今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

「のじぎく兵庫国体」開幕日

2006-09-30 | 行事
今日(9月30日)は第61回国体「のじぎく兵庫国体」開幕日。
9月30日の今日開会式が行われ、10月1日から10月10日までの期間、兵庫県の神戸市を主な会場として開催される。
国体の正式名称を『国民体育大会』といい、我が国最大の体育・スポーツの祭典であり、広く国民の間にスポーツを普及し国民の体力向上を図るとともに、地方スポーツの振興と地方文化の発展に寄与するため、財団法人日本体育協会(日体協)が1946(昭和21)年に、戦時中の国民練成(心・体・技術などをきたえること。)大会に替わる、国民的体育行事として始まったもの。毎年1月のスケート&アイスホッケー競技会、2月のスキー競技会、9月の夏季大会、10月の秋季大会の4つの節に分かれて行われていた。また秋季大会終了後には「全国障害者スポーツ大会」も行われる。
第1回大会は1946(昭和21)年11月1日、戦災を免れた京都を中心とした京阪神地方で開催され、兵庫県においても西宮球場で開会式が挙行されるなど、敗戦にうちひしがれた県民に明るい話題を提供した。第1回大会には約5400人の選手が食料持参で参加したといわれている。以来、毎年開催され、当初、夏季大会と秋季大会は恒久的に関西地区で開催される予定であったが、第1回大会終了後石川県が、第2回秋季大会の開催地として立候補した事が契機となり、毎年全国の都道府県持ち回りで開催されるようになった。大会は正式種目の順位を得点に置き換えて争い、4大会の通算で男女総合順位の1位に「天皇杯」女子の総合1位に「皇后杯」が贈呈される。
又、1950(昭和25)年、第5回大会から文部科学省が、1955(昭和30)年第10回大会からは開催地都道府県が主催者に加わった。
兵庫県での2回目の開催は1956(昭和31)年のこと。地方財政が悪化する中、財政節減のモデル大会として全国から注目を集めながら開催され、兵庫県は天皇杯(男女総合)5位という優秀な成績を残している。
2002(平成14)年のよさこい高知国体からサッカーを秋季から夏季に移行したり、陸上競技を秋季大会開会式前に行って日程を10日間ほどに延長したりしていた。
2006(平成18)年の第61回国民体育大会は、1月28日から、冬季大会スケート・アイスホッケー競技会「氷都とまこまい国体」(北海道苫小牧市)で開幕。2月19日からは、スキー競技会(群馬県片品村他)が行われた。
兵庫県での3回目の開催となる大会は、1956(昭和31)年に開催されて以来50年ぶりの大会となり、夏季及び秋季大会が一本化される初の国体となる。これにより、従来の4大会制は3大会制となった。
この「のじぎく兵庫国体」は、震災から新しく生まれかわった兵庫の姿を全国に披露する絶好の機会であり、復興にご支援いただいた方々や選手たちとの出会いの場として心に残る国体となることをめざしている。
国体の名前「のじぎく」は兵庫県の県花であり、ひとつひとつの花弁は小さく清楚であるが、群生する姿はとても華やか。兵庫国体に集う人々が、みな全力を発揮し、「のじぎく」のように共に美しく輝くようにとの願いを込めている。
キャラクター の「はばタン」は阪神・淡路大震災から復興する兵庫の姿を象徴した”羽ばたくフェニックス(不死鳥)”をデザインしたもの。
今日、神戸総合運動公園ユニバー記念競技場にて開会式等がおこなわれる。
例年、夏季・秋季大会の開会式・高校野球は有料だったが、今回の国体では、全競技入場料を無料とした。これは、阪神・淡路大震災から11年に当たり、震災で全国から寄せられた援助や励ましへの感謝の気持ちを込めて「出来るだけ多くの人達に兵庫の思いを伝えたい」との考えからのもの。今大会では、全国から選手、監督をはじめ大会関係者だけでも、約27,000人が参加する予定。
また、国体では、『成年男子』 『成年女子』 『少年男子』 『少年女子』の種別に分かれて競技を行い。『成年』は大学生や社会人、『少年』は高校生が中心となる。
国体改革で夏秋季大会を一本化した今回の第61回兵庫国体には、陸上成年男子の末続慎吾(ミズノ)や競泳成年女子の中村礼子(東京SC)、卓球少年女子の福原愛(グランプリ、青森・青森山田高)も出場すると発表されている。公開競技の高校野球に斎藤佑樹(東京・早実高)もエントリーした。選手宣誓は陸上少年女子で1500メートルの日本記録保持者の小林祐梨子(須磨学園高)が務める。
小林祐梨子は、兵庫県小野市出身の女子陸上競技選手で、我が地元・神戸市須磨区の「須磨学園高」の生徒であり、2005年、世界ユース大会に出場し1500mで銀メダルを獲得。 さらにアジア選手権大会にはシニア代表として出場、1500mで銅メダルを獲得した。 また同年、スーパー陸上では1500mの高校新記録を樹立、直後には3000mの高校記録も更新したスーパー選手である。もう絶対に競技をみのがさないぞ・・・(^0^)。それに、高校野球(硬式)に出場するチームの公開練習が28日、会場となる高砂市野球場であり、今夏の全国選手権決勝を戦った早稲田実(東京)の斎藤、駒大苫小牧(北海道)の田中も汗を流した。勝ち進めば両校は決勝で対戦する。「夏の優勝が偶然でないことを証明したい」と斎藤が言えば、田中も「みんな斎藤が目当てで、僕は悪役。でも次に当たったら負けない」。とライバル心を燃やしている。・・・高校野球はフィーバーしそうだね~。
