吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流

FC2BBSから移動しようと目論んでいます。
http://reyline.web.fc2.com/index.htm

徳島の須賀という地名と忌部氏との関わり No214

2011-01-31 11:43:53 | 日記
蘇我氏の封印と須賀という地名や神社が蘇我氏に繋がるということについて
何度か記載してきている。
封印は強固で傍証を積み重ねている最中である。
忌部氏と蘇我氏が古代より強固な繋がりがあったのは間違いが無いが、
今回忌部氏を調べる中で忌部氏と繋がりが深い徳島に
須賀(前須賀・西須賀・竹須賀・先須賀)と言う地名を見つけたので記載しておく。
この関係は千葉の印旛沼の須賀と類似している。
ただしこの須賀がいつから使用されているのか不明だ。
尾張の蜂須賀郷を領していた蜂須賀小六がこの地の領主となっているので
その蜂須賀からとられた地名の可能性も考えられる。

いずれにせよ忌部氏の歴史検証により蘇我氏の封印された歴史が
見えてくる可能性を示唆しているように思える。


蘇我氏と須賀との関係についての過去のブログ記事リスト
千葉の須賀という地名について No008
蘇我と須賀をつなぐもの No014
須賀と蘇我を結びつける蘇我氏来歴 No017
兵庫県相生市の宇麻志神社と蘇我氏 No132
千葉の麻賀多神社に参拝してきました No018
相生の須賀神社は蘇我氏の神社 No133
過去の妙見信仰と蘇我氏記載文章のまとめ No143
武内宿禰や蘇我氏に繋がる須賀社 続編 No166


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忌部氏と天太玉命 No213

2011-01-28 12:06:59 | 日記
よく研究されている氏として忌部氏がいる。
忌部サミットなども行なわれているようだ。
この忌部氏は氏族というより天太玉命を中心に集まった
技能集団をもって忌部を名乗っているように思える。
一般的にそれぞれの祖神は以下のようだ。
阿波忌部氏⇒天日鷲命が祖神=作木綿者
讃岐忌部氏⇒手置帆負命が祖神=作笠者
紀伊忌部氏⇒彦狭知命が祖神 =作盾者
出雲玉作氏⇒櫛明玉命が祖神 =作玉者
伊勢忌部氏⇒天目一箇命が祖神=作金者
筑紫忌部氏⇒天目一箇命が祖神=作金者

忌部氏は蘇我氏と親密で共に行動している。
蘇我氏の本拠地でもある曽我玉作遺跡で
玉類の生産に従事したのも忌部氏だが
忌部氏のみの職としては麻作りがあげられる。
神事と麻は切り離せないものである。
ちなみに余談だが我が家で飼っているオカメインコは
なぜだかあるときから急に麻の実しか食べなくなった。
もう1年を超えているがそれでも元気にしている。

さて棟梁ともいえる天太玉命であるが
天太玉命はまず岩戸開き神事で登場する。
岩戸開きでは天太玉命が榊を持ち、天兒屋根命が祝詞をあげて天鈿女命が舞っている。
この時に準備したものは鶏と鏡と勾玉・管・太玉と
オスジカからとった肩の骨とハハカの木と御幣・榊等である。
天太玉命は勾玉太玉類を準備し天香山の真押鹿=雄鹿の肩甲骨を取って
天香山の波々架ハハカ(朱桜)の皮でその肩骨を焼き、ひび割れの具合で占っている。
それで天太玉命は卜占の神ともされる。
また天香山から鹿骨や榊等を採ってきて準備したのも天太玉命と考えられる。
勾玉を作ったり榊を抜き取ったり鹿を解体するのは職業的技能であろう。
(同じく天香山産銅で日矛鏡を作り出したのは鍛冶の神とされる石凝姥命も。)
天香山は天の香山であり奈良の香具山と同一ではないが
奈良の香具山には天香山坐櫛真命という卜占神が祀られているが
天香山坐櫛真命=大麻等乃知神というのは天太玉命のことであろう。
これは天兒屋根命を祖とする藤原氏に配慮して忌部氏を避けたものと考えられる。
上記は天界のことであるが天太玉命は
天孫降臨で瓊瓊杵尊に従って五伴緒の一人として随伴している。
地に降りてからは以下の後胤が続く。
天太玉命――天石戸別命――天富命
神武天皇の命を受けた天富命は手置帆負命、彦狹知命の後胤を率いて
紀伊国名草郡の木でもって宮殿を造ったそうである。
これがわが国建築のはじめとされる。
更に神武天皇の命により四国の阿波国に上陸し土地を開拓して麻を栽培している。
さらに肥沃な土地を求めて房総半島南端布良に上陸しそこも開拓している。
その周辺を安房郡と名附けて、(千葉県安房郡)
安房神社に天太玉命を祀る社を創建したという。

この話は『記紀』や『古語拾遺』により確かめられているが
房総半島南端の話で北端から印旛にかけては蘇我氏の足跡が見られる。
ところが忌部氏と違い蘇我氏は消された歴史を持つ。
一般的には蘇我氏は渡来、忌部氏は倭民族と説明されているが
筆者はそう考えていない。
純粋無垢な蘇我氏に対し忌部氏は強力な霊的ネットワークを持って従っていたようだ。
また忌部氏が四国から出た背景にはレイライン構築があるし
物部氏が関与しているようにも見える。

