陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

春の謝辞─届いた名画の少女─

2008-03-22 | 芸術・文化・科学・歴史


本日、とてもすてきな少女の笑顔が届きました。十七世紀オランダを代表する画家、ヨハネス・フェルメールの『真珠の耳飾りの少女』です。この作品は「北欧のモナリザ」とほめそやされるほど、彼の作品のなかでもとりわけ有名な傑作です。そして、私が愛してやまない作品のひとつだったのです。
大規模なフェルメールとデルフト派の画家展が、日本各地の美術館を巡り、おおきな旋風を巻き起こしたのは、数年前のことでした。当地の市立美術館にも訪れ、並んだ人の長蛇の列にめまいを覚えるほど。しかし、二時間ほど並ばされても苦痛には感じませんでした。いま、それを見なければ、二度とホンモノは拝めないだろうと気負いながらも。なぜなら、このフェルメール絵画はもともと寡作であるにくわえ、ふるくから贋作が出回ったり、盗難事件に見舞われている受難の名画。九〇年に盗まれていまでも行方不明という作品もあります。この機会を逃せばもうおしまいかもしれない、そう怯えながら。

入場規制が敷かれていたせいでしょうか、館内ではわりとゆっくりスペースがありました、とはいえ、一枚の名画に何分も張りついて眺めていたりしますといやがられますので、二、三分視野におさめたら離れなければならない。そういった言わずもがなのルールを、鑑賞者のおだやかにうごいていく足はこびが教えているのでした。つまらないからといって先を焦ってはいけない、だが魅入られたからといって、独り占めしてはいけない。四角い展示室の中央すっかりがら空きで、四方の白い壁際に沿ってひとの視線が張りついて、ゆったりとゆったりと流れてゆくのです。ときにはいらだちを覚え、また急かされたとまどいを感じ。ひとびとの瞳は、たぐいまれなる美を共存しあっています。

その「彼女」は私に出会うまでに、何万人の方をその静かな微笑みでむかえたのでしょうか。その一枚は数あるその巨匠のコレクションのなかでも、ひときわ異彩をはなつ一枚。べったりと埋めこまれたキャンバスの漆黒の闇から、輝くようなオランダ女の頭像がうかびあがってきます。光と闇の強烈な対比と、脈打つような人間の動勢とはバロック絵画を特徴づける点ですが、この絵画こそはおそらく、その域をはるかに超えているといえるでしょう。
タイトルから、このモデルが女性だとはわかります。が、しかし。「彼女」にはどこかしら玲瓏なる魅力がそなわっています。女性の魅力をつげる豊かな髪は、すっぽりと頭の覆いに隠されています。そして、男をさそうような肢体の曲線美も、構図によって切られています。この子はもしかしたら、少年なのかもしれない。タイトルがなければ、「彼女」の性別をうらなう要素はあやしんでみてもいいのかもしれません。闇に消えいりそうな耳の輪郭をわずかに知らせる真珠のイヤリングも、あどけなく開いた紅いくちびるすらも。耳かざりは女性だけの特権ではなかったかもしれない。紅くなった口元の光りは、長時間の熱唱にくちびるを濡らしつづけたテノール歌手のそれに、例をもとめることができます。ニュートラルな装いが、そのひとの不思議さを醸し出している、私にはそう感じられます。
とはいえ、「彼女」はやはり「彼女」。そう思いたいのは、いわば聖女信仰なのかもしれません。

贈られた名画は、もちろんホンモノではございません。
それは某社様からいただきました図書カードでした。
数年前、読書家の友人が金券ショップで大量に図書券を買い込み、書籍代を浮かせていたのを思い出します。その彼女は主に新刊を買うのでよかったのですが、私の場合、古書店で専門書を漁ることがおおく、あまり図書券のお世話になったことがありません。近くに販売店がなかったことも大きいのですが。この図書券は〇五年に磁器でよみとるカード式に完全移行したのだそうです。どうりで、最近あまり見かけなくなったなと思いました。本というのはすぐに店頭から消えますので、オンラインショッピングで取り寄せることが多くなった私は、そのような事情などすっかり忘れておりました。
ところで、この図書カードは、絵柄が指定できるそうなんです。図書カード・ドット・コムで、オンライン注文できるそうな。いっしゅん、もしかして特注だったのかと嬉しくなったのですが、そうではなく、名画シリーズとして規定にあるものでした。