また、10月14日から16日まで、第6回全国障害者スポーツ大会「のじぎく兵庫大会」が行われる。
「のじぎく兵庫国体」と全国障害者スポーツ大会>「のじぎく兵庫大会」の開・閉会式で式典総合プロデューサーを務める映画監督の大森一樹氏は、県公館での記者会見で「兵庫県らしさ」にこだわったといい、「よくぞここまで、という内容になったと手応えを語ったという。式典テーマは「“ありがとう”心から・ひょうごから」で、いずれも神戸市須磨区のユニバー記念競技場で開く。どうぞ、お楽しみに・・・。
大会マスコット「はばタン」をモチーフにしたキャンペーンソング「はばタンカーニバル」は楽曲のJASRAC登録を行わずに、のじぎく兵庫国体実行委員会自身が著作権を管理しており、また著作権フリーという扱いになっている。
以下のページへアクセスしてください。↓
http://www.habatan2006.jp/modules/wfsection/article.php?articleid=16
わが地元、神戸市で行われる競技は、陸上競技 全種目 、水泳 飛込 、水球 、サッカー 成年男子 、テニス 全種別 、バスケットボール 少年男子 、少年女子 、フェンシング 全種別 、山岳 全種別 、ボウリング 全種別 。神戸市での国体については、以下のページが詳しいよ。
神戸市国体ホームページ↓
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/57/kokutai/
(画像は、のじぎく兵庫国体の大会マスコット「はばタン」のじぎく兵庫国体HPより)
参考:
のじぎく兵庫国体
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E5%85%B5%E5%BA%AB%E3%80%80%E5%9B%BD%E4%BD%93&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=
国民体育大会 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E4%BD%93%E8%82%B2%E5%A4%A7%E4%BC%9A
スポーツ振興法 - Wikisource
http://ja.wikisource.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%84%E6%8C%AF%E8%88%88%E6%B3%95
高校野球 兵庫大会 - 神戸新聞ニュース : 東洋など12校出場 兵庫国体
http://kouya.kobe-np.co.jp/modules/wordpress1/index.php?p=213
asahi.com:朝日新聞 高校野球特集
http://www2.asahi.com/koshien/

日中国交正常化の日

2006-09-29 | 記念日
今日(9月29日)は、「日中国交正常化の日」
1972(昭和47)年9月29日、日本国政府と中華人民共和国との間の国交正常化共同声明」(日中共同声明)の調印式が北京で行われ、田中角栄周恩来両首相が署名した。
1972(昭和47)年は沖縄が本土に復帰した年である。この沖縄の本土復帰と同じ様に論ずるわけには行かないが、この「日中国交正常化」も日本にとってはこの年の大きな出来事であった。この年、7月5日自民党大会で総裁に指名された「角さん」こと、行動派の田中角栄首相が国民の期待に応えて、先ず最初にその決断力を生かしたのが、この日中国交正常化交渉であった。田中首相、大平正芳外相、二階堂官房長官ら日本政府代表団を乗せた日航特別機は9月25日、午前11時半、快晴の北京空港に到着。一行は出迎えの周恩来首相から固い握手で迎えられ、この後、田中、周両首相は儀礼隊を閲兵。その模様は日本にテレビで中継された。訪中3日目の27日夜、宿舎の迎賓館にいた田中首相は毛沢東主席の招待を周首相から告げられ、会談は、その日夜8時半から約1時間北京の毛主席の私邸で行われ、大平外相らも同席した。毛主席は「もう、喧嘩はすみましたか」などと上機嫌であり、田中首相が、中国侵略を謝罪しようとしたとき、毛主席は、「侵略の”助け”があったからこそ共産党の勝利を可能ならしめ、共産中国と日本の両首脳があいまみえるようになったのだ」と請けたという。(李志綏『毛沢東の私生活』分文芸春秋刊。週刊20世紀。アサヒクロニクルより抜粋)。29日、日本は、中華人民共和国を唯一の合法政府として日中共同声明に調印し戦後27年目にして日中の戦争状態に終止符が打たれた。日本は、このとき、それまで国交のあった中華民国(台湾)には断交を通告した。これによって日本と中華人民共和国とが国交を結ぶこととなった。そのため、これを日中「国交回復」とも言われる。
このことについては、1972(昭和47)年以前に、中華人民共和国という国家と日本の間に外交関係はなかったので、「国交回復」という表現は不正確であるとする見解もあるが、中華民国(台湾)と日本の間には国交が存在した時期もあり、中華人民共和国はこれらの国家の継承国家であるため、個々の政体ではなく中国という枠組みで捉えての国交回復ということである。
