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吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流

FC2BBSから移動しようと目論んでいます。
http://reyline.web.fc2.com/index.htm

追記 咤枳尼天の日本仏教への影響  No390

2014-12-05 23:09:27 | 神霊界考察
咤枳尼天について
『寒巌義尹(かんがんぎいん) の感応  No387』
『咤枳尼天の日本仏教への影響  No388』
二つの記事を書いてきたが
咤枳尼天については『寒巌義尹(かんがんぎいん) の感応 No387』
野生動物ジャッカルの神聖化されたものと記載しているが、
ジャッカルの図柄といえば天川弁財天曼荼羅図が思い出される。



左右の蛇は首に五十鈴を付けられており
まるで鵜飼の鵜のような蛇を従えるジャッカルが
中心となる天川弁財天曼荼羅図であるが
この信仰では弁財天の本当の姿はジャッカル=咤枳尼天ということになる。




追記
品様から以下のような質問があったので少し内容を補足したい。

『教えて下さい。ジャッカル=白蛇という事でしょうか?
それとも、ごく限られた弁財天社のみジャッカルなのでしょうか?』

ジャッカル⇒咤枳尼天ということは記載した通りだが
ジャッカル⇒咤枳尼天=蛇 あるいは咤枳尼天と蛇が
三位一体の関係にあるのかについては
十分な検証が必要だと思われる。
さらに天河以外の弁財天社で咤枳尼天=弁財天とされた例があるのかだ。
まずジャッカルという動物が日本や中国にいない以上
ジャッカルが狐に模されたことはなるほどと思える。
最上位経王大菩薩や荼枳尼天がまたがる動物が
ジャッカルでなく狐になっていることも仕方ないものであろう。

さて蛇についてであるが
これは縄文信仰や出雲の神の信仰に繋がるのだが
この蛇信仰は日本人だけでなく人類の深層心理に刻み込まれたものである。
この蛇神を邪神として怖れ封じようとすることは
新しく生み出された信仰形態においては必須とされてきたように感じる。

日本においては例えば出雲において
今なお龍蛇神として深く信仰されているが、
日本神道の主祭神として龍蛇神が祀られることは表立っては無くなっている。

下の写真は伏見稲荷神社の靈符である。


伏見稲荷で狛犬の代わりの狐が
銜えているものは鍵や稲穂や験(しるし)の杉であるが
この写真では俵の上に乗る蛇が銜えていている。
三個の宝珠は三位一体の霊徳の象徴であり
この秘密を本当に守っているのは蛇神であることを
この靈符は伝えている。
簾 ( すだれ ) があるのは一般人はそのことを知る必要がないということだ。
※米俵の上の蛇は宇賀神とされる。

次の写真は空海に由来する第12番札所 摩廬山 正寿院 焼山寺の
三面大黒天の靈符である。


大黒天 毘沙門天 弁財天?が三位一体となり
その頭には霊徳の象徴である宝珠を乗せている。
しかし俵の上に乗るのは三天であり蛇ではない。
蛇はというと俵の下にいて俵に抑えつけられている。
この焼山寺の伝承では空海が虚空蔵菩薩の力を借りて
大蛇を岩窟に封じ込めたという事であるが
これは蛇神が守る宝珠を真言密教が奪い取ったという事を意味する。
※稲荷神社の白狐信仰は真言密教由来という話もある。

さて縄文信仰や出雲の信仰では龍蛇神は祀られているが
動物神は祀られていないようである。

ジャッカル⇒咤枳尼天
蛇⇒宇賀神⇒弁財天
という習合の流れは確かにあり
咤枳尼天=弁財天という錯誤も天河であるのだが
ジャッカルと蛇とは別の存在であり
例えばジャッカル⇒狐と蛇の間で
狐=蛇とするような錯誤の例は知らない。

結論としては天川弁財天曼荼羅図が示すように
咤枳尼天はどこにでも紛れ込むということである。


追記2
さらに品様から以下のような情報が寄せられたので本文中で紹介しておく。
『伏見稲荷霊符なのですが、とても面白い高察がございます。
草野俊子様の著作の「古代からの暗号」の中で
霊符の下部右側の黒い狐の実の姿が鼠ではないかと記されています。
黒い狐の手足の形象を、よくよく拝見すると狐のそれと違うとの事。』


この草野俊子女史の考察は以下の点にある。

①稲荷社の祭神=宇迦之御魂大神=穀霊=蛇=宇賀耶=宇賀神=大國主命
②出雲の大國主命にまで繋がる理由として杉と蛇の組み合わせの例が
大國主命を祀る大神神社にあるとしている。
また白鳥は新羅との関係を
白い餅とは杵でつく餅であることより杵築大社を現している。

③鼠については大黒天の絵像には
頭巾をかぶり左肩に大袋を背負い右手に小槌を持ち米俵を踏まえた大黒天と
その傍らに鼠が描かれる。
また『古事記』には大國主命が須佐之男命の射た鏑矢を探しに行った野で
火を放たれる試練にあうがその時に鼠が助けてくれるという話がある。
大國主命は根の國を訪問するが
根の国の根は十二支の子=鼠を暗示している。

④秦氏が伏見の稲荷社で祀ったのは滅ぼされた出雲の宇賀神こと大國主命
であり幽界=根の国への入口である出雲の宇賀に祀られているからこそ
宇迦之御魂神ともされた。

⑤狐は木つ根であり古今伝授の三木三鳥の三木を指していると考えられる。

さて黒い狐が鼠の暗示なのかは
それぞれの読者の判断にゆだねるが
宇迦之御魂大神と豊受大神と宇賀神とのつながりは
古来から複数の方の指摘する通り無視できないものがあることは
事実である。
ただ秦氏創建の伏見稲荷が創建時より秦氏由来で
出雲神とつながりがあるかについては、疑問を投げかけたい。

私のブログの『初期のコメント集』を魚拓しているが
そこの 「80 龍蛇神について追記 吉田一氣 - 2008/02/11 16:55 」 で以下のように考察している。

『伏見稲荷の場所はもともとは藤森神社があり
藤森神社は紀氏・賀茂氏が祭祀していたと思われます。
賀茂氏は出雲の風土記では意宇郡舎人郷 賀茂神戸と記載され
島根県安来市には賀茂神社もあるなど
葛城の前に出雲を本貫としたのではないかとも云われています。
葛城一言主神と出雲の事代主命の混同も
出雲に縁がある賀茂氏が葛城に住んだからだと思われます。
その後に賀茂氏は京都にも進出して来たのだろうと思います。
ところで出雲では神在祭にてまず最初に稲佐の浜に上がったセグロウミヘビを
龍蛇神としてお迎えすることから始まります。
出雲大社の分霊を祀る「常陸国 出雲大社」では
祭神に大国主命だけでなく龍蛇神も祭っているようです。』

つまり秦氏が祀った宇迦之御魂大神と大國主命は直接関係が無いのだが
奪い取った伏見稲荷のもともとの祭神が龍蛇神であり
その由来は紀氏・賀茂氏が祭祀した藤森神社にあり
霊的感応者は伏見稲荷でどうしても出雲神である龍蛇神に感応してしまうことにある。
これは私自身の伏見稲荷での体験にも重なっている。

また賀茂氏=秦氏説もあるのだが
これについての考察は別項でしたいと思う。
ただ賀茂氏と三輪山の祭祀には大いなるつながりがある。
大物主命の後裔といわれ三輪山祭祀をするために呼ばれた
太田田根子の子の大鴨積命が大鴨=賀茂と繋がり
これを祖とする地祇系の賀茂氏の系統が存続しているからである。


※伏見稲荷 藤森神社 城南宮 真幡寸神社の関係については
神功皇后の三韓征伐の際に船上に立てられた三光紋の軍旗を
最初に現在の伏見稲荷の有る稲荷山の三つの峯に奉斎したという伝承もあるので
三光紋の調査記として別途記載したい。









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神は奇跡を起こさない さりとて何もない訳では無い  No389

2014-12-05 08:34:42 | 神霊界考察
昨日はあいにくの雨だった。
阿蘇の神業からの帰りに熊本の迎町のマンション用の敷地で
作業をしなければならなかったのだが
車の中には傘が無くてホームセンターで傘を買おうと考えていた。
しかし時計を見たら時間に余裕が無かった。
それで最後の頼みので
龍神に雨を止めることは出来ないかを祈願してみた。
その時になかなか面白い写真が撮れたので添付しておく。
最初の写真からの時間は2分程度のことだ。


   

  




ちなみに阿蘇の神業は3回に渡ったが
昨日は火山の噴火もずいぶんと穏やかになっていたように思う。
残念ながら一回目は写真を取る状況になかった。

阿蘇3回目

 阿蘇2回目

































ulalaさまコメントに対する写真の検証

質問
阿蘇での神業二回目の最初の画像、左側のまあるい光は何でしょう?

