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吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流

FC2BBSから移動しようと目論んでいます。
http://reyline.web.fc2.com/index.htm

石上神宮に収められた鉄剣・七支刀の役割 No427

2016-01-31 10:33:34 | 神霊界考察
前回の記事で青銅の来歴の新発見について述べたが
鉄に関してはどうだろう。

古代日本の製鉄技術は朝鮮半島から渡来したとされている。
その中で特筆されるのは刀剣の分野である。
石上神宮に伝来した鉄剣で七支刀と呼ばれる国宝がある。

     



前ブログ記載の上田正昭によれば、
朝鮮からもたらされたという石上神宮の七支刀も
日本に献上されたのではなく文化・技術の発展した朝鮮より
未開の日本へ下賜されたものだという。
『東アジアの銘文刀剣一覧』

調べてみるとそもそも朝鮮では銘文入り大刀に関して
6世紀初頭の大刀は2振り発見されているのだが
それ以前のものは一振りも見つかっていない。
従って3世紀あるいは4世紀の製鐵技術を証明するものとしては
この日本伝来の七支刀頼りとなっている。
百済の文化財、遺物を集めた韓国の扶余博物館には
日本へ下賜したものとして七支刀のレプリカが誇らしく展示されている。

下賜したのは近肖古王(きんしょうこおう、生年不詳 - 375年)で
百済の第13代の王(在位:346年 - 375年)であり第11代の比流王の第2子とされる。
日本の『古事記』では応神天皇の治世に照古王の名が記されている。

『日本書紀』によれば、神功皇后52年(252年)九月丙子の条に、
百済の肖古王(しょうこおう、生年未詳 - 214年)が
日本の使者、千熊長彦に会い、七枝刀一口、七子鏡一面、及び種々の重宝を献じて、
友好を願ったと書かれている。
孫の枕流王(ちんりゅうおう、生年不詳 - 385年)も『日本書紀』の中に出てくる。

ところが肝心な七支刀の銘文には
泰■四年と記載されている。
西晋の暦には泰始があり泰始四年=269年となる。
しかしこれでは近肖古王の時代とつじつまが合わない。
それで東晋の太和4年=369年というようにつじつま合わせが為されている。
ただどんなに理屈をこねても泰は太ではない。

さらに調べてみると銘文は以下のように書かれている。

泰始四年五月十六日丙午正陽 造百練鋼七支刀 呂辟百兵 宜供供侯王永年大吉祥
先世以来未有此刀 百□王世子奇生聖徳 故為倭王旨造 伝示後世


百練 百兵 百□王 百が続く文章なのだが
百□王を百済となぜ確定するのかが疑問だ。
今なら百□王は子供に聞けば百獣王で私に言わせれば百越王となる。
また百が続くことを考慮すれば
故為倭王旨造も故為倭王百造とも考えられる。

七支刀詳細図面 拡大して確認のこと
拡大して自分の眼で見ないと真実にはたどり着けません。

上記図の百□部分拡大図



□の部分はどうみても済とは読めない。
王も実際には于となっている。
つまり素人考えではあるが
百越于という主張だって成り立つかもしれない。
※于とは為 仲がいいこと 友于で兄弟という意

百が並ぶ理由も呉人関与であれば
呉のトーテムの呉公=虫呉虫松=蜈蚣=百足ムカデとなる。
あるいは卑弥呼であれば倭迹迹日百襲媛命説にも百襲媛だし
魏志倭人伝「卑弥呼以って死す。大いに冢を作る。径百歩。殉葬者百人余り」
とやはり百の連呼となっている。


『くだらない』という言葉がある。
歴史学者によると
日本に農作を伝えたのは現在の朝鮮にあたる百済の人々であり
百済の人々を頭の良い人としていたため、
頭が悪く話の通らない人を「百済ではない人」と呼び、
略され「くだらない」となったとする説、
あるいは
百済の朝鮮文明がとても発達していて、
百済にはありとあらゆる物があり、
もし百済にない物があるとすれば、つまらないもの、
つまりくだらないものだということが語源となるという。

