭鉱やトンネルなど工事現場での岩盤の破壊など、作業の効率化を進めるものとして広く普及し、仕事の「効率向上」や「危険性の減少」など大きな影響をもたらせたが、同時に戦争にも大きな影響を与え、爆薬として使用された。ノーベルは、すでに1886年には兄とともに世界最初の国際的特殊会社「ノーベル・ダイナマイト・トラスト」を設立し、世界各国で爆薬製造工場を営むかたわら、兄とともにバクー油田開発にも成功し、ヨーロッパ最大級の富豪となった。しかし、皮肉なことに「安全に運べる爆薬」として開発されたダイナマイトであるが、実際には戦争で人を殺す道具として使用されることになるが、ノーベル自身ダイナマイトの戦争利用を考えていた節がり、Wikipediaには「1894年、武器製造工場を買い取り、武器製造業に進出する。」とも書かれている。その戦争によって富を得た、ノーベルは「死の商人」と呼ばれるようなり、自分が世間からそのように見られていることを悔やんだことだろう。
1895年、持病の心臓病が悪化し、病気治療に医師はニトログリセリンを勧めたが、ノーベルはそれを拒んだというが・・・(現在、ニトログリセリンは狭心症に対する薬としても使用されている。)。このとき、「私のすべての換金可能な財は、私の遺言執行者が安全な有価証券に投資し継続される基金を設立し、その毎年の利子について、前年に人類のために最大たる貢献をした人々に分配されるものとする。」とした遺言を書き残し、翌・1896年12月10日没した。
ノーベル自身は、この賞を設立したわけでもなく、またノーベル賞という名称も付与をしていないものの、この遺言によって、ノーベル賞が設立され、スウェーデン王立科学アカデミーに寄付された彼の遺産の一部がノーベル賞の基金に当てられ、1901年の今日12月10日に初めて授与式が行われた。最初は、物理学、化学、生理・医学、文学、平和の5るの賞だったが、その後、経済学賞が加わり、現在は6つの賞がある。
その後、1年に1回、受賞式は、ノーベルの命日である12月10日に、「平和賞」を除く5部門はストックホルム(スウェーデン)のコンサートホール、「平和賞」はオスロ(ノルウェー)の市庁舎で行われ(古くはオスロ大学の講堂で行われた)、受賞者には、賞金の小切手、賞状、メダルがそれぞれ贈られる。
ノーベル賞の1部門「平和賞」は、国際平和、軍備縮減、平和交渉、保健衛生、慈善事業、環境保全などの分野に多大な貢献や影響があった人物や団体に対して授与されるが、「平和賞」の受賞式のみがノルウェーで行われるのは、ノーベルが、スウェーデンとノルウェー両国の和解と平和を祈念してのことで、ノーベル平和賞のみが「スウェーデンではなく」ノルウェーが授賞主体であるからだ。毎年の受賞は最高3者まで。選考はノルウェー国会が任命している。(過去のスウェーデンとノルウェー両国の関係のことは、ここを参照)。
平和と戦争についてのノーベルの考え方がどうなのかは知らないが、Wikipediaによれば、現在もノーベルの名を冠する会社は欧州各地にあり、爆薬製造や化学工業を行っており、特にドイツのダイナマイト・ノーベル社は、対戦車兵器パンツァーファウスト3ケースレスライフルG11用弾薬など、現在も兵器の開発・製造を行っているそうだ。
ノーベルは、科学技術の発展が人類の発展や平和に貢献するものとして賞を設置したのだろうが、その後、ドイツ生まれのユダヤ人で、理論物理学者であるアルベルト・アインシュタインが1921年、ノーベル物理学賞を受賞(有名な相対性理論ではなく光電効果の法則の発見で)している。
しかし、第二次世界大戦において、ナチス・ドイツが先に核兵器を保有する事を恐れた亡命ユダヤ人物理学者レオ・シラードらが、1939年、同じ亡命ユダヤ人であるアインシュタインの署名を借りてルーズベルト大統領に信書を送ったことがアメリカ政府の核開発(「マンハッタン計画」)への動きをうながすきっかけとなり、原子爆弾が製造され、1945(昭和20)年7月16日世界で初めて原爆実験を実施。さらに、広島に同年8月6日・長崎に8月9日に投下、合計数十万人が犠牲になり、また戦争後の冷戦構造を生み出すきっかけともなっている。
2009年現在、日本は非欧米諸国の中で最も多くの受賞者を輩出しているが、日本人の受賞は、戦後の1949(昭和24)年湯川秀樹博士の物理学賞受賞が初めてである。アインシュタインは、ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹と面会した際に、多少なりとも原子爆弾に関与してしまったことを悔やみ、涙ながらに謝罪したと言われる。1955(昭和30)年、哲学者バートランド・ラッセルとともにアインシュタインが、核兵器の廃絶や戦争の根絶、科学技術の平和利用などを世界各国に訴える内容ラッセル=アインシュタイン宣言には湯川も名を連ねた。しかし、その後の東西冷戦の最中、米ソ両大国が水爆研究や宇宙開発にしのぎを削っていたが、そのころ、ソビエト連邦の核開発に携わった多くの学者達がノーベル賞を受賞しているのを見てもノーベル賞が、毎年各種の政治バランスなども見ながら授与されていることが分る。以下参考の※:「広島原爆効果測定係のノーベル賞受賞:日経ビジネスオンライン」参照。