コントラスト調整画像

方位的には南西方向です。
どうも太陽そのものを映しこんだように思えます。
この写真を見ていて丸いものの下に気になるものを見つけました。


太陽の旭光のようですがなんとなく不思議な感じがします。






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咤枳尼天の日本仏教への影響  No388

2014-11-23 15:46:48 | 神霊界考察
咤枳尼天は天がつくので「天部」の神格といえようが
もともとのインドのヒンドゥー教の女鬼としては「夜叉」の神格とも言えよう。
たぶん寒巌義尹が咤枳尼真天とわざわざ『真』と付加したのは
「夜叉」の神格を切り離したかったからではなかろうか。
この神格の格付けは8つの種族のことで天龍八部衆と呼ばれる。
天 龍 夜叉 乾闥婆 阿修羅 迦楼羅 緊那羅 摩睺羅伽である。
仏法上の信仰のもとで眷属神にどうしても願う場合は
それぞれの特徴を押さえておくべきである。
妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五は
皆に周知の『観音経』と呼ばれるもので
法華経の功徳のなかで観世音菩薩の全能の救済を伝えるお経なので
唱える方も多いと思うが、
ここには観世音菩薩が仏身・僧侶・修行僧・梵王・帝釈天
自在天・大自在天・天大将軍・毘沙門天・小王
長者・居士・宰官・婆羅門・婦女・童男童女
天・龍・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦樓羅・緊那羅・摩睺羅伽・執金剛神
人等になって衆生を救うとある。
観世音菩薩が変わり身になってでも救済するとは記載されているものの
実際のところ働くのは眷属神たる天龍八部衆である。
それ故に毘沙門天信仰や帝釈天信仰などの天部信仰や
八大龍王神などの龍信仰
鬼子母神・咤枳尼天などの夜叉信仰が今に続いている。

これらの信仰は御利益が大きいのだがあくまで
観世音菩薩に帰依してからの信仰であると言えよう。

この『観音経』とは方便としては便利なもので
親鸞が女犯の思いにさいなまされたときに
六角堂百日参篭で聖徳太子の夢告を受けたとされる『親鸞夢記』の
喝文では

『行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽』

「そなたがこれまでの因縁によって、たとえ女犯があっても、
観世音菩薩が玉女という女の姿となって、肉体の交わりを受けよう。
あなたの一生を荘厳に飾り、臨終には観世音菩薩が極楽に導こう。」
これは観世音菩薩の誓願であるからすべての人に
説き聞かせなさいという観世音菩薩との交わりと夢告を受けた
という話に繋がる。

実は修行僧の性欲を夢の中で満たす話は多いのだが
これには実際は観世音菩薩に従う咤枳尼天が関わっていると思われる。

女犯に関しては、日本人は寛容であったようで
例えば『今昔物語集』に「慶阿闍梨還俗して、高向公輔と為れる話」がある。
ある時、慈覚大師の弟子の湛慶阿闍梨が、
夢の中で不動尊から
「前世の因縁により汝は某国某郡の誰某の娘と通じて夫婦になる」
とのお告げを受けた。
湛慶は不犯の戒律を破ることを防ぐために
なんとも愚かなことに
10歳ほどのその女性を捜し当て彼女の首を切って京に逃げ帰る。
のちに、病気の祈祷のために忠仁公(藤原良房)の屋敷に参上した際、
湛慶はその家の女房と密通してしまう。
女房の首には大きな傷跡があり、
果たして以前殺そうとした少女その人であった。
湛慶は因縁の深さに心を打たれ、還俗してその女房と夫婦になったという。
還俗後は高向公輔として従四位下・讃岐権守にまで出世する。 
めでたし めでたし 

この寛容さの中に咤枳尼天の修法が入り込む要素があったと思われる。
しかしどこかで観世音菩薩に対する信仰が抜け落ちている。

浄土思想というものがあるが
西方にある極楽浄土という仏国土は阿弥陀如来が作り出したものである。
東方の瑠璃光浄土は薬師如来である。
他に大日如来は密厳国土 毘盧舎那如来は蓮華蔵浄土
阿閦如来は東方妙喜浄土 釈迦如来は霊鷲山の霊山浄土
弥勒菩薩は兜率天で観音菩薩は補陀落山とされている。
観世音菩薩の補陀落山を希う信仰は補陀落渡海として今に知られる。
『親鸞夢記』の喝文の臨終引導生極楽は
本来は臨終引導生補陀落であるべきと思われる。
親鸞は法然のもとに入門してから阿弥陀如来に帰依したと思われるので
浄土真宗成立後に着色され臨終引導生極楽となったのであろう。
親鸞の肉食妻帯の言い訳に『観音経』が利用されたとも言える。
ここにはっきりと聖道門と浄土門の道が分かれる訳だが
これに関与したのは阿弥陀如来でも観世音菩薩でもなく
玉女たる咤枳尼天だったということになる。



少し話が飛ぶが歓喜天=聖天はよく秘仏として祀られているが
天部に分類されている。
もともとはインドのヒンズー教のガナパティ=ガネーシャが
仏教に取り込まれたものだ。
平安時代に台密を大成した安然の著作と言われる四部毘那夜迦法によれば
毘那夜迦(後の歓喜天)はもともと障碍(障礙)の神で疫病を流行らせていた。
それで観音菩薩が暴神だった毘那夜迦を調伏に来た。
観音菩薩は美女の姿に化身して毘那夜迦の前に姿を現した。
毘那夜迦はこの美女を抱きたいと欲したが、
美女は私の教えに従って仏教を守護するように求めた。
毘那夜迦はこの美女の要求を承諾し、
そして美女を抱いて交わると深い歓喜を得た。
これにより毘那夜迦は仏法に信奉し、併せて仏教の護法神となった。
こういう話がある。
この歓喜天=聖天の修法は厳格な決まりがあり
例えば一度浴油を行うと祭祀を定期的に行わなければならず
放棄することが出来ない。
なんとなく咤枳尼天の修法を思い起こさせる。
それはなぜなのか?
ここまで読まれた方は察していただきたい。





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寒巌義尹(かんがんぎいん) の感応  No387

2014-11-02 23:19:54 | 神霊界考察
荼枳尼天(だきにてん)については
インドのヒンドゥー教の女鬼に由来している。
血と殺戮を好む戦いの女神カーリーの眷属とされ、
カーリーに付き従って屍林をさまよい敵を殺しその血肉を食らう女鬼とされる。
インドに古くから伝わる宗教の聖典であるタントラには
ダーキニーとの性交を瞑想する性的なヨーガがある。

このダーキニーは野生動物ジャッカルの神聖化されたものとか
野干(やかん)であるとか言われている。
野干について調べてみると
この動物は元々インドにおいてジャッカルを指していたが、
中国にはそれが生息していなかったため、狐や貂、豺との混同がみられ、
日本においては主に狐そのものを指すようになると記載されているものを見つけた。
どちらにせよもとはジャッカルのことのようだ。


ジャッカルは死肉を漁るのでエジプト神話においても
冥界の神のアヌビスはジャッカルの頭部で表わされている。


空海が持ち込んだ真言密教にも荼枳尼は胎蔵曼荼羅に載っているらしい。
荼枳尼天の修法についても空海が関与したという話があるが
牽強付会の類のようである。
鎌倉時代に成立した真言立川流では空海が将来した理趣経に通じて
これを根本とし荼枳尼天を拝している。

しかしこの真言立川流の荼枳尼天の修法は後に淫祀邪教とされた。
理趣経は純粋な教義であるが
真言立川流の荼枳尼天の修法は性愛の実践により即身成仏するというものであり
その生臭さが嫌われたのである。

また上杉謙信、武田信玄など中世の武将たちの間で盛んに信仰された
山岳信仰をもとに造り出された飯縄権現信仰に至っては
不動明王 九頭龍 烏天狗 蛇 狐 管狐とてんこ盛りになっていた。 

ただ荼枳尼天の信仰そのものは日本においては
秦氏由来の稲荷眷属のお狐信仰などとも重なり合って現代にまで続いている。
この荼枳尼天はこれまで述べたように野生動物ジャッカルに繋がるとしても
鬼子母神などと同じく女性像の人型でありジャッカルそのものではない。

しかしながら純粋な理趣経 宇迦之魂稲荷神 経王大菩薩 不動明王 荼枳尼天への崇敬が
いつの間にか狐を主とした眷属獣信仰にすり替わってしまって
現代に続いているところにこの眷属獣信仰の根の深さがある。

その根を辿っていくと二つの流れに行きつく。
その一つが安倍 晴明の活躍以降の陰陽道であり
それは例えば『簠簋内伝金烏玉兎集』に集約されている。
この書物は牛頭天王の縁起が記載されており
祇園祭に大きな影響を与えたりしているが
この書に荼枳尼天の修法が記載されているという。
いつ成立したのかははっきりとしないが
真言立川流成立と同時代でありお互いに影響しあっているように思える。
安倍晴明は生誕が921年で死没が1005年で平安時代の人だ。