中国大陸に対する支配権を失った中華民国を中国を代表する国家として国交を結び、中国大陸を支配する中華人民共和国との間に国交がないという状況は正常とは言えないとし、より実態に即した外交関係に構築しなおすということで「正常化」という言い方は日本において広く受け入れられた。しかし「正常化」と表現することに対して、これはあくまで中華人民共和国側から見た主観的表現なので国交を新たに樹立した日本までがそれに拘束される必要は無い、とする意見もある。また中華人民共和国から見た場合としても現在の日台の非公式的関係の存在が果たして「正常」といえるのかどうかという問題もある。
当時、自民党内では、岸信介ー佐藤栄作ー福田赴夫と連なる新台湾派の力が強かったため、それだけに、国交回復の実践は田中内閣の新鮮さを際立たせたものではあるが・・・。
この「日中国交正常化」が行われた7ヶ月前の1972年2月、アメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンが中華人民共和国を電撃訪問し世間をあっと言わせている。第2次世界大戦後の1949(昭和24)年に成立した共産主義政府である中華人民共和国(以下「中国」と表記)は、ソビエト連邦を筆頭にした共産陣営に属し、アメリカとは冷戦を背景に対峙する関係にあった。しかし、独裁者であるヨシフ・スターリンの死後登場したニキータ・フルシチョフ首相との間に巻き起こった中ソ対立で、これまで友好関係を維持してきた中ソ間にも不協和音が生じ、中国はソビエト連邦とは一定の距離を置く独自の路線を歩みつつあった。その頃、ヘンリー・キッシンジャー大統領補佐官が水面下で中国政府との交渉を進め,ニクソン・毛沢東会談を用意した。
アメリカはそれまで蒋介石率いる中華民国を中国の正当な政府として、中国共産党政府(北京政府)を承認していなかったが、この訪問で米中共同声明を発表し、北京政府を事実上承認した。その後、ジミー・カーター政権時代の1979(昭和54)年1月にアメリカと中国の間でも国交が樹立されている。
1972年、厳冬の北京で、毛沢東、周恩来、ニクソン、キッシンジャーの四人の巨人が、世界構想や米中戦略関係、あるいは台湾やベトナム問題、日本、韓国、ソ連、インド等との関係について、いったい何を話し合ったのかを私などが知る由もないが、その会談後に行われた中国交正常化のための会談は、中国側が熱烈に希望し、日本側は経済的交流の増加に対し政治目的とは別に否応無く国交を回復したものであり、これによって政治的にはそれまでの台湾との友好の道が断たれたことになる。つまり、田中首相が積極的に国交を回復しようとしたものではなく、むしろ、中国の描いたシナリオに基づいて条約が調印された側面が大きいとの見方が一般的である。
後に、このときの「日中国交正常化」交渉を、田中首相が、本当の狙いは、日中米が手を組んで、当時のソ連に対抗することにあったと話しているといい。私も、そうであったろうと思う。しかし、そのために残された問題がる。そのことについては、以下を見ればよく分かるだろう。日中国交正常化・残された課題 ↓
http://t_links.at.infoseek.co.jp/shomondai/taiwan/kokko30.html
兎も角、1972年(昭和47年)の今日、 第二次大戦で断絶されていた日中の国交が回復された。そして、これを記念して2ヵ月後に「ランラン」と「カンカン」という名の二頭のジャイアントパンダが中国から日本に送られ、東京の上野動物園にて飼われることになる。これが引き金となってパンダブームが起こった。
日中国交正常化後、特に経済面では、日本、中国両国間の交流が飛躍的に発展して、いまや両国は経済的に高度な相互補完関係にあるといえる。しかしながら、一方で両国の国民の間には歴史認識や安全保障問題など主として政治の領域に属するもでは、なお互いへの不信感が存在していることも否めない事実であり、それは、、しばしば両国間の経済交流の発展を阻害する要因ともなっている。
それでも、2002年には、日本と中国が国交を正常化してから30周年を迎えたのを記念して、両国民が互いをより理解し合うため、それぞれの国において2002年を「日本年」・「中国年」とし、日中フォーラムの北京開催、中国フィルハーモニーの日本公演を始め、文化、経済、貿易、観光、教育、青少年交流等幅広い分野での事業が展開されている。そして、 2003年5月には、小泉総理と胡錦濤国家主席との間で、中国の新体制発足後、初の日中首脳会談(於サンクトペテルブルク)が行われた。しかし、2004年1月1日に行われた小泉総理の靖国神社参拝に対し、中国側は強い憤慨と強い非難の意を表明。同年3月には、中国人活動家7名が魚釣島に上陸するといった事件までが起こっている。そして、小泉首相の靖国神社参拝問題が原因で昨年4月以降日中首脳会談が行われていない状況が続いている。
今年の9月12日NHKの討論番組で、小泉首相退陣後の首相を継ぐ人と首相自身が推薦している安倍官房長官(9月20日自民党総裁選で自民党総裁となる)が「靖国神社参拝、問題で」”日中国交正常化の「やりとりは知らない」”と中国側論理を否定 するなど、中国を刺激するようなことを行っている(17日修正) 。
安倍官房長官:日中国交正常化「責任二分論は認識」--発言を修正 ↓
http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/gyousei/news/20060918ddm002010006000c.html
靖国神社問題には様々な問題があり以下のような問題のあることも承知している。