百済渡来とされたこの七支刀も弥勒菩薩半跏思惟像も百済観音も
国宝制度発足の2年で百済渡来故に早々に指定されたのだが
百済観音などは百済とは縁もゆかりもないことが解っている。
まさに『くだらない』話だと思う。


後記

この記事を読まれる方の数は限られていると思うのだが
霊的にはこのブログの影響は大きい。
七支刀を調べろとの啓示で検索してみると
九州国立博物館で百済との交流展で展示されたとのこと。
HPの中にやはり七支刀の役割の終焉を感じさせる記事を発見した。
七支刀の実物と出会える最後のチャンスかもしれないと書かれているのだ。
たぶん九州国立博物館では非破壊検査をしていると思う。
いつの日か七支刀が日本で作られたことが
新発見としてニュースとなるかもしれない。







201909 追記
「くだらない」という語源についての話だが
筆者はあくまで皮肉で『歴史学者によると』と記載していたのだが
国語学者の見解を教えてくださった方がいらっしゃった。
この説は京都伏見や灘の酒は江戸人は『下り物』と言ってありがたがった。
それに対して現地でも美味しくないものは
下ることなく現地で消費されるので当然ながらわざわざ江戸には下らない。
つまり下らないものはツマラナイものという短絡的結論で
下らないという言葉が生まれたという。
これの伏線は『下り酒』や『下り諸白』という単語は
江戸時代の記録に見られるからである。
ただ下り物が良いものということには異論がないが
下り物でないものを短絡的につまらないといい
それが現代にまで残るほどに周知されたかということに関しては
いくらか疑義がある。
まず仮定する日本酒で良いものは全て将軍が居る江戸に集まるものという
天下の大江戸という自信と自慢が無いと
下らない物がつまらないとはならないという前提条件がある。
しかしながら江戸時代においても江戸庶民に
みやびの京ものにはかなりの憧れが見られる。
そう簡単には下らないもの=ツマラナイには至らないという問題がある。








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呉音霊にまつわる銅と鉄 No426

2016-01-30 23:23:40 | 神霊界考察
ここでいう呉音霊とは中国江南地方からの技術伝承とかぶっている。
つまり朝鮮由来と信じられているもののなかに
そうでないものがあるのではないかという疑問が自分に生じている。

自分は理系技術者なので歴史学には疎いのだが
かつて読んだ本の中に『日本の朝鮮文化』という本がある。
司馬遼太郎、上田正昭、金 達寿の座談会を書籍にしたものだ。
司馬遼太郎は『坂の上の雲』を読んでいたし
上田正昭についてもいくつかの書籍を読んでいた。
ここに書かれていることは現在の歴史学会のスタンダートとなってきたが
ほぼ古代日本文化の全てが朝鮮で咀嚼されて精錬された文化を
日本が継承したものという立場になっている。

例えば帰化人という言葉があるが
あれは完全に嘘で本当は日本は天日槍命をはじめ
渡来した朝鮮人が作り上げた国家だという。
天というのは朝鮮からもたらされたものという意味で
天皇も天が付くのでその範疇だそうだ。
それで上田正昭 金達寿の御指導で帰化人という言葉は
渡来人と改められた経緯がある。

※帰化とは従い服従することの意。
つまりは他国の国籍に入りその臣民となること、
臣服することとなる。
実際は渡来人に日本人が従ったので帰化ではないことになる。

上田正昭によれば朝鮮からもたらされた石上神宮の七支刀も
献上されたのではなく下賜されたものだという。

この本を読んだのは1982年のことだから30年以上前のことになるが
素直にそういうことを信じていた。
日本文化の父たる百済文化絶賛啓蒙の良書である。

そういえば
国宝第一号の広隆寺の宝冠弥勒菩薩半跏思惟像を
最初に観たのは高校生の時だがこの時のパンフレットには
百済の半跏思惟形式を継承した百済仏となっていた。
それから四半世紀後には新羅仏だということになった。
さらには像の背中部分が楠なので
日本で作られた可能性まで指摘されている。
ところが日本にはそんな技術はないという話を聞かされたこともある。
確定しない歴史の中で歴史学とはプロパガンダのことなんだと思う。