日本で言えば、1974(昭和49)年、佐藤栄作が、 「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」のいわゆる非核三原則やアジアの平和への貢献を理由として日本人で初めて平和賞を貰っているが、核兵器を搭載したアメリカの艦船や航空機が、日本政府との事前協議なしに、日本に自由に出入りすることができると合意した密約が、1960年の日米安保条約改定の時に交わされたことがアメリカの解禁文書(「秘密議事録」)でもすでに明らかにされている。以下参考の※:「核密約は歴史的事実 米国務次官補、日本の調査に理解」参照。このことは、All About 「核が持ち込まれていたかもしれない日本」でも解説している。
1960年(昭和35年)1月に全権団を率いて訪米し、アイゼンハワー大統領と会談、新安保条約の調印をしたのは、第二次世界大戦後A級戦犯容疑者として逮捕され、東京の巣鴨拘置所に収監されていたが、冷戦の激化に伴いアメリカの対日政策が大きく転換(逆コース)。日本を「共産主義に対する防波堤」と位置づけ、旧体制側の人物を復権させたため、戦犯不起訴となり釈放され、その後、脳軟化症に倒れた石橋湛山首相臨時代理を務め、巣鴨プリズン(巣鴨拘置所のこと)に一緒にいた児玉誉士夫の金と影響力を背景に石橋により後継首班に指名され自民党総裁に就任した岸 信介こと、佐藤栄作の実兄である。したがって、そのような密約がある事を佐藤が知らぬわけがない。このようなことからも、ノーベル賞が、如何に現実的な政治や経済とも密接に結びついているかが分るだろう。
2009年の今年は、ノーベル賞委員会が10月9日、バラク・オバマ米大統領の「核なき世界」に向けた国際社会への働きかけを評価して2009年度のノーベル平和賞を彼に授与すると発表した。就任してから1年も経っていない首脳の受賞は極めて異例だが、同委員会は「人びとによりよき未来への希望を与えた」と称賛しているが、ロイター通信は「中東平和交渉、核軍縮、アフガニスタン戦争などで、オバマ大統領は未だ実質的な成果を出していない」と指摘した。
オバマ大統領は12月1日夜、陸軍士官学校から行う国民向け演説で、2010年前半に3万人をアフガニスタンに派兵することを明らかにし、アフガンでの任務の成功が世界の安全保障にとって決定的に重要であることを強調しているが、アフガニスタンの武装勢力タリバンは2 日、オバマ大統領のアフガニスタンへの米軍増派はうまくいかず、タリバンの決意を一層強めると表明。タリバンはメディア向けの声明で「敵によるこの戦略は彼らに利益をもたらさない。敵がアフガンのムジャヒディンに対抗する軍隊を送れば送るほど、ムジャヒディンの数は増え、その抵抗は強まる」と表明したという(以下参考の※:「ロイター.co.jp | オバマ政権特集」参照)
オバマ大統領へのノーベル平和賞授与は、同氏が目指す世界の実現を後押しする狙いがあったことは明らかであるが、これは、下手をすると、平和どころか、今だに収束しないイラク戦争や、いや、それ以上に、かって苦い目に会ったベトナム戦争のような泥沼に陥りかねないよ・・・。
以下参考の※:「melma!」の宮崎正弘の国際ニュース・早読み通巻第2736号[飛び込んできた今年度最大のジョーク、オバマ大統領にノーベル平和賞、次はオサマ・ビン・ラディンが受賞しても不思議でなくなった]や、※:「NEWSWEEK[アフガニスタン一辺倒の大き過ぎる代償]」などを読んでみては・・・。
(画像は、ノーベルの遺言。Wikipediaより)
参考はこのHPの字数制限により別紙となっています。以下をクリックっするとこのページの下に表示されます。
クリック ⇒ 1901年第1回ノーベル賞授賞式が行われた日:参考

1901年第1回ノーベル賞授賞式が行われた:参考日

2009-12-10 | 歴史
参考:
※:広島原爆効果測定係のノーベル賞受賞:日経ビジネスオンライン
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20081203/179041/
※:核密約は歴史的事実 米国務次官補、日本の調査に理解
http://www.47news.jp/CN/200909/CN2009091801001086.html
※:asahi.com(朝日新聞社):ノーベル賞 - ニュース特集
http://www.asahi.com/special/nobel/TKY200910300425.html
※:ロイター.co.jp | オバマ政権特集
http://jp.reuters.com/news/globalcoverage/uspolitics
※:melma!