中国、韓国との外交 ↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%96%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E5%95%8F%E9%A1%8C#.E4.B8.AD.E5.9B.BD.E3.80.81.E9.9F.93.E5.9B.BD.E3.81.A8.E3.81.AE.E5.A4.96.E4.BA.A4そして、阿部氏の考え方も否定している訳けではないが、今、日中両国の経済の発展と交流は世界経済、とりわけアジア太平洋地域の経済の発展と安定に、きわめて重要な意味を持つている。両国がさらなる経済協力と文化交流を進めることは、単に日中両国民の友好にとどまらず、アジア太平洋地域の経済発展に不可欠の前提条件であるともいえる。
だから、政治的なことから、両国の首脳が会談できないといった最低の状況だけは回避し、靖国神社問題も話し合いの上で、穏便な解決を図ってもらいたいものである。
(画像は、2002年「日本年」日本側ロゴマーク。外務省HPより)
参考:
Category:日中関係 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E6%97%A5%E4%B8%AD%E9%96%A2%E4%BF%82
国交 - goo Wikipedia (ウィキペディア)
http://wpedia.search.goo.ne.jp/search/%B9%F1%B8%F2/detail.html?LINK=1&kind=epedia
毛沢東 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1
清 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85
日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明(外務省HP)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/nc_seimei.html
日中国交正常化交渉記録
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/%7Eworldjpn/documents/indices/JPCH/index2.html
日中国交正常化・残された課題
http://t_links.at.infoseek.co.jp/shomondai/taiwan/kokko30.html
ニクソン大統領の中国訪問 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3%E5%A4%A7%E7%B5%B1%E9%A0%98%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%A8%AA%E5%95%8F
最近のトピックス・2002年「日本年」「中国年」~IT時代の日中交流~(外務省HP)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/culture/topics/2002_jcyear.html
2002年「日本年」「中国年」紹介ページ
http://www.kanlema.com/inpaku/events/chinayear/index.html
外務省: 最近の中国情勢と日中関係
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/kankei.html
アメリカの衰退と日中関係
http://tanakanews.com/f0420dollar.htm
Yahoo!ニュース - 日中関係
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/japan_china_relations/
asahi.com:朝日新聞 日中関係特集 ―ニュース特集―
http://www.asahi.com/special/050410/
日中国交復興 30周年記念 カンカン、ランランのお話
http://homepage2.nifty.com/isseim/panda/30/kankan.htm

プライバシーデー

2006-09-28 | 記念日
今日(9月28日)は「プライバシーデー」
1964(昭和39)年、三島由紀夫の小説『宴のあと』でプライバシーを侵害されたとしてモデルとされた有田八郎元外務大臣が作者と発行元の新潮社を訴えていた裁判で、東京地裁がプライバシー侵害を認め、三島由紀夫に損害賠償を命じる判決を出した。これが日本でプライバシーが争点となった初めての裁判であった。
