吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流

FC2BBSから移動しようと目論んでいます。
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空知川龍神の怒り No444

2016-08-31 22:50:06 | 神霊界考察
地震被害から4か月以上経過したが
熊本の民家の屋根はまだブルーシートが目立つ。
痛々しい限りだ。
それで台風除けの祈願をしている。
そのおかげは間違いなく受けていると思うのだけど
関東や北海道で台風10号がらみの低気圧による大雨の被害が気になっている。

実はこの被害に関してある神霊より記事を書くように
警告を受けていたのだが無視していた。
ところが数時間後に本日熊本市西区に震度5弱の地震が起こり
その後も余震が複数回ある状態にある。まさに今も!
なぜか震源から離れた筆者宅は震度5弱

筆者宅では本日の震度5弱の地震の際に、
普段は朝しかはいらない部屋がなんとなく気になり
地震後しばらくして確認してみたら
設置している北側の封印の霊符の額が壁から落ちていた。
どうしたわけかそれが離れた電気ストーブのスイッチに当たり
さらに額はどうはね飛んだのか
ローテーブルの上にあたかも手で置いたかのように表向きに落ちていた。
なんと電気ストーブのスイッチが入り
ローテーブルのところに置かれていたタオルを熱していて
気づくのが遅れたら火事になるところだった。
どのように考えても「ピタゴラ装置」じゃあるまいし
めったにあり得ない話だ。
今回はそれで恐れをなして警告に一部従うことにした。



さてこの件は昨年2015年6月の記事を没にしたブログから話をする必要がある。
6月6日に北海道砂川市一家5人死傷事故という痛ましい事故が起きている。
参照 『北海道砂川市一家5人死傷事故まとめ』
この時に『砂川政教分離訴訟(空知太神社)』のことが
頭に浮かんだので記事を書いたのだが遺族等のことを考えて記事は没にした。
空知太神社はもともと石狩川と空知川の氾濫を治め五穀豊穣であるように龍神を祀る祠があり
そこに天照大神を勧請した神社だったようだ。
この裁判についての気になる点について以下の記事を紹介する。
『北海道砂川市・空知太神社訴訟最高裁判決は「第二の神道指令」だ!! 』
事故が起こったのは北海道砂川市西1条北22丁目交差点で以下に地図を添付する。

空知太神社(そらちぶとじんじゃ)はもともと地図中の砂川町立空知太小学校にあって
前面道路に移転している。

筆者は寛恕と和を中心とした祭祀を心掛けているので
この経緯には心を痛めていることをまず伝えたい。

祈りの基本を失うと祭祀されていた御神霊は荒ぶることがある。
この裁判はキリスト教団体が起こした政教分離裁判であるが
そもそもこの神社に対する信仰が抜け落ちているので
どうにもこうにも後味が悪い結果だけが残っている。
荒ぶる神霊をなだめるためには
移転するなりして再度祭祀をやり直すべきだというのがこの時の結論となる。
この神社は北海道でも最古社の一つであるが添付写真は涙を誘う。



今回再びこの地のこの空知川が氾濫した。
これにははっきりと祭祀上の『流域住民の崇敬』という
問題があることだけは指摘しておきたい。
ちなみに今回氾濫した空知川上流には少彦名神を祀る富良野神社がある。

『毎日新聞 富良野で空知川の堤防決壊』


今回の被害を受けられた方々におかれましては
一日も早い復興ができますように祈っています。


後記:本日(9/01)西区役所の地震の罹災発行担当者に
昨日の地震で額が電気ストーブの上に落ちてストーブのスイッチが入り
あわゆく火事になる寸前だったのだけど
胸騒ぎがして他の部屋を調べてみて発見したという話をした。
そしたらなんとその担当者が腕に鳥肌立てて
実は私の家でも四月の本震でストーブに物が落ちてきて
スイッチが入り物が焦げたんですよと言ってきた。
それでほかにもそういう話がありますかと聞いたのだが
西区では地震での火災はなかったとのことだった。
この話はあまりに怖かったので誰にも話していないということだった。
なんとその電気ストーブのスイッチはダイヤル式で
物が落ちてきてもそう簡単には回るものでは無いし
底についている転倒時の安全スイッチは
柱に当たってストーブが斜めになったところに
落ちて転がってきたものが
スイッチを押し付けていたかでOFFにならなかったそうだ。
その時にはすぐに停電になり外に一度出たのだけど
明るくなって家に戻ってきて電気が復旧したときに
家にいて気づいたから火事にならなかった。
めったにあり得ない似たような話を偶然聞いて
鳥肌がたったと言っていた。