またこの書籍では素戔嗚尊や少彦名神は
朝鮮からの渡来であることは間違いないように書かれている。

しかしながら自分の感応では少彦名神は朝鮮からの渡来神でない。
だとするとたぶん素戔嗚尊も朝鮮からの渡来ではないと考えられる。

九州の春日は気になる地域であるが、
この地にある「須玖タカウタ遺跡」を含む「須玖遺跡群」では、
これまでに青銅製の剣や矛の鋳型など弥生時代の出土品が数多く見つかっていて、
「奴国」の中心部と推定されているそうだ。
それでここに奴国の丘歴史公園が作られた。
この「須玖タカウタ遺跡」で2015年5月末に
国内で最古の青銅鏡の鋳型が発見されたというニュースが出た。
これは国内初出土の「多鈕(たちゅう)鏡」の鋳型で
紀元前200年頃のものである。
これにより権威の象徴だった多鈕鏡はすべて朝鮮半島製とする
今までの定説が覆された。

この鋳型に流し込まれた青銅は香春のものだろうと推察する。
これは呉人が伝えた技術なんだろうと思う。
弥生時代に中国江南から渡ってきた呉人がさらに北上し
朝鮮にも技術を伝えたのではなかろうか。

自分においては歴史学者の洗脳的啓蒙が解けてきたようだ。
呉音霊の威が一刀両断の神力を発揮しそうな気配といえる。
今後日本の歴史学は大きく転換する予感がする。

藤原不比等に始まる百済最上主義の啓蒙は現代にまで続いているようだ。
大学を中心とした歴史学会は皆なびいている。
上田正昭はその中でも重鎮の一人となっているようだ。
韓国から修交勲章崇禮章をいただき
社団法人解放・人権研究所顧問をしたり
「朝鮮学校を支える会」の呼びかけ人になっていたりする。

私は歴史や考古学には興味がないのだが
荒ぶる呉音霊の威が一刀両断の神力を
一気に発揮することを恐れている。

そして青銅の来歴が覆されるなら鉄も然りだと思う。


後記.この国内で最古の青銅鏡の鋳型発見の記事は
皆様のコメントの奴国がらみで検索していて発見したものです。
驚きました。
呉音霊と狗奴国の関係は深いものと思いますが
奴国で多鈕鏡を作っていたとなると
当然奴国も呉音霊の影響を受けているものと思われます。


※ 上記記載の上田正昭・京大名誉教授が死去したというニュースが入ってきた。
2016年3月13日午前7時54分、大動脈瘤破裂のため。
場所は京都府亀岡市曽我部町穴太宮垣内3の自宅で死去。88歳。
近年はがん治療中ではあったが死因は癌ではなかったようだ。
この自宅は小幡神社の境内になる。
上田正昭はこの小幡神社の宮司をしていた。
この小幡神社の氏子として出口王仁三郎が知られている。
上田正昭は養子入りしたと聞いているが
出口王仁三郎は本名は上田喜三郎であるから
繋がりが感じられる。
王仁三郎は産土神の小幡神社で初めて啓示を受けているが
導かれて小幡神社の奥宮がある高熊山で修行している。



コメント (11)
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石上神宮に収められた七支刀の役割メモ No425

2016-01-29 17:40:03 | 神霊界考察
この稿は自分用のメモとなります。
本文は『石上神宮に収められた鉄剣・七支刀の役割 No427』を読まれてください。



********************************************************************

まず古墳出土 他の刀について

七支刀
泰始四年五月十六日丙午正陽 造百練鋼七支刀 呂辟百兵 宜供供侯王永年大吉祥

先世以来未有此刀 百□王世子奇生聖徳 故為倭王旨造 伝示後世

百練 百兵 百□王 百が続きますが百済となぜ確定するのか?
今なら百□王は百獣王でしょ。
故為倭王旨造も故為倭王百造とも考えられる。


三国時代の呉からもたらされたという説
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-5/2011_07_02.htm

