今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

「青峰忌」俳人・嶋田青峰のの忌日

2007-05-31 | 人物
今日(5月31日)は「青峰忌」。俳人・嶋田青峰の1944(昭和19)年の忌日。
嶋田青峰(しまだ せいほう)と言っても知らない人が多いだろうが、新興俳句運動に理解を示していたというだけで、1941(昭和16)年、「治安維持法」による新興俳句派に対する弾圧事件「俳句事件」に連坐して起訴され、3年後に留置場で喀血して釈放されたが、5月31日病状が悪化し亡くなった。
私も彼の略歴など特別知っているわけではないので、以下参考に記載のもの等を参考に書くと概ね以下の通りである。
島田青峰は、1882(明治15)年3月8日、三重県志摩郡的矢村生まれ 俳号の青峰は、故郷志摩の名山・青峰山よりとったものだそうである。本名は、賢平。早稲田大学英文科卒業後、中学の英語教員や早大講師をつとめ、1908(明治41)年、国民新聞社に入社。俳人・高浜虚子のもとで文芸欄を担当。虚子退社のあと、後を受けて学芸部長となった。 またその間、俳誌『ホトトギス』の編集を助けていたが、1922(大正11)年、篠原温亭とともに『土上(どじょう)』を創刊。温亭が没した1926(大正15)年以降は「土上」を継承、主宰者となった。『ホトトギス』系の柔軟かつ自由な俳風、俳句観で、新興俳句運動に理解をしめし、また、影響力をもつようになった。そして、新興俳句派の中には、社会主義ダダイスム( dadasme)への共感を示す者も現れた。そのようなことが原因で1941(昭和16)年、の新興俳句派に対する弾圧事件「俳句事件」に連座し検挙されることになったのである。
治安維持法は、国体や私有財産制を否定する運動を取り締まることを目的として制定された法律で、1925(大正14)年4月22日に公布され、同年5月12日に施行された。 同法の前身は、関東大震災後の混乱を受けて公布された「緊急勅令 治安維持ノ為ニスル罰則ニ関スル件」(大正12年勅令第403号)で、普通選挙法とほぼ同時に制定されたことから普通選挙実施による政治運動の活発化を抑制する意図など治安維持を理由として制定されたものと見られているが、また、1917〔大正6)年のロシア革命による共産主義思想の拡大を脅威と見て成立したともされている。これが、1928年(昭和3年)に緊急勅令「治安維持法中改正ノ件」(昭和3年6月29日勅令第129号)により、また大東亜戦争(太平洋戦争)を目前にした1941(昭和16)年3月10日にはこれまでの全7条のものを全65条とする全面改正(昭和16年3月10日法律第54号)が行われた。〔詳しくは、法律制定参照)
この治安維持法は強化され、その過程で多くの活動家、運動家が弾圧されたが、内地においては、京都学連事件が最初の適用例である。1930年代前半に左翼運動がほぼ潰滅すると、1935(昭和10)年の大本教への適用(大本弾圧事件)など新興宗教極右組織の取締りに用いられ、また必ずしも「国体変革」と結びつかない反政府言論抑圧にも機能した。
言論統制の中で、俳句にたいする弾圧は、主として反伝統派の総称たる「新興俳句」派の弾圧であったが、そのトップを切ったのが「京大俳句会」事件であった。発行作風の自由と批判の自由を内容とする「自由主義」を掲げた機関紙「京大俳句」は、やがて当時俳壇におこった新興俳句運動の一拠点となり、理論的、実践的両面において新しい俳句の確立を目指した。また、学外にも門戸をひろげたことにより西東三鬼俳句)や三谷昭(俳句)、高屋窓秋石橋辰之助(俳句)、渡辺白泉(俳句)ら全国の有力俳人も次々と参加…。定型(規準律、五・七・五の定型無視)、(季題無用)を提唱、またいわゆる「戦争俳句」などの問題と正面から取り組み、新興俳句運動の尖鋭的存在として活動した。例えば、西東三鬼の「逆襲ノ女兵士ヲ狙ヒ撃テ!」など多くの戦争俳句をつくっているが、1937(昭和12)年の廬溝橋事件以降戦争一色となる社会情勢の中、俳壇における革新的な気運は、不運にも治安維持法による取締りの対象とされた。そして1940(昭和15)年2月から3回にわたって「京大俳句」の主要メンバー計15名が特高警察に検挙されている。そして、1941(昭和16)年2月には、「土上」・「広場」・「俳句生活」・「日本俳句」など「新興俳句」派にたいする一斉検挙がおこなわれた。このうち「土上」は、高浜虚子の主宰する「ホトトギス」から脱退して無季定型による「生活俳句」運動を展開したグループであり、そのうち島田青峰(編集発行人)・東京三(のち秋本不死男)・古家榧子ら三名が検挙された。
これら4つの雑誌に拠る計13名の俳句作者が一斉に検挙され、うち7名が「コミンテルンおよび日本共産党の各目的遂行の為にする行為」で、「治安維持法」によって起訴され、1943(昭和18)年11月にいずれも禁錮2年執行猶予3年の判決を受けた。その中で、島田青峰は67才の老体で早稲田署に検挙され、肺結核が再発して留置場で朝4時すぎに喀血したのに昼すぎまで手当もせずに放置され、ようやく夕刻近くに帰宅を許されたが、その後一度も立つことができぬまま死んでいったという。これらの詳しくは以下を見れれるとよい。
法政大学大原社研_戦時中の俳句・短歌運動〔日本労働年鑑 特集版 第五編 言論統制と文化運動] 〕http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji2/rnsenji2-220.html
「わが影や冬の夜道を面伏せて」 嶋田青峰