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上棟祭の神 No212

2011-01-28 11:01:29 | 日記
添付写真は熊本と愛媛で少彦名神を祀る神社で撮影した名板だ。
手置帆負命と彦狭知命の名が見える。
不勉強で最初は少彦名神に関係する命なのかと訝しんだが
調べてみると上棟式の際には
屋船久久遅命(やふねくくのち)、
屋船豊宇気姫命(やふねとようけひめ)、
手置帆負命(たおきほおい)、
彦狭知命(ひこさしり)、
当該地域の産土神を祭るそうである。
偶然に両方の名板が少彦名神を祀る神社のものであり
他の神社では見かけたことが無かったので関係を調べてみた。

屋船久久遅命=家船久久遅神⇒建築用材の木の霊魂
屋船豊宇気姫命⇒豊宇気比売大神・宇加之御魂神⇒穀物の霊魂
手置帆負命⇒讃岐忌部氏の祖
彦狭知命⇒紀伊忌部氏の祖

天神玉命の孫である天富命が神武天皇の命令により
阿波国の開拓をした際の配下が
天日鷲命と手置帆負命と彦狭知命の孫だったという。
結果としてどうも古代の建築の上棟祭には
忌部氏が関与していたものと思われる。


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入鹿・将門の首塚 No211

2011-01-25 22:54:17 | 日記
前回「大宰府 観世音寺」で玄の首塚について
大宰府にある胴体の塚とは別に遠く奈良にあるということを記載したが、
古い首塚としては飛鳥寺にある蘇我入鹿の首塚が知られている。
談山神社の多武峯縁起絵巻に飛鳥板蓋宮で首を刎ねられる蘇我入鹿の図がある。
刎ねられた入鹿の首は、飛鳥寺まで飛んでいったという伝承となっている。
しかし入鹿の首塚は高見山山頂にも存在する。
検索すると高見山の三重県側の麓(松阪市飯高町舟戸)にも入鹿の首塚があるそうだ。
そこには能化庵という入鹿の妻と娘が尼となって首塚を護ったという寺院跡がある。
首塚といわれる五輪の塔は和歌山街道の難所の高見峠に
鎌倉時代に入鹿の祟りを恐れ旅の安全を願って建立されたものと思われる。
全ては伝承であり真実は闇だが首塚は祟る想いが強いが故に現世まで残っている。
関東では平将門の首塚が有名だ。
将門の昭和の復権はNHK大河ドラマ『風と雲と虹と』に負うところが多いが
古代の朝敵は1309年に神田明神に合祀されている。
ところが1874年に教部省の指示により神田明神の祭神から外され将門神社に遷座となる。
そして1984年になって平将門神は再度、神田明神に合祀されている。
神田明神は少彦名神大國主命を祀る古社であるが
1309年に合祀したのは疫病等の災いが続くので将門公の祟りを鎮めるために
時宗の真教上人が追悼し神田明神に合祀している。
筆者のブログで何度も記載しているが少彦名神大國主命には
疫病の祟りを鎮めて国を安泰に導く力があると信じられている。
将門の首は京都の神田明神(京都市下京区四条通新町西入下ル・新釜座町)にも祀られているが、
関東からこの地まで首実検のために運ばれてきたためだ。
この地で最初祟ったということで空也上人が供養したとの伝承を持つ。
将門の首塚は他にもあり掛川市には十九首塚が今もある。
この将門伝説と祟りの話は現代にも続いている。
その中でも神田明神の氏子は成田山に参詣しないというものがある。
成田山が平将門の乱平定のため939年に朱雀天皇が寛朝大僧正に命じて
調伏祈願させたことに由来するからだ。
関東の人間にとって平将門は自分たちを救う英雄だったのだろう。
また成田山の地は将門の本拠地である。
そういうわけで成田山新勝寺は衰退してしまう。
江戸時代になってからは復興のために
成田山の空海作といわれる本尊不動明王像の
「出開帳」を江戸で複数回行っている。
それにからみ歌舞伎の初代市川團十郎が成田山に参詣し跡継ぎの誕生を祈願して
後の二代目を授かっている。
二代目は、「不動の申し子」ともいわれ十歳の初舞台で不動明王を演じている。
こういう訳で「成田屋」の屋号を用いるようになり
江戸での「出開帳」の際に『成田分身不動』を公演するなどして成田山を宣伝している。
現在の成田山の人気はこの成田屋に負うところが大きい。

さて平将門の祟りであるが、祟りというよりもその想いが江戸の発展に結びついたのかもしれない。
ただ神田明神と成田山は特殊な関係に今もあるようだ。

ところで今週TVでレッドクリフⅡを観たのだが
赤壁の戦いの勝敗を分けたのは風の向きが変わって
曹操の船団に対して向かい風となったためだ。
それで火攻めの効果が出て次々と炎上し奇跡的に勝利する。
今の中国では宗教的な奇跡は問題あるので
観天望気で風向きが変わることを予想したという説を取っている。
しかし『三国志演義』によると10月に東南の風を吹かせるために
諸葛亮は祭壇を作り祈祷することで風を吹かせている。
元寇の際も加持祈祷で神風が吹き難を逃れたという話がある。
平将門の最後は寛朝僧正の加持祈祷により
突風がおこり将門の馬が棹立ちになり無防備になった瞬間に
矢が目に命中し絶命したという。
風が勝敗を左右しているが神霊的には龍神の力によるものと思われる。

成田山のすぐそばに麻賀多神社がある。
この神社には蘇我氏忌部氏が祭祀してきた八大龍王神が裏で祀られている。
『麻賀多神社が蘇我系なら継ぐ神霊は八大龍王 No011』
空海が乗る遣唐船を救った龍神は真言宗では波切不動明王とされているが
これは不動明王とのプロトコルを使って八大龍王神の力を借りている。
寛朝僧正の不動明王の加持祈祷もこの千葉の八大龍王神が動いて決着をつけている。
密教の調伏加持祈祷で八大龍王神が動いたのだが、
ところがこれが大きな因縁となって現在まで残ってしまった。
非は朝廷側にもあったのかもしれない。
神田明神の少彦名神の封印と首塚から鬼門方位の成田山の不動明王の封印をも
破るものが将門信仰にはあるようだ。