そもそも朝鮮では銘文入り大刀に関して
6世紀初頭の大刀は2振りも発見されているが
それ以前のものは一振りも見つかっていない。

http://www.city.yabu.hyogo.jp/3450.htm

逆に言えば朝鮮の鉄文化は七支刀だよりとなっている。



********************************************************************





くだらない

日本に農作を伝えたのは現在の朝鮮にあたる百済の人々で、
百済の人々を頭の良い人としていたため、
頭が悪く話の通らない人を
「百済ではない人」と呼び、
略され「くだらない」となったとする説もある。

百済という朝鮮に昔あった国は文明がとても発達していて、
百済にはありとあらゆる物があり、
もし百済にない物があるとすれば、
つまらないもの、
つまりくだらないものだということが語源


美郷町南郷区(旧南郷村)
西の正倉院の中には、百済王族の遺品と云われる24面の銅鏡があります。

神門神社所有の百済王族にまつわる宝物や伝説を裏付ける師走祭り
異国神(百済王の一族)がこの地に定着したとする由来伝説


百済王伝説
7世紀、滅亡した百済の王族は日本の奈良地方に逃れ、
その後の動乱から更に九州方面を目指した。
途中、瀬戸内海で時化に遭い、日向の国の二つの浜
(日向市金が浜、高鍋町蚊口浜)に漂着後、
父は南郷村神門、王子は木城町に移住した。

神門神社に伝えられる銅鏡は伝世品と認められ、
古墳時代のもの4面、奈良時代の唐式鏡17面、
藤原時代の品3面、室町時代以降のもの9面です。

宝物の中に、正倉院にあるものと同じ
伝世品の鏡「唐花六花鏡」があることがわかった。
しかも、正倉院のものが出土品であるのに対して、
神門神社の鏡は大切に保管されたものだった。

神門神社から発見された1006本の鉄矛

「師走祭り」は、90km離れた木城町比木神社の神・福智王(長男)が
神門神社の神・禎嘉帝(父王)を年に一度訪れる形式で行われます。
この祭りは、ご神体と鉾を担いで木城町から美々津を経て
南郷村神門神社まで詣で、鉾は神門神社に奉納されてきたようです。

百済 久太良 クタラ 346-660年
百済の都は現在のソウルの漢江南岸にあり、漢城と呼ばれた。
紀元前1世紀から紀元後3世紀の間に作られたと考えられている

369年には、倭国へ七支刀を献上している。

『日本書紀』には七枝刀(ななつさやのたち)との記述があり、
4世紀頃、倭に対し百済が朝貢した際に献上されたものとされ関連を指摘されている。

http://www.city.yabu.hyogo.jp/3450.htm

百済の第8代の古尓王(在位:234年 - 286年)の時に作られたものとする。
晋(西晋)の皇帝は世祖武帝司馬炎である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E6%94%AF%E5%88%80

近肖古王(きんしょうこおう、生年不詳 - 375年)は
百済の第13代の王(在位:346年 - 375年)であり、
第11代の比流王の第2子。

日本の『古事記』では、応神天皇の治世に照古王の名が記されている。

卑弥呼(ひみこ、生年不明 - 247年あるいは248年頃)

『新唐書』列伝第145 東夷 倭日本に「仲哀死、以開化曽孫女神功為王」、
『宋史』列伝第250 外国7 日本国に「次 神功天皇 開化天皇之曽孫女、又謂之息長足姫天皇」とある。

『日本書紀』によれば、神功皇后52年(252年)九月丙子の条に、
百済の肖古王(しょうこおう、生年未詳 - 214年)が日本の使者、千熊長彦に会い、
七枝刀一口、七子鏡一面、及び種々の重宝を献じて、友好を願ったと書かれている。
孫の枕流王(ちんりゅうおう、生年不詳 - 385年)も『日本書紀』の中に出てくる。