もう一つの流れが曹洞宗 寒巌派の派祖である寒巌義尹禅師(1217‐1300)の
荼枳尼天感応による広がりだ。
実は先月知人を熊本市の大慈禅寺に連れて行ったのだが
この大慈禅寺の開山の寒巌義尹禅師が荼枳尼天感応してその像を彫った由来を知った。
なんと豊川稲荷の豊川荼枳尼真天像はもともと大慈禅寺にあったものだそうだ。
寒巌義尹禅師は2度入宋しているのだが
その中国からの帰路に2回とも暴風雨に遭ったという。
そのとき救ってくれたのが狐に乗った荼枳尼天だったそうだ。
寒巌義尹禅師は道元禅師の直弟子であるだけでなく
後鳥羽上皇の皇子であり  ※順徳天皇の皇子説もあり
亀山法皇も寒巌に紫衣を送り、大慈禅寺を勅願道場としている。
曹洞宗中興の祖である瑩山紹瑾禅師もわざわざ会いに
熊本の大慈禅寺訪ねられるほどの高僧である。
この寒巌義尹禅師が荼枳尼眞天を護法の善神として崇めたのだ。
荼枳尼天は寒巌義尹禅師を助くるにあたりこう述べたという。
「われはこれ咤枳尼真天なり、今より将に師の法を護するにこの神咒を以てし、
又師の教化に帰服する者を守りて
常に安穏快楽ならしめん必ず疑うこと勿れ」


さて安倍晴明の伝説には尾ひれが付いて真実が見極めにくい。
安倍晴明に直接は関わりないが安倍晴明の蘇生伝承による
ゆかりの寺に真正極楽寺真如堂がある。
『真如堂縁起』によると本堂のご本尊の向かって左側に安置された
不動明王は晴明の念持仏であったそうで
晴明が他界の時にこの不動明王が閻魔王宮に行って嘆願して
安倍晴明を蘇生させたという伝承を持つ。
この真如堂に今回話題にする殺生石鎌倉地蔵が祀られている。
この殺生石というのは白面金毛九尾の狐の成れの果てである
この金毛九尾については大本の出口王仁三郎師の『霊界物語』や
岡本天命の『日月神示』に示されるけた違いの悪狐であるが
八岐大蛇を操る後ろの存在であるとも言われる。
白面金毛九尾の狐は王をたぶらかし国を滅ぼす悪狐といわれ
天竺の王子である班足太子の妃になり乱暴狼藉やりほうだいで国を滅ぼし
殷の紂王を誘惑して国を滅ぼし 
 ※酒池肉林とはよく使われる言葉であるが
 これは司馬遷によって編纂された中国の歴史書『史記』「殷本紀」に
 記された一節によると殷の紂王が愛姫である妲己の歓心を買うため、
 その言うがままに日夜酒色に耽り、民を虐げた故事に由来している。


この白面金毛九尾の狐はその後若藻という年頃の少女に化け
吉備真備をたぶらかして遣唐使船に乗り日本に来ることになる。
日本では玉藻前という美女に化けて鳥羽上皇に近づき、
上皇の寵愛を受けるようになるのだが
陰陽師安倍泰親にその正体を見破られてしまう。
追われて下野国那須野原まで逃げたところで
鳥羽上皇が派遣した三浦義明の矢で脇腹と首筋を貫かれ、
上総広常の長刀でとどめを刺されてしまう。
このときに白面金毛九尾の狐は石に化したという。
石となっても悪気は強く発していて祟るので「殺生石」と呼ばれ恐れられたのだが
室町時代の曹洞宗総持寺出身の玄翁禅師が1385年に杖で「殺生石」を叩き割ったそうだ。
ちなみにハンマーのことを玄翁というのはこの故事に由来する。
割られた石は日本中に飛び散ったのだが
玄翁和尚はその残った破片の一部で殺生石によって亡くなった人のために
一体の地蔵を造ったという。
それが最初鎌倉に安置された殺生石地蔵である。
ところが、江戸時代のはじめに幕府の作事方大棟梁である甲良豊前守の夢枕に
この地蔵が立ち、京都の真如堂へ衆生済度のために移転させよという。
もとよりこの地蔵を信仰していた豊前守はただちにこの地蔵を京都へ移したとのことである。
この逸話にちなんで京都でこの地蔵は鎌倉地蔵と呼ばれるようになったという。

白面金毛九尾の狐は殺生石になったのだが
実は中国に逃げ帰ったという説がある。

その説ではまず先ほど紹介した『簠簋内伝金烏玉兎集』には種本があったとしている。
種本の経緯は天竺において唐の伯道上人が文殊菩薩の感応を受けて
その秘術を記載したものを書物にまとめ上げ
まず唐にもたらしている。
その書物を受け継いだのが阿倍仲麻呂であったが
仲麻呂は日本への帰国を果たせずに唐で客死してしまう。
それでそれは武帝に渡るのだが
遣唐使の吉備真備の才知に関心した武帝が真備の帰国に当たって
この書を譲り渡す。
この書物には偉大なる秘術が記載されており
これを白面金毛九尾の狐も狙っていて
天竺でも唐でも隙をみて奪おうと追っかけている。
そして吉備真備の帰国とともに白面金毛九尾の狐も
若藻という年頃の少女に化けて遣唐船に乗り込む。
吉備真備はこの書を阿倍仲麻呂の子孫に渡そうと考えているのだが
それが安倍晴明ということになる。
伝説では安倍晴明の母親は葛の葉という女狐なのだが
実はこの女狐は白面金毛九尾の狐のことだったのだ。
しかし秘伝の書は陰陽師賀茂忠行・保憲父子により守られて
白面金毛九尾の狐は手出しが出来ない状態となる。
それ以降は玉藻前の話に繋がっていくのだが
殺生石になったと見せかけ中国に逃げ帰っていたという。
そして1267に寒巌義尹禅師が日本へ帰国する船に
白面金毛九尾の狐も乗り込み再度日本へやってくる。
この時に寒巌義尹禅師に白面金毛九尾の狐は調伏され
咤枳尼真天の眷属となるという話である。

そして魔法が掛けられていた化身の殺生石の破壊方法についても
本体である白面金毛九尾の狐から寒巌義尹禅師にまず伝えられ
さらに寒巌義尹禅師から瑩山紹瑾禅師に伝えられて
弟子の玄翁禅師がこれを破壊して鎌倉地蔵を彫るのである。

母の愛なのか金烏玉兎集への思いなのか
鎌倉地蔵は安倍晴明ゆかりの真如堂にまでたどり着くのだが
結末にはまだ至っていない。

咤枳尼真天の眷属となった白面金毛九尾の狐の活躍は
今に残る狐信仰が物語っている。

しかし咤枳尼真天そのものが祭祀が難しいので
白面金毛九尾の狐のもとに集まってきた霊狐を統率出来る
霊能者は過去から現在まで見てもごくわずかであるようだ。

寒巌義尹禅師から瑩山紹瑾禅師を通して玄翁禅師に伝えられた秘術は
今もうわさされる荼枳尼天の修法とは違う健全なもののようだが
それがどう伝承されているのかは筆者は知らない。

ただ「只管打坐」一本であり
内自性を見て動ぜざる厳格な曹洞禅宗にあって
咤枳尼真天を信奉するという特別な違和感を超えるものが
その秘術にはあることは確かなようだ。
邪悪なものを調伏し国家を守護する秘術であるといえよう。



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虹の種  No386

2014-10-30 23:17:16 | 神霊界考察
先週のことだが、矢城山祭祀を一緒にした水戸の友人が
再び来熊したので菊池の斑蛇口湖の龍門ダムの下流にある
神龍八大龍王神社と鳳儀山聖護寺に出かけてきた。
この時に斑蛇口湖の水神様に呼び止められて
虹の種の成長を見ることが出来たが、ブログへの記載はためらっていた。
そしたら筆者のブログにいつもコメントをいただいている
質オザサ店主ブログ様が速攻
『見ててなぁ~と呼びかけた気がした雲は その後、鳳凰みたいに』
という記事を書かれた。
それでその偶然に背中を押されて写真を掲載することにした。
神霊のメッセージはささやきなので注意深く傾聴する姿勢の上に
しかもかなりの努力が必要だ。
しかしなかなか写真撮影は困難でありオザサ様の記載されているように
『心のシャッターは切ったよ』という繰り返しが続くものである。
御神霊はその個人へのメッセージを記録に残されることをとても嫌うのである。



    何かが起こる予感



    虹の種が水底から浮いてくる



    もわっと上昇する虹の種 これは噴水のところだ。



    どんどん登っていく気配 同時に右側に弧を描き始める



   ありえないことに虹が噴水から離れていく
   ただ頭のどこかでは論理的に考えていて噴水の見えない水蒸気が立ち込めていて
   それで離れて見えるのだろうと推察中
   それならば噴水から左に離れれれば虹は消えるはずだけど