2009年に千葉の成田山に出向いたのだが八大龍王神は
妙見宮に清瀧権現として1732年より祭祀されていた。
将門が神田明神に合祀された1309年にはこの八大龍王神は
日蓮ゆかりの千葉県市川市の法華経寺で祭祀されていたようである。
日蓮はやはり平将門を国の敵とも考えていたようで
「一乗妙法蓮華経は諸仏正覚の極理・諸天善神の威食なり
之を信受するに於ては何ぞ七難来り三災興らんや、
剰え此の事を申す日蓮をば流罪せらる争でか日月星宿罰を加えざらんや、
聖徳太子は守屋の悪を倒して仏法を興し秀郷は将門を挫いて名を後代に留む」
と言っている。

平将門は妙見信仰を持ち関東に広めている。
これゆえに平将門一門の霊威は強力で鎮魂は完成していないようである。
『日月神示の岡本天明氏の自動書記開始の麻賀多神社 No006』
で八大龍王神の八と封印の七について論じているが
この七が平将門の施した七の封印に基づくものであると気づいた。
この七の封印は徳川の天海僧正も気づいたようである。
天海僧正は江戸に独自の北斗七星封印を作り上げている。

話が前後するが歌舞伎の市川家は成田山を正月の初詣では
日本二位の人出とするぐらいに有名にしたが
その分不動明王の加護を受け続けないと祟られる存在となってしまった。
海老蔵の目力というものは成田山の不動明王由来であろう。
逆にいうと市川家は怨念封印に一役買っているということになる。
絶えることなく繁栄して頂きたいものである。

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植物のフラクタル構造の不思議 No210

2011-01-24 01:02:37 | 日記
添付写真の植物を知っているだろうか?
ブロッコリーロマネスコという野菜だ。
このように拡大していっても同じデザインとなるものを
フラクタル構造=自己相似という。
一番下に全体像の写真を添付しておく。
生命はフラクタル構造を持つことが多くある。

シェルピンスキーのカーペットというフラクタル幾何学図がある。
ウイキペディアでの説明
『シェルピンスキーのカーペット』

これはまさに金剛曼荼羅である。
意識について前回「神の道の奥義伝授」で記載したが
意識というものもじつは自己相似を持つものだ。
無数の細胞の意識に細胞の集合体の意識に自我...仏.神霊.神

真言密教は曼荼羅を見て内包された調和を思索するが
もしかするとこのブロッコリーロマネスコという野菜を眺めても真理に気づくかもしれない。
例えば三角とんがりの一つ一つが仏の頭だと感じてほしい。
日本の曼荼羅は空海の時代より大きく進化していないようだが
チベットの砂曼荼羅のように儚く進化していった曼荼羅もある。
砂曼荼羅はすごい作業だとは思うが真実の姿をどれだけ表わしているかというと
実際にDNAが作り上げたブロッコリーロマネスコの神秘にはかなわない。
擬似的な生命と本当の生命の違いがある。

仏は無数に作られだしていき、その節操のなさに疑問を感じた若い時代もあったが
あるときに曼荼羅を観て納得した。
今ブロッコリーロマネスコを観て新しい曼荼羅が頭を巡っている。

ブロッコリーロマネスコという野菜の全体像はこちら



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神の道の奥義伝授 No209

2011-01-23 16:44:28 | 日記
人は愛に目覚め(イエス)
愛のために戦うべきときは勇敢に戦い(マホメット)
真の学問を修め血の流れを大切にし(孔子)
しかして学に囚われず無為自然であり(老子)
感性を研ぎ澄まし神霊を感じ(ヨハネ)
母の慈愛を溢れ出し(マリア)
求道の心と自在智を持ち魂の輪廻を導く(釈迦)

凡人は先祖・父母を大切することより始め
血の流れと魂の輪廻を感じ       
この二つによりDNAの進化を感じ取るに至り
自らの力で魂の流れである輪廻と
血の流れであるDNAを
意識の封印を解き放つことで
コントロール出来るようになること!
これが解脱の道となる。

自分の意識が一つと認識される集合体を自我というが
それは細胞一つ一つの意識の複数の集合体である内在意識で出来ている。
内に集中すれば内在する力である瑜伽を識る。
外に集中すれば自我も複数の集合体であることを識る。
この認識は密教では曼荼羅と呼ばれるが、
高次の集合意識は次元により神霊や仏と呼ばれる。
解脱とは小乗では煩悩からの解放であるが
大乗では人智・社会の進歩でもある。
自我の潜在領域である阿頼耶識の変革が小乗であれば
阿摩羅識に至る改革を霊主民従の大乗と呼べよう。
つまり霊的な阿摩羅識に至る改革が
霊的世界から現世に反映されるときに人智・社会の進歩として観える。

このことが腹に座ると信仰の有り方や
筆者が述べてきた開運グッズの意味も効果も良く分かるようになる。
潜在的に信じていない人間には表面的な効果は薄いが、
それでも大きく影響を受けてしまう生命の神秘がそこに封印されている。

※人の意識の階層は九識論では以下のようになっている
五識=五感
六感=人智思考を加味した感覚
七感=未那識=無意識の領域
八感=阿頼耶識=輪廻する魂の領域 集合意識に繋がる
九感=阿摩羅識=高次の集合意識で神霊・仏にも繋がり
   現実世界にも大きく影響する。