私は一部しか見ていないので判らないが、嶋田青峰の作品には、批判的なものや過激的ななものは見られないようなのだが俳詩「土土」を主宰し、写実に徹する「新興俳句」に傾倒したことから、思想弾圧事件にまきこまれた犠牲者だと言えるのではないだろうか。先の句「。「わが影・・・」などは、数年後のわが身の悲境を予感しているようにも見える。
日本の組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律(通称:組織犯罪処罰法)6条の2が規定する組織的な犯罪の共謀罪の略称。
これを新設する法案は、一度2005年8月の衆議院解散により廃案となったが、同年の特別国会に再提出され、審議入りしている(経緯の詳細は#審議の経過を参照)。
この共謀罪新設を盛り込んだ関連法案の本格審議が始まった今月12日の衆院法務委員会。弁護士出身の民主党・辻恵議員(近畿比例区)質問の引き合いに出したのが、「治安維持法であり、、社会運動や思想を取り締まり、処罰するために制定された戦前の法律は、1925(大正14)年の公布当初は共産党を摘発対象にしたが、3年後、「結社の目的遂行のためにする行為」の規定が加えられ、性格は一変。法の適用対象が一挙に広がり、労働組合活動や文化運動、治安維持法の被告に対する弁護士の弁護活動まで、「共産党の目的のための行為」とみなされ、処罰されるようになった」・・と言うことであるが、確かに、当時は、そうであった。しかし、今の時代、そのようなことはないと思うが、最近の政府の憲法改問題等への動きを見ていると、確かに不気味な面がないでもない・・・ね。以下参照。
あなた見られてます 監視と安全のはざまで<上> 新・治安維持法  処罰の対象拡大の恐れ(北海道新聞)
http://www5.hokkaido-np.co.jp/syakai/eye/03-1.php3
(画像は、新興俳人の群像「京大俳句」の光と影田島和生/著、出版社名 思文閣出版 )
参考:
早稲田と文学・嶋田青峰
http://merlot.wul.waseda.ac.jp/sobun/s/si014/si014p01.htm
俳句の雑学小事典
http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/
現代俳句協会「現代俳句データベース」
http://www.haiku-data.jp/
國民新聞- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%8B%E6%B0%91%E6%96%B0%E8%81%9E
治安維持法(大正14年法律第46号)
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/tiannijihou.htm
共謀罪 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E8%AC%80%E7%BD%AA
治安維持法復活で得をするのは誰だ!?
http://kodansha.cplaza.ne.jp/broadcast/special/2002_04_24/index.html
あなた見られてます 監視と安全のはざまで<上> 新・治安維持法  処罰の対象拡大の恐れ(北海道新聞)
http://www5.hokkaido-np.co.jp/syakai/eye/03-1.php3
俳 句 の 歴 史
http://www.big.or.jp/~loupe/links/jhistory/jhisinx.shtml
京大俳句の光芒
http://www.shibunkaku.co.jp/artm/kyoudai/index.html
法政大学大原社研_戦時中の俳句・短歌運動〔日本労働年鑑 特集版 第五編 言論統制と文化運動] 〕http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji2/rnsenji2-220.html
各人の課題としてのリアリズム・古家榧子/初出「土上」(昭和12・1) /近現代日本文学史年表
http://uraaozora.jpn.org/hurukaku.html

消費者の日

2007-05-30 | 記念日
今日(5月30日)は「消費者の日」
政府が1978(昭和53)年に制定。経済企画庁(現在の内閣府)が主催。
1968(昭和43)年の今日(5月30日)、「消費者保護基本法」が公布・施行された。
第二次世界大戦による敗戦により沈滞していた日本の景気も昭和30年代の1950(昭和25)年からの朝鮮戦争による朝鮮特需によって、日本経済は第二次大戦前並の水準にまで回復し、1956(昭和31)年の経済白書には「もはや戦後ではない」とまで記された。その後の高度経済成長に伴い、私たちの暮らしもいつしか大量生産、大量販売、大量消費に慣れてしまったのではないだろうか。
思えば、1958(昭和33)年の後半からの「神武景気」を上回る大型の「岩戸景気」の時代に入り、家電ブームが大衆消費社会を象徴する重要な要素となった。翌1959(昭和34)年の皇太子の結婚式とパレードの様子を見ようと一挙にテレビの受像契約台数は1956(昭和31)年の年間31万台から一挙に287万台へと驚異的に伸びた。テレビに続いて、他の電化製品も電気洗濯機、電気冷蔵庫が急速に普及当時「3種の神器」と呼び、豊かな家庭生活のシンボルとなった。経済企画庁の調査では勤労者の賃金は1950年から1958年までの8年間に3倍強の伸びを示した。また、このときから東芝電気が始めた割賦方式の浸透と相俟って電気器具の普及も高額所得層から中間所得層へと拡大していった。そして、この頃はやったのが「消費者は王様」のコピーである。このときからアメリカのマーケティング理論を導入して経済活動を左右する主体が中間所得層(中産階級)にターゲット(狙い)を定めて行われだした時代である。
