陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

狐いろの楕円の幸福

2008-02-25 | 医療・健康・食品衛生・福祉


威勢よく油の弾ける音をともなって、パン粉におおわれた楕円形が、油の海のなかへと沈む。てのひらサイズのそれにしては、砂をそそいだような熱くて重い音がするので、近くで聞いていると、びっくりする。料理人は、油の飛沫が少女の私の顔を襲うことを恐れ、わざとしかめ面をつくって、油のトリックを見物をしたがる私を追い払おうとする。狐いろに染められた油熱の衣をまとって、すくいあげられたその食べ物は、しゅうしゅうと唸りながら、油きりのトレイのうえで休んでいる。ふたつに割ると、ふんわり湯気がのぼって、通りのよい火に温められた空気が油ぐるみの皮と具とのすきまにはいりこんで、食感をやわらかくしていた。それが私のおぼえる唯一のコロッケのできあがりの記憶。

コロッケが大好きだ。おかずに困って、スーパーのお惣菜コーナーで立ち尽くしてしまう時間すら惜しいとき。迷うことなく買い物かごには、これが入っている。恥ずかしい話だが、油料理は後片づけがめんどうなため、最近とみに家ではつくらなくなった。以前勤めていた職場でも、毎日お昼に私がお弁当をひらくたびに、狐いろの小判が弁当箱のなかに不器用に埋まっているのをみて、同僚に呆れられたことがある。「ねぇ、よく、貴女毎日同じものばかり口にして飽きないわね」って。
正確にいうと、もう口にできないから、口にしようとするのだった。

大学時代にお昼を共にした友人から、コロッケをお裾わけしてもらったことがある。半分こに割られて、私のお弁当箱の裏側にのせられたその物体に、私は眉をひそめた。恐る恐るそれを口にほうりこんだ。予想していたコロッケの具とは似つかない、甘みがあって舌にねっとり絡みつく味わい。割れ目から目にしたときの白い粘性の流体にふくまれる紅いろの粒が、磯の香りを放ちながら口内でつぶつぶと弾けている。ひととおり嚥下しおえてから、不信な面持ちで私は施しの友人にたずねた。
「このコロッケ、いまね、へんな味がしたんだけど…もしかして夏場だから…傷んでいたのかな?」
その言葉は、友人たちの盛大な笑いを誘ってしまったのだった。それが、カニクリームコロッケという代物であるということを、はじめて聞かされたのである。田舎者の私は、顔から火がでるほど恥ずかしかった。コロッケといえば、じゃがいもをすりつぶした具がはいったものとばかり信じていたのだから。

大学に進学して郷里を離れるまでのおよそ二十年間、私は家人のつくったコロッケしか食したことがなかったといっていい。実家は飲食自営業で、両親が秘伝の味つけをしたコロッケをスーパーなどに卸売りしたり、また父みずからトラックを運転して、露店販売してもいた。だから、売れ残りのコロッケが、我が家の食卓には溢れるほどならんだ。とくに不況になると、毎晩のように。高校生のときには、そのコロッケが大嫌いだった。いつもいつも冷えたコロッケばかり食べさせられたからだ。
しかし小学生のときまでは、いつも揚げたてを拝借できた。その当時は、好景気に湧いて飛ぶように売れていたので、家への持ち帰りなどめったとなく、催促すれば仕事をおえた父がとくべつに揚げてくれることがあった。また週末が楽しみでならなかった。土曜日ともなると、トラックに乗って父の仕事についていく。そして、客足がひけた午後三時ごろになると、助手席で本など読んでいる私に、父が熱々のコロッケを届けてくれた。揚げたてのコロッケは、衣が厚くしっかりしていて、しかもカラッとした鮮やかな色合いがあり、ひと口ごとにさくっとしたさわやかな噛み心地が伝わってくる。フライ用の油もこだわりのものだから、それを適度に吸った衣のかすすらもおいしくて、無駄にできない。ほおばるたびにレトルトパックにパラパラとこぼれたその残滓すら、ひと粒ひと粒だいじに指の腹ですくって食べてしまうほどだった。いじきたない行為ではあるが。
その揚げたての油ものの風味というのは、いったん冷えてしまったら、もうぜったいに戻らない。生地はぺっちゃんこになるし、いくら電子レンジであたためなおしても、よけいな水分を吸って湿っぽくなってしまう。へたすると皮と具がくっついたり、溶けて中があふれたり。そして、油がひきだしたジャガイモのまろやかな甘みが薄れて、塩とこしょうの辛さが目立ってしまう。派手な商売もののトラックに乗るのがためらわれるお年頃になった私は、油の海からあがって数分間許されるあの至高の味からは縁遠くなってしまった。