それで歩いて50m移動してみたが、確かに虹は噴水の水蒸気とは関係なく大空に弧を描いていた。


漆原友紀によるアニメ「蟲師」 第七話「雨がくる虹がたつ」では
このように見ている前で種から(地面から)成長するような虹は虹蛇という蟲だという話があり
強く印象に残っているのだが、
きっと種から成長する虹を見たことがある人は多いのだろうと思う。






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吉田一氣の備忘録的ショート集   No385

2014-10-01 09:52:18 | 神霊界考察
エッセンスはショートコメント的となるので
備忘録的に残していきたいと思って備忘録的ショート集作成中。


1.20141105
恐れ多くて神という言葉を使う機会は少ないが
御神霊と違い神は未来だけでなく過去の歴史をも変え得る力を持っている。
凡人でも注意深く観察すればそれに気づくことが出来る。

2. 20141105
日本神道では自分達の始祖もその人物に掛かった神霊も神として祭祀しているが
人物とその人物に掛かった神霊を区別する必要性が神霊学的にはある。
例えば国を開拓した少彦名命という人物と少彦名神とは同じには論ずることが出来ない。
少彦名神の感応は複数の人物にわたっているからである。

3.検証は出来ていないのだが荼枳尼天については、
白面金毛九尾の狐そのものが
荼枳尼天の本体ではないかと疑っている。
それについては今後検証していきたい。
まだ緒についたばかりだ。

4.フォーマルな葬祭用にオニキスの数珠を購入した。
確かに品質はいいのだが、
個人的な意見としては首にかけられない輪の大きさの珠数は
本来の珠数の役割の魔除けの効果が薄い。
主珠の数にも意味があるのか
大きい輪の場合は108珠が主流だと思われる。
なぜ108珠なのかは知らないが煩悩の数というのは付会であろう。
公約数が1,2,3,4,6,9,12,18,27,36,54と多いことに意味がある様な気がする。
念仏の回数を数えるのに玉を弾くというのもよく聞くが
百万遍数えるのに108では遣り難かろうと思える。
以前霊障に悩まされたときに金剛菩提樹の実の珠数を首からかけて
霊験を得たことがあるが、効果はあると感じている。
この金剛菩提樹の実に翡翠の勾玉を配すればかなり強力な護符となる。
20141122記

5.補足 No356の『背セイと丈タケとの用法の違いから考察する猿田彦大神 』
この章を記載したのは2013-06-18のことだが
猿田彦神とガネーシャの類似性について記載している。
本日ネット検索で谷戸貞彦著『七福神と聖天さん―民間信仰の歴史』の中に
紀元前にインドから出雲族が民族移動して日本に渡来したときに
ガネーシャを日本では猿田彦として崇拝したと記載されていた。
残念なことに根拠については鼻が長いという事以外は記載されていなかった。
またこれも未確認情報ながら吉田神道でも聖天は猿田彦大神だと
聖天浴油の祭法に記載されているという話がある。
20141125





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少彦名神を癒した「速見の湯」とは  No384

2014-09-18 17:27:07 | 神霊界考察
『伊予国風土記』逸文には大国主命が鶴見山麓から湧く「速見の湯」を
海底に管を通して道後温泉へと導き、
少彦名命の病を癒したという神話が記載されていたらしい。
現在は『伊予国風土記』は散逸しているのだが
『釈日本紀』『万葉集註釈』によりその内容を窺い知ることが出来る。
つまり古い時代のある瞬間に少彦名神は道後温泉の地にいたことになる。
しかしなぜ道後温泉を速見の湯から分岐されたように記載しているのだろうか?
伊予国とは道後温泉のある今の松山市や伊予市を含む地域であるが
「伊予」の語源を調べてみると
「よ」が道後温泉の「ゆ(湯)」から転訛したもので
それに発語の「い」を付して「いよ」になったという説や
古代、温泉以外に湧水も「いゆ」と呼んでおり
これが「いよ」になったとする説があるらしい。
道後温泉は基本的には自噴温泉に位置付けられており
『予陽郡郷俚諺集』によれば道後温泉の発見は
足を痛めた白鷺が毎日毎日舞い下りる岩があり
やがて傷は癒えて飛び立って行くのを村人がいぶかしんで
そこを調べると温泉であったという話と
前記のように少彦名命の病を癒すために「速見の湯」を
海底に管を通して道後温泉へと導いたという話がある。
ただ現在は道後温泉は自噴しなくなっておりポンプで汲取っているが
過去にも温泉が自噴しない期間があったのかもしれない。
日本書紀には天武13年10月(684年)の条項にも
「時伊予湯泉(いよのゆ)没而不出」とあり
これは白鳳巨大地震による地変で出湯が一時的に停止したものと思われる。
伝承が二つあることそのものの原因としては
長期間停止していたので初見の伝承が複数となった可能性のほか
最初に少彦名神が入った湯をそもそも道後温泉と決めつけているが
良く調べてみるとそれは伊豫の湯(熟田津石湯)であり
他に西条市の湯之谷温泉なども候補らしい。

さて速見の湯であるがこれは別府温泉のことである。
別府温泉は毎分95m3以上の湧出量で日本一であるが
活火山である鶴見岳から海に広がる扇状地とそこを通る活断層の
3点セットの条件が整っており浅い所でしみ込んだ雨が
100度を超える蒸気に熱せられお湯となって蒸気圧を伴い自噴しているので
構造上過去数万年以上枯れることなく自噴しているものと思われる。
道後温泉の少彦名神の伝承により別府と道後温泉に
なんらかの繋がりがあるのではないかと想像している。
少彦名神は一般的に温泉神でもあるが
別府の地での温泉神の祭祀状況を以前より調査している。

速見郡で古くより祀られている祭神をあげると
火男火売神社の鶴見岳を神格化した火之加具土神 火焼速女命
由布岳の神である宇奈岐日女などで
今は併合後に消滅した温泉神社で少彦名神が祭られたのは近世である。
ちなみに速見郡の地名は『日本書紀』景行天皇12年条による
女首長の速津媛に由来し
『豊後国風土記』によるとその結果豊後を速津媛国と呼んでおり
のちの人が改めて速見郡としたとされる。

別府では少彦名神の祭祀は為されていないことが分かったが
別府の明礬温泉から入った山中にぽつんと恵美須神社が建立されている。
大分市の海側にも小さな恵美須神社があるが
ここは海から離れた山中でしかも人里からも離れている。
なぜこんなところに恵美須神社を建立したのか?
近くにあるものと言えば古くから湧出する天然温泉と
かなり小規模な内山浄水場しかない。

私も興味本位で「速見の湯」を調査しているわけではなく
なんらかのヒントがそこに隠されている事を感じているのだが
それが何なのか良く分かっていないのも事実だ。
ただ前回恵美須神社を訪れようとしたのは2010年9月4日の午後で
この日は女性看護師強盗殺人事件で死体が見つかった日で
警察が厳戒態勢をとっていて
道路は封鎖されており参拝は出来なかった。
恵美須神社と殺害があった鍋山の湯は林道が二手に分かれていて
神社と殺害場所の直線距離は200mほど離れている。
その林道全てが入口で封鎖されていた。

実は今回も参拝は控えたのだが
この恵美須神社の祭神は人里離れた山中に流されて
そこに封印された御神霊のようだ。
流されて封印された御神霊といえばヒルコ神を想像させる。

話を元に戻すが
伊予の湯と速見の湯の関係はどうも
少彦名命や大国主命の出生に関わるものでは無いようだ。
だとすると
残るつながりは中央構造線のエネルギーのつながりの可能性がある。
少彦名命の病を癒すほどの効果が速見の湯や伊予の湯にはあることを
知っていたということだが
その癒しの効果の根源が中央構造線のエネルギーにある
ということまでも知っていたのであろう。









雑記
もう十年以上前のことになりますが、
御神霊より日本は吉田より変わるという言葉を受けたことがあります。
この吉田という名称ですが最近朝日新聞は
二人の吉田氏の言説内容を訂正しました。
一つは従軍慰安婦記事でありもう一つは
東電のあっぱれな行動を代表している吉田調書の内容です。
朝日新聞の「命令違反で撤退」という記事を読んだときに
憤りを強く感じました。
それは死者への冒涜というだけでなく
日本人を上から目線で扱下ろす悪意の存在に対してです。
韓国フェリー転覆事故での船長船員の犯罪的撤退を擁護するために
書かれた記事であることは明確でしょう。
転覆事故は2014年4月16日であり悪意記事は5月20日付朝刊となっています。
ちなみに吉田調書の作成は2011年3月から11月までであり
吉田昌郎氏の死去は2013年7月9日です。
朝日新聞は同調書を5月19日に入手したといっていますが
たぶんそれも嘘でしょう。
また取り消したのは効果が十分に現れた2014年9月11日です。
外国メディアからは
『日本人も現場から逃げていた!!日本版セウォル号事件』と
貶められましたが、
これら一連の捏造は朝日新聞のイデオロギーに基づく
プロパガンダ記事であり
新聞社がもっとも恥じるべき行為ということです。
もしかしたら御神霊が吉田より変わると伝えられたのは
このことではないかと感じています。
朝日新聞の社旗は旭日旗を模したものになっていますが
その社旗に恥じない新聞社になって欲しいものです。