1961(昭和36)年、3月15日、東京都知事選に出馬して敗れた元外務大臣有田八郎は、三島由紀夫の小説『宴のあと』をプライバシー侵害で告訴。『宴のあと』は1960(昭和35)年1月から「中央公論」に連載された小説を新潮社が12月に出版した。中央公論は、単行本の出版を自主的に中止した(有田八郎側の)ため、訴えられなかった。小説の粗筋は、「料亭の女将と元外相で革新政党顧問の野口が結婚。野口の東京都知事選出馬のため、料亭を抵当に入れて資金をつくったものの、料亭を経営していた妻の前歴をあばく怪文書がばらまかれたため野口は選挙に敗れ、2人は離婚する。・・・」といったもの。これに対し、有田氏は、「1959(昭和39)年の都知事選に社会党から出た私と前妻(料亭の経営者)の私生活に関するのぞきみにすぎず、納得できない」・・として、訴えたもの。裁判では、「表現の自由」と「私生活をみだりに明かされない権利」という論点で進められたが、東京地方裁判所は、1964(昭和39)年9月28日、プライバシー権を認めて、原告勝訴を判決(プライバシー侵害と認定)、賠償支払いを命じた。その後、訴訟中に有田が死去。1966(昭和36)年11月28日、東京高裁での控訴審で有田の遺族と三島側の和解が成立した。
プライバシー(Privacy) とは、「他人の干渉を許さない。各個人の私生活上の自由」(広 辞苑)のことである。つまり、個人の私生活に関する事柄(私事)、およびそれが他から隠されており干渉されない状態を要求する権利(私事権)をいう。
プライバシーの起源としては、アメリカのウォーレン&ブランダイス(S.D.Warren&L.D.Brandeis)が、1890(明治23)年に発表した論文『The Right to Privacy』(プライバシーの権利)の中で「the right to be let alone」(「そのままにしておかれる権利」)の尊重の必要性を初めて力説したことに始まるらしく、これは、古典的プライバシー権というらしい。
この古典的プライバシー権では、表現の自由や報道の自由、知る権利といった他の人権との抵触が問題となる。
わが国で、プライバシーという言葉が急速に有名になったのがこの「『宴のあと』事件」判決(東京地判昭和39年9月28日)である。
「宴のあと」事件第一審判決 →http://www.kyoto-su.ac.jp/~suga/hanrei/10-1.html
 この事件では、三島由紀夫の小説『宴のあと』が、プライバシーを侵害したとして、原告有田八郎氏が、三島由紀夫氏と出版元の新潮社を被告として提起した民事訴訟である。この事件判決は、「私生活をみだりに公開されないという法的保障ないし権利」としてのプライバシーの権利を承認した。そして、プライバシーの侵害による不法行為の成立要件として『宴のあと』事件判決は、(一)公開された内容が私生活の事実またはそれらしく受けとられるおそれのある事柄であること(二)一般人の感受性を基準にして当該私人の立場に立った場合公開を欲しないであろうと認められること(三)一般の人々に未だ知られない事柄であること。その他、被害者が公開により不快、不安の念を覚えることを挙げているほか、表現の自由とプライバシーの関係、公人とプライバシーの関係などについても判断を下している。
つまり、「たとえ文学の名の下であってもプライバシー権の侵害は許されない」という趣旨の判決を下したものであり、このほかにも、近年においては、柳美里の小説『石に泳ぐ魚』の登場人物のモデルとなった女性が出版の差し止めを訴えた民事訴訟や、田中真紀子の長女の離婚を記事にした雑誌『週刊文春』がプライバシー侵害と訴えられ、東京地方裁判所が異例の出版差し止め決定をした事件などが注目を集めた。
これにたいして、近年では、情報化社会の進展に伴い、情報を大量に蓄積、処理することができるコンピュータが発達するにつれて、プライバシー権の見解も変化し、単に私生活をみだりに「知られない権利」としてだけでなく「自己に関する情報の流れをコントロールする権利」つまり、「自己情報コントロール権」と定義されるようになり、公法による保護もなされるようになっている。
日本国憲法の三大基本原理として挙げられているものが、基本的人権の尊重・国民主権(主権在民)・平和主義(戦争の放棄)である。そして、この三大原理の根底にあるのは、「個人の尊重」「個人の尊厳」という個人の尊厳の原理である。基本的人権の尊重とは、個人が有する人権を尊重することをいい、自由主義のあらわれでもある。当初は、国家権力による自由の抑圧から国民を解放するところに重要な意味があった。基本的人権は、単に「人権」「基本権」とも呼ばれ、特に第3章で具体的に列挙されている。かかる列挙されている権利が憲法上保障されている人権であるが、明文で規定されている権利を超えて判例上認められている人権も存在する(「「知る権利」プライバシーの権利など)。 プライバシーについて、日本国憲法には明文規定はないが、憲法上、いかなる規定を根拠にすべきかとなると、憲法第13条(個人の尊重)の規定をよりどころとしている。しかし、憲法に明文の規定がないため、その解釈は、それを解釈する立場によって、かなり違ったものとなってくる。
そして、以下参考の「情報化時代のプライバシー」で述べられているようにもしかすると本来はプライバシー権よりも優先されるべき、より基本的な人権や高い公共の利益がないがしろにされているということになっているのかもしれないのである。
たとえば、「プライバシー権」を主張し、住民基本台帳の整備や、国勢調査などに対しても、徹底して、反対している人達がいる。これらも、公共の利益と個人のプライバシーをどのように調整すればよいのか。