http://melma.com/
※:NEWSWEEK[アフガニスタン一辺倒の大き過ぎる代償]
http://newsweekjapan.jp/stories/us/2009/12/post-780.php
ノーベル賞 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E8%B3%9E
死の商人 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%BB%E3%81%AE%E5%95%86%E4%BA%BA
ノーベル-Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB/
スウェーデン=ノルウェー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC
ロイター - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%BC%E9%80%9A%E4%BF%A1
イラク戦争 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%82%AF%E6%88%A6%E4%BA%89
ベトナム戦争- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0%E6%88%A6%E4%BA%89
バラク・オバマ- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%90%E3%83%9E
薬物物語
http://kusuri-jouhou.com/yakubutu/nitroglycerine.html
1901年第1回ノーベル賞授賞式が行われた:冒頭へ 戻る

双六を禁止

2009-12-08 | 歴史
上り双六 東海道
  五十三次 長道中
  ふつたさいころ ころがして
  目数かぞへて
  急ぎやんせ 急ぎやんせ

この歌知っていますか?水谷まさる作詞、中山晋平作曲の「道中双六」(1928年【昭和3年】)である。曲は以下参考の※:「d-score 楽譜 - 道中双六」で、試聴ける。
作曲家の中山晋平については、よく知っていても、作詞家の水谷まさるについては、知っている人も少ないと思うが、幼児と一緒になって遊ぶとき「あがり目、さがり目、ぐるっとまわってニャンコの目」と歌っている童謡(「あがり目さがり目」)の作詞家と言えば「あ!そうか。」と思われるのではないかな・・・?この歌も中山晋平が作曲している。歌詞は参考の※:「d-score あがり目さがり目」参照、又、水谷まさるの略歴については、以下参考の※:「青空文庫:作家別作品リスト:No.1074:水谷 まさる」をみるとよい。
“むかしの日本橋は、長さが三十七間四尺五寸あったのであるが、いまは廿七間しかない。それだけ川幅がせまくなったものと思わねばいけない。このように昔は、川と言わず人間と言わず、いまよりはるかに大きかったのである。この橋は、おおむかしの慶長七年に始めて架けられて、そののち十たびばかり作り変えられ、今のは明治四十四年に落成したものである。大正十二年の震災のときは、橋のらんかんに飾られてある青銅の竜の翼が、焔(ほのお)に包まれてまっかに焼けた。私の幼時に愛した木版の東海道五十三次道中双六(すごろく)では、ここが振りだしになっていて、幾人ものやっこのそれぞれ長い槍を持ってこの橋のうえを歩いている画が、のどかにかかれてあった。・・・・”
これは、昭和を代表する小説家の1人でもある太宰治の初めての作品集「晩年」(砂子屋書房、1936【昭和11】年)に収録されている「葉」から抜粋したものである(以下参考の※:「青空文庫:「葉」太宰治」参照)。
「道中双六」というのは江戸時代に流行った双六(すごろく)で、江戸・日本橋をスタートに東海道五十三次の絵を順次渦巻き形に描いた絵を進んで、京都の京橋で上がりになる絵双六といわれるもののことである。
「子供等に双六まけて老いの春」(高浜虚子