一般に百済から技術はもたらせられたという歴史学者が多いのですが
捏造といっていい話が多いようです。

弥勒菩薩半跏思惟像百済説は完全に崩壊しています。
あれは私は日本だと思っていますが
そうでないとしても新羅となります。
この事件で私は目が覚めたといってもいいでしょう。

さて百済説の最も重要な根拠となっているのが
石上神宮の七支刀です。

百済はうそつきだから『くだらない』のです。
藤原怖しで大きな声では言えませんが。
日本書紀の百済がらみは全て藤原氏の手が入っています。

そもそも朝鮮では銘文入り大刀に関して
6世紀初頭の大刀は2振りも発見されていますが
それ以前のものは一振りも見つかっていないようなのです。

http://www.city.yabu.hyogo.jp/3450.htm

逆に言えば朝鮮の鉄文化は七支刀頼りとなっています。

泰始四年五月十六日丙午正陽 造百練鋼七支刀 呂辟百兵 宜供供侯王永年大吉祥

先世以来未有此刀 百□王世子奇生聖徳 故為倭王旨造 伝示後世

百練 百兵 百□王 百が続きます。
故為倭王旨造という文言の旨も百のように感じられます。

さて肝心の百□王です。
これを百済王としていますが
別に百獣王でもいいわけで百済と決めつける根拠が分かりません。
(実際は根拠は藤原氏の思惑通り日本書紀となっています。)
ちなみに金文 説文を添付しておきます。
呉系であれば百越があります。
こちらのほうがよほど感じが似ています。

なぜ百が多いのか?呉のトーテムの呉公 ムカデということですよね。
私ムカデの警告で刺されましたから良くわかります。
百足=虫呉虫松 まさに漢字にも呉の文字が入っています。
ゐ師紹介ブログでも呉がらみで百体神社載っていましたね。
ある人によると卑弥呼の殉死者の100名という話もありますが。


ところで以下 研究課題だと思っています。
似たようなことを考えている人っているものですね。
『邪馬台国と製鉄』
http://www.shundaichi.com/37034393402148822269123923506937444.html

『宮崎市 日高 祥氏による表面採集品リスト』
http://www.nirai-kanai.org/ayumi/hidaka_list0509.htm

この本読んで涙が出ました。
史上最大級の遺跡―日向神話再発見の日録
日高 祥
https://books.google.co.jp/books?id=AUAtgjHpeQgC&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false
ここを調査すると左巻の歴史学者が困るんですよ。

例えば

「慰安婦」問題に関する日本の歴史学会・歴史教育者団体の声明 - 東京歴史科学研究会
日本軍「慰安婦」強制連行の事実は
本政府の見解表明(河野談話)で確定済み。
歴史を歪曲してはいけないと抗議

歴史学関係16団体
日本歴史学協会
大阪歴史学会
九州歴史科学研究会
専修大学歴史学会
総合女性史学会
朝鮮史研究会幹事会
東京学芸大学史学会
東京歴史科学研究会
名古屋歴史科学研究会
日本史研究会
日本史攷究会
日本思想史研究会(京都)
福島大学史学会
歴史科学協議会
歴史学研究会
歴史教育者協議会


もちろん重藤製鉄遺跡のことも完全封印
全て朝鮮のためですよ。


「須玖タカウタ遺跡」を含む「須玖遺跡群」では、
これまでに青銅製の剣や矛の鋳型など
弥生時代の出土品が数多く見つかっていて、
古代中国の歴史書に記された「奴国」の中心部と見られている。
春日市文化財専門委員で考古学が専門の福岡大学の武末純一教授は、
「国内で最古の青銅鏡の鋳型で、須玖遺跡が奴国の中心地となった
弥生時代中期の前半ころには日本に高い鋳造技術があったことが
明確になった」と話しているという。