この記事を投稿してすぐに「台風12号九州を直撃するコース!!」という
ニュースが流れた。
先ほど『台風除けの祈願をしている。そのおかげは間違いなく受けている。』と
記載したばかりでペンも乾きいらない内にというタイミングだった。
さすがに上記文言を消そうかと思ったほどだ。
しかし今、台風で熊本の地を荒らされる訳にはいかない。
いわばこの台風は警告ではなく実戦なので受けるしかない。

 発生してすぐに九州直撃か?と報道された。

 9/1に996hPaだったのに9/2は975hPaに成長

  相変わらず熊本直撃の進路予想

 熊本最接近時は994hPaに縮小 風雨はほとんどなかった。

性懲りもなく次の同じ9月の台風16号も

 熊本直撃という....

なんとか南側にそれてくれて一安心 もういいでしょうよ!

さらに10月2日 日曜日にニュースを見ていたら
またもや台風18号が熊本直撃コースとのこと。
  この18号は猛烈な台風に成長するらしい。

こちらとしては全力で御神霊に台風よけ祈願をするのみだ。
なんとか今回も台風18号は北側にそれてくれて一安心する。







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空海と遣唐使船 No443

2016-08-27 10:25:24 | 神霊界考察
学生時代に京都に行き初めて東寺の塔頭の観智院の五大の庭を
見た時の感想が今でも思い出される。
「弘法大師空海が守護の海神に護られ遣唐使船に乗り無事に唐より帰還される姿」を
庭石で表現したものだ。
庭の中央が遣唐船でまわりに遣唐船を守護する龍神・神亀・シャチと
投げられた独鈷杵が配置されている。
その時にその当時の航海はよっぽど怖かったのだろうと思った。


醍醐寺の守護女神の清瀧権現の伝承によると
帰りの空海を守護した龍とは
中国青龍寺で密教の守護をしていた龍で『清龍』と呼ばれていたが
海を渡って日本に来たので龍の字に「さんずい」を加えて
日本では「清瀧権現」と敬称するようになったそうである。
空海に対して密教を守護すると誓い
三昧耶戒を受けるために京都洛西の高雄山麓に勧請されたが
現在は醍醐寺山頂に降臨しているといわれている。

この「清瀧権現」の伝承には
並列して以下の伝承がかぶっている。
824年(天長元年)淳和天皇は長引く干ばつに対して
興福寺(西寺とも)の守敏と東寺の空海に対して祈雨の修法を命じた。
守敏が1週間にわたって修法を行うも効果少なく、
次に空海が当時大内裏に南接していた神泉苑にて修法を行うが1滴の降雨もない。
調べると空海の名声を妬む守敏により国中の龍神が瓶に閉じ込められていた。
しかしただ善女龍王だけは守敏の手から逃れていたので
天竺の無熱池から呼び寄せて国中に大雨を降らせたという。
この伝承の善女龍王とは法華経・提婆達多品に現れる八大龍王神の一尊である
沙掲羅龍王(しゃかつらりゅうおう)の三女のことだ。
女身童女でありながら善女龍王が瞬時に成仏する姿に
智積菩薩・舎利弗等は大乗の世界を初めて理解するという説話である。


空海が乗船した遣唐使船は行きだけでなく
帰りにも再び波が荒れ難破しそうになり
独鈷杵を海に投げ龍神に守られて助かたという伝承が残っている。
この独鈷杵を投げたという伝承から
独鈷山の独鈷飛来伝説が生まれたと思われるが
帰りの船においては今回の渡航で手にした密教の秘密真言行(加持祈祷)を
実際に行った可能性は相当に高い。
手ぶらの行きと違い帰りには密教儀軌他『請来目録』によると
・新訳旧訳の経軌142部247巻
・梵字真言讃等42部44巻
・論疏章等32部170巻(合計、216部461巻)
及び曼荼羅・法具・絵像・恵果和尚からの付嘱物など
海で失う訳にはいかない貴重な経軌を乗せていたのだが
もしこの船が難破したら真言密教と空海の名は
歴史から消えて日本の歴史は大きく変わっていたと思う。