そして、その後の益々の経済成長とまた、科学技術の進歩により、街中の百貨店、スーパー、小売店等の店先に並ぶ商品も実に多種多様になってくると共に、消費者と販売者、メーカーとの間でのトラブルも多く発生してくるようになった。そのような中、私達、消費者が正しい知識を持って危険な商品から自らを守り、多くの商品の中から本当に必要なものを選択しながら生活できるように、「消費者保護基本法」が、1968(昭和43)年の今日(5月30日)に制定され、「消費者の安全」の徹底や「取引の適正化」など、消費者の利益を守るための各分野での施策が決められ、個別の法律や地方公共団体の条例等が整備された。そして、1978 (昭和53)年には、この法律制定10周年を記念して、毎年5月30日を「消費者の日」として、より良い契約、消費生活ができるように、消費者・事業者・行政が協力して消費者問題への関心を持ち、改善、学習などをするための事業が行われてきた。また、その施行20周年を機に、昭和63年から毎年5月が「消費者月間」とされ、より幅広く活動を展開するようになっている。今年度の「消費者月間」は、昨近、家庭や地域などで、エレベーターやガス瞬間湯沸かし器に係る事故等、生命や身体に危害が及ぶような事件・事故が相次いでおり、身近な安全・安心に対する国民の関心が高まってきていることから、「みんなで築こう 身近な安全・安心」を統一テーマとして各種事業を行っている。
5月30日(水)の今日(13:00~16:15) 神戸国際会議場(神戸市) で「2007神戸市大会 」が開催される。
昭和43年5月制定された「消費者保護基本法」は、事業者規制することで消費者を保護しようとするものであったが、その後、規制緩和や企業の不祥事の続出、消費者トラブルの急増と内容の多様化・複雑化など、消費者を取り巻く経済社会情勢が大きく変化したため、消費者の保護だけでなく自立支援が求められるようにななったということから、2001(平成13)年4月には、消費者と事業者との契約における紛争を公正に解決するためのルールとして、消費者契約法が施行され、そして、36年ぶりに「消費者保護基本法」を全面改正した「消費者基本法」が2004(平成16)年6月2日に公布・施行されている。
新しい法律の名前は、以前の法律「消費者保護基本法」から、「保護」の字は消えた。新しく出来た法律「消費者基本法 」には、「消費者の8つの権利」が明記された。しかし、権利には、また、義務も負わなければならないことを承知しておかなければならないだろう。戦後、日本の憲法で、保障されている自由とか平等といったものは、長い間、特殊な思想を持った人達によって、謝った教育がされてきた。自由にしても平等にしてもそれを保障されるためには、最低限の義務を負わなければならないし、平等にしても何でも平等と言うわけには行かない。ある制約の中で平等も保障されるもの。経済社会においても同様である。消費者の権利が保障されるためにはまた消費者としての務めもあるのである。
例えば、・くらしの計画を立てる・品質表示などを確かめる・新しい知識・正しい情報を学ぶ・疑問や発見を申し出る・知識づくりにつとめるなどなど・・・。その関係図は以下がよく著している。
消費者基本法
http://www.pref.kochi.jp/~seikatsu/shohi/kihonhou.html
最近、「純粋はちみつ」と表記された商品計610点にはでんぷん等の人口甘味料や水雨などが加えられたり、混入して、不当表示にあたるものlが114点も見付かったという。
これは、直接健康上の問題があるなどと言うものではないにしても、非常に問題があり、許されるものではない。先にも書いたように、消費者の権利が守られるためには、「品質表示などを確かめる」などの義務も負わなければならないことになっている。そして、ちゃんと、「品質表示」を確認しているのに、それが、嘘だった・・・と言うことになると何を信用してよいのか判らないということである。もし、これが問題のあるアメリカ牛にそれとは違う表示がしてあったらどうするのか・・。これからは、消費者も今までのように、」お上に頼る、相手を盲目的に信用するなどといったことをしていると自分のことを守れなくなりますよ・・。だから、このようなことに対しても、厳しい目で批判的にものを見ていくようにしなければならないだろう。いやな世の中になったものだとは思うが、結局、そう思っている皆で、今のような世の中をつくってきてしまったのだから・・・。
兎に角昨今は悪質な業者も増え、消費者トラブルは年々増加を続けており、その内容も多様化・複雑化し、消費者が安全で安心できる生活をおくるため、内閣府 国民生活局 消費者情報室も、消費者の権利を尊重し、自立を支援するための政策を展開している。しかし、先にも言ったように、消費者の側もそれなりの勉強と守るべきことを守らなければならない。
この機会に、内閣府 国民生活局 消費者情報室の「消費者の窓」や国民生活センターの「生活絵本」など一度覗いた上で、それなりの勉強もしておいたらどうだろうか。
消費者の窓 → http://www5.cao.go.jp/seikatsu/info/info.html
生活絵本へGO!→ http://www.kokusen.go.jp/ehon/index.html
(画像は、「消費者月間」ポスター画。内閣府 国民生活局 消費者情報室)
消費者の日
