こんなのできた!

単調な生活に新発見を!  
日々の小さな出来事の写真日記

2009/01/28 『思ひ出す事など』 ――― 修善寺の大患

2009-01-28 20:08:06 | Weblog

日課  ラジオ体操、新聞・ネットでニュースを見る。

「2次補正予算が成立 28日に施政方針演説」
予算は成立したが、補正予算関連法案が成立しない限りほとんどが執行
できない。
野党は定額給付金だけを反対しているのだから、与党も定額給付金切離
し審議など柔軟に対応すべきだと思う


気ままな日課、朝の風景。






これを撮っている時、散歩中らしい知らないお兄さんが通りすがりに、
「いい写真撮れますか?」
青色のトレーニングウエアを着ておられたので男だと思ってたら、女性だった。
びっくりして「あ、朝はいいですよ。いい写真がとれますよ

「いいものを撮ってくださいね」
「ありがとう」
の挨拶を交わす。
朝の散歩はいいな。


霜が降り、氷が張っているが寒くはない。


【いちご】も元気。

きょうは一日中春のような暖かさだった。奈良の最高気温は13.9℃。
昨日剪定した【柿】の枝などの始末をする。


2009/01/28 17:11 こちらは夕日

夏目漱石の『思ひ出す事など』『日記 明治43年』を読み終える。

■ 漱石 『思ひ出す事など』 

漱石は『門』を新聞に掲載し出すようになってから、再び胃の具合が悪くなり始めた。
長與胃腸病院に入院治療する。退院後、静養目的で修善寺に赴いたがこ
こでの大吐血で生死をさまよう。

1910年(明治43年)8月24日の大吐血前後の心境を思ひ出す事など』
『日記』
などに書いている。



1910/05/11 胃の異常を訴える
  [皆川正禧あて書簡]
   
近頃身体の具合あしく書くのが退儀にて困り候早く片付けて休養致し
  度、今度は或は胃腸病院にでも入つて充分治療せんかと存候四十を越
  すと元気がなくなり申候
          漱石全集 第二十九巻 『書簡集 三』 p.124 岩波書店 

1910/06/18 『門』を書いてしまった後、長與胃腸病院で「胃潰瘍」と診断さ
        れ 入院する。
1910/07/31 硝酸銀を飲んだり、煮えたぎった蒟蒻(こんにゃく)を腹部に
        当てたりの治療を受け退院する。

1910/08/06 静養目的で修善寺に行くが、翌日から痙攣や吐血で苦しむ。

1910/08/22 日記
  ○昨夜は寝ながら弘法様の花火を見る。秋の景色也。
    坂、森、妻三人にて椽で水瓜食ふ。
          漱石全集 第二十五巻 『日記 及 断片 中』 p.192 岩波書店

1910/08/24 日記
  [夏目鏡記]
   
朝より顔色悪シ杉本副医院長午後四時大仁着ニテ来ル診察ノ後夜八
  時急ニ吐血五百グラムト云フ、ノウヒンケツヲオコシ一時人事不省カン
  フル注射十五食エン注射ニテヤヤ生気ツク皆朝迄モタヌ者ト思フ
   社ニ電報ヲカケル夜中子ムラズ
          漱石全集 第二十五巻 『日記 及 断片 中』 p.193 岩波書店 
 午後八時、寝返ろうとした時 500グラムの鮮血を吐き一時人事不省となる。
 医師二人は追っかけ追っかけ注射を試みた。
 朝まで生きようとは誰も思っていなかった。

1910/08/25 未明
   
傍が一しきり静かになった。余の左右の手頸は二人の医師に絶えず
  握られてゐた。その二人は眼を閉じている余を中に挟んで下のような話
  をした(其単語は悉く独逸語であった)。
  「弱い」
  「ええ」
  「駄目だらう」
  「ええ」
  「子供に会はしたら何うだろう」
  「そう」
   今迄落ち付いてゐた余は此時急に心細くなった。何う考へても余は死
  にたくなかったからである。又決して死ぬ必要のない程、楽な気持でゐ
  たからである。
   ・・・・・・・・
   余は今迄閉じてゐた眼を急に開けた。さうして出来る丈大きな声と明
  瞭な調子で、私は子供抔に会ひたくはありませんと云った。
          漱石全集 第十七巻 『小品 下 思ひ出す事など』 p.38 岩波書店 

1910/08/25 子どもの筆子、恒子、栄子と面会
   
彼らの顔には此会見が最後かも知れぬと云う愁の表情が丸でなかつ
  た。彼等は親子の哀別以上に無邪気な顔を有つてゐた。さうして色々
  人のゐる中に、三人特別な席に並んで坐らせられて、厳粛な空気にじ
  つと行儀よく取り済ます窮屈を、切なく感じてゐるらしく思はれた。
          漱石全集 第十七巻 『小品 下 思ひ出す事など』 p.62 岩波書店 
 筆子(12歳)、恒子(10歳)、栄子(8歳)

1910/09/08 大患後初めて日記を認める。三句中の一句
      
秋の江に打ち込む杭の響かな
   是は生き返つてから約十日許して不図出来た句である。澄み渡る秋
  の空、広き江、遠くよりする杭の響、此三つの事相に相応した様な情調
  が当時絶えずわが微かなる頭の中を徂徠した事は未だに覚えて居る。
          漱石全集 第十七巻 『小品 下 思ひ出す事など』 p.16 岩波書店 

