昨年、ありがたいことに回転寿しをごちそうしていただく機会があった。そこで私がよく食べたのは色つやの明るいサーモンかハマチだったのだが、皿が終わりごろになると、お腹に負担のかからないように、稲荷ずしを口にする。そうすると、同席の人に驚かれてしまった。何もこんな大判振る舞いのチャンスに、そんな慎ましいものを選ばなくても…と彼女たちの瞳は語っていた。
べつだん遠慮していたのではなくて、私はそれが欲しかったのである。日ごろあまり外食しないため、グルメではないせいかもしれないけれど。私はカレーを除く(わざわざ千円ほど出して外で食べる気にはなれない)ご飯ものは家庭の料理に近いものを選びたくなるのだった。うちの実家は豆腐や油揚げの卸売りもしていて、母がたまに稲荷ずしをつくってくれた。
しかし、不幸なことに稲荷ずしというのは、最底辺の寿司と思われているらしい。それはこれが三角形で、かぎりなくおにぎりの親戚になっているからではないだろうか。もちろんふつうの寿司とおなじように俵型の稲荷ずしもあるにはある。が、あの甘い油っぽさがネックになるのか、ハマチやマグロ、エビといった寿司の詰め合わせにはお目見えしない。
おにぎりと寿司のへだたりは、ハンバーガーとサンドウィッチとの間のそれよりも、なお深いものがある。ハンバーガーとサンドウィッチはおなじ挟むものであり、厚さを調節すれば互いに具を交換しても構わないだろう。ようは外側のパンの形状の問題である。ところが、日本の二つの米料理はそうはいくまい。おなじ握りものであっても、米の味つけが異なる。そして、もし塩水に濡らした手で握りこんだ三角形の握り飯に油揚げを巻いたとしても、もはやそれは寿司でもなければ、おむすびでもないだろう。
おむすびのいちばんの本質は、米の味つけでも、酢をつかわないことでもなく、具を内包していることにあるといえる。驚いたことに最近のおむすびは、コロッケや唐揚げを具材にしていて、家庭でつくる場合は上に乗せていたりするが、めりこませているというのが正しい。マヨネーズ和えの海老やカルビ肉は、おにぎりならば刻んで白米のなかに包まれてあり、寿司ならば外側にかぶせられている。米の味つけが酢であるか塩であるかという素材の次元は、この用途に帰する二次的なものではないだろうか。
天むすというのは、名古屋発祥で塩味を利かせた海老の天ぷらを飯にのせた「おにぎり」と言われているが、私はこの名称に疑問を感じる。じつは、かつて家族といっしょに、あるうどん屋で天むすを食べたことがある。ふつうの三角形を崩したできそこないの台形に細いエビ天がひとつおかれ、青海苔のバンドでとめられている。しかも海苔は天ぷらの油を吸ってぱりっとした食感をうしなっていた。そして、おむすびといえば、安価で手軽なイメージを抱いていただけに、その店がこんな料理でぼったくりの値段をとるこちにも失望したのである。
おにぎりというものは、米は柔らかいほうがいいが、具をしっかり押さえこんでいて崩れることがなく、全体が完全な円や美しい三角形をしているものだという観念がある。もちろん、これはコンビニで売られている、型にはめられてつくられたようなおにぎりの現代モデルに毒されているといえる。しかし、寿司でもちゃんとご飯と具とのバランスは考えられて握られているように、美しいおにぎりというのは、不揃いであってはいけない。だから、ふたつの握りのかたちがいびつで、天ぷらの大きさも左右ちぐはぐで、まとまりのないその天むすを出されたのが不愉快であった。
そもそも、おにぎりのよいところは、中にふくまれた具が隠れんぼしているというあの神秘性。くだけていえば、わくわく感にある。円形で表面に具が細かく埋められたものもあるが、三角形型はすぐには具に辿りつけない。それは買ったおにぎりの外包みをひらき、さらにまた白と黒の包みをひらくという、二重の開陳による楽しみである。外側の海苔に触れ、白飯をかじる。そのとき、じかに海苔や米を味わうことができよう。そして、舌はさらに奥に包まれた具材を探り当てることになる。そこではじめて覆いの飯と具の旨味とが融合するのだが、それは中央を外れるとふたたび、適度に塩味の利いた飯と海苔だけ(もしくは飯だけ)の味わいとなる。これは私がどちらかといえば、パンの中身よりも生地の噛み心地のほうを優先するからであろう。
好きなおにぎりの具材はというお題であるが、これといって、こだわりの具材というのはない。海老マヨネーズや肉味噌は嫌いではないが、どちらかというと、昆布や梅干しなどシンプルな具のほうが好きだ。そして、いちばん好きなのは、じつは中になにも入っていないおにぎりで、海苔が巻いてあるだけか、カラフルにふりかけを降っているとか、赤飯や焼きおにぎりだったりする。なぜなら、私はおにぎりに形態の美しさを求めているからであって。それは具材の彩りをよく考えられた巻き寿司の紋様のような切り口を絵画的と評するなら、おにぎりの両の手のひらのなかで形成されたおいしさのボリュームは、いわば彫刻的だ。でんと皿に腰を据えている姿は、頼もしいモニュメントのようで親しみ深く感じるのである。
一等米の新潟産コシヒカリ2合サンプル