http://www.meti.go.jp/kohosys/topics/00000073/
内閣府 国民生活政策・国民生活局 消費者情報室
http://www5.cao.go.jp/seikatsu/index.html
国民生活センター
http://www.kokusen.go.jp/ncac_index.html
消費者基本法(内閣府)
http://www.consumer.go.jp/kankeihourei/kihon/index.html
消費者基本法 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%88%E8%B2%BB%E8%80%85%E5%9F%BA%E6%9C%AC%E6%B3%95
マーケティング - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%B1%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0
神戸国際会議場
http://www.kobe-kaigi.jp/




俳優・タレント・岡田眞澄 の忌日

2007-05-29 | 人物
今日(5月29日)は 俳優・タレント・岡田眞澄 の 2006(平成18)年の忌日。
岡田 眞澄(おかだ ますみ)は、1935(昭10)年9月22日、 日本人画家・岡田稔の(父親)とデンマーク人女性の母親のもとに、南フランスで生まれ、幼い頃に日本に移住。日本で俳優・タレントとして活躍した。2006(平成18)年5月29日死去。葬儀は親族で行う。70歳だった。貼付の画像は、同年6月2日東京・港区の青山葬儀所でのお別れ会のときの遺影であるが、撮影は2004(平成16)年というから、68歳のときのものである。白黒なので判らないが真紅のバラにタキシード姿の遺影は、岡田のダンディーな生き方そのものを表しているといってよいだろう。芸能界指折りのハンサム俳優として知られ、愛称はファンファン。デビュー当時、俳優ジェラール・フィリップの当たり役&愛称にあやかって名づけられたもの。ジェラール・フィリップ(1922年~1959年)は、フランス・カンヌ出身の俳優で、1940年代後半から1950年代のフランス映画界で、二枚目スターとして活躍、1950年代のフランスの美(純粋に美しい男)としてその人気を不動のものとした。1951(昭和26)年には自身の代表作の一つとなる「花咲ける騎士道」(goo映画参照)でファンファン・ラ・チューリップを演じ、日本でも人気に火がつき、以降、ジェラールにファンファンの愛称がついていた。その2枚目俳優に、比したものである。
なんでも、コペンハーゲン人魚姫像のモデルは岡田眞澄のおばにあたるそうだ。お母さんの系統は美人が揃っていたのだろうね。故E・H・エリックは実兄。
幼いころのことはよく判らないが、実兄のE・H・エリックがトニー谷の引きで先に芸能界入りしたのをきっかけに自身もデビュー。第6期東宝ニューフェイスに合格した同期の宝田明とは、「おかぽん」「おたか」と呼び合った仲だったそうだ。その後、宝田は東宝で活躍するが、岡田は、映画製作を再開した日活に移籍。日活退社後、劇団欅を経て、以後、ミュージカル作品やバラエティ番組など幅広いジャンルで活躍するようになった。岡田 は、かってのソビエト連邦の政治家スターリン(実際には影武者)に似ていることでも有名で、舞台でスターリン役を演じた(『夢、クレムリンであなたと』(・1991年初演、ここ参照)ことがある。歌って、踊れて、おどけた役もシリアスな役もこなすが、一番合うのはモダニズムと明るさ。優しさが自然に出てくる人で、司会者もこなしたが、美女を紹介させたら日本一の司会者ともいわれる。
映画好きの私は数多くの映画を見ているので若い頃、彼の若い頃の映画も結構見ているが、私的には、余り、好印象は持っていない。当時はまだ、珍しかったちょっとかっこいいというよりキザなハーフといった感じであった。実兄のE・H・エリックは、タレントとしては、耳たぶを動かす芸をトレードマークとしていたが、司会やCMへの出演のほか取り立てて目覚しい活躍もなかったが、どちらかと言うとこちらの方が好きだった。岡田は、プレーボーイとして有名で、ドン・ファンといったイメージが強い。1960(昭和35)年にパントマイムのヨネヤマ・ママコと2年間の期限付き結婚を発表し、翌年破局。1972(昭和47)年に結婚した藤田みどりとも1994(平成 6)年に離婚。翌1995(平成 7)年、26歳年下の元スチュワーデス・恵子夫人(鎚田 恵子33歳)と再婚。1998(平成10)年女児が誕生、63歳でパパとなり「愛はバイアグラを越えた」とコメント。
私生活も華やかで、骨の髄まで「役者」という感じではあったが、私には、愛称のファンファンよりも、ダンディー通り越して、ドン・ファンのイメージが強いね~。
しかし、世の中の女性、所詮、甘いイメージで言葉巧みなドンファンには弱いのだろうね~。
(画像は、タキシード姿で微笑む岡田真澄。2004年秋撮影のもの。2006年6月2日お別れ会のときの写真。2006年6月26日朝日新聞より)
参考:
岡田眞澄 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E7%94%B0%E7%9C%9F%E6%BE%84
岡田眞澄(岡田真澄) (オカダマスミ) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/87489/index.html