最澄は短期留学の研究僧である還学僧(げんがくそう)であるのに対し、
空海は長期留学(二十年)の私費留学僧であったということ。
このため806年に帰国しても留学期間の反故違反ということで、
すぐには都に入ることを許されなかった。
しかしこの持ち帰った最新の密教仏典は最澄の目に留まり
食指を伸ばされて口添えがあって京に迎え入れられた訳だ。

では空海の行きはどうだったのだろうか?
第16次遣唐使は,803年に最初出航するが
このとき空海は条件がそろわずに乗船出来ていない。
しかし、出航してすぐに船が難破したために
翌年もう一度出発することになったといういわくがあり
それで空海は間に合ったという経緯がある。

再出発の第16次遣唐使船(数え方次第では第18次)は
804年5月に出向している。

空海は留学僧として第1船に乗船し 
第2船には請益僧として最澄が乗船した。
この時には四隻中第3船と第4船は沈没している。
当時の船は平船だったらしく板子一枚の下は地獄の海。
小さな嵐でも来て水が船底に溜まりだすと
船酔いと沈没の危機で生きた心地がしないのは良くわかる。

空海ら遣唐使一行の第1船は福州に到着。
最澄の乗った遣唐使第2船は明州(寧波)に到着。

帰りの祈祷は空海が日本に招来した不動明王を主体としてもかまわない。
しかし行きの空海は嵐に遭遇し何に祈ったのだろうか?
この時は不動明王はまだ日本に招来されていない。
虚空蔵求聞持法を修した空海であれば
虚空蔵菩薩も祈願すれば救済するだろうし
捨身ヶ岳まで持ち出せば断崖絶壁の頂より白雲も迷う谷底に
身を躍らし飛び降りた7歳の空海を救ったという
百宝の蓮華に座したお釈迦様と羽衣を身に纏った天女もいる。

それでも空海のそれまでの四国での修行を考えると
平安時代の初期修験道による霊験という結論にたどり着く。
修験道は奈良時代に役小角(役行者)が創始したものである。
役小角といえば吉野の金峯山で修行中に示現した蔵王権現祭祀か、
奈良県天川村の龍泉寺に祭る龍樹菩薩から授けられた
法に基づく八大龍王神の祭祀が知られるところだ。

実際のところは分からないが
醍醐寺の守護女神の清瀧権現の伝承や鎮国寺での八大龍王神祭祀から考えて
筆者は海龍神に祈願したと考えている。
信仰者であるなら誰が考えても行きの航路で御神霊に救われた経緯があるのに
帰りを別の神霊のみに対して祈願するなどという厚顔無恥な行為は出来ない。
やはり海龍神にも祈願したはずである。

高野山別格本山 南院に空海自作と伝えられている浪切不動明王がある。
ここの「浪切不動明王縁起」によると
恵果阿闍梨より授った赤栴檀しゃくせんだんの霊木に
空海自らが一刀三礼で彫った不動明王を遣唐使船の舳先に安置して
航海祈願したとある。
この際にこの不動明王は火焔を放ち利剣を振るって
波風を切り払って舟を無事に博多の沖の津に導いたそうで
それで「浪切不動明王」と名前が付けられたそうだ。

この不動明王は京都高雄山神護寺に安置され、
その後同じ京都の上醍醐寺に移されている。
これは清瀧権現の伝承に付随する移動だ。
この像は将門の乱の時には名古屋熱田神宮に奉斎して
調伏護摩を修したそうである。

この話は朱雀天皇の勅命を受けた寛朝大僧正が
空海自らが一刀三礼で彫った不動明王を持って成田山に出向き
将門調伏祈願をした話を彷彿させる。

熱田神宮の後には後三条天皇のご意志により高野山に納められ
伽藍山王院に最初安置されたそうで
さらに維範大徳の時にこの不動明王を南院に移したとされている。
弘安4年の1281年に蒙古軍が博多の沖に来襲して来た元寇の役の時には
不動明王を博多志賀の島に安置して
まさに争いの中において護摩を修し元軍覆滅を祈ったという伝説もある。

