陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

映画「山河遥かなり」

2011-03-24 | 映画──社会派・青春・恋愛
1947年のアメリカ映画「山河遥かなり」(原題 : The Search)は、ドイツの強制収容所で生き別れになった母子をとりまく感動作です。筋書きは単純で、子は母をたずね、また母は我が子探しに奔走する、それだけの映画なのですが、感動のエンディングが涙を誘います。

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第二次世界大戦が終結し、米国軍に占領されたドイツ。
国連救済所には、ナチスの強制収容所から救い出された孤児たちが預けられていた。ある少年は、まったく口がきけず、保護官にも身の上を語らない。少年は、カレル・マリクといい、チェコの裕福な医師の家に生まれたが、父と姉は殺され、母とも引き離されていたのだった。そのショックのため、見ず知らずの大人に恐怖心を抱き心を開けないでいる。
救急車で搬送される途中、カレルは脱走して、川に飛び込んだ。
同じ頃、カレルの母のハンナは我が子を求めて、放浪の旅を続けていた…。

典型的なわずかのタイミングの差によって会えなくなるというパターン。
カレルは駐在中のアメリカ人兵士スティーヴンソンに保護され、ひとときの家庭の幸福を得ます。しかし、母恋しい気持ちは変わらず。
ハンナは息子が溺死したと知らされるも諦めきれない。わずか数箇月前まで、カレルが暮らした国連救済所で、子どもたちを世話することに。しかし、やはりカレルを探しに行くために旅立ちたいと願っています。

この母子、最後は無事に涙のご対面を果たすわけですが、そこに至るまでが観る者をなんともハラハラさせてくれます。しかも、その奇跡を呼んだのが、母子がお互いを引き寄せあうような力というよりは、母子を支えた人間の善意でした。帰国するため孤児であり国籍も不明のカレルを引き取れないスティーブンソンには、情が湧いてしまう。救済所の世話役マレー夫人は、ハンナを好意的に迎え、たとえ子ども探しが無駄に終わっても帰る場所を用意してくれています。
皮肉なことにスティーブンソンも、マレー夫人も母子はいずれも望み薄と決めつけていて、孤独になったマルク母子の人生を受け入れようとした行動が幸運を招く。その決定打となったのが、じつは我が子探しよりも、大勢の悲しい孤児たちのために生きる決意をしたという、ハンナの慈愛によってでした。この感動の筋書きがすばらしいですよね。単に母親だけが艱難辛苦を乗り越えながら我が子を探し当てたような話だったら、ここまで胸うたれることはなかったでしょう。

主演の少年カレルを演じたのは、チェコの少年イファン・ヤンドル。
カレルを保護する米兵スティーブンソンは、「陽のあたる場所」「終着駅」のモンゴメリー・クリフト。心身ともにボロボロになった少年を甲斐甲斐しく世話したり、言葉を教えたりする姿がほほえましいですね。
マレー夫人は、アリーン・マクマホン。

監督は「地上より永遠に」「わが命尽きるとも」のフレッド・ジンネマン。「真昼の決闘」がそうですが、人の善意を描いた感動作が多いですね。

美しいイメージを喚起させる邦題なんですが、なぜこんなタイトルにしたのかは、本編からはわかりませんでした。杜甫の有名な詩「春望」の「国破れて山河在り」から連想して、戦争で荒廃した国で、山と河にいるかのように遠く引き裂かれた家族であったとしても、生きていれば巡り会うこともある、という意味なのでしょうか。

(2010年3月16日)



山河遥かなり(1949) - goo 映画



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