2014年09月11日まさに日本人が目覚めました。
戦後レジームからの脱却の日といえるでしょう。


20141019記載 雑記
この章のコメントにて禮月さまが
クナト神の考察中で頭が龍で体が魚ということで
飛龍という名称を出されている。
実は神社の彫り物でこの飛龍は何度か見かけたことがある。
ネット上にもUPされているので参考までに添付しておく。

   

ミノカサゴを思い起こさせる形象であるが
私は禮月さまの話を読んでその瞬間にしゃちほこをイメージした。


クナト神のイメージなど読み解く人によりさまざまであろうが
私が出雲井神社で感じた霊的人物像は以下のような感じであった。


ところで自分が信仰する龍宮の乙姫である豊玉姫は
霊的には体は龍体で尻尾は魚で現われる。


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明治初年度金貨にみる錦の御旗の日月星 No383

2014-08-13 19:48:46 | 神霊界考察


旧金貨といわれる明治3年から30年まで使用された貨幣の裏面デザインである。
非常に日本人として元気付けられるデザインだと思っている。
この左右の旗が『錦の御旗』と呼ばれるものであるが
日月のものは日月旗で十六八重表菊のものは菊章旗と呼ばれる。
ところで自分の信仰上は日月星の三位一体の三光にこそ
神が宿ると思っているのだが
この錦の御旗の右の旗のドットに星の意匠を感じている。
これが偶然なのか隠された意図であるのかは分からない。
この旧金貨の鍛造には外国の技術が使われているということで
このドットはペトゥラ・サンクタ考案の技術による意匠と思われる。
これは紋章の色を鍛造や印刷する際に
ドットとか斜線とかで色を表わす約束事である。



従ってこの旗のドットは星ではなく
約束通りにいえば金色の意匠で日月のマークの日を表わしている。
しかし日章は中央に最も大きくデザインされている。
色は縦線で約束事からいえば赤色となる。
その周りには八稜鏡=八咫鏡の縁取りとなっていて
まさに天照大神をイメージさせる。
ただひとつのコインの面に二つの日章イメージはとても違和感を感じる。

ところでこのドット部分には手代わり品が数種存在する。



これがこのドットを星に思わせるヒントとなる。
ただ作成者の意図なのか神霊界の意図なのかは謎のままだ。
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『麻の葉紋』 本物の葉からのイメージは八葉紋 No382

2014-08-08 23:52:25 | 神霊界考察
麻の葉について以前より何回か論じているが、
実際に本当の大麻の葉から麻の葉紋をイメージすることは
いろいろと試してみたがなかなか困難だと感じている。
では自然の中にそれを象徴するものが無いか探していたが、
なかなか見つけ出すことが出来ないでいた。
麻の葉は五枚葉か七枚葉が一般的だし
紅葉もカエデも同じ葉数の五枚葉か七枚葉となっている。

  

上記は麻の葉とカエデの葉の参考例だ。

実際の麻の葉紋は
 

そもそも六葉の植物は少ないようだ。
しかし変異したクローバーの中にやっと麻の葉紋を見つけ出した。



自然界の中で特異な場合に麻の葉文様が現われるという事には
非常に重要なポイントであるといえる。

ところでこのブログを読んで頂いているうらら様より
『ベツレヘムの星』とか『ダビデの星』と呼ばれる花を紹介していただいた。
ハナニラ(花韮)と呼ばれる植物だけど六枚花弁である。



確かに麻の葉紋をイメージさせる花だと思う。
自然の中に現れた麻の葉紋であろう。


しかし肝心の大麻からどうやって麻の葉紋をイメージしたか
という疑問の答えは見つからないままだ。


ところでうらら様のコメントにある
阿波一の宮大麻比古神社の神紋を見てなるほどと分かった。


大麻比古神社の神紋には、
いわゆる麻の葉紋のように完全に抽象化される前の
葉のギザギザと茎からの葉脈が残っている。
ただ使われた葉は1枚もしくは3枚もしくは5枚であり
それをイメージを超えて強制的に6枚にしている。
下記写真を見ていただきたいが
実際は麻の葉で円周をイメージすると
どうしても8枚となってしまう。
それは鏡を置いて反転させればすぐに分かる。
結論的には本当に麻の葉からイメージされるのは8葉紋であるが
もともと6角形あるいはダビデの紋章に対する思いがあって
そこに麻の葉の形状を入れ込んだということだ。




では本当にイメージされるところの麻の葉紋は
鏡面反転させて重ね合わせると以下のようになる。



筆者ブログのどこかで見たことがある図柄であると
感じられた方もいるかと思うが八大龍王神でイメージされる
図柄と近似している。

ちなみに八大龍王神でイメージされる図柄とは

『菊池竜門の神龍八大龍王神の系譜の謎 No251』

『『八大龍王神マーク』とカタカムナの『ヤタノカカミ』の相似性 途中挫折 No269』

    















備忘録
オザサ様ブログへのコメント記載分


この文様は優れていますが
(吉田一氣)2014-08-08 01:07:51
この日本的六芒星文様は非常に特別なものだと思っていますが、
この文様がなぜ麻の葉と結び付けられたのかが謎だと感じています。
少なくとも麻の葉から意匠されたものではなく
この文様が先に生まれてそれを誰かが麻の葉と言ったのだと思います。
麻の葉は五葉か七葉で六葉じゃないんですよね。
ただ緑に茂る麻の葉は全体としては
麻の葉文様の雰囲気があります。
ただそれなら一般的に言って
もみじ葉文様となってもカエデ文様でもいいわけです。
もしかしたら大麻により感覚が研ぎ澄まされて第六感まで働くことが
六芒星文様と繋がったのかもしれません。

大麻繊維が見直される日
(吉田一気)2014-08-09 02:57:11
私が小さい頃よく使っていた蚊帳はヘンプ製でした。 ※ヘンプ=本麻=大麻製
この頃までは 雷が鳴ると大急ぎでヘンプの蚊帳の中にもぐり込んだものでした。
もちろん感電を気にしていた訳ではありません。
自然に対する畏怖をヘンプの蚊帳は解きほぐす効果が確かにありました。
ついでにお化け除けの効果もありました。
不思議なのは「くわばらくわばら」の桑畑だけでなく
麻畑も雷除けの効果があると考えられていたことです。
神道で使う紙垂(しで)は雷光・稲妻をイメージしたものですが
麻製和紙で作るのが習わしとなっています。
重要なのは麻は水で濡れると強度が増すということです。
石上神宮の玉の緒の主役は勾玉と本人を繋ぐ臍の緒ですが、
この緒も麻だからこそ効果があると思われます。
アメリカでは1937年に大麻繊維に課税しましたが
この1937年というのは米国の債務残高がGDP比40%という
前代未聞の水準に達したため財政支出大幅削減と
繊維工業の主たる大麻繊維に大幅課税した年なんです。
ルーズベルト不況の始まりなんですが
漁夫の利を得た会社がデュポン社です。
独占生産の石油製品のナイロンがそれにより
麻に代わり繊維産業の主役になるのです。
話が変わって戦後の日本でも
同様理由でGHQは麻の繊維工業を壊滅させるのです。
まあ石油資本のロックフェラーとロスチャイルド(デュポン)の
利害が一致していますから抵抗不可能です。
それに神道では神宮大麻が中心となっていたのも癪だったのでしょう。
現在は石油化学製品は繊維から工業用品(エンジニアリング樹脂)が
主要になってきましたので
世界の流れは麻繊維製品解禁のようです。
1993年にイギリス、1994年にオランダ、
1996年にドイツとオーストリアにおいて
薬理成分THCが0.3%未満の産業用の麻の品種に限定して
栽培解禁となっています。
麻繊維は洗濯に負けないのでものすごく長持ちします。
実家の柳行李の中に麻に綿の刺子の野良着が残っていましたが
どれだけ使ったか分からないぐらいすり減っていましたが
生地の強度は十分保っていて驚いた記憶があります。
麻繊維の霊的な効用は筆者ブログにていずれ公表したいと思います。

※このコメントでは割愛しているが
この当時デュポンが目指していたものは
日本の独壇場であった絹製品に対抗するものであり
これがナイロンの開発の根底にあって
実際のところ麻製品に対抗したのは
その数年後に開発投入されたポリエステルやアクリル。



この場を借りてN様へ
(吉田一氣)2014-08-09 23:36:34
実は私が飼っていたオカメインコも
あるときから麻の実しか食べなくなりました。
http://blog.goo.ne.jp/yoshi_iltuki/e/66455680442e50230d54e277c4698bb8