この件に関しては筆者過去ブログにも記載しているので参照していただきたい。
『龍神信仰 2 No159』
『日本国家鎮魂の奈良の毘盧遮那仏 No401』

さて寛朝大僧正がどこから空海お手彫りの不動明王を奉じたのかというと
京の高雄山(神護寺)護摩堂といわれている。

ということはどちらが本物なのだろうと勘ぐってしまう。
今までどちらも秘仏扱いで情報が無かった。

ところが今年夏に「所さんのニッポンの出番」で
南院の秘仏となっている重要文化財の浪切不動明王がTV公開されたそうだ。
動画や写真がネット上に公開されている。
こういう公開は私のようなものにとってとても貴重な情報となる。
YouTube 元三大師の鬼大師座像 空海自作浪切不動明王


筆者は海龍神に祈願したと考えていると先に述べたが
なぜ海龍神への祈願は波切不動明王に変遷したのだろうか?
そしてさらには波切不動明王は倶利伽羅龍王となる。
「倶力伽羅竜王儀軌」には大日如来が変じて不動明王となり
不動が変じて剣となり剣にゆかりのあるサンスクリットの種子が
龍王の形となると言う説明がなされている。

宗像鎮国寺奥の院

東寺御影堂には平安時代の国宝不動明王像がある。


真言密教の護摩祈祷が不動明王の力を借りて行うものであり
先も述べたように大日如来が変じて不動明王というほどに
不動明王第一主義を貫いているので
海龍神への祈願から波切不動明王に変遷するのは良く分かる。

しかしながら火炎と水は相克の関係にある。
つじつまが合わないことも出てくる。
それでどうしても水の属性を持つ倶利伽羅龍王神は
外せない訳であろう。
 

剣にまとわりつく倶利伽羅龍王神だが
不動明王の剣にまつわりつくのではなく排他的存在となる。
奈良国立博物館の鎌倉時代作の『不動明王二童子倶利迦羅龍剣像』では
前立として倶利伽羅龍王神が描かれているが
その剣は不動明王が持つ剣ではないことが重要である。


さて前出の東寺御影堂には八幡神像が四体仮厨子に入って封印されていた。
一般には810年の薬子の変で嵯峨天皇に味方し
空海が八幡神に加持祈祷してこの薬子の変を鎮めたことから
823年に未完成ながら東寺を下賜されたという由緒となっている。
それ以降国家鎮言祭祀として八幡神を祭っているらしい。
この八万神座像は空海のお手彫りとなっていて
八幡神・神功皇后・比売大神・武内宿禰公の四体で
なぜか伝武内宿禰公だけが上半身裸となっている。
両手の形から笏を持つ姿と思われるが
この像には実際の衣装を着せていたものと思われる。
明らかに三体とは別製作に思われるがいかであろうか?
何かこの像だけ特別な祭祀用として作られているように思える。
それが何かを近いうちに考察したい。

    


ブログコメントでさくら様から
武内宿禰像の手は東寺の大日如来の印と似ているというコメントがあった。
調べてみると確かに笏を持つ手で
両手が離れているものは見つける事が出来なかった。
筆者がイメージしていたものは
法隆寺 聖徳太子座像だっあのだが

他を探してみると皆両手をそろえて笏を持っている。
武内宿禰像の手が笏を持つ姿とは限らないということだ。


後記
このブログを書きだしたときには
空海が呉音霊にどう対処したのかのヒントが
得られると思っていたのだが
残念ながらいまのところ何も感応がない。
現在鎮守八幡堂に祭祀される上記の八幡神像は
東寺御影堂不動明王像安置の間に厳重に封印されて
長い間置かれていたものだ。
昭和32年9月のことだが厨子の封印は解かれた。
天皇の名による勅封であったので
宮内庁の手により開けられたそうだ。
八幡神といえば呉音霊と相関があるので
空海が八幡神を特別に祭祀していたとなれば
当然ながら呉音霊の存在にも気づいたはずである。
付け足されたような伝竹内宿禰像は
何を意味するものなのだろうか?
一般論的八幡神にまつわる武内宿禰公であれば
応神天皇を保護する老体であるべきである。
この像は若くて線が細くそして凛々しい。
まるで聖徳太子青年像のような姿だ。
この像を見た瞬間に呉音霊が遠のいてしまった。
空海が呉音霊にどう対処したのかのヒントは
どうももう少しお預けのようだ。








禮月様紹介のプタハ神 化身はアピス牛だという

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続 香春の呉音霊の足跡は国東半島の姫島から何処へ No442