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神の采配 No208

2011-01-23 01:33:20 | 日記
生命は無数の突然変異という試行錯誤の中で
多様性をもたらしてそれが進化に結びついたとし
そこに神の関与は不要と考える人が多い。
この宇宙の構築と生命の構築は
神の概念を持ち込まないと説明できないほど
下手な作りにはなっていないと思うので
神の概念を生命誕生と結びつけるのは
不毛な議論となるので本質的には避けたい。

しかし生命科学的にまれな偶然や
自然定数が奇跡的確率である値を示したからこそ
生命が維持できているという事実もある。
自然定数が異なる宇宙が無数にあって
ちょうどいい宇宙に生命が発生したと
考えないとつじつまが合わない。

①もし初期宇宙での物質密度の濃淡が2桁程度以上大きかったら
宇宙はブラックホールとX線ガンマ線だけの世界になっていただろう。
②初期宇宙での物質密度の濃淡が1~2桁少なかったら
濃淡が銀河の種とならずに星は出来なかった可能性が高い。
③宇宙創生に必要な重水素原子核は陽子と中性子によって構成されるが
結びつける核力が10%も弱ければ重水素原子核が出来ず
ヘリウムもそれ以外の元素も出来ないし核融合も起こらないので
太陽が無い宇宙となってしまう。
また核力が0.5%でも弱かったり強かったりすると
ヘリウムが三重に共鳴状態になる奇跡が起こらずに
炭素合成が不可能となる。
ヘリウム三重奏とはヘリウム同士が衝突すると
10-17乗秒という短い間だけ共鳴状態となるが
その間にもう一つヘリウム原子核がそこに衝突しないと
三重奏による核融合での炭素原子核の生成が出来ないのだ。
もちろん炭素抜きの生命は考えられない。
ちなみに錬金術でいう賢者の石を手にしたのは
ヘルメス・トリス・メギストス=3重に偉大なヘルメスと呼ばれる人物だが
ヘリウム三重奏のヘリウムはギリシア語の太陽を意味する
ヘリオスheliosからへリウムと名付られている。
ヘルメスはもしかするとヘリオスだったのかもしれない。
賢者の石とはヘリウム三重奏をベースとしているとしか思えない。
なぜか遊戯王カードではこのことを知ってか
《ヘリオス・トリス・メギストス/Helios Trice Megistus》となっている。
④中性子は陽子よりも0.14%重たいが、もしも同じ重さであったなら
宇宙初期に中性子の数が減らずに水素原子核が中性子と融合してしまい
ヘリウムだらけとなり恒星の寿命が短くなり生命誕生が困難になる。
地球で生命誕生に掛かった時間は太陽の寿命100億年中の約38億年目だが
太陽質量より15倍も重い恒星は2000万年程度の寿命しかない。
⑤陽子が中性子よりも重かったら宇宙初期で陽子が不安定となり
中性子に変身してしまう。
中性子は電気を帯びていないので元素が作られずに
ガス状の宇宙になってしまい生命は誕生出来ない。
⑥量子力学には定数がいくつかあるが
重力定数、プランク定数等なども
その定数が今とちょっとでも違っていれば全く違った世界になるが
生命誕生の可能性は極小になると考えられる。
イギリスの物理学者、S・ホーキング博士のも
「これらの物理定数の値が生命を生み出す環境を可能にするように
非常に精密に調整されているように思える」と言っている。
生物化学的には
①アミノ酸や塩基が自然に発生しそれから蛋白質や核酸が作られ
海の中に生命の起源となる原始スープが作られる必要があるが
ものすごく確率の低い条件が重ならないと出来ない。
②原核生物は今でも安定的に存在しているが、
生命が多様に進化するためには真核細胞であることが必須である。
最新仮説の水素仮説によると地球で硫酸塩の増加が起こった時期と
メタン生成菌とプロテオバクテリアの共生の始まった時期がずれていたら
真核細胞への進化は起こらなかったと考えられる。
③生命は自然淘汰により常に進化していくというが
原核生物は安定していて進化していくとは限らない。
生命の誕生も奇跡だが進化していくことも奇跡だといえる。

決して神という概念を持ち出さないと知的生命を説明できない訳ではないが
確率論を持ち出すと奇跡の重なりばかりとなる。


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読書感想文 「働かないアリに意義がある」 No207

2011-01-22 13:22:38 | 日記
『働かないアリに意義がある』(長谷川秀祐,メディアファクトリー新書)

アリやハチなどの集団社会を営む昆虫を社会性昆虫という。
その中でも働くだけで不妊のメスが存在する昆虫社会を真社会生物というらしい。
女王の子供の面倒、つまり妹の面倒を見続ける訳だが
姉にとっては自分が子供を産むよりも妹の面倒を見るほうが
自分の遺伝子を残せる可能性が高まる場合があるらしい。
つまり受精卵がメスになり、未受精卵がオスになるような昆虫では、
同じ両親から生まれた姉妹間で一方の遺伝子が他方に存在する確率は3/4となり、
自分の娘の世話をする遺伝子よりも自分の妹の世話をする遺伝子の方が
コピーを後の世代に残しやすくなるということになる。
女王の遺伝子には女王として行動する遺伝子情報も
ワーカーとして働く遺伝子情報も存在している。
そして女王の遺伝子だけが自然淘汰により進化していく。
たまに働かずに子供を生む遺伝子を持った女王もどきが登場すると
その種族は女王もどきばかりになりワーカーが足りなくなり滅びてしまうらしい。
排除するシステムが無いのでこれによる絶滅の危険性は高いらしい。
※女王もどきのことをコロニー内の裏切り者という意味でチーター:cheaterと呼ぶ