今の麻の実は放射線で発芽しない処理がされているようです。
この麻の実は昔から食用されています。
http://takumishop.jp/sp/765beer/asa_5.html
神農本草経にいう麻仁です。
もし無人島に島流しされるとして
何かひとつ持っていけるとしたら
間違いなく麻の実を持っていくべきです。
縄文時代よりこの大麻草は食用・医療・住居・衣料・虫除けと
日常生活の全ての役割を日本では果たしてきました。
しかも育てやすく成長が早い。
しかもいぶせば虫除けだけでなく娯楽にもなる??
神から与えられた必需品として縄文時代より大切にされてきた大麻を
日本人は神宮大麻にまで昇華させました。




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肥の國の夫婦ゑびす考察 No381

2014-08-07 12:01:42 | 神霊界考察
夫婦ゑびすについては過去に何度か記載している。
『天社宮の夫婦像 HP』
まず筆者が興味があるのは初代国司の道君首名公なので
そこから話を展開したい。
筑後と肥後を兼任した初代国司の道君首名公が
夫婦で祀られているのには特別な訳があったのだろうと思われる。
上記HPに記載している田主丸町門ノ上の道君首名公夫婦像石碑も夫婦像であるが
道君首名公を祭祀する天社宮の神像も夫婦像となっている。
首名公の没後に夫人は出家して宝円と名乗り
田主丸門ノ上に一宇を建てて首名公の菩提を弔ったという伝承が示す通り
夫婦の契りは固かったのであろうがそれだけで夫婦で祀られるのかは疑問がある。

さて道君首名公の夫婦像に重なるのが『夫婦ゑびす祭祀』である。
筑後市羽犬塚の六所宮の夫婦ゑびす石像や高良大社の市恵比須夫婦石像 
櫛田神社の夫婦恵比須などが知られている。
ゑびすの内ヒルコや少彦名神の夫婦ゑびすというのは考えづらいので
あとは事代主命ということになるが、夫婦祭祀の話は聞かない。
強いていえば、三嶋の神の后の伊古奈比命とかであろうか?
あるいは美保神社の祭神は
事代主命と大国主神の后の三穂津姫命となっているのだが
事代主命と三穂津姫命の間柄は義母の関係で血のつながりが無い事から
古い時代より関係が怪しまれている......

この件については見解を『道君首名公と道祖神信仰 No125』に記載しているので
話の重複は避けるが、
少彦名神社で夫婦神像があるところをかねてより探していた。
十年探して見つける事が出来ていなかったが
偶然に熊本市東区小山1丁目にある佐岐神社の由緒で
夫婦神像が祭られていることを知った。
参拝した結果間違いなく
道君首名公に由来する少彦名神社であり
夫婦神像は道君首名公の夫婦像であると感じられた。




 


佐岐神社地図
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妙見神の秘密 No380

2014-06-14 11:02:04 | 神霊界考察

先日、『聖徳太子と熊本八代の八大龍王神 No378』
日羅と聖徳太子との関係を考察したが
日羅に神霊八大龍王神を降臨させる霊的能力があったとすると気になる事がある。
2009-11-23の記載記事だが『八代妙見祭での玄武神、霊符神、龍王神考察 No037』
以下のように記載している。
百済の聖明王の第三王子の琳聖太子が八代に来朝したという伝承と妙見神伝承は重なっているが、
複数の伝承地は琳聖太子が社を構えたところなのかもしれないと感じた。
妙見神は北斗七星と北極星を神格化した神霊であるが
琳聖太子はこの星の神霊に始まり玄武の神霊、霊符神、龍王神と広めている。

この琳聖太子が百済の聖明王の第三王子とすると、
八代を本貫地とする日羅と同時代同年齢程度の人となる。
もちろん二人は百済で面識があることになる。
日羅は八代で生まれて父とともに百済に渡航したとも、百済に生まれたともいわれている。
これは偶然の話であろうか?
さらに調べてみると琳聖太子はなぜか山口県に拠点を置く大内氏の祖ともされるが
そこでは推古天皇19年(611年)に百済から周防国多々良浜(山口県防府市)に上陸したとある。
だとすると八代の伝承とは相反する。

もちろん八代の伝承を正しいとすれば
百済の琳聖太子は日羅の段取りで彼の故郷をわざわざ選んで来日したということになるが
第三王子というだけで妙見神として祀られる理由が分からない。

確かに百済の王族は日本に移り住んだ伝承が多い。
例えば宮崎県東臼杵郡美郷町南郷区神門に
西の正倉院ともいわれる百済王族の遺品とされる24面の銅鏡等が発掘された百済の里がある。
王族のものといわれるのは、神門神社から発掘された銅鏡が
奈良正倉院と同じ銅鏡「唐花六花鏡」で特別なものだったかららしい。



神門神社に祀られるのは百済国伯智王(禎嘉帝)とされる。
神門はみかどと読まれている。
7世紀に滅亡した百済の王族がまず日本の奈良地方に逃れ、
その後の国内の動乱から更に九州方面を目指したということになっている。
日向の国から内陸に入り父は南郷村神門、王子は木城町に移住したという。
父は神門神社に神として祀られ
息子の福智王は木城町の比木神社に神として祀られている。

百済の王族といえば、
聖明王由来の仏像を本田善光が長野に持ち帰り祭祀したという伝承が善光寺縁起にあるが
どうも聖明王由来の仏像の伝来にも日羅が関係していそうであり
この仏像は知る人ぞ知る有名な仏像であるが、
蘇我氏と物部氏によるの崇仏廃仏論争の対象となり
物部氏が難波の堀江へと打ち捨てた日本初来の仏像であるという。
この仏像は善光寺縁起によればインドで龍宮の閻浮檀金に
阿弥陀・釈迦二尊が自らの白毫の光を当てて成り立った仏像だという。
龍宮の話を持ち出すあたりはやはり八大龍王神によるものを暗示している。
さて本田善光は推古天皇か皇極天皇の勅命を戴いてこの仏像を長野に持ち帰ったというが
だとするとこの仏像に対して正当な権利を主張できる人物であることになる。
百済最後の義慈王の子の豊璋と善光王が日本に逃れてきており
善光王は持統朝に百済王の号を賜り百済王善光と呼ばれ難波に住んでおり
まさに難波の堀江で仏像が善光の前に現れたという本田善光の話の
モデルであろうと考えられる。

従って八代の百済の琳聖太子渡来伝説を一蹴するわけにはいかないが
山口県下松市に残る琳聖太子の伝承や
『大内多々良氏譜牒』に以下のようなものがある。
595年推古天皇3年9月18日のことになる。  ※609年説もあり
琳聖太子渡来の3年前のことになるが、
青柳浦と呼ばれていたこの地の松の大木に北辰尊星が降臨し
七日七夜にわたって光り輝いたという。
巫女の託宣によると渡来する百済の王子を守護するために、
北辰星が降臨したのだという。
人々は渡来降臨した神を北辰尊星妙見大菩薩と呼んで社を建てて祀り、
浦の名を今の下松市の由来となる下松というように改めたという。
大内氏は、氷上山興隆寺に妙見社を勧請して氏神とした。
 
もしこの話に信憑性があるとすれば
琳聖太子と北辰尊星妙見大菩薩が結びついたのは
この北辰尊星降臨の話が先で
これにより八代の妙見宮の由来に
琳聖太子が取り込まれたということになるが
逆の可能性もまだ否定できない。
逆の可能性というのは、もともと琳聖太子=妙見神という信仰があって
大内氏が後胤とするために琳聖太子にまつわる北辰降臨伝説を作り上げたということである。




さて妙見神についてはなかなか真実が見えてこなかった。
というのも八代において妙見神が先でその過程で八大龍王神が祭祀されたと考えていたからだが
逆に八大龍王神の降臨が先でその経綸で妙見宮と鎮宅霊符神が祀られたとすると
分かる事がある。

貶められた八岐大蛇が龍宮の八大龍王神として復活し
星辰信仰の妙見神にまで高められたということだ。
あるいはそこに同じく貶められた天津甕星の妙見神としての復活の意味もあるのかもしれない。

この神格化は日羅のなせる技であろうと考えている。

八代の妙見宮の由緒には道教の神仙思想が盛り込まれている。
亀蛇=キダの上に乗る妙見神とは道教思想でいえば真武大帝となる。

  

真武大帝の役割は北方守護とされる。
四天王の多聞天が北方守護で特別視され毘沙門天に出世したのと同じく
真武大帝も玄武が出世して真武大帝になったものと思われる。
北方は「水」に属するために中国においても水神である。
この点も毘沙門天に水神である海若=かいじゃくの性質が加えられたのと同じである。
また北極星や北斗七星の神としての性格も持っている。
参照 『毘沙門天の謎 No333』