2016-08-09 12:32:23 | 神霊界考察
この記事を初めて読まれる方は呉音霊 呉音神について
それがどういう神なのかを理解するのは困難だろうと思う。
かといってこのブログを読んでいってもそれは
句呉太伯とか姫氏とか陳大王の娘の大比留女とか辛国息長大姫大目命とか
香春神とか都怒我阿羅斯等神とか天日槍とか天忍穂耳神とか呉氏骨神とか王子晋とか
地主山王元弼真君とか桐柏真人王君とか白山姫大神とか
盤古大神とか国常立神とか炎帝神農氏とか兵主神とか蚩尤神とか鍛冶翁とか
九千坊河童とかアジチ姫とかアカル姫とか姫語曽神とかに繋がっていて却って分からなくなる。

それは縄文時代に中国の江南地方から倭国に降臨して
この国に大変革をもたらした御神霊だから一筋縄ではいかないということだ。

前回『香春の呉音霊の足跡は国東半島の姫島から何処へ No434』
九州から出立している処まで記載しているのでその続編を記載したい。

香春神社の有史時代の祭祀は鶴賀氏と赤染氏で祭祀されているが
鶴賀氏の祭祀は敦賀に残る。
赤染氏については同じ系列に姓を賜わった常世連がいるが
祭祀する神社に常世岐姫神社(とこよきひめじんじゃ)という神社がある。
日本の『新撰姓氏録』では、帰化人系の氏族の一つである常世氏(もと赤染氏)は、
燕王公孫淵の子孫だと称している。
常世岐姫神社は大阪府八尾市神宮寺にある神社が本宮とされる。
googlemapで常世岐姫神社を検索すると埼玉県の行田市の神社がヒットする。
yahoomapでは大阪府八尾市神宮寺五丁目173番と
埼玉県深谷市樫合646番2の2社がヒットする。
常世岐姫神社の検索では燕王公孫淵を祖と称する常世氏が信奉する神を祀る神社であり、
日本全国に数社あるそうだ。
常世岐姫神とはどういう神霊かという疑問がある。
常世連の岐姫神ということになるが、
この岐姫神が意味するのは
私には常世連は中国魏国の姫氏を出自とすると暗示しているように思える。
魏の始祖は畢公高で父は周の文王なので姫姓なのだが
先に赤染氏や常世連は燕王公孫淵の子孫という伝承があると述べたが、
公孫淵は遼東の地で自立し燕王と称したが
魏の司馬懿によって追討され滅んだとある。
常世連は燕王公孫淵の子孫であれば
敵である中国魏国の姫氏を出自と表明する筈が無いように思える。

中国戦国末期以降、姓と氏は同一化されて姫姓は消えていくのだが
赤染氏常世連は公孫氏で姫姓なのだろうか?

春秋時代の鄭に仕えた政治家で子産は
姓は姫、氏は国、諱は僑、字は子産で「公孫僑」とも呼ばれることから
公孫には姫姓も存在している。
鄭国は現在の河南省あたりで黄河の南で
先史文化でいえば裴李崗文化や仰韶文化となる。

もし赤染氏が燕王公孫淵の子孫であれば間違いなく朝鮮経由の帰化人となる。

このブログでは呉音霊祭祀者は長江から船で九州に渡来し香春で繁栄した後に
朝鮮に進出し一部の人が朝鮮から再び日本に戻ったという説を取っている。
そして長江から船で九州に渡来した時代は春秋時代で縄文末期と考えている。
燕王公孫淵を祖とする話は中国三国時代の武将なので時代が合わない。
公孫僑であれば紀元前522年に死去しているのでつじつまが合う。

赤染氏は先史時代の中国からの渡来人なのか有史時代の朝鮮からの渡来人なのかで
春秋時代の呉音霊の左回りに添う話か
三国時代の右回りに逆流している話なのか大きく展開が変わる。

赤染氏が呉系であれば呉服くれはどりの茜の赤染ということで
違和感が無い。
もともと染色の基本色は藍色であり
『荀子』勧学篇に「青は藍より出でて藍より青し」という
有名な言葉を記している。
染料の藍玉はどす黒い藍色なのだが
シルクが染まるときれいな青色になることに由来する。
赤色の染色は呉藍と呼ばれやはり基本色の藍の文字が用いられている。
これは呉藍が示す通り呉よりもたらされた赤染色と考えられている。
この呉藍の読みの「くれあい」から紅=「くれない」に変化している。
染色材料は紅花である。