「プライバシー権」と「表現の自由」又、「公共の利益」などは、その本来の性格からいって競合、時には背反するものである。これは、プライバシー権の尊重と表現の自由をどの辺で折り合いをつけるかという調整の問題でもある。もし調整を認めないで、少しでも報道の自由や表現の自由を制限しかねない可能性があるとヒステリックにこれに反対するというのでは、プライバシー権を互いに尊重しあう成熟した市民社会はいつまでたっても実現できないだろう。 プライバシー権を主張するにあたって極めて重要なことは、情報主体者がどこまで権利を譲れるのか、あるいは放棄できるのかを、社会の調和の観点から慎重に考えることなのである。
一度、この機会に情報化時代のプライバシーを読んで、考えてみて欲しいものである。
(画像は、Amazon.co.jp: 「宴のあと」: 本: 三島 由紀夫)
参考:
プライバシー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%90%E3%82%B7%E3%83%BC
我が国におけるプライバシーの権利の生成及びその保障
http://www.hogen.org/research/paper/jp/index.html
情報化時代のプライバシー
http://www.glocom.ac.jp/project/chijo/2003_01/2003_01_04.html
個人情報と住基ネットを考えるサイト
http://tantei.web.infoseek.co.jp/kojin/index.html
文学とプライバシー/柳美里 著『石に泳ぐ魚』最高裁判決─
http://www.glocom.ac.jp/project/chijo/2002_11/2002_11_24.html
セコムトラストシステムズのよくわかる情報セキュリティ用語辞典/
http://www.secomtrust.net/secword/privacy.html
憲法学習用基本判決集(『宴の後』事件 。『石に泳ぐ魚』事件。ほか)
http://www.kyoto-su.ac.jp/~suga/hanrei/hanrei-top.html
日本国憲法
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95
「プライバシーに配慮した国勢調査」の矛盾 -
http://blogs.itmedia.co.jp/sunada/2005/10/post_0d82.html
国勢調査が分かる
http://www.ringo.sakura.ne.jp/~kokusei/motomeru.html

昭和天皇・皇后両陛下が初の訪欧に出発された日

2006-09-27 | 歴史
1971年 の今日(9月27日)は、昭和天皇・皇后両陛下が初の訪欧に出発された日。7か国を訪問。
日本の第124代天皇・昭和天皇は、生没年が確認されている歴代天皇の中で、神話上の天皇を除き、在位期間および享年が最長である。1901(明治34)年4月29日、大正天皇貞明皇后の第一皇子として青山の東宮御所に誕生。1916(大正5)年、皇太子となる。1919年(大正8年)成年式を迎えられるが、大正天皇は病弱で公務にしばしば支障をきたしていたので早くから天皇の名代として活動することになり、1921(大正10)年11月25日、20歳で正式に摂政に就任されるが、就任前の、同年3月3日から9月3日まで、半年間の長期にわたり、イギリスやフランス、ベルギー、イタリア、バチカンなどヨーロッパ諸国を公式訪問されている。これは史上初の皇太子の外遊であり、国内には反対意見も根強かったが、山県有朋西園寺公望などの元老らの尽力により実現したもだという。イギリスでは日英同盟のパートナーとして大歓迎を受け、ジョージ5世国王やロイド・ジョージ首相らと会見。又、ロンドンにおいては、ロバート・ベーデン・パウエル卿と謁見し、英国ボーイスカウトの最高功労章であるシルバー・ウルフ章も贈呈されている。 イタリアではヴィットーリオ・エマヌエーレ3世国王らと会見した他、各国で公式晩餐会に出席したり、第一次世界大戦当時の激戦地などを訪れた。後に昭和天皇はこの外遊が非常に印象的であったと述べておられるという。
1924(大正13)年に久邇宮良子女王(のちの香淳皇后)と結婚。 1926(大正15)年12月25日、大正天皇崩御(死去)により践祚し、昭和に改元。第124代天皇及び陸海軍大元帥となる。そして、天皇は就任早々軍部の独走に悩まされる。昭和3年の張作霖爆殺事件。昭和6年の軍事クーデター未遂、(3月事件10月事件)、同年9月18日満州事変。昭和7年5・15事件、昭和11年2・26事件。昭和12年7月7日盧溝橋(ろこうきょう)事件。昭和14年5月11日ノモンハン事件。そして昭和16年12月8日真珠湾奇襲攻撃により太平洋戦争に突入することとなった。
そして、1945年(昭和20年)8月15日、太平洋戦争終結を告げるラジオ放送(玉音放送)により、歴代天皇の中で初めて国民に天皇の声を聞かせる(敗戦を告げる)こととなった。
又、昭和天皇は1945(昭和21)年1月1日の『年頭の詔書』 にて『人間宣言』をおこない、その2月から1951(昭和26)年にかけて戦争の傷跡の残る全国を行脚して国民を励ます旅を始めた。。(北海道は昭和29年。沖縄は結局行けなかった)。
そして、1971(昭和46)年の今日(9月27日)から、皇后両陛下とご一緒にイギリスオランダ、スイスなどヨーロッパ諸国7カ国を訪問したのだが、退役軍人が多いイギリスとオランダでは、彼らの抗議活動に遭遇することになった。
また、1975(昭和50)年9月30日から同年10月14日まで皇后とともに、アメリカ合衆国を公式訪問し、ワシントンD.C.やロサンゼルスを訪問した。