じつをいえば、この日は別所様より、新鮮な贈り物も届きました。ここ数日、胃がひどく痛くてお粥しか喉を通らなかったのですが、どう料理すべきかは思案中です。
今年の春は、とくに二月、三月はいろいろなものを頂きました。それは言葉であったり、こころ遣いであったりです。一月には、懐かしい方からのご連絡もありました。

この期間中、見苦しくもいろいろ毒づいていまったのですが、たいへん申し訳なく思います。しかし、よけいな雑念にとらわれず、ブログを楽しんだほうがいいというアドヴァイスも、ある方々よりいただきました。とてもありがたく思いました。
今日という日は、ブログやっていてよかったと感じられる喜びの日でした。

いただいたものすべてに、感謝します。
今後ますますの貴社および皆様がたのご進展をお祈りしております。


あと、待ち遠しいものがもうひとつ……。



【関連ニュース】
「フェルメール展」過去最多の6点以上展示へ(アサヒコム〇七年十二月十二日)
日本初公開の三点をふくむ六点以上とデルフト派の画家たちの諸作品を展示する、「フェルメール展(仮称)」が、今年八月二日~十二月十四日、上野の東京都美術館で開かれる予定。





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2 Comments

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フェルメールは (悠人)
2008-03-22 15:11:06
このラピスラズリのブルーがいいですよね。
印象に残る一枚です。
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瑠璃いろの美しさをとりこんだ名画 (万葉樹)
2008-03-22 23:00:00
ごきげんよう、悠人さま。美しい絵画への賛辞ありがとうございます。

>このラピスラズリのブルーがいいですよね。
印象に残る一枚です。

フェルメールブルーと絶賛される画家の青は、誰しもその魅力をとなえるところ。むかしの印象がうすらいでしまったのでうろ覚えなのですが、実物のこのターバンの青はもっと鮮やかだったように記憶しています。画家が借金を抱えてまで、惜しみなくふんだんに絵に使用した宝玉は、数百年経ってもなお、その輝きをうしなっていない。カメラ・オブスキュラを用い、自然のもの柔らかな光りの研究をおこなったフェルメールにとって、刻々とうつりかわる事象のなかで、永遠に残るものを求めたかったのかもしれないですね。

しかし、この傑作の特異性はただ、このブルーのためのみならず。その青を引き立てている黄があってこそです。暖色系でまとめていた初期作から、窓辺からさす光と、画中画と、カーテンという様式化がみられる画業の円熟期にあって、よくみられる強い色彩のコントラストがひときわ目を惹きますね。じっさい目にみえて青い部分ではなく、それと対比した黄の部分に青い影をほどこして補色をいかんなく発揮しているところ。青というよりは、黄色のつかい方がうまかったのではと思います。ゴッホの作品もそうですが、オランダの画家は黄色に敏感なのかもしれません。石や金属などそれ本来の色あいを活かすというのは、日本の障壁画や屏風の金地や、仏教画の銀砂子とも通ずるものがあって、趣き深いですね。

そして、さらに。この一枚が特質だといえるのは、なんといっても、この暗中の背景ですね。ほかの室内の奥行きを周到に計算しつくしたシャープな構図とはことなって、モチーフだけをきわだたせている。この後ろを闇にする手法は、とりたてて珍しいわけでなくて、レオナルドやラファエロも愛用したくちですが。水墨画の余白美、描かれない光りを描いたもののうしろにみる鑑賞形式に慣れた身としては、すごく異様に思えました。そして、この闇があることで、そこから女性ほんらいの肌のかがやきが増しているように思えます。

それから。もうよくいわれることですが、この少女の瞳も印象的ですね。絵のまえを離れても、彼女の視線が追いついてくるようなくらい。振り向いた姿というのも、菱川師宣の『見返り美人図』とおなじで、ちょっと粋に、そして神秘的に思えますね。
この女性のモデルは架空か、それも実の娘であるか論がわかれているようですが。マリア信仰の象徴のいろである青を使用したこと、そして王侯貴族ではないいち市民の顔でありながら、高価な絵の具をまぶしたことによって、いやみのない優雅さを保っています。

現代は簡単に誰でもものが生み出せる時代ですが、長い長い年月をかけてうまれた美しい作品は、やはりいつくしむ価値がありますね。
ところで、今年の夏にフェルメールが、都美館に再来日するそうですね。関東近郊の方がうらやましいです。

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