さて根拠が無い空想論的話が続くが
この赤染氏にも日向の封印がされている。
赤染徳足は672年の壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)側の
高市皇子に従って都を脱したとある。
ここでも身狭の生霊の話と同じく大海人皇子側だ。
そして赤染徳足は赤染日向の子とされる。
大海人皇子(天武天皇)に従った人物として
他には物部日向などもあげられるがこれも日向の封印であろう。

藤原不比等にはじまり現代まで続くある勢力は
朝鮮からの右回りの流れを強めるために
左回り伝承の封印に躍起になっているようだ。



注:赤染氏の常世連との繋がりは『続日本紀』にて確認できる。
『続日本紀』天平19年(747)八月
「正六位上赤染造広足、赤染高麻呂ら九人に常世連の姓を賜ふ」
同、天平勝宝2年(750)九月
「正六位上赤染造広足、赤染高麻呂ら二十四人に常世連の姓を賜ふ」
同、宝亀8年(777)四月
「右京の人従六位赤染国持ら四人、河内大県郡の人赤染人足ら十三人、
遠江国蓁原郡の人従八位下赤染長浜、
因幡国八上郡の人外従六位赤染帯縄ら十九人に常世連の姓を賜ふ」


後記:昨日赤染氏の染色について呉藍の項目を追記していて
ふとTVをつけたら浅見光彦シリーズ「姫島殺人事件」を再放送していた。


何かヒントがあるかもしれないと思って観たのだが
ドラマの中では姫島に造船所があることが気になった。
このドラマの中で大阪の姫島神社が出てくるのだけど
大阪の神社関係を添付しておく。

姫嶋神社 大阪市西淀川区姫島4-14-2
祭神 阿迦留姫命、住吉大神

比売許曽神社 大阪府東成区東小橋3-8-14
祭神 下照比売命

赤留比売命神社 大阪市平野区平野東2-10
祭神 赤留比賣命

しかし浅見光彦シリーズで検索したら
なぜか最初に目に留まったのが藍色という文字だった。
もう少し霊的情報は直接的に訴えかけていただきたいものだが
もしかして今訴えかけている呉系神霊は
日本語が出来ないのだろうか?





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蘇我日向は貶められた名前なのか? No441

2016-08-04 12:09:01 | 神霊界考察
おととい夢の中である霊に
『蘇我日向は貶められた偽りの名前』と伝えられたのだが
問題は蘇我日向が実際に伝えられているような讒言をしたから
後世貶められた名前となったのか
藤原氏の策略でいわれなき貶めをされたのかの
白黒の判断が完全には出来ていない。
感応ではなく夢であるからさらにその内容の信憑性も低い。

従って判断出来次第このブログの文章は
判断に沿って書き直す予定である。

夢の翌日に見た知人からの自分宛メールの添付地図の示す場所が
なんと御船町上野の大字日向だったのも興味深い。
偶然ではあるまい。かなり急かされているようだ。


場所を調べてみると日向はヒムキと呼ぶことが分かった。
これは御船町の役場でも確認した。

実は日向=ヒムキという地名は
『弓梓弓と水の女神 断片集⑦ No178』でも違う場所で出てくる。


この二か所の日向は「ひゅうが」や「ひむか」ではなく「ひむき」となっている。
呉音霊について知るまでは「ひむき」にはピンとこなかったが
今はそれが指し示すものが分かる気がする。
この『ひむき』とよばれる地域は忘れ去られた特別な聖地である。



『司馬遷の史記 伍子胥列伝』
良く知られた話で時代は中国春秋時代である。
日本人もよく言う「死者にムチ打つ」という語源となっている話だ。
この中の登場人物で
楚の平王に取り入りその平王の息子の太子建との間を讒言で割き
太子建に嫁ぐはずだった姫を平王に差し出すという荒業を使い
最終的に自分の身の保全の為に
太子建の養育係の伍奢と伍尚の父子に
無実の罪を着せて処刑したとんでもない人物がいる。
逃げおおせた次男の伍子胥に復讐劇をさせることになった
国家転覆の諸悪の根源となった人物だ。
その人物とはまさに讒言王とも呼べる楚人の費無忌=ヒムキで
平王に仕えた奸臣として有名だ。
日本に渡来した呉系楚人であれば
誰であってもヒムキを憎むのは理解できる。