1910/09/11 子どもに手紙を書く
  [筆子、恒子、えい子 へ]
   
けさ御前たちから呉れた手紙をよみました。三人とも御父さまの事を
  心ぱいして呉れて嬉しく思ひます。
   此間はわざわざ修善寺迄見舞に来てくれて難有う。びょう気で口がき
  けなかつたから御前たちの顔を見た丈です。
   此頃は大分よくなりました。今に東京へ帰つたらみんなであそびまし
  よう。
          漱石全集 第二十九巻 『書簡集 三』 p.142 岩波書店 

1910/09/18 粥半碗食べる
   やがて粥を許された。其旨さはただの記憶となつて冷やかに残ってい
  る丈だから実感としては今思ひ出せないが、斯んな旨いものが世にあ
  るかと疑ひつつ舌を鳴らしたのは確かである。夫からオートミールが来
  た。ソーダビスケットが来た。余は凡てを難有く食つた。さうして、より多
  く食ひたいと云ふ事を日課のように繰り返して森成さんに訴へた。森成
  さんは仕舞に余の病床に近づくのを恐れた。東君はわざわざ妻の所へ
  行つて、先生はあんな尤もな顔をしてゐる癖に、子供のように始終食物
  の話ばかりしてゐて可笑しいと告げた

      腸(はらわた)に春滴(したた)るや粥の味
          漱石全集 第十七巻 『小品 下 思ひ出す事など』 p.65 岩波書店

1910/09/26 妻より吐血の時の模様をきく
   
強ひて寝返りを右に打とうとした余と、枕元の金盥に鮮血を認めた余
  とは、一分の隙もなく連続してゐるとのみ信じてゐた。其間には一本の
  髪毛を挟む余地のない迄に、自覚が働いて来たとのみ心得てゐた。ほ
  ど経て妻から、左様じゃありません、あの時三十分許は死んでいらしつ
  たのですと聞いた折は全く驚いた。
          漱石全集 第十七巻 『小品 下 思ひ出す事など』 p.39 岩波書店

1910/09/26 妻から「あの時三十分許は死んでいらしつたのです」をきき
   妻の説明を聞いた時余は死とは其程果敢ないものかと思った。そうし
  て余の頭の上にしかく卒然と閃めいた生死二面の対照の、如何にも急
  劇で且没交渉なのに深く感じた。何う考へても此懸隔つた二つの現象
  に、同じ自分が支配されたとは納得出来なかつた。よし同じ自分が咄
  嗟の際に二つの世界を横断したにせよ、其二つの世界が如何なる関係
  を有するがために、余をして忽ち甲から乙に飛び移るの自由を得せし
  めたかと考へると、茫然として自失せざるを得なかった。
          漱石全集 第十七巻 『小品 下 思ひ出す事など』 p.40 岩波書店 

1910/10/11 釣台に乗せられ修善寺を立つ
   人は余を運搬する目的を以て、一種妙なものを拵らえて、それを座敷
  の中に舁き入れた。長さは六尺もあつたろう、幅は僅か二尺に足らない
  位狭かつた。其一部は畳を離れて一尺程の高さ迄上に反り返る様に工
  夫してあつた。さうして全部を白い布で捲いた。余は抱かれて、此高く
  反つた前方に背を託して、平たい方に足を長く横たへた時、是は葬式  
  だなと思つた。生きたものに葬式と云ふ言葉は穏当でないが、此白い
  布で包んだ寝台とも寝棺とも片の付かないものの上に横になつた人は、
  生きながら葬はれるとしか余には受け取れなかつた。余は口の中で、
  第二の葬式と云ふ言葉をしきりに繰り返した。人の一度は必ず遣つて
  貰ふ葬式を、余丈はどうしても二返執行しなければ済まないと思つたか
  らである。
          漱石全集 第十七巻 『小品 下 思ひ出す事など』 p.78 岩波書店 

1910/10/11 帰京し長與胃腸病院に入院
   転地先で再度の病に罹つて、寝たまま東京へ戻って来ようとは思はな
  かった。東京へ戻つてもすぐ自分の家の門は潜らずに釣台に乗つたま
  ま、又当時の病院に落ち付く運命にならうとは尚更思ひ掛けなかつた。
   帰る日は立つ修善寺も雨、着く東京も雨であつた。
          漱石全集 第十七巻 『小品 下 思ひ出す事など』 p.5 岩波書店

1910/12/31 病院で年越し

   看護婦が表へ出て梅でも買つて参りませうと云うから買つて貰ふ事
  にした。
   此看護婦は修善寺以来余が病院を出る迄半年の間始終余の傍に附
  き切りに附いてゐた女である。余は故らに彼の本名を呼んで町井石子
  嬢町井石子嬢と云つていた。時々は間違へて苗字と名前を顛倒して、
  石井町子嬢とも呼んだ。すると看護婦は首を傾げながらそう改めた方
  が好い様で御座いますございますねと云つた。仕舞には遠慮がなくな
  つて、とうとう鼬と云う渾名を付けて遣った。
          漱石全集 第十七巻 『小品 下 思ひ出す事など』 p.80 岩波書店 

1911/02/26 長與胃腸病院を退院をする。
        その後毎年のように1ヶ月くらい床に就き、死と対決する。


■ きょうのタマちゃん