陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

日曜写真館 三十八枚目「ヒカリノモリ」

2011-12-12 | 芸術・文化・科学・歴史



画像は十二月初旬のあるイルミーネション。
もう夜にきらびやかな電飾がともる季節になりました。

観客が多かったので、他の方が写らないように配慮して撮影したのはこれ一枚だけ。
あまり構図として、いい写真ではありませんね。お化けの触手みたいで、なんだかね…。光りが森のようになっていますが、じっさいに植え込みに巻き付けられているんですね。こういうのを観るたびに、余計なお世話ですが、木は傷まないのかと若干心配になります。

チューブライトは巻き付け方で個性が出るのでしょうけれど、それがまた難しいのですよね。この木は二種類巻き付けていますが、一種類の方がいいです。ライトの位置が均一でなくて移動できるものとか、大小があるものだと、光りに奥行きがでたりするのではないかと思うのですが、技術的に難しいのでしょうかね。

このブログでは、例年、冬にイルミネーションを写すことが多いのですが、いつもながら思うことは、肉眼で見えるものと機械の目が写したものとの差異。

なにが驚いたかと言えば、じっさいには、こんなにカラフルな色彩の群れではなかったのです。樹肌にまきつけているイエローや地面を這っているレッドはハニーゴールド、そのほかブルーやグリーンである光りはすべて、白色LEDのような青白さに見えていました。点滅をしていたので、二色が混ざっていて、人間の網膜はその複雑な情報をひとつに束ねて処理するために、蜂蜜いろや、蛍光灯のような白さとして教えたのかもしれませんね。セザンヌふうに気どって言えば「カメラはただのレンズに過ぎない。しかし、それはすばらしい目だ」

この場合、カメラの目のほうが、印象派の画家、とりわけ睡蓮のモネのように、物体にふくまれる色班を分割してとりだすことができたのでしょう。静止してはいても、たえず、ふるえて運動している分子レベルの物質の存在のゆらめきを色彩に置き換えることが。

しかし、先日、観察した月食ショーでは、カメラで写したものは紙のまるを貼ってつけたみたいで味気なく、肉眼でみえたあの量塊感といいましょうか、星の重みといったものがまったく消え失せてしまいました。このことから導きだされるであろうことは、カメラの目というものは、人工的な発光体を見るぶんにはたいそう相性がいいということなのかもしれません。これは自分が勝手に思っているだけなので、本職のカメラマンの方に聞けば違った理屈があるのかも。

以前、印刷物に載せるために、仕事でイルミーネーションを撮影したことがあって、流れる光りをどう追うかに苦労したものです。ストロボでとってもやはり止まったように見える。けっきょく、画像ソフトなどで光背のようなものを描き足したりして。
夜の花火などは、糸を引いたような星座の運行とおなじで、長時間、何枚も連写したものを重ねているらしいですね。

想い出ってじつはカメラでは正確に残せないのでは、と感じた次第。
しかし、写真がいいかげんなのは、いいかげんに視線を注いでいたことの裏返しでもあったわけで。カメラと撮影者の腕次第と言われたら、それまでのことです。


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