昆虫は思考しないのでワーカーも仕事に熟練することなく
たんたんと仕事をし続けるそうだ。
そして働きすぎると過労死してしまう。
この社会では働き始める反応閾値というものに多様性があって
7割のワーカーは働いていないそうだ。
しかし異常事態が発生した場合などで過労がたたり
常に働いている2割が過労死してしまうと働かない蟻が働き出す。
これは常に全員がまじめに働くシステムよりも淘汰に強いそうだ。
つまりいざという時のために余力を残している方が有利ということで
例えば巣作り中にモグラが巣を壊す異常事態が発生して
卵を移動する場合など新鮮な労働力をすぐに使えることになる。
この反応閾値に多様性をもたらすのが
女王の別の部族との交尾による交配だそうだ。

この本を読むと進化論 自然選択=淘汰による進化により
遺伝情報だけでも社会生活を行えることが分かった気になる。

しかしさらに考えていくとやはり壁に突き当たる。
DNAは塩基の配列でこれにより蛋白質が作られる。
しかしDNA情報がどのように嗜好や働き蜂の8の字ダンスや
8の字ダンスの意味を理解する行動にOUTPUT出来るのだろうか?
餌を見つけると本能に従って踊る働き蜂が偶然産まれて
さらにたまたまその踊りを見るとどこかに行きたくなる蜂が産まれて
各方向に飛ぶ蜂の中に偶然踊った蜂と同じ餌を見つける蜂が
いた場合に初めてその二つの本能が結びつき遺伝的に優位となるのだが
この優位性が働き蜂ではなく親の女王蜂の遺伝子に組み込まれないと
遺伝子の進化には結びつかない。
DNAのランダムな変化だけで
多種多様な動植物の行動が作られることが理解出来ない。
そのためのランダムな突然変異数は
進化の時間軸と整合が取れるのだろうか?
あるいはDNA的嗜好や行動等の自然選択による進化の先に
人間が感情を持つという変異が発生する余地があるのだろうか?
つまり今いる猿もいつかは高度な知能を持つようになるということだが
その進化の流れに特異点はないのだろうか?

人類は淘汰の中で美という概念を紛れこましてしまい
本来持つ遺伝子の進化力や生命力の強さを失っている。
記紀では木花咲耶姫を選択して磐長姫を排除したという記述に現れている。
記紀にはその結果として生命力を失い寿命は短くなったと書かれている。
まさに人類はこの瞬間に別の方向への進化を選択した訳だ。
人類は所有という概念やお金や戦争を発明していき
淘汰される弱者は生命力でなく
その個人の経済力と軍事力に由来するようにとなってしまった。
体が弱くてもハーレムを持つ王様が一番子供を残すのだ。
神のシステムから離れひとり立ちした人類は
そのために未来に対して自ら責任を持つ必要が出てきた訳だ。

しかしながら完全に本能から独立したわけでもなく
利己的な遺伝子に操られているのだという話もある。
弓梓弓と水の女神 断片集② No173」で
母系社会から男系社会のへの変遷の理由に疑問符をつけていたが
戦国の世で遺伝的に子孫繁栄させるためには
母系社会より一夫多妻制の男系社会の方が有利なようだ。
実際に戦国時代に負けた男系一族は根絶やしにされているが
母から母に引き継がれるミトコンドリアのDNA遺伝子は生き残っている。
これが母系社会であれば母・娘も含めて根絶やしにされることになる。
利己的な遺伝子に操られるかは疑問があるし
日本における男系への変遷には中国の男系社会・儒教の影響も
あったろうと思われるが、遺伝子説も捨てがたい。

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酒列磯前神社で戴いた藻塩 No206

2011-01-21 02:42:08 | 日記
二年前に酒列磯前神社に参拝したのだが
そこで頒布していた藻塩をお土産に買って帰った。
その藻塩は白亜紀の岩盤が露出して暖流と寒流がぶつかる茨城県ひたちなか沖の
深さ100mの海水を結晶化させた海洋ミネラルに北海道産昆布を使用した藻塩だそうだ。
握り飯にまぶして食べると普通の塩よりまろやかでかなり美味しい。
随分前に使い切っていたのだけど、
急に嫁がこの塩のことを思い出して欲しいと言い出し
酒列磯前神社に電話してご好意で郵送していただくことになった。
酒列磯前神社は薬の神の少彦名神を祭る由緒ある神社である。
筆者は 「弓梓弓と水の女神 断片集④ No175」にも記載しているが
この酒列磯前神社に特別な縁を感じているので
この藻塩もこの神社で御祓いしていただくことで霊験あらたかとなると信じている。

ちなみにネットショップでも手に入る
㈱海洋化学研究会 茨城工場 029-263-5555
グルメショップ ひたちや

藻塩の特徴としてニガリが適度な量?だという表現を見つけた。
ニガリの摂取しすぎは腎臓に良くないという話も聞くが逆にミネラル豊富ともいう。
この手の話は適量の判断がどうも良く分からない。
同様に塩事業センターの食塩よりものあら塩が良いというがこれも判断できていない。
最近の日本人は塩の摂り過ぎは体に悪いと思っている人が多いが
塩の取りすぎで高血圧になる因果関係がある人は4割で
残り6割は塩の取りすぎが高血圧に関与しないらしい。
自分がどちらかは判断付かないので高血圧の人は皆減塩させられる。
しかし塩を舐めるとやる気が出るという話もある。
この藻塩は舐めてみて美味しいことは確かだ。
是非一度藻塩というものを試してもらえたらと思う。