花咲ける騎士道(1952). - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD12594/index.html
“夢、クレムリンであなたと”
http://homepage2.nifty.com/stage~hitomi-fun/b-yume1.html
ドン・ファン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3
バックバンバー東京/パントマイマー・ヨネヤマ・ママコ
http://www.teinenjidai.com/back/tokyo/tokyo16_10_1.html



ゴルフ記念日

2007-05-28 | 記念日
今日(5月28日)は「ゴルフ記念日」
スポーツ用品メーカー・ミズノの直営店・エスポートミズノが1994(平成6)年に制定したそうだ。今日の記念日は、1927(昭和2)年の今日(5月28日)、第1回全日本オープン・ゴルフ選手権大会が横浜の保土ヶ谷カントリー倶楽部で開催されたことによる。このとき参加者は、アマ12人、プロ5人。2位の鶴見プロに10打差で優勝したアマの赤星六郎は、米国留学中にゴルフに親しんだ。
日本のゴルフは、神戸や横浜の居留地外国人の間で始まった。現在の神戸・六甲山の歴史は、明治時代以降に欧米人によって開発されたハイリゾートに始まる。神戸の貿易商A・H・グルームは、六甲山の開祖と言われている。1894(明治28)年、彼は当時人跡まれであった六甲山頂にはじめて別荘を建て、この別荘では多くの外国人が週末を過した。数年後、山頂には2・30件の別荘が建ちならぶ、外国人別荘村が出現した。彼らは山頂にゴルフ場を開発し、春から秋にかけてはゴルフに興じた。これが、日本で最初のゴルフ場といわれる神戸ゴルフ倶楽部である。1903(明治36)年5月24日にオープンしたことから、5月24日は「ゴルフ場記念日」となっており、「ゴルフ場記念日」のことは以前にも書いた。
→5月24日は「ゴルフ場記念日
日本人妻を娶ったグルームは神戸・横浜でお茶の輸出商をしていた。神戸ゴルフクラブは、当初9ホールであったが、オープンの翌25日には、日本初となる第1回クラブ選手権が行われている。そして、翌1904(明治37年)年には、18ホールに拡大され、現在の神戸市東灘区にも「横屋ゴルフ・アソシエーション」が6ホールで開設された(1913年閉鎖)。 その翌・1905(明治38)年9月、「婦人フォアサム競技」と「ロングドライビング競技」が、さらに10月には「キャディ競技」と呼ばれる、いずれも日本初の競技会が続々と開催される。
ここからは、日本人選手として初めて全英オープンに出場した宮本留吉や日本初のプロゴルファー福井覚治らも輩出している。明治の開港当時から、神戸とライバル関係にあった横浜の根岸競馬場コース内に9ホールの「ニッポン・レース・クラブ・ゴルフィング・アソシエーション」(NRCGA)が開設されたのは「神戸ゴルフ倶楽部」が出来てから、3年後の1906(明治39)年11月23日のことである。横浜にもゴルフクラブができたことから、早速、六甲に横浜を迎えて第1回対抗戦インターポート・マッチが1907(明治40)年8月に行われ、神戸が勝利している。 その後、何度も神戸と横浜の対抗戦が行われている。
神戸、横浜に次いで、1913(大正2)年頃、長崎県に「雲仙ゴルフリンクス」(日本最初のパブリックコース )が出来、1914(大正3)年には東京・駒沢に、「東京ゴルフ倶楽部」(TGC)が、1922年には「程ヶ谷カントリー倶楽部」(HCC)が開業し、翌年開業時の9ホールから18ホールに拡張されている。このようにして、ゴルフ場の開設と共に次第に日本人ゴルファーも増えていった。 そして、1924(大正13)年に日本ゴルフ協会(JGA)が設立された。そして、1926(大正15=昭和元)年には国内のアマチュアゴルフの普及のためにナショナルハンディキャップ制度が制定され、翌1927(昭和2)年に始まった日本オープン選手権は、このナショナルハンディが適用され、アマチュアはハンディキャップ8またはそれ以内と決められたそうだ。(以下参考に記載の「JGA 日本ゴルフ協会」の日本のトーナメントのルールを探る参照)
この試合では、冒頭にも書いたように2位の鶴見プロに10打差で優勝したアマの赤星六郎が優勝しているが、以下参考に記載の「有鄰 No.456 P4 よこはまゴルフことはじめ」を見ると、「赤星四郎は弟の六郎と参加したらしいが、四郎はペンシルバニア大学卒のスタンダード石油社員。 六郎はプリンストン大学留学中の1924(大正13)年3月、ノースカロライナ州パインハースト・カントリー・クラブでのスプリングトーナメントで、319人のアマチュアゴルファーを制して優勝という、 当時では想像もつかないような実績をひっさげて帰国したそうだ。 そして、
四郎は、1924(大正13)年11月に上海での第1回チャイナ・アマ選手権に遠征して第6位に入った。 程ヶ谷カントリー倶楽部でおこなわれた1926(大正15=昭和元)年の日本アマチュア選手権では弟の六郎と競って優勝していたそうだ。何でも、 「身長6尺」(約1.8メートル)の体躯において欧米人にひけをとらない赤星四郎・六郎兄弟は、日本ゴルフ協会の招きで来日した世界のトップ・プロを相手にしたマッチ・プレーで互角、あるいは互角以上に渡り合い、ゴルフ人気の拡大に多大に寄与した人物だという。
日本のプロゴルファーの誕生は1925(大正14)年、赤星六郎がアメリカから帰ってきた後だ、というのが通説だ。プロの生まれたのは、安田幸吉が1924(大正13)年頃、宮本留吉は1925年頃と伝えられているが、プロとは名ばかり、人を教えられるだけの素地がなく、赤星六郎から「ゴルフとはこうするものだ」と教えられ、はじめてレッスンの仕方を覚えたというのが実情だそうである。(日本のトーナメントのルールを探るより)
