陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

美のクーリエたちの誤算

2015-09-07 | 芸術・文化・科学・歴史

五輪エンブレム問題では、剽窃疑惑の渦中にあるデザイナーおよび組織委員会が採用取消しをしましたが、それでも、いまだに組織委員会の審査方式への懐疑、当該デザイナーの過去作への洗い出しや、さらには卒業大学の教官や学生の作風まで疑問視されています。複製や転載がいくらでも可能なネット文化の徒花といえるのか。海外のデザイナーからの訴訟問題にも発展しておりますし、まさに国益を失いかねない事態。北京五輪のときもありましたよね、剽窃疑惑。

この問題が、同時期に生じた中学生の痛ましい事件の犯人よりもなおさら話題を呼んだのは、ひとえに、デザイナーや審査員と、われわれ国民との意識の差にあったのではないでしょうか。

当初、エンブレムに向けられた批判は、「誰かのパクリだ」ではなく、「わかりづらい」「ダサい」ではなかったでしょうか。Tというアルファベットに、弁当箱がひっくり返って寄せられた梅干しのような日の丸。東京の「T」だと言われてもしっくりきません。そして、招待時のロゴマークの桜のリースのほうが、よほど日本の情緒を醸し出していて好感度が高く見える。しかも、当該デザイナーの原案は、あたかも積み木で構成されたような「T」だったものですから、よけいに失笑を買ってしまいました。





擁護派のデザイナーたちの言い分は、「シンプルさを追求しつくしたデザインは前例に似通ってしまう、まったくのゼロから創出することなどありえない」。現在、日本にはびこるクリエイターたち、ことに大学での芸術教育を受けた者のほとんどは、おそらくは60年代あたりのミニマリズムの影響が感じられる。極端に無駄を殺ぎ落とした、簡素でクリアな色と形だけの構成。デザインは機能重視ですから、視覚にすぐに訴える、ぐちゃぐちゃと装飾のないものがよい。それがユニバーサルデザイン。でも彼らが言う世界共通言語のかたちというのは、まあだいたい、西洋受けのいいアルファベットをあしらったロゴだったりします。

でも、あまりにシンプルになり過ぎて、誰でもわかるはずだった色とかたちに、いったい何が表されているのか、わからなくなった。20世紀のモダンアートのほとんどがそうです。ピエト・モンドリアンのあの図案は、いちど見れば、あれはモンドリアンスタイルだとわかる。でも、それが何を語りたいのか、なにを意味しようとしているのか、わからない。なぜ、わからないのか。美の専門家たちが、20世紀からこれまでの批評家たちが、その判定基準を自分たちのうちに囲い込んでしまったからです。

子どもでも描けるような単純明快な図案に対して、これのセンスの良さがわかるのは俺様たちだけだ、選ばれた人間たちだけなんだ、そういうことにしておいた。彼ら美のクーリエたちは、何が美しくて何が醜いか、そのスタンダードを生み出す原理を自分たちに権威づかせたかったので、誰もがわかるような絵柄を選びつつ、その説明については実に難解な言葉を選んで語るようになってしまった。そして、わたしたち庶民は「わかる人にしかわからない」という抽象よりも、現在の溢れるキャラクター文化のような燃える具象に惹かれてしまった。ですから、彼ら美のエリートたちのセンスがひときわ古くさく思えてしまうのです。もはやアートを選ばれた一部の天才たちだけで築き上げる時代ではなくなってしまったのですから。

クリエイティヴィティって、別に個人が好き勝手に絵を描いたり、なにかを生み出したから、ではなくて、世の中に目に見えづらいことを、わかりやすく伝えやすくするための工夫を見せることではないか、と思うわけです。なのに、お前らには分かりっこないだろう、なんて仕切られてしまって意思の咀嚼がいつのまにか不可能になっている。

権利意識というか、業界人の内輪ごっこみたいな構図が、今回のエンブレムの剽窃問題において露呈したことに、われわれど素人な大衆はなんとなく腹を立てたわけです。この鼻持ちならぬクリエイター気質の集団が牛耳って、国民の血税を注いで無駄に終わった作品を選んだことに、国民は激しい憤りを感じた。自分の身近にいる誰か一人か、二人かが凶悪犯に殺されることよりも、なおのことずっと激しい憎悪を燃やしつづけた。

あまりに驕慢なエリートに対する敵愾心、しばしばこれまで権威者とされた者、マスコミ、政治家、財界人、アスリートやアーティストたち、に向けられる乗数効果のように拡大再生産される反発心というのは、ネットという庶民の意思を伝える手段に加えて、社会不安がひたひたと蔓延しつつある証なのかもしれません。




個人的には、招致時のあの図案でいいんじゃないかな、と思うのですが。
これにしたって、どこかのマークと似てるとも限らないですしね。しかも規定で、招致用のエンブレムは使えないのだとか。再公募するにしても、それなりの費用と手間は掛かりそう。もう、1964年の東京五輪の亀倉雄策デザインでいいよ、という声があるのも頷けます。



【デザインに関する考察】


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