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大宰府 観世音寺 No205

2011-01-17 17:46:30 | 日記
九州で過去より中心とされてきた大宰府の地に観世音寺がある。
七世紀後半から整備されてきた古寺である。
761年、聖武天皇の勅願によって観世音寺に置かれた戒壇院は、
僧尼に戒律を授ける所であったのだが、
東大寺・下野の薬師寺と共に「天下の三戒壇」と呼ばれている。
下野薬師寺は僧道鏡が、観世音寺は僧玄昉が別当として下向している。
筆者は九州三大左遷として道君首名・玄昉・菅原道真を思慕しているが
道鏡や玄昉が蘇我氏と同じく藤原家により貶められたことは間違いない。
従ってその研究は蘇我氏の真実を知る上でも重要である。
ちなみに玄昉も道鏡も物部氏に繋がる一族であり
玄昉は空海にも繋がる阿刀氏(安斗氏)とされる。
この玄昉は藤原広嗣の祟りで殺されたとするが
大宰府に「胴塚」があり奈良に「頭塔」と呼ばれる「首塚」がある。
不比等のもう一人の孫の藤原仲麻呂の所業であることは間違いない。
この頭塔は東大寺別当次第・東大寺要録などの資料から、
767(神護景雲元)年、良弁の命を受けた実忠によって
造立されたというのが定説化している。
東大寺の良弁の玄昉への思いがひしひしと伝わる。
参考:「謎のピラミッド」と話題になった頭塔(ずとう)
岡寺の義淵の元で玄昉、行基、良弁は共に学び義淵七上足と呼ばれている。
良弁は玄昉の偉大さと不遇を認識している一人として
玄昉の首塚を21年後の767年に再整備したものと思われる。
玄昉を暗殺した可能性がある藤原仲麻呂が恵美押勝という名を戴き
今度は道鏡との関係で恵美押勝の乱を起こし764年に切り殺されている。
藤原仲麻呂が死んだのでやっと良弁は玄昉の首塚を祭祀出来たのだろう。
この「頭塔」は玄昉の死後21年後の整備ということで
玄昉とは関係ないと考える人がいるが藤原仲麻呂が生きている間は
祭祀出来なかったことを推察すればなるほどと納得していただけるものと思う。

まとめると藤原と反対勢力の戦いが続いていることが良く分かる。
藤原家代表広嗣    VS 橘諸兄-吉備真備-玄昉-宮子夫人-聖武天皇
光明皇后-恵美押勝  VS 孝謙女帝-道鏡
藤原家代表百川    VS 孝謙女帝-道鏡 孝謙女帝=第48代称徳天皇は毒殺か?⇒道鏡左遷
百川&和気清麻呂    VS 弓削道鏡 物部氏系王権再興の夢は再び消え去る

孝謙女帝=称徳天皇は墾田私有を禁止していたが天皇暗殺毒殺?後に
藤原氏により墾田私有再開されそれ以降はさらに藤原氏が謳歌を極める。

さて観世音寺の本尊は本堂にある木造盧遮那仏座像だが、
観世音寺というだけあって現在の宝蔵(有料)には
平安時代の1126-31年製作の馬頭観音立像他
十一面観音立像、不空羂索観音立像とすばらしい観音像が収蔵されている。
日本最古の大黒天像も有名だ。
これらの観音像は芸術的価値だけでなく霊的見地からも大切な価値がある。

ただ今回紹介した写真は観音像ではなく、
この九州の守りを祈願され続けてきた兜跋毘沙門天である。
京都で羅城門の楼上に安置され京都を守っていた像も兜跋毘沙門天である。
中国の毘沙門天霊験譚によると
兜跋とは、吐蕃(とばん=チベット)に繋がり、
シルクロ-ドの要衝であったキジルが吐蕃によって攻められた時、
密教僧であった不空が祈祷をすると、
城の北門に大地母神(地天女)が毘沙門天を持ち上げて出現し
吐蕃を撃退したという故事に基づいた像である。
ちなみに京都の羅城門の兜跋毘沙門天像は
国宝となり東寺の宝物館に安置されている。
観世音寺の兜跋毘沙門天は、観世音寺で最も古い仏像であるにも関わらず
康治二年(1143)の「観世音寺年料米相折帳」に記載がない。
いったいどういう経緯でこの観世音寺に伝わったのだろうか?
美術的な話は素人であるが霊的に見てこれほど優れた仏像はまれである。
日本の国防祈願がこの兜跋毘沙門天に託されてきた歴史が間違いなくある。
まさに霊的国宝であろう。

観世音寺 毘沙門天 上半身図



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コメント (14)
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ブログ発信の思い ② No204

2011-01-17 17:25:46 | 日記
このブログの目的を何度か記載してきたが、
毎日のごとく問いかけている。
日本という国の国民の努力は過去から現在にかけても
他の国家と比較しても並々ならないものがある。
働き蜂でウサギ小屋でエコノミック・アニマル....
小さな家庭を守るべく父親(母親)は必死に働き
国家としてはODA等で世界に貢献してきた。
金は出すけど...などと揶揄されるが
このお金を稼ぐためにどれだけの努力がなされたかを
政府や役人は分かっているのだろうかと訝しむ
中国・韓国を見てもわかると思うが
これらは全く理解されないどころか
火に油を注ぐがごとく逆に恐喝の手段となってしまった。
世界では今も泣く子はさらに叩かれ
弱みを見せれば骨までしゃぶられる原因となる。
中国・韓国に戦後補償を要求されるが、
考えてもみてほしいが
第二次世界大戦後日本は素寒貧で丸裸にさせられ
その後の戦後の復興の血のにじむ努力は
我々の生活のためであったのだ。
同じくアメリカに駐留されたイラクを見てほしい。
あの国家から戦後補償を日本は受けることが出来るであろうか?
牙をむき出し続ければ、叩かれもしゃぶられもしない。
敗戦後の焼け野原から立ち上がった人達は
アメリカ軍駐留の暴挙にも耐え、
ロシアのシベリア抑留により洗脳された人々をも受け入れ
苦難の時期を耐え忍び生き残った。
イラクの民と比較してもらいたい。
大日本帝国は滅び去り新生・日本国が生まれたのだ。
ましてや今の日本人に第二次世界大戦に責任ある人間がどれだけ
存在するというのか?
それなのに例えば中国では日本は仮想敵国とされ
強烈な反日教育を受けている。
中国が日本を侵略したとき彼らが日本で犯す罪は
全て愛国無罪だそうだ。