県下の進学高校に通っていた私は、父の商売を恥ずかしく思うようになっていた。級友たちには、病院の子息や大学教員、有名企業の部長の令嬢など比較的裕福な家庭のものが多くて、零細規模の商売人の娘である私はとても肩身がせまかった。思春期、私は家のコロッケをほとんど口にしなかった。そして、そのまま実家をはなれて下宿し自炊をするようになっても、コロッケだけはつくらなかったし、買いもしなかった。
大学進学直前に父はがんを発病していた。入退院をくり返しながらも、家計をささえるために、冬の寒波がおしよせる日も夏の炎天下ですらも、外でコロッケをひたすら売りつづけた。その父が亡くなったのは大学卒業直前だった。私は論文を雑誌に載せる準備をしていて臨終にはたちあえなかった。なんと、親不孝ものだろう。

大学に進学して一年目の秋に、父が地元の国立大学で出店するというので、ひさしぶりにあの助手席に乗って手伝いにいったことがある。きっかけは、そこの学生が文化祭の出店をするので、コロッケの揚げ方などを伝授してもらいたいと頼みにきたからだった。数年かけて編み出した調理法や材料へのこだわり、高温を発する調理機具のあつかいなどは、一日ふつかそこいらで、ずぶの素人が身につけられるものではない。父みずからがトラックで売りにいって応援してやると応じ(いまから思えばよく大学側が個人事業主の校内出店をみとめたものだと思うけれど(笑))、みごと実演販売して校内いちの売り上げ実績をあげた。しかも父は、その利益のほとんどを材料費などの実費をさしひいて、学生たちに分けたのだ。その文化祭の実行委員のなかには、かつての級友がいて、まさか私の父がこんな商売をしていたとは、と驚いていた。もちろん、感謝の言葉を添えられて。私はとても嬉しかった。父の職業を誇りにおもった瞬間だった。

父が亡くなり、私は長い学業をおえて働きはじめた。そのころ、会社員の姉から後輩の青年を紹介された。苦労した家庭の生まれであった彼は、父のコロッケが大好きだったと語ってくれた。海沿いの、やっと車両が一台とおれるくらいの狭い道路がいりくんだ漁師町、ちかくにスーパーなどがめったにない地域に、その青年の住まいがあった。彼は高校時代自分で弁当をつくるのに、毎日近所にかよってくる派手な白いトラックから買ったコロッケを、毎日欠かさずメニューに決めていたのだと。私は驚いていた。屋台商売まがいの行商だから、けっしてひとに胸はっていえたものではなかったのだから。高層マンションのならぶ地域に車をとめ商売をはじめると、スピーカーから流れる音がうるさいとのクレームが押し寄せたこともある。だが、いっぽうで買い物に不自由な地域をねらって車をはしらせていたので、あまり出歩かないお年寄りや子どもには喜ばれていたとも聞く。その青年は言った。
「貴女のお父さんはとてもすばらしいものをつくったひとだった」と。そのひと言で、あのときの私の不実はすくわれたように思えた。

思えば、その頃からだった。私がこの地でも、迷わずコロッケを食卓にのせるようになったのは。
アニメの「ミスター味っ子」で、最高の素材をそろえ、究極にかんがえぬかれた料理法でパスタ勝負にのぞんだ主人公が、それでも敵わなかったというエピソードがある。勝敗の鍵をにぎっていたのは、対戦相手の女料理人の息子だった。その女料理人はあきらかに自身の舌で確かめたうえで完全敗北をみとめていたのに、彼女の息子は誰にもママの料理には勝てっこないと言い張るのだ。いったい、誰が、このまだ味覚のきたえられていない幼い子どもの言い分を笑い飛ばせることができようか。できはしまい。家庭の味というものはそれほど、その本人のその後の食生活にふかく影を落としてしまうものなのだから。私のまずしい舌でさえそれを語ることができる。

グルメじゃなくてもいい。たとえどんなそまつな料理でも、人生をおいしくしてれる一品はある。
今日も私はいそいそとコロッケを買う。いつか、ふたたび、あの味がよみがえるのだと。マルセル・プルーストの『失われた時をもとめて』にでてくる、紅茶にひたしたマドレーヌのおこした、あの奇跡を信じて。舌先に残った記憶がおなじになることはないが、コロッケを食すたびに、あの香ばしい油の音が耳もとに送られてくる。その感覚があざむいているのだとしても、この懐かしいという感情だけはほんものだ。


【ネタのタネ】


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