俳人高浜虚子の句にも見られるように、「双六」は俳句の新年の季語でもあり、当時の子供たちというか、第二次世界大戦後の私たちが子供の時代においても正月の定番の遊びであったが、正月の子供の遊びとしても今やマイナーな存在となってしまい童謡の「道中双六」も知る人は少なくなってしまっている。
「すごろく」とはサイコロ(骰子、賽子)を振って、出た目に従って升目にある駒を進めて上がりに近づけるボードゲームであるが、日本では「雙六」と書かれた盤双六(ばんすごろく)と後世に発生して単に「双六」と称した絵双六(えすごろく)の2種類があった。この絵双六が、先に書いたものである。
奈良朝以前に中国から伝来し、平安時代より「盤双六」また「雙六」の名で流行していたものは、中国で双陸・雙陸と呼ばれていたものであり、これは古い形のバックギャモンの和名である。
中国語での「陸」は「六」の意味を表している。つまり双陸・雙陸は、「六が二つある」と言う意味で、振って出る最大の数を表しているようだ。(数字の六については、以下参考の※:47ニュース「漢字物語」参照)。
すごろく(雙六・双六)の名の由来は、サイコロを2個振り、双方とも最大値である6のゾロ目がいかに出るかが形勢を左右したゲームであったため、「雙六」あるいは異字体として「双六」という字が当てられるようになった(「雙」・「双」は同じ意味を持つそうだ)という。
「すごろく」の起源を遡れば古代エジプトで遊ばれたセネトという遊びであるとされているが、後の盤双六の原型と呼ばれるものはローマ帝国で遊ばれた12×2マスの遊戯盤とされているようだ。これがシルクロードを経由してインドなどから中国に伝わった。日本に伝わったものとしては、東大寺正倉院に生前の聖武天皇が遊んだとされる螺鈿や紫檀の細工を凝らした豪勢な盤双六が納められている。
源氏物語』では、次の帖に双六の記載がみられる。
12帖「須磨」では光源氏の親友であり義兄であり政敵であり、また恋の競争相手でもある頭中将(とうのちゅうじょう)(当時は三位中将)が須磨を訪れたとき、源氏の生活を描写した場面では、双六が、碁と並んで、須磨でのわび住まいのつれづれを慰めるものとして描かれており、46帖「椎本」でも、宇治の山荘で、が幼馴染の匂宮を迎える場面で、碁と共に、双六などを取り出して、思い思いに好きなことをして一日を暮らしたことが書かれている。又、第26帖「常夏」では、内大臣(かつての頭中将)が、外腹の娘である近江の君を引き取り置いていたが、これがなかなかおしとやかとはいえない姫で、一番の頭痛のタネとなっており、その近江の君の所を訪れると、近江の君と女房の五節の君が双六に夢中になっているところを覗く場面がある。
ここでは、近江の君は、相手に小さい目が出るようにもみ手をしながら「小賽小賽」(小さい目小さい目)と早口におまじないを唱えながら双六に興じており、それに対して、対戦相手である五節の君も負けじとばかりにはしゃいで、「お返しや、お返しや」と、筒をひねってすぐには打ちだそうとしない様が描かれている。この場面では、近江の君が少々品に欠ける人物ととして扱われているようであり、貴族社会では女性の双六遊びなどは碁などと比較して品格の落ちる遊びと考えられていたことが窺えるが、35帖「若菜」(下)にも近江の君が登場する場面がある。当時、光源氏との間に生まれた明石の女御が、東宮(後の帝)の男御子を出産するといったすばらしい幸運に恵まれた女性である明石の君(尼君)は、何事につけて、世間話の種となり幸福な人のことを「明石の尼君」という言葉もはやっていた。太政大臣家(当時致仕の大殿と呼ばれていた頭中将のことをいっている)の近江の君は双六の勝負の賽(さい)を振る前には、「明石の尼様、明石の尼様」と呪文を唱えて良い目を願ていたことが書かれており、彼女が根っからの双六好きとして描かれている。
盤双六は、双六盤の中央に骰子(シャイツ=賽【サイ】。サイコロ)を置く場を設け、左右に12区分したマスに各15の黒白の石を並べ、一本の賽筒に入れた2個の骰子を交互に振り出し、その目の数だけ駒を進め、敵陣に全部進めたら勝ちとしていたようだ。最も、ルールはこの他にもいろいろあるようだが、このゲームの進行に際しては複雑な思考と同時に、サイコロの偶然性に頼る要素が大きく、ただゲームとして楽しむだけでなく、日本に入ってきた当時から男どもには賭博(とばく)として行われることが多く、当時の人を夢中にさせていたようである。