「抗日戦争」授業で中国教師は泣き崩れ子供は教科書投げつける
私たちが何をしたというのですか!

彼らにすれば日本人は当然の報いを受けるべきとなる。
逆に日教組が目指す正しい日本人という者は
犯される娘・姉妹を前にしてでも
話せば分かると会話を申し込むか、
資金援助を申し込むような教育を受けてきている。
中国の日本侵略を決して現実にしてはいけない。

この小さな島国に課せられた役割は
途方もなく大きいものに思える。
過去より常に和の文化を世界に発信し続け
世界に向けて経済活動を行ってきた。
この実のらぬ果実をどう育て熟れる果樹となすべきなのか?
日本にとっては徳川の鎖国が最も平和な時代となったことは
皮肉でしかない。

現在日本が持つ美徳であり世界に広めるべき
華であり果実である宝も内部から腐敗し始めてきている。
私は手遅れになることを恐れている。
日本が広めるべきは覇権ではなく
寛恕と和という良心的手段である。
一部の人たちの理想世界は、
20世紀には陸軍の暴走により汚され
戦後の経済活動では利己的と批判されてきた。

しかし現在の世界のグループ化を見ると
日本が戦前行おうとした構想と着眼の正当性も良くわかる。
流れは決して後退も方向転換もしてはいない。

中国、韓国、北朝鮮の3カ国では歴史的、政治的な理由から
反日感情が強いが、私が最初に交流した1985年当時は
中国人韓国人にそういう気配が最も薄れていた。
時代を経るごとに反日感情が強くなることも不運なことである。
ただこのことは単に不運として片付けるべきことではないし
その中でこそ日本の果たすべき役割と本当の障壁が見えてくる。

日本は中国から儒教道教仏教を学んできたが
空海が学んだその教えは中国では消えてしまっている。
日本人は学ぶことに熱意があるが
中国に教えを戻すことは現状では困難である。
しかし心棒無き大国家は必ず破綻する。
その前の余波を含めて日本は防衛することが出来るのだろうか。

話を矮小化するのでこれまで述べてきてはいなかったのだが
九州に住み過去の歴史を探ると
九州には太古より国内での障壁が見え隠れする。

急がば回れという言葉を受け
解決策を九州をベースに検証している。
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ブログ発信の思い ① No203

2011-01-16 16:51:15 | 日記
寂れた田舎町の寂れた店のように
人気の少ないブログではあるが、
特別な人のための特別な仕掛けが施されている。
筆者が知りえたことや話す内容はあるパーツでしかないが
このパーツを拾い集めることで見えてくるものがある。
それは自分自身も常に探し続ける道である。
仏教用語で「上求菩提、下化衆生」という言葉がある。
上求菩提=悟りを求めながら修行をし、
下化衆生=皆を自分の境地までは指導するという大乗仏教の
菩薩道の指針である。
そんな大それた尊大な思いではないが、
神霊界の実相に興味を抱き、
その世界がどう現実社会と繋がっているのかを
知りたいと願う特別な人に
自分が感応する情報を少しでも提供していきたいという思いがある。

理論や政策だけでは世の中が良くならないのは事実である。
自民党や民主党や数々の政党の活動を
自己利益の権化と非難するのは容易いが
ではどうすれば日本が立ち直るのか明確な解を持つ人はいない。
我こそはという人も結局策に溺れて失策するのが良く分かる。
また宗教も金が目当てと目的となり
ほとんど救いとはならないことを痛感している。
しかし全く閉ざされているのか?
自分としては必ず解はあるはずだとまだ望みを捨ててはいない。
非力な自分に出来ることは限られているが
だからといって自分に出来るこの非力な手段を諦めていいとは思えない。
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法隆寺聖霊院の聖徳太子像 No202

2011-01-15 02:41:29 | 日記
法隆寺の聖霊院に木造聖徳太子坐像がある。
国宝になっているが平安時代末期の作だそうだ。
聖徳太子は574年に生誕して622年に病に倒れ崩御している。
従って没後400年も経った後の作なので
どれだけ真実を表現しているかというと
聖徳太子伝承に尾ひれがついてしまった時代なので
直接的に聖徳太子を知る手がかりとはならないであろう。
しかし聖徳太子信仰の中核をなす像であることは間違いない。

法隆寺は木造建築世界最古の国宝だが、
これがどれだけすごいことかは
このブログの読者であればすでに理解していただけると思う。
火災については601年に建立されてからの70年後の
670年には早くも最初の建造物は火災にあっている。(たかだか70年)
神仏の加護により釈迦三尊像等は
すでに現在の金堂に移された後だったようで無事だったというが、
木造建築物は京都を参考にしても1000年の間には
ほとんど火災で焼失するものと思ってさしつかえないだろう。
法隆寺は応仁の乱や世界大戦等の惨事を超えて残っているのだが
奇跡的としかいいようがない。
聖徳太子が都から離れた斑鳩に建造したのは
今の世に残すためだったのかもしれないと想像してしまう。
よく思うのだが、京都や奈良が空襲に曝されなかったのは
世界的遺産があるからだったというが、
これも運が良かったのでありあたりまえのことではないのだ。
大本営の移動先を長野県埴科郡松代町でなく
京都奈良にしたら安全と考える軍人がいてもおかしくないし、
日本の精神性を崩壊させるために
アメリカが京都奈良に原爆を落とそうと考えたとしてもおかしくない話である。