さて蘇我日向の所業についてだが
日本書紀では身狭臣(ムサノオミ)として記載されている。
中大兄皇子に嫁ぐはずだった蘇我倉山田石川麻呂の長女を
石川麻呂の異母弟の身狭臣(蘇我日向)が奪ったとされる。
さらには石川麻呂が謀反を起こそうとしていると密告し
長男の興志ら妻子と共に山田寺で自害する結果を引き起こしている。

蘇我倉山田石川麻呂は
皇極天皇4年(645年)の乙巳の変で
中大兄皇子が中臣鎌足と共謀して蘇我入鹿の誅殺をはかったとされるが、
蘇我入鹿を裏切った人物がさらに身狭臣=蘇我日向に娘を奪われた上に
讒言により自殺に追い込まれる。

蘇我日向という名前はあとで付けられていて
身狭臣の字は身狭もしくは身刺か武蔵とされるが
もともと蘇我氏なのかさえ怪しい。

壬申の乱で大海人皇子軍が金綱井で戦った時、
高市県主許梅に身狭社(むさ)の生霊神が神がかり
勝利に導いたという話がある。
この神とは牟佐村主青が祭祀していた呉由来の神であるという。
つまり中大兄皇子に身狭社(むさ)の生霊神は敵対している。
牟佐村主青は兵法書『孫子』の作者の孫武の後胤である。
孫武は紀元前517年頃、一族内で内紛があり、
一家を連れ江南の呉国へと逃れ、
前出の呉の宰相になっていた費無忌=ヒムキを特別に憎む
伍子胥の知遇を得ている。

上記理由により蘇我日向はヒムキ=費無忌の讒言伝承に沿って
日本書紀の伝承がその話にそっくりに作り変えられているのは
間違いが無かろうと思われる。
たぶんに藤原氏の策略でいわれなき貶めをされた可能性が高い。

そういえば同じく『史記 秦始皇本紀』の故事に
「鹿をさして馬となす」というものがある。
趙高が宮中に「珍しい馬がおります」と鹿を連れてきた。
趙高の権勢を恐れる者は馬と言い、屈しない者は鹿と言った。
後日、鹿だと答えた官吏は軒並み捕らえらて処刑されたという話だ。

蘇我馬子・入鹿の名前に隠された秘密は
とぼけないと殺されるという事を暗示していると思える。

日本書紀にて身狭臣(ムサノオミ)と記載された人物と
日向をつなぎ蘇我日向=身狭臣とした資料の初出ははっきりしない。
日本書紀では身狭臣部分は 被偸於族。族謂身狹臣也。
族とは身内の意があるが蘇我身狭臣となるかは疑問。
同様に日向臣部分も蘇我日向臣なのか確証は無い。
まして身狭臣=日向臣と直結するのは早計だと思える。
※この件は勘違いでした 20160817

鎌倉時代初期の『二中歴』の「都督歴」の冒頭には以下文言がある。
「今案、孝徳天皇大化五年三月、帥蘇我臣日向、任筑紫本宮、
自爾以降、至于大貳國風以前藤原元名、總百四人也、具不(所)記之」
この『二中歴』という書籍は辞典であり
平安時代後期に成立した「掌中歴」と「懐中歴」の内容を
あわせて編集したものということだ。
現在『二中歴』の「都督歴」部分の参考部分は消失しているものと思われる。
ここで初めて蘇我臣日向が出てくる。


また蘇我日向の業績として「甲寅年」(白雉5年・654年)に
孝徳天皇の病気平癒に祈願し建立したのが般若寺であると
『上宮聖徳法王帝説』にあるが
『上宮聖徳法王帝説』は作者、成立年代ともに不詳となっている。

