備忘録として

タイトルのまま

海石榴

2014-05-04 14:29:05 | 古代

海石榴は、パソコンで”つばき”と打つと、椿に並んでちゃんと登録変換される。海石榴は、8世紀に撰述された日本書紀や万葉集に海石榴市(つばきち、或いは つばいち)として登場する。椿とは書かず、もともとザクロを意味する石榴に海をつけた海石榴をツバキと読ませるのはなぜだろうと考えた上原和は、自著の「大和古寺幻想」や「世界史上の聖徳太子」の中でその理由を考える。手元やネットにある資料を引きずり出してきて上原和の考察をたどってみた。まずは、万葉集と日本書紀に海石榴の出現する箇所を取り出した。

犬養孝の『万葉の旅(上)』に海石榴市の項がある。

紫は灰指すものぞ海石榴市の八十の衢(ちまた)に逢へる児や誰れ

たらちねの 母が呼ぶ名を 申さめど 路行く人を 誰と知りてか  作者不詳 巻12-3101,3102

犬養孝は、”大三輪町金屋は、いまでこそ、わびしい村にすぎないが、古代には北から山の辺の道、東から初瀬道、飛鳥からの磐余の道・山田の道、それに西、二上山裾(大津皇子が葬られた)の大坂越えからの道がここで一つにあつまって、四通八達、まさに「八十の衢」となっていた。したがって、ここに古代物品交易の市ができ、椿の街路樹を植えて、海石榴市といわれていた。春秋の季節に青年男女があつまって、たがいに恋の歌をかけあわせて結婚の機会をつくる歌垣が行われた。日本書紀の武烈天皇が皇太子のとき平群鮪(へぐりのしび)と影姫を争った物語も、この海石榴市巷であった。”としるし 続けて”明治のはじめまで伊勢参りの旅人ににぎわったところだが、いま村中の小祠に「椿市観音」「つば市谷」の名をのこすのみで、家並のうしろの旧街道も、忘れ去られている。”として下の写真をのせる(『万葉の旅』は昭和39年初版だから昭和30年代に撮った写真と思われる)。

日本書紀の武烈天皇の歌垣の争いの箇所をネットで検索した。http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_16.html

十一年八月、億計天皇崩。大臣平群眞鳥臣、專擅國政、欲王日本、陽爲太子營宮、了卽自居、觸事驕慢、都無臣節。於是、太子、思欲聘物部麁鹿火大連女影媛、遺媒人向影媛宅期會。影媛、會姧眞鳥大臣男鮪。鮪、此云茲寐。恐違太子所期、報曰「妾望、奉待海柘榴市巷。」

由是、太子、欲往期處、遣近侍舍人就平群大臣宅、奉太子命求索官馬。大臣戲言陽進曰「官馬、爲誰飼養。隨命而已。」久之不進。太子、懷恨、忍不發顏、果之所期、立歌場衆歌場、此云宇多我岐執影媛袖、躑躅從容。俄而鮪臣來、排太子與影媛間立。由是、太子放影媛袖、移𢌞向前、立直當鮪。歌曰、 (このあと太子と鮪の間に歌による応酬がある)

石が柘(つげ)になっている。この歌垣で敗れた太子は大伴金村に命じて鮪を討ち取らせたという。武烈天皇は25代天皇で、恋敵を討ち取らせた以外にも天皇の異常な行動が日本書紀にいくつも記されている。次が越前にいた応神天皇5世の孫で、即位してから大和に入るまで19年もかかった継体天皇であること、中国の易姓革命では、前王朝の最後の皇帝が暴虐だったため天命によって王朝が変わっていることなどから、日本でも武烈から継体の間で王朝の交代があったとする説がある。また、古事記では、歌垣で平群鮪と争いこれを殺したのは武烈天皇ではなく、第23代顕宗天皇が皇太子のときのことと記されている。継体天皇即位を正当化するために武烈に暴虐残忍性を押し付けたともいわれる。

以下は景行天皇が九州遠征のとき、海石榴樹(つばきの木)をとって椎(つい=つち=打撃武具)をつくり兵に持たせ土蜘蛛を殺した場所を、海石榴市と呼んだという記事である。大和じゃなく九州に海石榴市があることになる。景行天皇の九州平定説話には平定地として北九州が含まれていないことから北九州にあった九州王朝の九州平定説話を大和朝廷が剽窃したというのが古田武彦の「九州王朝説」である。

仍與群臣議之曰「今多動兵衆、以討土蜘蛛。若其畏我兵勢、將隱山野、必爲後愁。」則採海石榴樹、作椎爲兵。因簡猛卒、授兵椎、以穿山排草、襲石室土蜘蛛而破于稻葉川上、悉殺其黨、血流至踝。故、時人其作海石榴椎之處曰海石榴市、亦血流之處曰血田也。復將討打猨、侄度禰疑山。時賊虜之矢、横自山射之、流於官軍前如雨。天皇、更返城原而卜於水上、便勒兵、先擊八田於禰疑野而破。爰打猨謂不可勝而請服、然不聽矣、皆自投澗谷而死之。

以下は日本書紀推古16年(608年)の条で、飾り付けた75騎が海石榴市で、唐からの答礼使である裴世清を出迎えた様子を記す。朝廷に導かれた裴世清は大唐からの信物を庭におき親書を言上する。海石榴には関係ないが、古田の九州王朝説では、この日本書紀の記述も九州王朝でのできごとを剽窃したものとする。隋書の記述から裴世清は九州に留まり大和までは行っていない。裴世清は筑紫国の東にある倭(俀)国に行き、王(多利思北孤タリシヒコ)に直接面会しているが女帝とは書かれていない。

秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日、遣飾騎七十五匹而迎唐客於海石榴市術。額田部連比羅夫、以告禮辭焉。壬子、召唐客於朝庭令奏使旨。時、阿倍鳥臣・物部依網連抱二人、爲客之導者也。於是、大唐之國信物、置於庭中。時、使主裴世、親持書兩度再拜、言上使旨而立之。其書曰「皇帝問倭皇。使人大禮蘇因高等至具懷。朕、欽承寶命、臨仰區宇、思弘化、覃被含靈、愛育之情、無隔遐邇。知皇介居海表、撫寧民庶、境內安樂、風俗融和、深氣至誠、達脩朝貢。丹款之美、朕有嘉焉。稍暄、比如常也。故、遣鴻臚寺掌客裴世等、稍宣往意、幷送物如別。」時、阿倍臣、出進以受其書而進行。大伴囓連、迎出承書、置於大門前机上而奏之。事畢而退焉。是時、皇子諸王諸臣、悉以金髻花着頭、亦衣服皆用錦紫繡織及五色綾羅。一云、服色皆用冠色。丙辰、饗唐客等於朝。

以下は天武天皇に、倭国添下群の鰐積というものが瑞鶏(めでたいにわとり)を献上する吉事があったという記事で、鶏冠が海石榴の花に似ているという。同じ日にメスがオス鶏になった報告もあった。下の文章には西国、東国、美濃国などと並んで倭国添下群と書かれていて、日本の中に倭国という名を持つ地域があったようである。

夏四月戊戌朔辛丑、祭龍田風・廣瀬大忌。倭國添下郡鰐積吉事、貢瑞鶏。其冠、似海石榴華。是日、倭國飽波郡言、雌鶏化雄。辛亥、勅「諸王諸臣被給封戸之税者、除以西國、相易給以東國。又外國人欲進仕者、臣連伴造之子及國造子、聽之。唯雖以下庶人、其才能長亦聽之。」己未、詔美濃國司曰「在礪杵郡紀臣訶佐麻呂之子、遷東國、卽爲其國之百姓。」

海石榴市のことは清少納言の『枕草子』にも見える。これも全文検索できる。http://www.geocities.jp/rikwhi/nyumon/az/makuranosousi_zen.html

(一四段)

 市は  辰(たつ)の市。椿市は、大和に數多ある中に、長谷寺にまうづる人の、かならずそこにとどまりければ、觀音の御縁あるにやと、心ことなるなり。おふさの市。餝摩の市。飛鳥の市。

椿市には長谷寺参りの人がかならず留まるとあり平安時代も繁華だった。西暦1000年前後の清少納言の頃には椿を海石榴とは書かなくなっていたのかもしれない。

次に上原和が注目する隋の煬帝が春に詠んだ詩である。

東堂に宴するの詩

  • 雨罷春光潤 日落瞑霞暉
  • 海榴舒欲尽 山桜開未飛
  • 清音出歌扇 浮颸香舞衣
  • 翠帳全臨戸 金屏半隠扉
  • 風花意無極 芳樹暁禽帰

石のとれたツバキ(海榴)だけでなく桜もでてくる。2行目は”海榴(つばき)は花びらが舒(ひら)き終えて落ちるばかりだが、山桜はようやく開花したばかりで、花びらはまだ舞い飛ぶにはいたらない”(上原和訳)。中国にはもともとツバキもサクラもなかったらしい。中国の椿樹は、荘子「逍遙遊」にある長寿のシンボルとしての伝説上の巨木で、日本の椿とは異なる。中国で春の花といえば梅、桃、牡丹の類であろうと上原は言い、江戸時代の契沖の『萬葉代匠記』を引用する。

およそ海棠(かいどう)、海石榴等は、海を越えてもろこしにいたるゆゑに、海の字をもてわかつよしなり。つはきは、石榴(ざくろ)の花に似て、海をこえて外国よりくれば、海石榴なり。

石榴はザクロで、海石榴は海から渡ってきたザクロに似た花だと契沖は書いている。煬帝から1世紀ほどのち、中唐の詩人・柳宗元は『柳河東集』に”海石榴を植う”という題の詩をつくり、”弱植尺にみたざれども、遠意蓬瀛にとどまる”と書き、海石榴が蓬莱や瀛州(えいしゅう)から来たことを示唆している。蓬莱や瀛州は、秦始皇帝の時、徐福が不老不死の仙薬を求めて山東半島から船出し目指した海東の神仙の地で、当時の中国人にとっては倭国のことである。当時の中国知識人に海石榴は海の向こうの倭から来た石榴という認識があったことから、上原和は、煬帝の詩は倭国から献上され、裴世清が持ち帰ったツバキとサクラを愛でたものであると”想像する”のである。ここまで調べつくしたら、梅原猛なら”断定する”ところを、上原和はとても控えめである。

8世紀に日本書紀や万葉集を書いた舎人親王や柿本人麻呂ら文人たちは、舶来好みで煬帝の詩などから本来の”椿”に、逆輸入した”海石榴”を当てたのかもしれない。今、文章中に英語を散りばめるようなものである。

ザクロ(Wiki)

下の椿の写真は、今年3月末に徳島の神山森林公園で撮ったものだから落花寸前で少しくたびれている。ザクロは実しか見たことがなかったので、花がツバキに似ているとは知らなかった。神山森林公園は、明王寺などよりも標高が高く、サクラの満開まではあと数日、サクラ祭りは次の週末に予定されていた。まさに”海榴舒欲尽 山桜開未飛”だった。

 


最新の画像もっと見る