陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

究極のクロワゾネ─並河靖之の七宝─

2008-11-26 | 芸術・文化・科学・歴史

黒檀の彫刻にも似た、滑らかに光る陶器の肌。淡く描かれた葉桜には、なんとも花やかな風情がある。曲面の歪みを計算した上での、首元まで迷いなく埋め尽くされた文様。ちょうどいちばん湾曲している花器の肩のあたりに余白を多くとって、上と下を向いたうぐいすの視線によって、リズムをつけている。花器を手にしたとき、いちばんに視線が向かう先をよく知っている。釉薬の数は限られているはずなのに、万の色にも千の光りにも輝いて見える。図案の色を細分化し重ね塗りをくり返すという技法は、印象派の点描にも近い。鳥の羽一枚、花びら一枚、おろそかにせず、職人は美しさをひきだすために注意を払ったのだろう。
こんなみごとな花器があったとしたら、どんな活け花ですらかすんでしまう。花要らずの器、花殺しの器。この名品をそう評してもいい。


不覚にも、その名工の名を知らなかった。並河靖之という、男の名を。
彼が注目されたのは、ここ十年来のことだという。明治時代、世界最高の七宝作家と謳われ、帝室技芸員の職にあったほどの男はなぜ美の歴史の闇に消えてしまったのだろうか。

幕末、武家の三男に生まれた彼は、公家に仕える並河家に養子入りし、親王の侍臣として仕えた。しかし、宮家からのわずかな給金では生活がなりたたない。糊口をしのぐために、彼が着手したのが七宝だった。つまり、彼は生活のため内職としてそれを選んだのだ。職人の指導はうけたものの、ほぼ独学で学んだ腕はたしかなものだった。宮仕えで風流に触れ、華やかな名品に囲まれた生活が彼の審美眼を養っていたのだろう。

明治の日本は外貨獲得のための産業として工芸を奨励していた。靖之はその時流をにらんで、七宝焼きに身をいれたのだが、彼にとってそれは生計をたてる手段以上のものになっていったのだろう。彼の作品はいま我が国にほとんど残っていない。というのも、おもに海外輸出用に制作されたからだった。名にしおう海外の要人たちが彼の作品を買い付けに来日した。「王冠を賭けた恋」で有名なエドワード八世もそのひとり。大津事件でキャンセルになってしまったが、あの後のニコライ二世を名乗るロシア帝国皇太子も来日予定であったという。靖之の名はあのブリタニカ百科事典にも載っているほどで、ナミカワは七宝焼きの代名詞にもなっているほどだ。

靖之が追及したのは有線七宝。有線七宝とは「金属の胎(ボディ)に、文様の輪郭線として金や銀の線をテープ状にして貼り付け(植線)、その線と線の間に釉薬をさして焼成・研磨を繰り返す技法」(並河靖之七宝記念館ホームページ解説より)である。海外ではクロワゾネと呼ばれ、ポール・ゴーギャンをはじめとするポスト印象主義絵画の一派クロワゾニズムの命名はこれに由来する。数年前、名古屋で視た「ロダンと日本」展において、ロダンが収集した美術品のなかに明治日本でつくられた花瓶があった。十九世紀末の日本が海外文化、西洋美術の潮流に与えた影響力は計り知れず、まぎれもなく靖之もその重要な作家と数えられるべきであろう。

では、なぜ彼は死後忘れ去られてしまったのか。それは、わずか三十年でとつぜん工房を閉じてしまったからだ。
彼の七宝はひじょうに凝った意匠で、丹念にいくども柚薬の上塗りと焼き付けをくり返したものだった。わずかてのひらにすっぽり収まるほどの小品に、半年から一年以上も日数をかえることがあった。とてもではないが、大量生産には向かなかった。
大陸の嗜好が変質してしまったことも影響している。靖之をはじめとした日本の美術家が十九世紀西洋にもたらしたジャポニズムは、西洋の美意識とむすびつきガレなどすぐれたガラス工芸作家を輩出した。エミール・ガレは、工房の経営者としてもいかんなく手腕を発揮した人物で、大量の注文に応じるための生産ラインを体系化し、成功をおさめたのだった。(拙稿「ガラスの仕事」参照)大量のガレ作品の流通によって、遠い海を渡ってくる寡作の職人の作品はお払い箱になってしまった。

もし、靖之が工房をひろげ弟子を多く持っていたとしたら、彼の作品は流出しはせず、またその名が没後百年の日本で埋もれることもなかったであろう。しかし、彼は伝えなかった。もし伝えていたら、いまの日本に見られるようなガレやロートレックまがいの工芸品のように、いくらも追従作品が生まれてしまっていただろう。彼は自分の技の神秘性を保ったのではないか、希少性を深めたのではないか。突き詰めれば身を壊すという、美の魔性の神に取り憑かれそうになったのではないか。美のイデアは、この世の物質界の存在を超越したところにあって、それを具現することが人間業ではとうてい不可能だという、絶望の境地に。駄作を残すことをよしとしなかった彼は、まさに明治の職人魂あふれる作家だったといえよう。

こういう作家の創作をどう評したらいいのだろう。安っぽい賛辞ははねつけそうな気がする。小賢しい批評をすれば、底の浅さが見えてしまう。
傑作とはこういうものをいうのだろう。その作品の完璧なできばえに、作家の懊悩などみじんも滲んでなどいない。万全を尽くしたという結果だけがそこにあって、それをうかつな言葉で語ってしまうのが恐いのである。
「新しきものの伝統」(〇八年十月四日付け記事)において述べたが、私は日本の近現代美術ですぐれたジャンルは工芸だと思う。辛抱強い修行で習得された技術の所産であるという点で。そしてまた、むだに客寄せをする感情を植えつけていないという点で。物と私性がほどよい緊張感を保って関係している状態である。すぐれた作家は創造の苦悩ですら、ひとつの芸術にしてしまう。ロダンの言葉や、ジャコメッティのエクリ、マティスの『画家のノート』がそうだ。

並河靖之の作品は、現在、京都の清水三年坂美術館や並河靖之七宝記念館で見られる。
清水三年坂美術館は、幕末・明治期七宝、金工、蒔絵、京薩摩を常設展示する日本で初めての美術館。館長は海外出張先で明治の美術品に出会い、以来、サザビーズやクリスティーズなどで買い集めてきた。収集熱醒めやらず、美術館を立てたのだという。その情熱に感謝したい。

【関連サイト】
並河靖之七宝記念館ホームページ
清水三年坂美術館ホームページ

【掲載画像】
並河靖之作『花鳥図七宝花瓶』 の一部



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