日本に現存する最古の歌集『万葉集』巻第十六には「双六・雙六」を詠んだ歌も2首見える(以下参考の※:万葉集より)。
3827 [原文]二之目 耳不有 五六三 四佐倍有<来> 雙六乃佐叡
    [訓読]一二の目のみにはあらず五六三四さへありけり双六のさえ
3838[原文]吾妹兒之 額尓生<流> 雙六乃 事負乃牛之 倉上之瘡
    [訓読]我妹子が額に生ふる双六のこと負の牛の鞍の上の瘡
3839[原文]吾兄子之 犢鼻尓為流 都夫礼石之 吉野乃山尓 氷魚曽懸有
[訓読]我が背子が犢鼻(ふさき)にするつぶれ石の吉野の山に氷魚ぞ下がれる
3827の双六の「さえ」は「さい=采。賽/〈骰子〉」、つまり、サイコロのことであり、双六のサイコロは、目が一二だけでなく,五六,三四と出る面白いものだといった意味の軽いもので、サイコロの目と人間の目(2つしかない)を引っ掛けた軽い歌のようだ(作者は長忌寸意吉麻呂)。
3838の歌は、「心の著(つ)く所なき歌」の一首で、「わが妻の額に生えている双六の大きな牛の鞍の上にできた腫れ物よ」といったような意味のない歌であるが、この歌は、「意味の分からない歌を歌ったら褒美を与える、と舎人親王が言ったので、安倍朝臣子祖父(あべの‐こおじ)という人が詠んだ2首で、銭二千文という大金を褒美として与えられたというが、どうも意味がよくわからない。特に次の3839の歌など全く意味が分らない。この分らない歌については、以下参考の※:「クレオールタミル語による記紀万未詳語の解読」の中の万葉集難解歌の解読で詳しく考証しているが、万葉集の時代、すでにシナ(中国)語は日本語の50%を占めるに至っていたといい、日本語の祖語となったとする説もあるタミル語を元に解釈すると、3838の「双六」についてであるが、“双六は、賭博性が強いことからから古代では「双六=ギャンブル」と捉えられていたようであり、ギャンブルのことをタミル語でcUtu[gambling(賭博)]と言い、一方、毛の房、毛の茂み(hair-tuft)のことをcUTuと言うため、発音が違うが、クレオールタミル語としての日本語では同音となり得、これを毛の茂みと解釈すると、なんと「わが妻の丘に生えている毛の茂みの逞しい造りの中央の女陰の上の腰巻」となるそうだ。それに続いて、次の3839で詠んだ歌は、「私の亭主がフンドシにするピンク色の布の裂け目の広がりから陽物が垂れ下がっている」という意味となる・・・のだとか。そうだとすれば、結構、露骨な内容の歌だが、双六に引っ掛け、タミル語を利用して、サラッとエッチな歌を詠んでいるところなど、万葉人の表現力の豊かさに驚かされる。今の時代の芸のないタレントの馬鹿げたギャグでしか笑えない人達には、通じない万葉人の高等なギャグだよね~。当時こんなタミル語が普及していたことが、大和言葉の多くが死語となったためと思われるともこのHPの管理人は解説しているのだが・・。
「双六」が中国より入ってきて以来賭博として流行していたため、財産を失う者も続出したのかもしれない。そのために禁制をしなければならなくなったのであろう。日本最古の勅撰正史『日本書紀』持統3年(689年)12月8日に「禁断雙六」の記述があるように、持統天皇の治世には、早くも雙六(盤双六)賭博禁止令が出されており、『日本書紀』に続く『>続日本書紀』卷十九でも天平勝宝6年(754年)10月には、聖武天皇の娘である孝謙天皇が在位中に官人百姓共に熱中して双六に興ずるので罰則を科したことが記されている(以下参考の※:続日本紀参照)。又、『平家物語』(巻1)に、白河法皇が「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と述べたという逸話がある。賀茂河の水とは賀茂川(鴨川)の水のことであり、鴨川の流れとそれによる水害を意味しており、双六の賽とはサイコロのことであり、双六賭博の流行とも。山法師とは比叡山延暦寺の僧衆(僧兵)のことであり、白河法皇がこの三つだけはどうしようもないと嘆いたといわれ、「天下の三不如意」としてよく知られているが、これは、あくまで、それ以外のものであれば思い通りにならない事はないという彼の比喩的な言であろう。
