陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

映画「ボクの熱気球」

2015-05-21 | 映画──ファンタジー・コメディ
ファンタジーに、こんなことあるわけない、といちいち突っ込んだら負けなのですが、そういうくそまじめなダメだしを寄せつけないほどの仕掛けがある、良質なファンタジーはまま、あるもので。オランダ・ドイツ・イギリスの合作映画「ボクの熱気球」は、ありえないことの連続なのですが、それを下品で低俗な笑いやら痛さやらで押し流そうとせずに、ほんのりした笑いと子どもの寂しさとそれを受けとめる大人の覚悟とを再確認させる、きわめて濃密な映画といえるでしょう。90分弱ときわめて短い時間で、主要登場人物は六人ほどの、かなり明快な筋書きなのですが、とてもわかりよい映画ですね。

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ボタン店を営むおばあちゃんと二人暮らしの少年レーポルは、幼い頃に熱気球の冒険に旅立ったまま返ってこない両親の帰りをひたすら待ちあぐねている。遊びざかりの子どもなのに、おばあちゃんには仕事を押し付けられ、こき使われている日々だが、天才的な暗算能力を先生に乞われているほど。ある日、いつもどおりにおばあちゃんに命じられて百貨店での「ひみつの稼業」にいそしんでいたところ、閉店後の店内に取り残されてしまう。百貨店にはなぜか、親のいない謎の少女ブルーンも棲みついていて、レーポルは彼女と親しくなるうちに、いつしか帰ってこない両親を捜す旅に出かけたいと思うようになり…。

タイトルに熱気球とありますので、少年少女が手をとり合って未知の世界に飛び出す、というふうな予想をしてしまいがちですが、ここでの熱気球というのは、かなりシニカルな舞台装置と言えるでしょうね。それはレーポルにとっては思いだにしない忌まわしい過去でもあり、また不遇なる囚われの日々のはじまりの場所でもあった、と。そして、同時に最終局面では、レーポルが幸福な人生をつかむために、重荷や障害となる存在を空に開け放つ、という重要な武器となるのです。

少年少女のいたいけな両親捜しに手を貸すのが、百貨店のこころやさしき従業員の青年マックス。マックスの一途な堅物女性マネージャー・ブルールへの恋心までもが、自分を優しく抱きとめてくれるパパ、ママを求めたいと願うレーポルたちの行動にあいまって、最後は二重の感動を呼び寄せます。マックスとブルールの恋路は、男女の感性が逆転した上司と部下という垣根があるものの、それをキューピッド役を果たす子どもたちの熱意ある仲立ちによって、ラブコメにありがちな、やらせがましい恋愛のドキドキ感は排除され、無理なく結ばれる男女の顛末にエールを送りたくなりますね。あっさりとめでたしめでたしに至らず、結婚して家庭をもつ、子どもを育てるということの大切さを、ひと呼吸おきつつ、あらためて問いただすところがミソ。なかなかに社会派ドラマとしての側面のある作品です。

マックスがレーポルに真実を告げるのにいくらもためらってしまう場面は、「さよなら。いつかわかること」と同類の胸苦しさがありますが、それをまた乗り越えて、新しい家族像を編みなおそうとする、プルーンの逞しさには頭が下がると言いますか。それとともに、子どもの抱えている行き場のない孤独感にどう向き合っていくかを、悩みながらも一緒に歩んでくれるマックスの振るまいに胸打たれることまちがいなし。

舞台が百貨店というのが、またおしゃれといいますか。
そこは完全に欠けることのない家族の理想が詰まった夢を売る場所なのですよね。親のいない子どもたちが、そしてシングルの男女がラストにそこを飛び出していくということが、労働と消費にとらわれて家族の絆を見失っている現代人になにかを気づかせ、幻想を打ち破ったともいえなくもない。女は子どもを産む道具じゃない、という言葉もありますが、生まれた子どもは女にとっての寂しさを埋める道具ではない、ということも教えてくれる、教訓的なお話ですね。

監督はヴィレム・ファン・デ・サンド・パッキホイズン。
出演は、ユープ・トラーエン。ネールチャ・ド・ヴレーほか。

(2012年11月11日)

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