話が飛んでしまったが、この木造聖徳太子坐像の体内に
胎内仏が見つかっている。金銅救世観音像だそうだ。
亀の上に象が載っていてその上に救世観音が立っているそうだ。
蓬莱(ほうらい)山を模していると考えられている。
蓬莱山とは古代中国の神話で東の海上にある仙人が住むといわれている山である。
確かに蓬莱山でもおかしくは無いが
筆者としてはそこに妙見信仰があるように思える。

聖霊院でのお会式というお祀りでは秘仏の徳太子摂政像の厨子が開扉され、
太子像の宝前に大山立と呼ばれる古式の飾り物や餅、大豆、果物などが供えられる。
大山立は僧侶や近隣の信者が約1カ月かけて作っている。
餅を木型でかたどり極楽鳥を割り竹に刺して飾り
仏教の理想世界「須弥山」に見立てられている。

胎内仏が立つのがなぜ蓬莱山と推察されたのかは知らないが
添付写真の亀の上のごちゃごちゃした木の根の様なものが象に見える気もする。
しかしこの亀が妙見の亀蛇に繋がるとすると
聖徳太子と妙見信仰が(没後400年なので微かではある)が結びつく。

蘇我と妙見信仰も確固たる結びつきの証拠を持たないが
No143、157や蘇我氏考察等で示したように個人的には確信している。
同様に聖徳太子と妙見信仰も確固たる証拠はまだないが
匂いを感じている。
神霊界からの感応も強くあるので個人的には確信している。
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加藤清正公と昭君之間 No201

2011-01-13 17:35:08 | 日記
加藤清正公築城の熊本城に
昭君之間というものがあった。
今回それが復元されている。
詳細は以下の熊本城公式HP参照
昭君之間
この昭君之間を作った目的はここに書かれている通りであろう。

添付文章:「昭君の間」は実は「将軍の間」の隠語であるという説もあります。
熊本城を造った加藤清正は豊臣秀吉子飼いの武将。
その遺児である秀頼に万が一のときは、清正にはこの熊本城に秀頼を迎え入れ、
西国武将を率いて徳川に背く覚悟があり、
そのための部屋が「昭君の間」というのです。


前回九州からの東征がことごとく失敗していると記載しているが
清正公はその原因と対策を知りぬいていたと思われる。
熊本霊ラインの最後の改築者が清正公であるからだ。
その仕掛けが熊本城には隠されている。

そして清正公はその不可思議な能力(システム)を
試してみたい誘惑に駆られたのだろう。
豊臣秀頼をなんとしても熊本に招きたかったのではないかと
感じている。
それはいつからの野望だったのか?

しかしこの野望は天海に見破られたのか急逝してしまう。
そして加藤家は改易されて細川が熊本城に入る。


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九州からの東征の歴史と封印を破る風通しへの期待 No200

2011-01-12 15:26:15 | 日記
九州には九州の四国には四国の封印が今も残る。
ただこの封印が日本全体の安定に繋がっている。
しかしながら鄙(ひな)の地は永遠に鄙のままで
あるべきなのかに対しては異を唱えたい。
九州も新幹線が全線開通し風通しが良くなる気配を感じている。

過去の歴史を遡ると
神武天皇が日向から瀬戸内海を通って東征し
日本国の歴史を塗り替えることに成功している。

私見では卑弥呼の時代にも九州は東征に成功したように思える。

しかしその後の歴史を見ると

6世紀 筑紫君磐井の乱
物部麁鹿火により鎮圧

8世紀
藤原広嗣の乱
軍勢は九州各国の正規の軍団1万や隼人を含む豪族の手勢。
大野東人率いる朝廷軍により鎮圧

12世紀
鎮西八郎(源為朝)の九州平定
父・為義が検非違使を下官される等あって
源為朝が上洛することで落着

14世紀
南北朝の乱
後醍醐天皇の皇子懐良親王を擁する菊池氏が九州の南朝の中心となり
熊本県菊池市隈府に懐良親王を征西府として迎える。
今川貞世が九州平定 (1392年南北朝合一)

17世紀
島原の乱 天草四郎の乱
立籠もる原城の落城により鎮圧

19世紀
西南戦争 西郷隆盛の乱
谷干城率いる熊本城を陥落できず敗走。

など九州からの東征や乱の広がりはすぐに鎮圧され成功していない。
ちなみに8世紀から12世紀の間では10世紀に瀬戸内と東北で
平将門の乱と藤原純友の乱が起こっているが
これらは鎮圧されたものの武士の台頭のきっかけとなったと言われている。

なぜこうも九州からの火の手は脆弱ですぐ消されるのかの疑問があったが、
例えば西南戦争で西郷隆盛は薩摩から挙兵すればぞくぞくと友軍が集い
大挙して京へと進軍出来ると考えていたように思える。
敬天愛人を全うしようとした西郷隆盛に
なぜ天は見方しなかったのかは
結局のところこの九州に残る結界封印を理解出来ていなかったことに尽きる。
特に熊本霊ライン上の花岡山からの攻撃は
清正公の築城時からの罠に陥っている。

コメント (2)
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