しかし、雙六などの賭博は、その後も再三にわたって禁止されながらも、身分の差無く庶民にまで広まり行なわれていたことがいろいろな物語や古文書にも記されている。
文章博士大学頭などを経て、醍醐天皇侍読(じとう)ともなった平安時代前期から中期にかけての公卿・文人である紀長谷雄((き の はせお)にまつわる絵巻物『 長谷雄草紙』がある。南北朝時代頃の作と言われるが作者は不明。紀長谷雄に関する怪異な物語を題材に詞(ことば)・絵各5段からなる。
”双六の名手でもある長谷雄のもとに、あるとき、双六の勝負を申し込んだ男が居た。この男実は朱雀門の鬼であった。その男を怪しみながらも、勝負を受けて立ち、勝負の場として連れてこられた朱雀門の上でこの男(鬼)と双六の勝負をし、長谷雄は勝負に全財産を賭け、男(鬼)は絶世の美女を賭ける。男は、対局が不利になるにつれ、鬼という本来の顔を見せるが、長谷雄はそのようなことに動じずに対局を続け、勝負に勝つ。鬼の賭け物の美女を得た長谷雄が、鬼との約束を破って100日満たぬうちにこれと契ると、女はたちまち水と化して流れうせた”といった内容を描いている。
冒頭左の画像が紀長谷雄と朱雀門の鬼の双六勝負の絵である(絵巻物の詳しい絵と詞は以下参考の※:「長谷雄草紙【絵巻物】」を参照されるとよい。又、この絵巻 『長谷雄草紙』について、かなり、突っ込んだ考察をしているページがある。以下である。
※:鬼のいる光景 ―絵巻 『長谷雄草紙』を読む
http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/forum/text/fn124.html
この解説にもあるように、双六の対局は、必ずしも賽の目さえ良ければ勝つという結果になるとは限らず、与えられている目をいかに計算深く応用し、相手の予想がつかない結果を引き出すかには、双六をうつ人の本領が問われるが、もっと上等な技を身につけていれば、賽の目さえ意のままに出せるようになり、平安後期、双六の練達な人・・芸の達人の中には双六を仕事にさえしている人がいたという。長谷雄の邸宅まで訪れてきて、対局を挑む男の振る舞いには、そのような者を思わせたが、そんな双六男の挑戦に対して、迷わずに応戦したことは、双六と言う舶来の大陸文化を模擬体験し身につけた長谷雄の洗練された貴族的な自己表現であり、一芸のプロに対する文化人としてのプライドと優位の主張であるようだとする。彼は当時百の芸をこなせる達人だと喧伝されていたようで、この絵物語は、そんな文化的で貴族的な姿勢に由来するものであると括っている。なかなか面白いので、興味のある人は一度ここを読んでから、先に紹介した絵巻を見ると面白いのではないか。
室町時代の頃には、この盤双六は完全にバクチ(賭博)と化してしまい、その後の江戸時代には、盤双六は廃れ、双六の道具の一部であったサイコロのみで、賭ける・・・、あの時代劇などででよく見られる「丁か?半か?」のバクチの世界が生まれてくることになる。そして、盤双六が廃れる一方で、正月などに馴染みのあっった双六『絵双六』が登場してきた。この形の双六は、寛文年間の『仏法双六』と呼ばれる物が最初とされているようだ。仏法双六は、わかりやすい絵が書かれた物で、「良い目が出ると極楽に行き、悪い目が出ると地獄に落ちる」というもので、これは天台宗の教えを、若い僧に目で見てわかるように教える教材として生まれた物だったそうだ。やがて、江戸時代には、「江戸をスタートして京都であがり」となる先に紹介した「道中双六」や、立身出世を取り上げた「出世双六」などとよばれる双六が、子供の遊びの定番として今に伝えられるようになった。双六のこと詳しくは、以下参考の、※:「双六ねっと」や、※:「講演「絵双六の世界」:学芸大図書館」など参考にされると良い。
(画像右:、『長谷雄草紙負』紀長谷雄と朱雀門の鬼の双六勝。Wikipediaより、左:「五拾三次新版道中双六」著者名:一登斎芳綱、出版者:遠州屋彦兵衛、出版年:嘉永5。国立国会図書館蔵)
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