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阿蘇国造神社 鯰社参拝 No424

2016-01-19 15:36:31 | 神霊界考察
阿蘇神社の北側4km程度のところに
阿蘇国造神社はある。
こくぞうじんじゃと読む。
くにつくりじんじゃと呼ばれる方もおられる。

国造神社には過去ブログで考察しているので参考にしていただきたい。
『熊本霊ライン基点の御坊山の鯰と阿蘇国造神社の鯰 No361』

ここに祭祀されている鯰というのは呉音霊と深い繋がりがあるようだ。

  鯰社の由来 

『熊本霊ライン』上のこの国造神社と起点となる御坊山・小島阿蘇神社の
両方に鯰伝承があるのだが
鯰が呉音霊に関与するトーテムだとすると
その呉音霊祭祀の影響が熊本霊ラインにも反映される可能性がある。
それで慎重に様子を見ている。

『国造神社神託』

しかし参拝後の帰りに御坊山から城山の間の県道28号線を通っていて
熊本霊ライン上に虹が掛かった。


その虹がやけにはっきりとしていて驚いた。
どうも背中を押す霊的存在があるようだ。





添付記事
中国の長江、黄河、瀾滄江の源流の三江源について
『三江源生態保護のための移民計画』というものがある。
中国が環境に配慮するなどという事は
もちろん嘘でこれはチベット弾圧の一環であるが
この三江源が日本の縄文人の源流となっていることは覚えておいて欲しい。
中国に住む日本人の子の件に関する感想は
『中国西部の生態大移民の現実』




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呉音霊の暗黒面 No423

2016-01-03 17:19:49 | 神霊界考察
呉音霊を知る上では避けては通れない部分について
軽く記載しておく。

古来より呪詛の一つとして
『丑の刻参り』というものがある。

呉音霊を表現する稲穂と藁であるが
この藁で作った人形に五寸釘を打ち込むという
荒業の呪いで知られる。
京都府の貴船神社の丑三つ参りが有名だ。
草木も黙る丑三つ時である深夜の午前2時頃を見計らって
神社の御神木にこの藁人形を打ち付けるのだが
白装束で頭に鉄輪を逆さに被り
そこにろうそくを立てる姿とは以下のようなものだ。


鉄輪とは竈子(くどこ)のことで
逆さにして使う場合はくどこの逆読みで
ごとく=五徳と呼ばれる代物だ。


もちろんこれは呉音霊の鉄の属性を意味している。
頭につける蝋燭は三本。
二本であれば鬼の角なのだが
三本だと三叉鉾を意味する。
呉音霊と関係する薩摩隼人の弥五郎どんにも三叉鉾があるし
摩多羅神にもその鬼が持つ三叉戟にも残滓が残っている。
山之口弥五郎どん  
    摩多羅神と三叉鉾

藁人形は中国では芻霊といい、呉人がもたらした稲作とセットとなる品だ。
また五寸釘は呉寸から連想された釘である。
四字熟語に尺呉寸楚(せきごすんそ)というものがある。
高い所から見下ろすと呉・楚の大国も小さく見えるように
物が小さく見えるさまのことをいうが
小さい藁人形に五寸釘を打つことにより
実物大に反映させるという逆の暗号となっている。

この呪いの成就は
七日目の参詣が終わると、
黒牛が寝そべっているのに遭遇するはずで
それをまたぐと呪いが成就する。
この黒牛こそが本体の御神霊である。


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丙申年 No422

2016-01-03 12:02:35 | 神霊界考察
今年の干支は丙申年となっている。
丙はヘイ ひのえであるが
台座のことである。
申は神の初文で雷光の走る形から
その漢字は形象されている。


まさに台座に乗る稲妻神ということであろう。








産土神社の北岡神社に御神酒を頂きに行ってきた。
参道を大きな道路が横切り万日山トンネルで西回りバイパスと繋がったが
その影響ゆえかマンションが乱立して
10年前と景色が様変わりしてしまった。
賑やかであるという事は悪くはない変化だと思う。

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