陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

遠藤周作の小説『海と毒薬』

2012-05-17 | 読書論・出版・本と雑誌の感想
かねてから読みたかった本を、このお正月にまとめて読むことができました。
その一冊が小説『海と毒薬』。1958年の発表で、映画化もされています。実在の事件を下敷きにした遠藤周作の新潮社文学賞受賞の名作にして、社会的な問題作。戦争末期、九州の大学附属病院でおこなわれた米軍捕虜の生体解剖をあつかっています。百五十頁ほどの薄い本で、あまり凝った文体でもないので、読みやすい。

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生体解剖とは、端的にいえば、手術によって人を殺すということです。
とどのつまりは、人体を実験材料にすること。もちろん、現代、こんなことがおおっぴらに行われたとしたら大問題。しかも、相手が米国人とあっては国際問題に発展しかねない。しかし、それは秘密裏におこなわれてしまった。なぜならば、それは戦時中だったからです。

一文にまとめたあらすじを聞くだけでもたいへんそら恐ろしく感じてしまうものですが、なかなかどうして、本作のはじまりはなんとも悠長です。「私」という無名の主人公が持病のために、ある中年の医師を訪れる。その医師・勝呂がかつてF市(福岡市かと思われる)の大学附属病院で、米軍捕虜の生体解剖に立ち会った事実を知る。

これが並みの社会派ミステリーならば、この主人公がいわば探偵役となって、勝呂の過去を暴いていく構図となるでしょう。ところが、この無名の主人公、第一章の前半でお役御免なのです。いや、前半というよりも序にすぎない。

第一章の残りを占めるのは、医学生・勝呂の回想シーン。ただし、あくまで第三者の視点で書き出されています。前半で主人公にとっては無愛想で冷血漢にみえた医師は、そのかけだしにあっては血の通った人物でした。ここでは、医療ドラマによくあるような事件──「白い巨塔」さながらの医学長人事にからむ権力構造、患者の命を軽んじる医者たちの横暴、欲得がむきだしに描かれています。なぜ、勝呂たちが米軍捕虜の生体解剖に関わってしまったのか。その動機を刑事よろしく暴き立てるような口調はない。

第二章はいきなり視点が変わり、オペに立ち会った看護婦・上田と勝呂の同僚である医学生・戸田の語りとなります。
看護婦はなぜ関わったのか。生活のためだけではない、女だからこそ生まれる生命への絶望と羨望とが彼女を駆り立てます。
若き未来のある青年はなぜ関わったのか。第一章であきらかになったように、戸田は勝呂とは正反対の野心に燃える人物。では、出世のためにこの非人道な所業を担ったのか。はたして、そうとも言えず。彼の胸裏にすくっていたのは、エリートの幼少期にならば誰にでもあるであろう精神の歪曲なのです。

第三章で、本作の主題となる手術のシーンがあらわれます。
ただし、その描写は十頁にも満たないもの。医学史上のスキャンダルを材としながら、実はそれを詳細に描き出すことが目的ではなかったのかもしれません。自分の患者がむざむざ死んでしまったことにも胸を痛める、あのなけなしのヒューマニスト勝呂はそのときどうしたのか。彼はけっきょく断ることもできず、土壇場になってメスを持つことを拒んで傍観しているしかなかった。

この勝呂こそは、おそらく著者が描きたかった、個人には倫理観がめばえながらも、いざ集団の圧力でおしきられてしまうと不法に手を染めてしまいやすい人間の弱さでありましょう。敬虔なキリスト教者である著者は、それを日本人の体臭のようにしみついた忌むべき資質とうけとっているようです。

いのちを助け、いのちを預かる医療時従事者たちが人を殺してしまう。実は、いま現在の日本であっても、つねづね起こっていることではありますが、本作の時代背景にあるのは、戦時中の心理状態。明日を知れないいのち、いつ空襲を受けて死んでもおかしくはない。希望に燃える医学生であっても、銃を握って戦地に赴かねばならない。そんな時代が、戦争医学のためにという軍人のお仕着せな使命感に乗せられて、狂ったメスを握らされてしまう。しかし、「いつ死んでもおかしくない状況」を実は、日本人である私たちは昨年の大震災により体験してしまったのです。

タイトルの意味するところは、鮮烈です。底の見えない暗い海のような運命にゆらゆらと押し流されてしまう人びと、個人の意志や良心は薄めた毒薬を盛るかのように麻痺させられてしまう。功利主義、生活の明るさのもとに、日本じゅうにいまだに放射能をばらまきつづける原子力発電所を畳むことすらしないという、いまの現状の選択こそ、この主題が描いたにふさわしい状況ではありませんか。この物語が事件に荷担した当事者たちを罰するシーンがついぞなく、冒頭で事件を知らぬ主人公が染み着いた死臭をかぎつけるかのようにして感知してしまう不気味さとが、ひどく訴えてくるのです。なぜならば、戦後の経済成長期にあって後ろ暗い過去を忘れて漸進しようといううちに、良心を鈍らせてしまったのもまた日本人であるから。主人公に糾弾させていないように、他人ごととして小説を読むように、あるいはネタとして興がるかのように楽しむだけで終わってしまうのが関の山であるから。放射性汚染物を海に流そうとしたかのように、喉元過ぎればなんとやらで、風化させてしまうものだから。告発することもなく、無関係だと逃げ回ってしまうのがせいぜいだから。

あまりこんな本を読むと日本人特有の自虐史観が積もってしまうという向きもあるかと思いますが、幕末の志士だとか戦国の英雄が活躍するような歴史小説よりは、よほど読まれてほしい名作ではないでしょうか。戦争の功罪について考えさせる良著です。


(2012年1月6日)

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