1926(大正15=昭和元)年に結成された「東京婦人ゴルフ倶楽部」のメンバーのモダンファッションを見ると、帽子にスカート。当時モボ・モガが町を闊歩していた時代、ゴルフがまだごく一部の人しか楽しめなかったころの女性プレーヤーは、そのファッションもまた、最先端を行くものだったようだ。
その後ゴルフは益々盛んになるが昭和に入ると日本は15年戦争へと進んでゆくが1940(昭和15)年2月8日の衆議院予算総会ではこの「事変中の、ゴルフ場を耕作地に活用すべきでないか」など難局時のゴルフ談義が活発に交わされたという。翌年からは第二次世界大戦に入りゴルフどころではなくなるが、終戦を迎え、昭和30年代に入ると経済成長の波に乗ってゴルフ場開発が進み、バブル景気時代に建設ラッシュが起き、猫も杓子もゴルフゴルフと言う時代になった。1988(昭和63)年に施行されたリゾート法(総合保養地域整備法)もそれに後押しする形となった。1990年代には日本のゴルフ場の総数は2000以上まで膨れあがった。また、ゴルフ会員権の相場はゴルフ場経営者に対する預託金よりも上がり、フィールドに入る権利としてよりも投資対象となり会員権売買が盛んとなった。まさに異常であった。そして、バブルがはじけ、会員権は値崩れしたが、バブルが弾けて萎んだのは、もともとそんなに価値のないものを投棄の対象としたものばかりである。バブルが弾けて、元に戻っただけ。今もゴルフは人気があり、このところ、女子のプロゴルファーの活躍が目覚しい。そのゴルフウェアであるが、ここ2~3年の若手女子プロはへそだしルックが標準のようだね~。女子プロのファンには女性よりも圧倒的に男性、特に中年男性以上の人が多いのではないかな?。だから、職業としてのゴルファーだからへそだしルックも顧客サービスとしてはいいのだろう。だけど時々裾からシャツを出しているのもある。裾からシャツを出すだらしない格好も今時の流行かも知れないが、何の面白みもないしだらしないだけで、おじいちゃんとしては、いただけない気がするんだがな~。
今は、ゴルフを、男も女も、そして、年寄りから若いものまでするが、もともと、六甲山に「神戸ゴルフクラブ」をつくって、ゴルフを始めた・居留地の外国人グルームたちは、神戸の経済の中心となり、忙しい合間を見ては、現在神戸市役所前にある東遊園地に集まり、近代スポーツであるラグビー、サッカー、ホッケー、テニス、野球、クリケット、陸上競技、またレガッタなどの激しいスポーツで汗をかいていた。当時の日本人には何故そんなに走り回ったりすることで汗を汗をかくのが楽しいのか最初は理解できなかったようだが、好奇心旺盛な学生が先ずルールを覚え試合を行うようになり日本のスポーツが普及していった。しかし、グルームたちも30年もすると歳をとり、激しいスポーツは出来なくなった、それで、六甲山の上に、同年代の者達と体力がなくても楽しめるボーリングの倶楽部やゴルフの倶楽部をつくって始めた。本来、スポーツは、このように普段の忙しい仕事などから離れて、休養、楽しみ、遊びといった、レジャーや余暇活動であり、ボーリングのようなゲームなども含めた全てを包括するものであり、それ自体を楽しむための生活文化であっった。そのために、スポーツは、当初はクラブから発足したもの。神戸・六甲でグルーム等がはじめたゴルフも、体力がなくなった気の合う老人達が余暇に楽しむ倶楽部を作って始まったもの。
私も、昭和30年代も始め、まだ、パブリックのゴルフ場が少ない時代に商社に勤めていたものだから、ゴルフの練習は入社当時からさせられた。させられたのは、商社は人と人の付き合いが多いので社交上、ゴルフも出来なければならないからだ。会社のビルの屋上にはゴルフの練習場があって、上司の部長や先輩が手取り足取り毎日教えてくれた。当時は有馬のゴルフ場で会員権が30万円くらい。これは当時の新入社員の30か月分ぐらいに相当する。安月給の新入社員などにはおいそれとゴルフ場へ行けるものではない。だから、費用もかかりすぎるのでの練習はしてもなかな自分で余暇に楽しめるといったもではない。それに、ゴルフ場で、空気の良いグリーンを歩くのは、お散歩程度の運動にはなるだろうし、気持ちも良く、レジャーとして楽しむのには良いが、若くてエネルギーをもてあましていた当時の私などには、ただ軽いクラブを振って歩くだけのゴルフはものたりなかった。どう見ても若い成長期の若者のするものではなさそうに思った。これから身体をつくっていく必要のある成長期の子供達には、もう少し汗を流してやる激しいスポーツをする方が良いように思うのだがね~。
今の日本のプロゴルフ界は若手の女子プロの成長著しく、人気も女子プロの方が男子より高いようだ。小さな子供にうちから、プロになるのを目指して教育パパに育てられているのだろう。先日は、マンシングウエアーオープンKSBで、高校生のハニカミ王子こと石川遼(りょう)君15歳が史上最年少優勝を果たした。なかなかの好青年で私も好きなタイプだし、これで、やっと、日本の男子プロゴルフ界も人気が出るかと期待はしている。ただ、私的な見方からすれば、もともと、体力の衰えたお年寄りのレジャーとしてやるもののような世界に、成長期のエネルギーが溢れて元気いっぱい、体格的にはもう成人並みに成長した子供たちが割り込んできたって感じ。若者には若者としてのスポーツがあると思うが、年寄りがお遊びとして楽しむような競技に若い者がそれを職業として入り込んできたら、その世界では、年をとった大人たちは、もう、勝負にはならないだろう。2位になったプロゴルファーが、おこぼれの優勝賞金を貰ってにやついているなんてさまはさまにならないね~。元来プロのスポーツなどと言うものはありえない。今プロスポーツと言われているものは、普通のアマよりは少し訓練された人の運動ショーと言うべきものである。今の世の中は、本来余暇に自分がそれをして楽しむものを、金儲けの職業として見世物にするために、小さな子供のうちから頑張っているといったいった感じの人が増えてきて、そういう意味では、もう、ラグビーのような本来の純粋なスポーツと呼べるようなものはなくなりつつあるといえるかも知れない。4年に一度行われるオリンピックももはや、それを職業とする者達が技を競っているだけだからね~。優勝すれば、名前も売れるし、その後のお金儲けに繋がるからね~。