本来八代の地も北方守護が大切とされていた。
大宰府でもそれは同じであるが
大宰府では北方守護として毘沙門天が祀られていたのに対して
なぜ八代では玄武大帝⇒真武大帝が妙見神として祀られたのかが
答えのヒントとなったが
水の神であることが第一であり
繰り返すことになるが
貶められた八岐大蛇が龍宮の八大龍王神として復活し
そこに少彦名神の妙味が加わり
北斗七星は柄杓で水を司ることより北方守護に星辰信仰が加味され
妙見神にまで高められたということだ。
あるいはそこに同じく貶められた天津甕星の妙見神としての復活の意味も
あるような気もする。
これだけの仕組みを作り上げるとなると
出来るのは八大龍王神を祭祀し神徳を受けた日羅しかいないと思われる。
真武大帝は亀蛇の上に乗り刀を持つ武人であるが
日羅自身も後年には愛宕山の勝軍地蔵として祀られることになる。



大阪日日新聞 『勝軍地蔵は日羅の被甲乗馬姿』









記載途中



藤原氏は藤原道長の
「この世おば我が世とぞ思う望月の欠けたることもなしとおもえば」
という歌にも示されるように
飛鳥から平安そしてそれ以降も名門中の名門として権力を持ち続けている。
鎌足が百済出身であることは間違いないと思われるが
これゆえに日本中で百済系王族を名乗る事や
藤原系を名乗る事が名門の証と考えられ、
例えば加藤清正も藤原にあやかり肥後守藤原清正と名乗っている。
大内氏も琳聖太子の後胤としている。
あの藤原氏に滅ぼされた蘇我氏ですら
百済の高官の木満致と蘇我満智が同一人物であるという説がある。



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道鏡の天皇即位を防いだ和気清麻呂は清明実直な勤皇の忠臣だったのか? No379

2014-06-11 12:01:42 | 神霊界考察
宇佐八幡宮神託事件はどうも調べれば調べるほど疑問だらけで
自分は弓削連道鏡を皇位簒奪の張本人となし
和気清麻呂は清明実直な人間とすることに素直に従えない。

宇佐八幡の神託は結局2度なされているが
和気清麻呂が神託に従うつもりだったのか、
それともハナから最初の宣託を翻すために宇佐八幡に向かったのかが
まず疑問である。

神託の調査なら二度目の神託を受ける事は神の意に沿わない。
一度目の神託の真実を調べるべきである。

あたりまえのことだが、
私の知り合いに神掛かった筮竹易占師がいるが
同一内容を二度占うことは厳禁だと云う。
同一内容を二度占った場合は本来なら同じ卦が出ないと真理が破綻するが、
だからといって同じ卦が出ることはどんなに神掛かっても
ありえないことはほぼ想像が付く。
それで易占では二度占いを禁止しているということだ。

宇佐八幡の最初の神託は大宰府の神官と宇佐の神官を兼ねていた
中臣習宜阿曽麻呂により為されているが
二度目の神託時には中臣習宜阿曽麻呂は神職の座を追われており
代わりに宮司が宇佐氏で禰宜が辛嶋氏となっている。
そして神託を告げるのは辛嶋勝与曽女となっている。

神託を受ける場合は審神が必要であるが
その審神の根拠の薄いこの一連の神託事件は茶番劇であり
裏で糸を引いていたのは
物部氏に仇なす藤原氏であるといって良い。
具体的には藤原百川である。

辛嶋氏はもともと韓嶋氏であり
藤原氏の最初の藤原鎌足も百済出身の豊璋であり
朝鮮一族の野望の前に
純血を取り戻そうとした蘇我氏物部氏が敗れた事件といっても良い。

※宇佐神官の中臣氏は藤原氏とは本来縁もゆかりもない。

問題は宣託を持ち帰った和気清麻呂が
清明実直な勤皇の忠臣だったのかということだ。
彼は神階正一位と「護王大明神」の神号を貰い和気神社に祀られている。

和気清麻呂の純粋さについては、自分も良くわかっていなかったのだが
前回の記事で記載しているところの
日羅の化身である勝軍地蔵が祀られる八大龍王神顕現の愛宕山に
和気清麻呂はなぜか愛宕権現を祭っている。
愛宕権現は「仇子(あだこ)」と呼ばれる火之迦具土神のことで
火伏せの霊験あらたかであるが、
これは水の神霊である八大龍王神の封印となっている。

どうも和気清麻呂には曲者の気配が濃厚だといえよう。









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聖徳太子と熊本八代の八大龍王神 No378

2014-06-11 12:01:14 | 神霊界考察
以前、『毘沙門天の謎 No333』
平安時代中期に毘沙門天のメッカである信貴山の中興の祖である命蓮が
毘沙門天王の中に八大龍王神の一人で水神の難陀龍王を感得したことについての
見解を述べている。
この時には「もっともこれは信貴山縁起絵巻での絵空事の可能性もある。」
というようなことを述べているが
この記事についてはいくらか修正させていただきたい。

それは聖徳太子が信貴山に祀った毘沙門天及び寅寅寅のミトラと八大龍王神が
自分の中で繋がっていなかったからだ。
同時にこの縁を繋いだ存在として法華経の八歳の童女でもある龍女が
変成男子して少彦名神になり五行の土に水氣をいれるために仕組んだ
神仕組みであることと理解していたからだ。

さて本日聖徳太子と八大龍王神とのつながりについて感得があったので
まず信貴山縁起絵巻での絵空事の可能性については除外したい。
今は信貴山の中興の祖である命蓮が八大龍王神を信貴山頂に祀った経緯には
必然性があったことを確信している。

昨日 八代の白龍神の写真を掲載したが
その縁で知りえた情報といっていいかもしれない。
古代八代に火(肥)の葦北国造に吉備津彦命の子供の三井根子命がなっている。
そして三井根子命の子供で葦北国造刑部靫部阿利斯登という人物がいた事が知られている。
どうもこの一族が八大龍王神を八代で祭祀していたようだ。
八代という名称も八代の八竜山 竜峰山 竜ヶ峰などの龍の名前も
この一族が八代に八大龍王神を降臨させた事に因むと思われる。
阿利斯登の子供が日羅で墓も坂本村久多良木字馬場の地蔵堂前に現存する。

宣化のときに、新羅が任那を侵略しようとする戦いが起きて
大伴金村の命でこの阿利斯登、日羅の親子は軍を率い任那に派遣されている。
大伴金村と阿利斯登との関係は、たぶん継体天皇21年(527年)の磐井の乱が関係している。
562年に新羅が任那を侵略してしまうのだが、
この阿利斯登、日羅の親子は日本へは帰国せずに百済に居付いてしまう。
大伴の失脚で帰るに帰れなかったものと思われる。

敏達天皇の要請により日羅は583年日本に帰国することになる。
その目的は「任那の回復策」であったのだが
日羅は結局は日羅と共に来日した百済人に暗殺されてしまう結末となる。

日羅は百済官人であったのだが、
なぜか9歳の聖徳太子が日羅に会いたがり
『聖徳太子伝暦』や『今昔物語』によると
出会った日羅は聖徳太子に対して「敬礼救世観世音 伝灯東方粟散王」といったと言う。
伝承としては聖徳太子の師事したのは百済の日羅上人と
高句麗の高僧である慧慈の二人と云われている。

聖徳太子が師事したといっても百済官人である日羅から
何を学んだというのかが疑問であり、
一番の日羅の功績は百済から日本へ仏像を持ち込んだことだろうと考えていたが
実は日羅は幼少の聖徳太子に八大龍王神の降臨の秘儀を伝えたのであろう。

聖徳太子の超人的な記憶力や聞取り能力等は
八大龍王神の降臨の秘儀によるものと考えると納得出来るものがある。
聖徳太子により日本初の毘沙門天王が出現した寅寅寅の年は587年で
太子14歳の時と云われている。
聖徳太子にとって八大龍王神降臨が最初でありこの霊験により
毘沙門天を顕現させることが出来たという訳である。


しかし聖徳太子伝では八大龍王神縁起は消されてしまっている。
理由は日羅に秘儀ゆえに口止めされていたからであろう。

八大龍王神は役小角がを日本に勧請し奉斎したことで知られるが
役行者=役小角は624~710年と云われているので
聖徳太子の時代は50年以上も遡ることになる。

日羅の一族が住む九州熊本の八代で
飛鳥時代にはすでに祭祀されていたという八大龍王神とは
どういう経緯の神霊なのだろうか?