香淳皇后は、戦争中は昭和天皇とともに東京に残り、心労の多かった夫をよく支えたといわれる。戦後、皇室のありかたが一変してのちは、皇后同伴の公務が一般的になったこともあり、積極的に国民と親しもうとする昭和天皇の意向を汲んで各種の活動を活発に行われ、戦後の1971(昭和49)年の訪欧、1975(昭和50)年の訪米も天皇と行をともにされ、国際親善の大役も果たされた。1974(昭和49)年の 記者会見で金婚式のご感想を聞かれた時に「(一番楽しかったのは)ヨーロッパにお供できたことですね。(苦しかったことも)ないとは言えません」と答えたれたそうである。
戦後、昭和天皇の外国訪問は1971(昭和49)年の欧州と1975(昭和50)年の米国だけだったが、継宮明仁親王に代替わり後は、天皇の外国訪問は、東南アジア(1991年)、中国(1992年)、イタリア・ベルギー・ドイツ(1993年)、米国(1994年)、フランス・スペイン(同)、ブラジル・アルゼンチン(1997年)、英国・デンマーク(1998年)、オランダ・スウェーデン(2000年)、ポーランド・ハンガリー(2002年)、アイルランド・ノルウェー(2005年)と続いている。
俗に「皇室外交」という言葉があるが、歴代の天皇皇后両陛下をはじめとする皇室がたびたび諸外国を訪問され、或いは日本で諸外国の賓客をお迎えしてこられた。
外交とは、国家が代表を通じて諸外国との関係を処理する活動。内政の対義語であり、日本においては、日本国憲法第73条により内閣が外交関係を処理すると規定しており、実際の対外的事務は外務省設置法により、外務大臣を長とする外務省が所掌することとなっている。
したがって、戦後の象徴天皇としては、憲法上(憲法第7条=天皇の国事行為)国政に関与しないことになっているので、正式には、皇室が外交をする事はなく、「皇室外交」の用語は避けており、これは、あくまで、皇室の外国との親善交際の範疇ということになっている。そのため、戦後60年にあたる昨・2005(平成17)年6月のサイパン島訪問による「戦場での慰霊」は、これまでの「友好親善のための儀礼的訪問」という政治的枠組みを初めて踏み越えた形といえなくもない。
戦後、平和国家宣言をしている日本は、途上国の経済社会の発展を通じて地域の安定化や世界の平和に貢献する活動を一貫して推進してきた。日本が軍事力を使わないで平和に貢献しようとして様々な活動を活発に展開していることは、諸外国からも十分に知られて評価されているだろう。そのような中で、日本の「顔」としての、皇室による、外国との親善交際は日本の国に大いに貢献しているとは思う。
ただ、雅子皇太子妃殿下が、ご結婚なさる前の外交官であった経歴を生かして、「皇室外交」を希望されていたようで、それがかなわないためにストレスが溜まり、体調を崩されていたとの報道があったように記憶しているが、それが真実であれば、それは、少し、認識上に問題があるといえるのではないか。
憲法第6条、第7条に規定されている国事行為のほかにも天皇の公的行為が認められるか否か?、具体的には、外国元首の接受(憲法上国事行為とされているのは「外国の大使及び公使を接受すること」)などについての法的位置付けが議論されており、この点に関しては、「象徴としての地位に基づく公的行為」として容認する考え方、第7条第10号の「儀式を行ふこと」に該当するとする考え方、そもそもそのような行為は認められないとする考え方などが示されているなど玉虫色の状態である。少なくとも、、積極的に皇室外交をする事は認められていないのであり、それが出来ないから、ストレスを感じるといったような事には少々違和感を感じる。
しかし、日本の俗に言われる皇室外交が、外交官の行う外交とは、違った面で、日本の平和外交には、貢献していると思うので、これからも、そのような機会は、いくらでも出てくるであろうから、早く体調をよくされて、その時に国民の期待にこたえて戴けたらと願っている。
(画像は、「1971年 昭和天皇皇后訪欧」15円記念切手。)
参考:
昭和天皇 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87
クーデター - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%BF%E3%83%BC
ノモンハン事件- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
第二次世界大戦- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6
天皇「人間宣言」 | 日本国憲法の誕生
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/056shoshi.html
外交- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E4%BA%A4


世界3大海難事故となった洞爺丸転覆の日。「台風襲来の特異日」でもある。

2006-09-26 | 歴史
今日(9月26日)は、世界3大海難事故となった洞爺丸転覆の日。「台風襲来の特異日」でもある。
1954(昭和29)年の「洞爺丸台風」で青函連絡船洞爺丸が転覆したのも、1958(昭和33)年の「狩野川台風」が伊豆・関東地方に来襲したのもこの日だった。又、1959(昭和34)年、後に「伊勢湾台風」と呼ばれるようになった台風15号が紀伊半島に上陸し、明治以来最大の被害を齎(もたら)したのもこの日であった。