(日本初の全日本オープンゴルフが1927(昭和2)年5月に保土ヶ谷カントリー倶楽部で行われたが、この画像は、同じ頃、同年7月、駒沢カントリー倶楽部で行われたゴルフ風景。朝日クロニクル「週刊20世紀」より)
参考:
ゴルフ場記念日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/8ccc7cc9466b121d78f0ffaa67b499bc
有鄰 No.456 P4 よこはまゴルフことはじめ
http://www.yurindo.co.jp/yurin/back/yurin_456/yurin4.html
神戸ゴルフ倶楽部 - 「3世紀を生きるクラブライフ」 第2回 -
http://www.nikkeibp.co.jp/style/golfers/special/kobe/051202.html
社団法人 日本プロゴルフ協会
http://www.pga.or.jp/
JGA 日本ゴルフ協会【日本オープンゴルフ選手権競技】
http://www.jga.or.jp/jga/html/2006/08-0/history/history_03.html
ColfJounalBackNumber/特集「六甲山からの出発」
http://www.jga.or.jp/jga/html/about_jga/vol65/10p.html
雲仙ゴルフ場 /日本最初のパブリックコース
http://www.g-reserve.net/sys/rsv/?gc03759&sid=255f8f82b57aacc0e8c4f85d9ba12226

ツナの日

2007-05-27 | 記念日
今日(5月27日)「ツナの日」(毎月27日)
語呂合わせ「ツ(2)ナ(7)」から。毎月27日にまぐろ料理店等で実施しているのだとか。
「ツナ」と言えば、どんなものを思い出しますか?。鮪(マグロ)?or鰹(カツオ)?「ツナ」と言えば「ツナ缶」・・・缶詰の「シーチキン」を思い出しませんか?。
よく「ツナ」と言っているのは、英語の「 Tuna 」のこと。「 Tuna 」は辞書を引くと「マグロ」となっているが、日本語の「マグロ」と、英語の「Tuna」は、呼ぶ種類の範囲が異なるようである。日本語のマグロは、マグロ属の各種類(マグロの主な種類参照)を指すのに対し、英語の tuna は、マグロ属以外の魚も指す場合がある。具体的には、マグロ属を含む、大きな分類群であるサバ科のマグロ族 (Thunnini) をみな「tuna」と呼ぶらしい。マグロ族には、マグロ属のほか、カツオ属(カツオ)、ソウダガツオ属(マルソウダ、ヒラソウダ)、スマ属(スマ)なども含まれる。(以下参考に記載の「WRB魚図鑑」のサバ科(硬骨魚綱 スズキ目)参照)。なお、魚屋等で言われるカジキマグロはマグロではなくカジキの俗称であり、完全な別物である。
はごろもフーズの商標である「シーチキン」と呼ばれる缶詰があるがマグロだけでなくカツオなども使っており、その意味では英訳「tuna」と同じ意味で使っているのだろう 。以下参考に記載の「はごろもフーズ・・シーチキン情報」によれば、原材料は、「シーチキンファンシー」では、「びんながまぐろ」、「シーチキンLフレーク」は、「きはだまぐろ」、「シーチキンマイルド」は「かつお」といった具合である。同社では、原材料である「キハダ」や「カツオ」のことを「ライトミールツナ」、「ビンナガマグロ」を「ホワイトミートツナ」と呼んでいる。欧米では「ホワイトミートツナ」は「ライトミールツナ」より、たんぱく質が良質なことから「sea chicken(海の鶏肉)」と呼んでいるそうである。「シーチキン」は、鶏肉同様低カロリーで、しかも高タンパク質、低脂肪であることから、「tuna」の缶詰の商標を「シーチキン」としたようだ。1958(33)年に商標登録されている。
日本人は古くからマグロを食用とし、縄文時代貝塚からもマグロの骨が出土しているというが、日本最古の古典、『古事記』下巻顕宗即位前の条にもまぐろに関する歌がある。袁祁命(おけのみこと、後・第23代の顕宗天皇)が天下を治めようとしている頃のこと。平群臣(へぐりのおみ)の祖先で、志毘臣(しびのおみ)が歌垣に参加し、袁祁命が求婚しようとしていた乙女、大魚(おうお)の手をとったことから、志毘臣と、同じく歌垣に参加していた袁祁命との間で、悪口、揶揄などの歌合戦となった。ここで、王子(みこ)が詠よんだ歌。
「大魚(おふを)よし鮪突(しびつ)突つく海人(あま)よ 其(し)が散(あ)れば 心恋(うらこほ)しけむ 鮪突(しびつ)く鮪(しび) 」【110】
訳:鮪(しび)を突く海人(あま)よ。それが離れて行ったら、うら悲しいだろう。鮪(しび)を突く志毘(シビ)よ。〔シビ(鮪)はマグロのこと。大魚(おふを)よしは、 「鮪」の枕詞。大魚(オフヲ)を指している 〕