突飛ではあるが幣立神宮の縁起では
モーゼ・キリスト・釈迦・孔子も若き頃に八大龍王のいるこの地で
修行したという伝承があるのでそういう話でも良いのかもしれない。

しかしこの日羅の一族が製鉄を掌握した吉備津彦系であることを考慮すると
もともと八岐大蛇を祭祀していたものが
日羅により八大龍王神に昇格させられたものとも考える事ができる。

この日羅の持つ霊的パワーであるが
龍神のコントロールを自分が完璧に出来るだけでなく
それを幼少の聖徳太子に伝える事が出来たとすると
未来に亘っての掌握力まで要求される事になる。
たぶんそれは自分の命を削って為されたものであろうとしても
驚異的なものだと思われる。

日羅が勝軍地蔵として後世に伝わっているのも
聖徳太子が恩に報いているのであろう。

愛宕修験談の江戸時代前期『愛宕山神道縁起』の中の古縁起、
あるいは同時期の『山城名勝志』「白雲寺」の項の縁起によれば
大宝年間に修験道の役小角と泰澄が山城国愛宕山に登った時に愛宕山太郎坊に出会う。
ここで愛宕山太郎坊の霊力により
龍樹菩薩・毘沙門天・愛染明王・富楼那尊者との霊流が繋がったと言うことになっている。
この愛宕山太郎坊とは『今昔物語集』等では日羅のこととされている。
だとすると役小角が龍樹菩薩により八大龍王神を降臨させるのも
日羅との縁あってのことということになる。


参照

国宝太子絵伝
『聖徳太子十二歳「難波館において百済国より帰朝した僧日羅にちらに会う」』


聖徳太子に対面する右が日羅 左が慧慈










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刀のお守りで有名な八代の龍王神社の白龍 No377

2014-06-05 15:47:50 | 神霊界考察

屋根の上の黒龍は以前紹介しているが
祈祷所の鴨居に白龍が設置されたので写真を添付しておく。
この白龍はなかなかいい感じだと思う。
黒龍と共に一見の価値があると思うので是非参拝していただきたい。
※印刷しても綺麗なように画像サイズは1600×1200にしている。
最初にここに参拝したのは20年程前のことになる。
当時は普通の神社という感じだった。
今初めて参拝した人は外見から新興宗教と勘違いするかもしれないが
古くからある神社なので心配はいらない。
ただここの宮司が霊能ある方でお守りに龍神の念を込めたり
たちの悪い病巣に龍神の念を込めたりして
参拝者に有難がられたりしているうちに口コミで広がったようだ。
お守りetcの頒布金などの他に祈願者や宝くじ当選者などからの寄付金も集まり
それが新興宗教のような派手な建物と拝殿になっている。


以前から熊本県八代市のの八大龍王神を祀る龍王神社の紹介をしている。
2013-04-04『修正 刀のお守りで有名な八代の龍王神社 No348』
2010-09-29『刀のお守りで有名な八代の龍王神社 No168』
2010-04-03『八代にある八大龍王神を祭る龍王神社について No112』
2009-11-17『龍宮界の乙姫と八大龍王神 No033』
参照『八代の八大龍王神を祀る浅井神社 No167』

八代駅から歩いて15分程度であろうか、
龍王神社にも駐車場はあるものの土曜日などは祈願者も多く停められない場合も多い。

もし刀守りなどのお守りが欲しければ以下の看板を参考にして
月金土の朝早くに出向いて中で番号札をもらってからのんびりと待つのみだ。
お守りに霊力を入れていただく必要があるのでちょっと寄ってさっと買って帰るという訳にはいかない。
2時間や3時間は待つ覚悟が必要であるが
この待ち時間を無駄にしたくないがために1個2個はお守りを買う量が増えてしまう。
また自分の番が来ると結構待った分だけ
あれもいこれもと相談して時間を引き延ばすのも人間の性だ。
参拝者の中の半数以上がリピーターさんであり、
奇跡譚やこのお守りは効果が高いので是非求めるべきだ等の
話を聞くのも人間観察という意味でも面白い。






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追記 『火の國 熊本における水の神とは』 No376

2014-05-25 04:30:13 | 神霊界考察
前回の『火の國 熊本における水の神とは』
熊本人の気質のひごもっこすについて少し述べたが
この気質は歴史研究の中では少し役立っている部分もある。
この気質のひとつの特徴として過去を遡ると
「簡単になびかない 死をもいとわない」ということがある。
例えば戦国時代に肥後国衆一揆というのが起こっている。
全国を平定した豊臣秀吉が佐々成政を肥後の領主に任命したのだが
「太閤検地」に反発した肥後の領主と農民が
肥後国衆一揆と呼ばれる反乱を起こすのだ。
当然に結果は見えている。
秀吉は「国が荒れ果てても、ことごとく成敗せよ」と檄を飛ばし、
九州・四国各藩から約二万人の軍勢を送り
肥後を徹底的に弾圧して勝利することになる。
この結果肥後国衆はことごとく討滅されてしまう。
佐々成政は、秀吉から責任をとらされて切腹。
国衆一揆の翌年の天正十六年(一五八八)に肥後の新しい領主として
北の熊本市に加藤清正、
南の宇土八代に小西行長が任命されることになる。
この当時肥後を訪れた宣教師が「これほど貧しい国を見たことがない」と
書き残しているほど肥後の地は荒廃してしまっていた。
加藤清正は27歳で肥後入りをするのだが
入国後清正は治山治水、新田開発などに力を入れ、
またパンの原料となる小麦を特産品として南蛮貿易に乗り出し
硝石を輸入するなどしている。
そうやって積極的に領地経営を進めていき肥後国は復活を果たす。
加藤清正は肥後人の気質にうまくとけ込んでいったと思われる。

加藤家が改易された後に肥後に入国したのが
豊前小倉城主細川忠利だが、
肥後もっこすな県民はそれ以降も加藤清正公を神として祭り続ける。
今でこそ細川忠利が自分の事跡を「清正公のお陰」としたとの伝承となっているが
これも肥後人の気質に従ってのことにある。
これは奈良時代の初代肥後国司の道君首名が
現代でも肥後では神として祭祀されていることにも繋がる。
道君首名の功績は筑後守正五位下道君首名と云われるように
筑後にも多々あるのだが他県だと数百年で消えていく祭祀が
肥後では千年残っていく。

この肥後もっこす「簡単になびかない 死をもいとわない」
この例は複数あるのだがもうひとつ記載するとすれば
『神風連=敬神党の乱』がある。
1876年(明治9)に熊本市で起こった明治政府に対する神道の信仰心に基づく
士族反乱という位置づけになる。
もともとが林桜園を祖とする国学・神道を基本とした教育を重視する勤皇党員の中で
林桜園の私塾「原道館」を中心として神職に就いていて
明治政府への強い不満を抱き尊皇攘夷を掲げる構成員により肥後敬神党が結成された。
彼らの抵抗は勝利を目的としていない政治的クーデターでありいわゆる反乱ではないので
今では神風連の変ということになっている。
神道的な道義をもとに自らを糾す=糺すことを目的としている。
具体的には政府指導の『断髪令』『廃刀令』に反発したものだといわれているが
新開大神宮で「宇気比」と呼ばれる誓約祈祷を行い、神託のままに挙兵している。
この時における武士道とは攘夷であると考えていたようで
この攘夷には日本らしさを固持することが含まれている。
『断髪令』『廃刀令』などを含めた西洋化に対抗して自らを糺すとすれば、
それは神風特攻による玉砕.....
つまり今で言うカオス理論的なバタフライ効果を願うしかないと考えたようである。

神風特攻とは無駄死にみえるような行為であっても
それが神意を動かすことになることがあることを知っての上での行為だ。
自らを捨て駒と成す事で大きな成果を得るというのは
林桜園の思想であったのかは判らないが、
彼に学んだ吉田松陰なども自分の信念のために捨て駒である刑死を選んでいる。
もし吉田松陰がなぜ刑死を選んだのかを本当の意味で知りたければ
この観念の理解が不可欠であろう。
二十一回猛士と名乗るがむしゃらで猪突猛進の行動有りきの吉田松陰なら
本来脱獄してでも次の行動のチャンスを狙うのが猛士たるものの王道であるはずだ。

「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。
生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。」

吉田松陰は刑死を受ける事が自らの志の達成に繋がると思ったのだが
自分の死が弟子の発奮に繋がるから刑死を選んだわけではないし
信念を貫く事が刑死であったという訳でもない。
なぜ刑死が無駄死にとならずに志の達成に繋がると思ったのか
そのことを理解する事はすなわち「簡単になびかない 死をもいとわない」という
肥後もっこすの真髄の理解ともなる。

吉田松陰の句では大和魂というものが語られる。
「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」
「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬともとどめおかまし大和魂」
この大和魂とは本居宣長の創り出した言葉であるが
生・死・結果を超越した神をも動かす御魂の発露のことだと思っている。

ところで当時肥後では「学校党」「勤皇党≧肥後敬神党」「実学党」の三派閥が喧々囂々していたのだが
肥後敬神党は陣風連の乱で自爆し、
学校党は翌年の西南の役で西郷側に立ち熊本隊を立ち上げたが敗退している。


肥後国衆一揆にしても西南の役にしても熊本の被害は甚大で
立ち直り不可能と揶揄されるほどであるが
この荒廃からの復興は雛形経綸として
熊本霊ラインを通じて日本の復興に繋がっていると感じている。


熊本霊ラインの効果については
このブログの主題の『吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流』に従ったものであり
中央構造線の西端の熊本の影響が日本中に響き渡る現象のことを云っている。
その詳細は『神霊背景一刀両断』
『熊本霊ライン』を参照していただきたい。












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