日本書紀にて身狭臣(ムサノオミ)と記載された人物と
蘇我日向をつなぐ一次資料は現存しない可能性が高い。
※この件は勘違いでした 20160817

話はとぶが前出の伍子胥についてだが讒言により君主に二度も裏切られている。
一度目は楚の平王でこちらは楚国を潰し死者に鞭打つって仕返しをした。
二度目は自分が手塩にかけて育てた姫姓呉王夫差だ。
こちらは目の上のタンコブの伍子胥を自決させる。
この時に激情の人伍子胥は、
「自分の墓の上に梓の木を植えよ、それを以って夫差の棺桶が作れるように。
自分の目をくりぬいて東南の城門の上に置け。
越が呉を滅ぼすのを見られるように」と呪いの言葉を言い残している。
結果はその通り凡王の夫差では国家経営がままならず呉は越に滅ぼされてしまう。
夫差は顔に布を覆って
「私は伍子胥に合わせる顔がない」と言い残して自決してしまい呉は消滅する。
ちなみに夫差の墓は湖北省江陵県馬山5号墓の可能性が高く
1983年11月にこの墓から青銅製の呉王夫差矛が見つかっている。

呉音霊を表わすシンボリックな数字は五であるが
それと同じ韻の伍には何か深い霊的作用を感じざる得ない。
呉音霊の文化発展は憎しみを元にしているのが興味深い。
その作用を鎮めるのは和ということになろうか。
つまりは五を伍に為すという事。
伍とは交わり 組 仲間の意味であるが
滅亡した伍一族は残念ながらそれには反していたと思える。


参考:日本書紀 身狭臣部分
曲從所議。中臣鎌子連、卽自往媒要訖。而長女、所期之夜、被偸於族。族謂身狹臣也。
由是、倉山田臣憂惶、仰臥不知所爲。少女怪父憂色、就而問曰、憂悔何也。父陳其由。
少女曰、願勿爲憂。以我奉進、亦復不晩。父便大悅、遂進其女。奉以赤心、更無所忌。
中臣鎌子連、舉佐伯連子麻呂・葛城稚犬養連網田於中大兄曰、云々。

参考:日本書紀 日向臣部分
是月、遣使者收山田大臣資財。資財之中、於好書上題皇太子書、於重寶上題皇太子物。
使者還申所收之狀、皇太子始知大臣心猶貞淨、追生悔恥、哀歎難休。
卽拜日向臣於筑紫大宰帥。世人相謂之曰、是隱流乎。
皇太子妃蘇我造媛、聞父大臣爲鹽所斬、傷心痛惋、惡聞鹽名。
所以、近侍於造媛者、諱稱鹽名改曰堅鹽。造媛、遂因傷心而致死焉。
皇太子聞造媛徂逝、愴然傷怛、哀泣極甚。於是、野中川原史滿、進而奉歌。歌曰、

耶麻鵝播爾 烏志賦拕都威底 陀虞毗預倶 陀虞陛屢伊慕乎 多例柯威爾雞武 其一
模騰渠等爾 婆那播左該騰摸 那爾騰柯母 于都倶之伊母我 磨陀左枳涅渠農 其二

皇太子、慨然頽歎、褒美曰、善矣悲矣。乃授御琴而使唱。賜絹四匹・布廿端・綿二褁。

日本書紀 蘇我大臣日向と身狭臣を繋ぐ部分 ※追記20160817
三月乙巳朔辛酉、阿倍大臣薨。天皇幸朱雀門、舉哀而慟。皇祖母尊・皇太子等及諸公卿、悉隨哀哭。
戊辰、蘇我臣日向日向字身刺譖倉山田大臣於皇太子曰。
僕之異母兄麻呂、伺皇太子遊於海濱而將害之、將反其不久

参考:上宮聖徳法王帝説の蘇我日向記載部分抜粋
クリックして拡大して読んでいただきたい。



ところで記紀の神武天皇の東征部分において重要な九州の日向部分について
現在は「ひゅうが」と発音する。
これがどのように記載されているかと言うと

古事記 中卷
猶思東行 即自日向發幸御筑紫 故到豐國宇沙之時

日本書紀
天降於日向襲之高千穗峯矣
至筑紫日向小戸橘之檍原而秡除焉
長而娶日向國吾田邑吾平津媛
則對曰「於日向國橘小門之水底所居而水葉稚之出居神、名表筒男・中筒男・底筒男神之有也。」

これだけでは発音は分からないが
同じく日本書紀に「宇摩奈羅麼、譬武伽能古摩」とある。
馬ならば日向の駒という意味だが発音は日向=「ひむか」もしくは「ひむが」
気になるのはヒムカがヒュウガに転訛するかということだ。




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