歌合戦の翌朝になり、袁祁(ヲケ)命は意祁(オケ)命と相談して、「大体朝廷(みかど)の人たちは、朝は朝廷(みかど)に参上するが、昼は志毘(シビ)の門に集まっている。が、今は志毘(シビ)はきっと寝ている。また、その門には人もいないので、今でなければ実行は難しいだろう」と言って、軍勢を集めて志毘臣(シビノオミ)の家を囲み殺したという。
その様子は、以下参考に記載の「日本神話の御殿 - 各種データベース」の古事記22 清寧天皇を見られると良い。(また興味のある人は以下参考に記載の「[PDF] 志毘臣物」も見られると良い。)
また、山部赤人が明石地方を旅したとき、「・・・藤井の浦に 鮪(しび)釣ると 海人船騒き 塩焼くと 人ぞ多(さは)にある 浦を吉(よ)み うべも釣りはす・・・」 (『万葉集』6-938)と詠んでいる。以下参考に記載の「千人万首」の山部赤人参照。
この歌が詠まれたのが726(神亀3)年の10月10日と言うことから、日本鰹鮪漁業協同組合連合会は、1986(昭和61)年に10月10日を「まぐろの日」と制定している。
当時は、日本の近海でマグロを鯨のように銛(もり)で投げたり突いたりして獲っていたのだろう。しかし腐敗しやすいこともあって高級魚としての扱いは受けなかった。これは、カツオなども同じ様であった。「カツオ」のことは、以前に、「鰹節の日」でも書いたが、鎌倉時代になると、吉田兼好が「徒然草:第百十九段」に、”鎌倉の海でとれる鰹という魚は、その地方では上等なものとして、最近珍重しているが、鎌倉の古老は、「この魚は、我々の若かった頃までは、れっきとした人の食前に出ることはありませんでした。頭はいやしい者も食わず、切り取って捨てたものです。」と申していた。こんな下等なものも、世が末になると、上流社会まで入り込むのである。”・・・となるので、あろうが、ここに書かれているのは、生のカツオのことだろうが、当時、腐敗からの中毒を心配して、鎌倉武士が余り食べなかったようだ。
江戸時代に入ると、豊漁の際、腐敗を遅らせるためにマグロの身を醤油づけにした「ヅケ」が握り寿司のネタとして使われ出したのが普及のはしりという説がある。近代以降も戦前まではマグロも大衆魚で、主として赤身の部分が生食されていたという。脂身の部分である「トロ」はことに腐敗しやすいことから不人気で、もっぱら加工用だったが、冷凍保存技術の進歩と生活の洋風化に伴う味覚の濃厚化で、1960年代以降は生食用に珍重される部位となった。1995年の統計では、世界のマグロ漁獲量191万tに対し、日本の消費量は71万tと圧倒的で、しかもそのうち60万tを刺身・寿司等の生食で消費している。加工品では「ツナ」もしくは「シーチキン」(商標名)と呼ばれるサラダオイル漬けの缶詰が好まれている。ツナ(マグロのフレーク)の缶詰のことを、多くの人はツナ缶といわず、シーチキンと呼んでいる。「シーチキン」とはハゴロモフーズの登録商標で、同社以外のツナ缶は当然、シーチキンと呼んではいけないはずであるが、それなのに、私たちの日常会話では、一般的にツナ缶の総称としてシーチキンと呼んでおり、シーチキンがマグロのフレークの代名詞にまでなっている。それだけ、ハゴロモフーズ社の「ツナ缶」が市場においてダントツの占拠率を閉めているということであろう。今では、 サラダの具、サンドイッチの具、手巻き寿司の具、おにぎりの具等に使われるほか、 身がほぐれやすく調理に使いやすいため、様々な料理に利用されている。確かに、美味しくて、利用しやすい素材ではある。以下参考に記載の「ツナ缶料理レシピ/ホームクッキング【キッコーマン】」や、「ツナ缶 レシピ 94品 [クックパッド] 」など参考になる。しかし、これから、マグロの漁獲量も減ることから、このようなツナ缶も高くなるかもしれないね~。
(画像はごろもフーズ[シーチキン」。以下参考に記載のはごろもフーズHPより借用)
マグロ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B0%E3%83%AD
はごろもフーズ・・シーチキン情報
http://www.hagoromofoods.co.jp/seachicken/index.html
日本神話の御殿 - 各種データベース
http://nihonsinwa.at.infoseek.co.jp/data/index.htm
まぐろテーマパーク・ツナ館
http://ju.st9.arena.ne.jp/
WRB魚図鑑
http://fishing-forum.org/zukan/
ツナ缶料理レシピ/ホームクッキング【キッコーマン】
http://www.kikkoman.co.jp/homecook/series/tsunakan02.html
ツナ缶 レシピ 94品 [クックパッド]
http://cookpad.com/search/category/560/
古事記 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98
[PDF] 志毘臣物
http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/4566/1/92462_298.pdf
千人万首
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin.html
「鰹節の日」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/f21e820171d589d598bbfb8cd4a816a7