特異日(とくいび)とは、気象学的な理由は不明だが統計的に、毎年その日には特定の天気が現われる傾向が強いことをいい、特異日は日本だけでなく外国でも認められており、英語でシンギュラリティ(Singurality)と言うそうだ。厄日とは異なるもので、厄日は暦の上から言われるもので、特に農業上の注意を喚起するもので、例えば二百十日・二百二十日などが台風襲来の多い日として、よく知られるが、ここでいう特異日とは無関係とのこと。実際、過去の統計を見ると8月末と9月中旬の台風襲来の山にはさまれ、二百十日頃の台風襲来は非常に少なく、二百二十日の方が警戒をする必要があるようだ。
前に二百十日の日のことについて、私のブログ今日(9月1日)は、「二百十日」を書いたので、興味のある人は、見てください。
ここで言う特異日の例としては、「寒の戻りの特異日」(4月6日)。「晴れの特異日 」(6月1日 、11月3日 )。「雨の特異日」(6月28日。東京では53%の確率で雨が降る )。 「猛暑の特異日」(8月18日 )。「台風襲来の特異日」(統計上、台風襲来の回数が多い日。9月17日 、9月26日 )となっている。
「台風襲来の特異日」(「9月17日 )も、1945(昭和20)年 枕崎台風 が西日本の各地を襲来し、死者行方不明3758人 もの被害を齎しているが、今年も、丁度この頃台風13号が九州方面へ来襲した。
洞爺丸台風は、1954(昭和29)4年9月26日に来襲し、函館港沖で・洞爺丸を座礁転覆させ、岩内町では3,300戸を焼失させる大火を引き起こすなど、北海道を中心に多数の犠牲者を出した台風である。台風番号は195415号、国際名はMARIE。1954年の15番目に発生した台風という意味で、普通は台風第15号と呼ばれるが、1954年は台風第2号と台風第10号が後の調査(事後解析)で台風勢力に達していなかったとされて台風のリストから外されているため、実際は13番目の台風になるそうである。
この台風15号(洞爺丸台風)は、100㎞以上の速度のままで日本海を一気に北上し、午後3時には早くも青森県の西海上に到達。この時台風の中心気圧は960mbと依然として大きな勢力のままであったが、100㎞以上もあった速度は一時的に速度を時速50キロ以下に落としたため、この思いもよらない減速が大きな悲劇を生むことになったという。 北上するスピードは、青森県沖からさらに遅くなり、巨大なエネルギーを蓄えたまま、北上、北海道を中心とする北日本では猛烈な暴風による被害が大きかった。最大風速は寿都で42.0メートル(最大瞬間風速53.2メートル)、室蘭で37.2メートル(55.0メートル)、留萌で35.2メートル(45.8メートル)に達したほか、各地で30メートル以上となったそうだ。そのため家屋の全半壊や倒木などの風害が顕著で、岩内町では大火があった。又、かってない暴風の凶器となって函館湾内の青函連絡船に襲いかかり、青函連絡船洞爺丸の遭難では、乗客、乗組員等1314人乗船)が北海道函館港において転覆し、159人は救助されたが、乗客1041人、乗組員73人、その他の者41人の計1155人が死亡するという犠牲者を出し、これは1912年の北大西洋における「タイタニック号」、1865年のミシシッピ川での「サルタナ号」の事故に次ぐ、世界海難史上3番目の規模になったという。また、台風が通過した西日本でも大きな被害が出ている。象庁は、1958(昭和33)年9月26日に東日本に上陸して伊豆半島狩野川流域に大水害を起こした台風第22号を、同年11月に「狩野川台風」と命名し、同時に1954(昭和29)年の台風第15号も、さかのぼって「洞爺丸台風」と命名した。
この台風の名前は沈没して大きな犠牲を出した洞爺丸の名前をつけて「洞爺丸台風」と命名されているが、実際には、この台風では、「洞爺丸」とともに、「十勝丸」、「日高丸」、「北見丸」、「第11青函丸」も函館港付近で転覆、沈没(乗組員計275人死亡)するなどして、全国では、1,130余隻もの船舶が被害をこうむったという。《以下参考の日本の重大海難(汽船洞爺丸遭難事件)_海難審判庁ホームページより》
事故後、強風の中を出航し、台風により航行不能となり、函館港停泊中に強風に襲われ、船を転覆させる事になった、洞爺丸の船長の出港判断だけではなく、運行を管理していた当時の国鉄の責任も厳しく追及されたが、それは、当然の事であろう。この事故をモチーフとしたものに水上勉の推理小説「飢餓海峡」(きがかいきょう)がある。この本は映画もされた。
しかし、台風王国日本の9月26日、今年は襲来がなかったが、要注意日だってことは覚えておこうよね。
(画慈雨は、「転覆した洞爺丸」以下参考の日本の重大海難(汽船洞爺丸遭難事件)_海難審判庁ホームページより)
参考:
台風-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E9%A2%A8
特異日 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E7%95%B0%E6%97%A5
日本の重大海難(汽船洞爺丸遭難事件)_海難審判庁ホームページ
http://www.mlit.go.jp/maia/08monoshiri/maiahist/20s/20s_toya.htm